シンデレラ・スキャンダル

◇◇◇

 それから、何度も龍介さんにメロディを弾いてもらい、自分でも口ずさめる程に繰り返し聴けば、フレーズが頭の中に湧き出てくる。ピアノを弾く龍介さんの真横に座り、二人の言葉を、一冊のノートに丁寧に書きとめていく。

 集中していた時間はあっという間に過ぎ去り、気づけば周囲は夕暮れの気配を漂わせていた。指先も、思考も、少し疲れてきた頃合いを見計らい、「少し休憩をしよう」と龍介さんが立ち上がった。書きかけの詩を綴ったノートをそのままに、静かに部屋を後にする。

 窓の外の庭を通り、芝生を抜けていく。潮の香りが微かに漂い始めると、目の前に広がる砂浜に出た。空はすでに茜色から群青色に変わり始めている。裸足で踏みしめる砂の感触、寄せては返す波の音が、少しだけ張り詰めていた心を優しく解きほぐしていくようだった。

「気持ちいいですね」

「うん、風がいいね」

 持ってきた丸い小さなラグを砂浜に置いて、その上に二人で腰を下ろす。二人分のスペースには少し窮屈な、直径一メートルほどのそのラグは、二人の距離を自然と近づけてくれる。

 昼間の太陽が蓄えた熱を少しだけ残す砂浜は、裸足には心地よい温かさ。海の向こうには、数えきれないほどの星々が瞬き始めている。ひいては満ちてと繰り返す波の音が、優しい調べとなって耳に届く。時間がゆったりと、揺らめく波のように流れていく。

「龍介さんの声は不思議ですね。隣で聴いていると……胸がいっぱいになります」

「本当?」

 彼は少し驚いたように、それから嬉しそうに微笑んだ。

「初めて聞いたときは鳥肌が立ちました」

 あの日の衝撃を今でも鮮明に覚えている。響き渡る彼の歌声は、美しいだけじゃなくて、わたしの心を強く揺さぶるのだ。

「うそ」

「なんで笑うんですか。本当ですよ」

 嬉しいと言いながらも恥ずかしそうに微笑む彼を見つめた。夜の帳が下り始めたばかりの砂浜で、彼の横顔は、わずかな月明かりと星の光を受けて、より一層輝く。

「でも良かった。綾乃ちゃんが笑ってて」

 金色の髪に髭、大きく肌蹴た胸元や隆起した腕には黒いタトゥー。一見、わたしが今まで近づいたことのない、危険な匂いを放つ人種に見える。しかし、彼の唇から紡ぎ出されるのは、ゆったりとした穏やかな話し方に柔らかく低い声。優しくて、人の痛みに敏感で涙もろい。そして、なにより純粋すぎるほどに心が真っ直ぐで温かい。

 厳つい見た目の奥にある、ガラス細工みたいに繊細な心。こんな人は初めて。初めて出会ったあの日から、わたしの心は彼の存在によって大きく揺さぶられている。

 水平線を見つめる彼の横顔が、ふいに遠く感じて、指先が冷たくなった。あと数日。カウントダウンの時計が、チクタクと耳元で鳴っているみたいだ。終わりが来るのが怖い。その恐怖を打ち消したくて、わたしは無意識に彼の服の裾を握りしめていた。