シンデレラ・スキャンダル

 鍵盤を触っていた彼が、軽く腰を浮かせ、椅子の座面、左側をわたしのために空けるようにして跨ぐような体勢で座り直した。空いた部分を手のひらで「ポンポン」と軽く叩くと、悪戯っぽい笑みを浮かべながらわたしを見る。彼の視線に、心臓が跳ねる。

「ピアノ、弾いてみる?」

 その提案は、あまりに突拍子もない。この空間に相応しい、重厚で美しいグランドピアノ。わたしのような素人が、おいそれと触れていい楽器ではない気がする。

「え……本当にできないですよ。わたし、楽譜も読めませんし。ネコふんじゃった的なものしか」

 恐縮しきって答えるわたしを見て、彼は「ふふ」と静かに笑った。そのまま拳を口元にあてて笑う彼の仕草は、いつの間にか、わたしにとって一番好きな仕草になっている。その柔らかな笑い声と仕草に、不思議なほどの安心感を覚える。彼のそばにいると、張り詰めていた心がゆっくりと解けていくみたい。

「おいで」

 急かすわけでもなく、ただ優しく促すような彼のゆったりとした低い声。そして、空いたスペースを指し示すように差し出された、彼の小麦色の大きな手。その声と手に促されて、わたしは恐る恐るその空いた部分に座った。

 途端に、体温を感じるほどの距離に近づいた彼の存在。椅子の座面を共有していることで、彼の息遣いや微かな動きすらもすぐそばで伝わってくる。背後には、彼の胸板が触れそうなほど近くにある。一気に近くなった距離に、顔が熱くなる。

「あの……わたしでも、できるものですか?」

 自信のなさと緊張で上擦った声で尋ねると、彼は少しだけ体を傾けて、わたしの耳元でそっと囁く。「できるよ」と。

「大丈夫。左手だけやってみようか。ほとんど決まった動きしかしないから、簡単だよ」

 その温かい吐息と声が鼓膜に響いて、全身が粟立つ。

 鍵盤の上で彼の指がゆっくりと動き出す。目の前で指が動いて、音を奏でる光景に不思議と目が奪われるように集中する。彼はサビの部分を弾き終わると、わたしの顔を覗き込んだ。