◇◇◇
昼下がり。リビングに入ると、陽だまりの中で微かに微笑みながらピアノを弾く彼の姿があった。軽やかに流れる彼の指がビートルズのレットイットビーを奏でている。洗いざらしのまま、少しだけ癖がついた金色の髪が陽に透けて輝いて見える。彼がわたしに気付いて目を細めた。
ソファに深く腰を下ろし、開いたままの本のページに連なる文字を目で追いながら、静かに流れてくるピアノの音色に耳を傾ける。窓からは心地よい海風が吹き込み、わたしの肩にかかる長い髪を優しく靡かせていく。視線を本の活字から窓の外へと向ければ、遠くの波打ち際から届く微かな潮騒の音が、ピアノの調べと混ざり合って耳に届く。
やがて、旋律がクライマックスを迎え、最後の音が鍵盤の上からふわりと、そして優しく響いて、静かに曲の終わりを告げた。指を鍵盤から離した彼は、ゆっくりとこちらを振り返る。
「何の曲かわかる?」
彼の声は、弾き終えたばかりのピアノの余韻のように、穏やかで低く響いた。わたしは静かに微笑んで、本の栞を挟みながら答える。
「ビートルズのレットイットビー」
彼の顔に、予想通りの、しかしどこか嬉しそうな表情が浮かぶ。
「おっ、正解」
「ふふ」
わたしは、小さく笑った。海からの風は変わらず、わたしたちのいる部屋を優しく通り抜けていく。
「綾乃ちゃんって結構、音楽聞いているよね? テレビ見ない割に」
「そうですかね」
「ボーイズⅡメンが好きって結構意外だった」
「詳しいわけじゃないですよ。ただ初めて聞いたとき、あまりにも綺麗だったから」
「洋楽好き?」
「確かに洋楽が好きかもしれないです。龍介さんは洋楽好きですか?」
「そうだね……なんでも好きかな。R&Bとかも、邦楽も童謡も」
龍介さんは照れくさそうに笑いながら、目の前の鍵盤を一つ押し込んだ。彼の肩越しには、キラキラと輝く太陽と、穏やかなビーチが見える。
「龍介さんみたいに、ピアノもギターも弾けて、その上、歌がうまかったら、何を歌っても楽しいだろうな」
「そんなことないよ。本当は……思うように歌えなくて。だから今回ハワイに来たんだ」
ピアノに触れている手をそのままに、視線を落とした彼が呟くようにそう口にする。歌うときの彼はとても幸せそうで、楽しそうで、「思うように歌えない」なんてそんな風に感じなかったから、言葉に詰まってしまう。
「曲も思いつかなくて……なんかダメだなって。綾乃ちゃん、俺……」
その声は、さっきまでの自信に満ちた彼とは別人のように、細く、頼りなかった。気がついた時には、わたしの足は動いていて、ピアノの前に座る彼の広い背中に、ためらわず腕を回していた。
「っ……」
腕の中の彼が、息を呑むようにして一瞬揺れたのがわかった。
「……わたしは、龍介さんの歌に助けてもらいましたよ」
そう伝えて、抱き締める腕に少しだけ力を込める。この思いが伝わりますように、彼の心が少しだけでも晴れますように、そう願いながら。
いつもの香りが鼻をくすぐる。タバコの匂いがしない彼からは、いつも通り石鹸と香水が混ざった甘いようで爽やかな香りがする。
「ピアノはいつからやってるんですか?」
「ピアノは……」
わたしの腕に触れたまま龍介さんが天井を仰ぐ。幼稚園のときに始めて、高校生までずっと続けていたと、少しはにかみながら教えてくれる。
音楽を演奏する側の経験なんて一度もないわたしは、龍介さんのようにピアノやギターを弾ける人にとても強く憧れを持つ。鍵盤の上を踊るように動いていく彼の指を見つめながら、すごいと何度も言葉がこぼれてしまう。
昼下がり。リビングに入ると、陽だまりの中で微かに微笑みながらピアノを弾く彼の姿があった。軽やかに流れる彼の指がビートルズのレットイットビーを奏でている。洗いざらしのまま、少しだけ癖がついた金色の髪が陽に透けて輝いて見える。彼がわたしに気付いて目を細めた。
ソファに深く腰を下ろし、開いたままの本のページに連なる文字を目で追いながら、静かに流れてくるピアノの音色に耳を傾ける。窓からは心地よい海風が吹き込み、わたしの肩にかかる長い髪を優しく靡かせていく。視線を本の活字から窓の外へと向ければ、遠くの波打ち際から届く微かな潮騒の音が、ピアノの調べと混ざり合って耳に届く。
やがて、旋律がクライマックスを迎え、最後の音が鍵盤の上からふわりと、そして優しく響いて、静かに曲の終わりを告げた。指を鍵盤から離した彼は、ゆっくりとこちらを振り返る。
「何の曲かわかる?」
彼の声は、弾き終えたばかりのピアノの余韻のように、穏やかで低く響いた。わたしは静かに微笑んで、本の栞を挟みながら答える。
「ビートルズのレットイットビー」
彼の顔に、予想通りの、しかしどこか嬉しそうな表情が浮かぶ。
「おっ、正解」
「ふふ」
わたしは、小さく笑った。海からの風は変わらず、わたしたちのいる部屋を優しく通り抜けていく。
「綾乃ちゃんって結構、音楽聞いているよね? テレビ見ない割に」
「そうですかね」
「ボーイズⅡメンが好きって結構意外だった」
「詳しいわけじゃないですよ。ただ初めて聞いたとき、あまりにも綺麗だったから」
「洋楽好き?」
「確かに洋楽が好きかもしれないです。龍介さんは洋楽好きですか?」
「そうだね……なんでも好きかな。R&Bとかも、邦楽も童謡も」
龍介さんは照れくさそうに笑いながら、目の前の鍵盤を一つ押し込んだ。彼の肩越しには、キラキラと輝く太陽と、穏やかなビーチが見える。
「龍介さんみたいに、ピアノもギターも弾けて、その上、歌がうまかったら、何を歌っても楽しいだろうな」
「そんなことないよ。本当は……思うように歌えなくて。だから今回ハワイに来たんだ」
ピアノに触れている手をそのままに、視線を落とした彼が呟くようにそう口にする。歌うときの彼はとても幸せそうで、楽しそうで、「思うように歌えない」なんてそんな風に感じなかったから、言葉に詰まってしまう。
「曲も思いつかなくて……なんかダメだなって。綾乃ちゃん、俺……」
その声は、さっきまでの自信に満ちた彼とは別人のように、細く、頼りなかった。気がついた時には、わたしの足は動いていて、ピアノの前に座る彼の広い背中に、ためらわず腕を回していた。
「っ……」
腕の中の彼が、息を呑むようにして一瞬揺れたのがわかった。
「……わたしは、龍介さんの歌に助けてもらいましたよ」
そう伝えて、抱き締める腕に少しだけ力を込める。この思いが伝わりますように、彼の心が少しだけでも晴れますように、そう願いながら。
いつもの香りが鼻をくすぐる。タバコの匂いがしない彼からは、いつも通り石鹸と香水が混ざった甘いようで爽やかな香りがする。
「ピアノはいつからやってるんですか?」
「ピアノは……」
わたしの腕に触れたまま龍介さんが天井を仰ぐ。幼稚園のときに始めて、高校生までずっと続けていたと、少しはにかみながら教えてくれる。
音楽を演奏する側の経験なんて一度もないわたしは、龍介さんのようにピアノやギターを弾ける人にとても強く憧れを持つ。鍵盤の上を踊るように動いていく彼の指を見つめながら、すごいと何度も言葉がこぼれてしまう。


