◇
龍介さんが戻る前に準備をしておこうと、わたしはすぐにシャワーを浴びて髪を乾かしてクローゼットに向かった。
今日は潤さんたちだけじゃなくて、龍介さんの仕事関係の方も来る。スタッフさんとか、トレーナーさんとか沢山の人と会うのだろう。
そうなると、ここはやっぱりコレかとクローゼットの中から、アクアブルーのシルク生地に白い刺繍が全体に施されたベアトップのロングドレスを取り出した。社長の奥様である小百合さんからのプレゼントで、一目で心を奪われたロングドレスは広がり過ぎないデザインで、動きやすくもあり華やかでもある。
バーベキューだから龍介さんとそのお友達が焼くのだと言ってたけど、お手伝いはするだろうし、髪はまとめておこう。背中まである髪を一つに編み込んでいると、玄関が開く音が聞こえてくる。
龍介さんが帰ってきたのだと手を速めていると、元気のいい賑やかな声が届く。どうやら、リサも一緒にいるらしい。手早くメイクを終え、部屋を出て階段を下り、リビングに向かう。龍介さんはキッチンにいて水を飲んでいたようで、わたしの足音に気付いたのか、冷蔵庫の扉から顔を出してこちらを見た。
「おかえりなさい」
「ただいま……」
「あれ、リサたちと一緒でしたよね?」
「ああ。今、テラスの方に」
「そうなんですか」
「そのドレス、綺麗だね……すごく似合ってる。そういう格好もするんだ」
「本当ですか? 嬉しい。これお気に入りなんです」
龍介さんの誉め言葉にそう答えたら、なぜか龍介さんの方が恥ずかしそうに笑って、「俺もシャワー浴びてくる」と足早に部屋に向かってしまった。龍介さんの言葉もその笑顔も、その行動もわたしの頬をゆるゆるとだらしなくさせてしまう。
彼の後ろ姿を見送っていたら、リサがリビングに戻ってきた。
「リサ、おはよう」
「アヤノ、キレイなドレス。ステキ!」
「ありがとう」
「綾乃、おはよう。今日はドレスアップね」
「潤さん、忍さんおはようございます」
「おはよう」
「リュウと家の前で会ったんだけど、聞いたわよ、綾乃」
「あ……」
「だから言ったじゃない」
案の定、だから言ったのにと忍さんに言われて、苦笑いを浮かべてしまう。
「ごめんなさい」
「何もなくてよかったわ」
そう言って、彼女はわたしを抱きしめた。もう恐怖はないはずなのに、その温もりに包まれて目が潤んでしまう。
「ありがとうございます」
「元気そうで良かったわ」
「龍介さんがまた助けてくれたんです。すぐに来てくれて、オーナーと話して全部……」
「リュウは綾乃の王子様ね」
「へ?」
王子様――。忍さんのその言葉に、頭の中には、大きなクエスチョンマークが浮かんだ。
「王子様……?」
思わず復唱してしまう。
「そうでしょ?」
「忍、王子様って感じは龍介にはないんじゃない?」
「……そうね、確かにないわ」
「あんなにガラの悪い王子様は中々いないだろう」
「じゃあ、ヒーローってところでどう?」
「……潤さんも忍さんもひどいですね」
確かに、龍介さんはいつも困っているときに助けてくれる。まるで、絵本や童話に出てくるヒーローのように、危機一髪の状況で颯爽と現れ、すべてを解決してくれる。
今回の件だってそうだ。オーナーに理不尽に言い寄られて追い詰められていたとき、龍介さんは一報を聞くやいなやすぐに駆けつけ、冷静沈着な対応で事を収めてくれた。その姿は、まさに「白馬の王子様」と呼ぶにふさわしいのかもしれない。
でも、「王子様」という単語は、わたしにとってあまりにも突飛で、くすぐったい響きを持っている。そんな内心の葛藤を知ってか知らずか、忍さんは面白がるように微笑んでいる。
「だってそうじゃない。いつもピンチの時に、さっと現れて助けてくれるんでしょう? まさに王子様のお仕事よ」
「でも……」
そう言いかけたところに、龍介さんが戻ってきた。
わたしの喉の奥でひゅっと音がなる。
頭にタオルをかぶったままの彼は、白いシャツにベージュのパンツを身にまとい、ゴールドの指輪とバングルが小麦色の肌によく映える。本当に格好いい。非の打ち所がないくらいに魅力的だ。格好はいいんだけれど、その姿には、大きな問題がある。
暑いからなのか、それとも単に無頓着なのか、彼が羽織ったシャツのボタンは、一つも留められていない。露わになった小麦色の胸板。昨日、指先で触れたタトゥーが、大胆に広がっている。
視線を、逸らせない。鍛え抜かれた胸筋から、彫刻のように陰影を刻む腹筋へ——。 まるで美術品でも見るかのように、わたしの目はその完璧な肉体美に釘付けになっていた。
「やっぱり王子ではないな」
「そうね、王子様というイメージからは、だいぶかけ離れているわね」と、忍さんは潤さんに深く同意するように頷く。
「なに、王子って」
龍介さんは、訝しげな顔で聞いてきた。
「いいの、リュウはどっちかっていうと、白馬に乗った王子様っていうより、困っている人を助けるヒーローだっていう話」
「なにそれ。どういうこと?」
龍介さんは、相変わらず怪訝そうな顔をしている。
「っていうか綾乃、あなた耳まで真っ赤よ」
忍さんが呆れたように、そして少し意地の悪い笑顔で、わたしの頬を指差した。熱い視線を龍介さんの体に送っていたことを指摘されたような気がして、思わず顔を覆う。
「だって……りゅ、龍介さん、あの、早めに閉めてください」
「え?」
目を両手で覆いながら訴えると、潤さんと忍さんの笑い声が聞こえた。
「綾乃、あなた可愛いわね! これくらいで真っ赤になるなんて」
「だって。龍介さんみたいな身体、初めて……見て」
三人の笑い声に混じってリサの笑い声まで聞こえてくる。龍介さんは笑って、わたしの頭を撫でた。
「ごめんね」
「わ、わたしっ……そろそろ食材切っておきますね!」
わたしはその手から逃げるようにして、キッチンに向かった。
キッチンに立ち、包丁を握る。パプリカをカッティングボードの上に置き、包丁を落とす。たったそれだけの作業なのに、なんだかさっきから上手くいかない。それはきっと、鼻を掠める香水とせっけんの香りのせい。
(……ダメだ、集中しなきゃ)
そう思えば思うほど、さっき見た光景が瞼の裏にちらつく。あの胸板、腹筋、タトゥー……。見たい、触れたい、触れられたい。おかしな欲望が浮かんでは消えていく。心に頭が追いつかない。いや、頭に心が追いつかない。
(ああ……)
「いっ……!」
指先に走った鋭い痛みに、思考が現実に引き戻された。包丁と手の距離も測れずに、スパっと左手の人差し指に小さな線が入り、赤い滴が湧きでる。
「え、切った? 綾乃ちゃん見せて」
「あ、大丈夫です……」
龍介さんの声が聞こえたのか、リサがわたしの元に走ってくると、スカートを掴んだ。
「アヤノ? 平気? 痛い?」
「ありがとう。大丈夫よ」
「ほら、綾乃ちゃん手貸して」
「いえ、自分で」
「綾乃、手切っちゃったの?」
「あ、はい。あの、いや。えっと……」
忍さんや潤さんまで集まってきて、居たたまれない。自分の不注意。いや、雑念のせいなのに。
「結構スパッといったわね。リュウ、手当てしてあげなさいよ」
「うん。綾乃ちゃんおいで。絆創膏はるから」
「あ、自分で」
「あら、手を切っちゃったのはリュウのせいでもあるんだから」
「ちょっと、忍さん?」
「俺のせい?」
龍介さんは不思議そうに笑う。彼はわたしの手を掴むのではなく、まるで壊れ物でも扱うかのように、そっと指先を取ってソファに導いた。
「痛くない? 大丈夫?」
覗き込んでくる彼の瞳が、心配そうに揺れている。
(……あなたのせいです)
心の中で悪態をつきながらも、その優しさに心臓がうるさい。 絆創膏を貼る大きくて節くれだった指が、やけにゆっくりと動いて見える。わたしは、その真剣な横顔から目を逸らし、小さく頷くことしかできない。
「綾乃って顔に出るタイプなのね。見てて笑っちゃう」
忍さんにそう言われても、ただ黙るしかない。だって、自分じゃないみたい。それほどに心が騒がしくて、体のコントロールがきかないから。
「痛くない? 大丈夫?」
わたしの顔を覗き込むようにして見る龍介さんに目を合わせることができないまま、なんとか頷きだけを返した。
龍介さんが戻る前に準備をしておこうと、わたしはすぐにシャワーを浴びて髪を乾かしてクローゼットに向かった。
今日は潤さんたちだけじゃなくて、龍介さんの仕事関係の方も来る。スタッフさんとか、トレーナーさんとか沢山の人と会うのだろう。
そうなると、ここはやっぱりコレかとクローゼットの中から、アクアブルーのシルク生地に白い刺繍が全体に施されたベアトップのロングドレスを取り出した。社長の奥様である小百合さんからのプレゼントで、一目で心を奪われたロングドレスは広がり過ぎないデザインで、動きやすくもあり華やかでもある。
バーベキューだから龍介さんとそのお友達が焼くのだと言ってたけど、お手伝いはするだろうし、髪はまとめておこう。背中まである髪を一つに編み込んでいると、玄関が開く音が聞こえてくる。
龍介さんが帰ってきたのだと手を速めていると、元気のいい賑やかな声が届く。どうやら、リサも一緒にいるらしい。手早くメイクを終え、部屋を出て階段を下り、リビングに向かう。龍介さんはキッチンにいて水を飲んでいたようで、わたしの足音に気付いたのか、冷蔵庫の扉から顔を出してこちらを見た。
「おかえりなさい」
「ただいま……」
「あれ、リサたちと一緒でしたよね?」
「ああ。今、テラスの方に」
「そうなんですか」
「そのドレス、綺麗だね……すごく似合ってる。そういう格好もするんだ」
「本当ですか? 嬉しい。これお気に入りなんです」
龍介さんの誉め言葉にそう答えたら、なぜか龍介さんの方が恥ずかしそうに笑って、「俺もシャワー浴びてくる」と足早に部屋に向かってしまった。龍介さんの言葉もその笑顔も、その行動もわたしの頬をゆるゆるとだらしなくさせてしまう。
彼の後ろ姿を見送っていたら、リサがリビングに戻ってきた。
「リサ、おはよう」
「アヤノ、キレイなドレス。ステキ!」
「ありがとう」
「綾乃、おはよう。今日はドレスアップね」
「潤さん、忍さんおはようございます」
「おはよう」
「リュウと家の前で会ったんだけど、聞いたわよ、綾乃」
「あ……」
「だから言ったじゃない」
案の定、だから言ったのにと忍さんに言われて、苦笑いを浮かべてしまう。
「ごめんなさい」
「何もなくてよかったわ」
そう言って、彼女はわたしを抱きしめた。もう恐怖はないはずなのに、その温もりに包まれて目が潤んでしまう。
「ありがとうございます」
「元気そうで良かったわ」
「龍介さんがまた助けてくれたんです。すぐに来てくれて、オーナーと話して全部……」
「リュウは綾乃の王子様ね」
「へ?」
王子様――。忍さんのその言葉に、頭の中には、大きなクエスチョンマークが浮かんだ。
「王子様……?」
思わず復唱してしまう。
「そうでしょ?」
「忍、王子様って感じは龍介にはないんじゃない?」
「……そうね、確かにないわ」
「あんなにガラの悪い王子様は中々いないだろう」
「じゃあ、ヒーローってところでどう?」
「……潤さんも忍さんもひどいですね」
確かに、龍介さんはいつも困っているときに助けてくれる。まるで、絵本や童話に出てくるヒーローのように、危機一髪の状況で颯爽と現れ、すべてを解決してくれる。
今回の件だってそうだ。オーナーに理不尽に言い寄られて追い詰められていたとき、龍介さんは一報を聞くやいなやすぐに駆けつけ、冷静沈着な対応で事を収めてくれた。その姿は、まさに「白馬の王子様」と呼ぶにふさわしいのかもしれない。
でも、「王子様」という単語は、わたしにとってあまりにも突飛で、くすぐったい響きを持っている。そんな内心の葛藤を知ってか知らずか、忍さんは面白がるように微笑んでいる。
「だってそうじゃない。いつもピンチの時に、さっと現れて助けてくれるんでしょう? まさに王子様のお仕事よ」
「でも……」
そう言いかけたところに、龍介さんが戻ってきた。
わたしの喉の奥でひゅっと音がなる。
頭にタオルをかぶったままの彼は、白いシャツにベージュのパンツを身にまとい、ゴールドの指輪とバングルが小麦色の肌によく映える。本当に格好いい。非の打ち所がないくらいに魅力的だ。格好はいいんだけれど、その姿には、大きな問題がある。
暑いからなのか、それとも単に無頓着なのか、彼が羽織ったシャツのボタンは、一つも留められていない。露わになった小麦色の胸板。昨日、指先で触れたタトゥーが、大胆に広がっている。
視線を、逸らせない。鍛え抜かれた胸筋から、彫刻のように陰影を刻む腹筋へ——。 まるで美術品でも見るかのように、わたしの目はその完璧な肉体美に釘付けになっていた。
「やっぱり王子ではないな」
「そうね、王子様というイメージからは、だいぶかけ離れているわね」と、忍さんは潤さんに深く同意するように頷く。
「なに、王子って」
龍介さんは、訝しげな顔で聞いてきた。
「いいの、リュウはどっちかっていうと、白馬に乗った王子様っていうより、困っている人を助けるヒーローだっていう話」
「なにそれ。どういうこと?」
龍介さんは、相変わらず怪訝そうな顔をしている。
「っていうか綾乃、あなた耳まで真っ赤よ」
忍さんが呆れたように、そして少し意地の悪い笑顔で、わたしの頬を指差した。熱い視線を龍介さんの体に送っていたことを指摘されたような気がして、思わず顔を覆う。
「だって……りゅ、龍介さん、あの、早めに閉めてください」
「え?」
目を両手で覆いながら訴えると、潤さんと忍さんの笑い声が聞こえた。
「綾乃、あなた可愛いわね! これくらいで真っ赤になるなんて」
「だって。龍介さんみたいな身体、初めて……見て」
三人の笑い声に混じってリサの笑い声まで聞こえてくる。龍介さんは笑って、わたしの頭を撫でた。
「ごめんね」
「わ、わたしっ……そろそろ食材切っておきますね!」
わたしはその手から逃げるようにして、キッチンに向かった。
キッチンに立ち、包丁を握る。パプリカをカッティングボードの上に置き、包丁を落とす。たったそれだけの作業なのに、なんだかさっきから上手くいかない。それはきっと、鼻を掠める香水とせっけんの香りのせい。
(……ダメだ、集中しなきゃ)
そう思えば思うほど、さっき見た光景が瞼の裏にちらつく。あの胸板、腹筋、タトゥー……。見たい、触れたい、触れられたい。おかしな欲望が浮かんでは消えていく。心に頭が追いつかない。いや、頭に心が追いつかない。
(ああ……)
「いっ……!」
指先に走った鋭い痛みに、思考が現実に引き戻された。包丁と手の距離も測れずに、スパっと左手の人差し指に小さな線が入り、赤い滴が湧きでる。
「え、切った? 綾乃ちゃん見せて」
「あ、大丈夫です……」
龍介さんの声が聞こえたのか、リサがわたしの元に走ってくると、スカートを掴んだ。
「アヤノ? 平気? 痛い?」
「ありがとう。大丈夫よ」
「ほら、綾乃ちゃん手貸して」
「いえ、自分で」
「綾乃、手切っちゃったの?」
「あ、はい。あの、いや。えっと……」
忍さんや潤さんまで集まってきて、居たたまれない。自分の不注意。いや、雑念のせいなのに。
「結構スパッといったわね。リュウ、手当てしてあげなさいよ」
「うん。綾乃ちゃんおいで。絆創膏はるから」
「あ、自分で」
「あら、手を切っちゃったのはリュウのせいでもあるんだから」
「ちょっと、忍さん?」
「俺のせい?」
龍介さんは不思議そうに笑う。彼はわたしの手を掴むのではなく、まるで壊れ物でも扱うかのように、そっと指先を取ってソファに導いた。
「痛くない? 大丈夫?」
覗き込んでくる彼の瞳が、心配そうに揺れている。
(……あなたのせいです)
心の中で悪態をつきながらも、その優しさに心臓がうるさい。 絆創膏を貼る大きくて節くれだった指が、やけにゆっくりと動いて見える。わたしは、その真剣な横顔から目を逸らし、小さく頷くことしかできない。
「綾乃って顔に出るタイプなのね。見てて笑っちゃう」
忍さんにそう言われても、ただ黙るしかない。だって、自分じゃないみたい。それほどに心が騒がしくて、体のコントロールがきかないから。
「痛くない? 大丈夫?」
わたしの顔を覗き込むようにして見る龍介さんに目を合わせることができないまま、なんとか頷きだけを返した。


