すると、スマホが震えて「田辺卓也」からの着信を告げる。急いで通話をタップすると、「綾乃、どうしたの?」と気の抜けた卓也の声。
「卓也。あの、あのねっ」
上手く説明ができずにいる自分をどこか他人事のように、どうしてこんなに慌てているのだろうと思う。けれど、溢れる言葉はとめどなく零れ落ちて、そしてそれは受け止められることはなかった。
「オーナー誘ってきたの?」
「うん、わたし……」
「行けばいいじゃん」
ああ、いつもの卓也の声だ。有無を言わせないような冷たい声。突き放すような、面白がるような言い方は、今までだって何度も聞いてきた。そして、電話のむこうから女性の声が聞こえてくるのもいつもと同じ。
「今、出張中なんだよね?」
「終わったから別のところに来てるよ。俺、これから食事に行かなきゃだから。綾乃ももう大人なんだから、行けば? 金持ってるよ、きっと。豪遊できるって」
こんな時、わたしはいつも決まってこう答える。「そうだね」と。怒りとか悲しみとか寂しさとかの感情が全部消えていく自分を感じながら、わたしはただそう答えて微笑んだ。
「じゃあ、また」
通話を終え、短く息を漏らす。
一人だ。ハワイでも日本でも変わらない。もう大人だから、こんなこと何でもないと思えばいい。もう大人だから、一人でも平気。もう大人だから。
◇◆
卓也と出会ったのは、五年前。まだ企業受付をしていた頃。いわゆるVIP待遇で、その日、VIP対応当番だったわたしは車寄せまで出迎えに行き、役員と呼ばれるにはまだ若い、紺色のスーツを着た黒い髪に白い肌の男性と出会った。
自分よりも年上であろう男性が開けるドアから降り立つ、男性。スーツも髪も全てが整えられていて、秘書室から送られてきた写真よりずっと隙がない感じがした。
(気を引き締めて行かなきゃ)
叩き込まれた笑顔を顔面に貼り付ける。
「田辺様、お待ちしておりました。受付の松嶋です」
「こんにちは」
「本日は二十五階の会議室でございます。わたくしがご案内いたします」
「ありがとう」
エレベーターに乗り込み、役員会議室がある25階のボタンを押すと、その箱はゆっくりと上昇し始める。静まる箱の中で、少しの緊張感が漂う。こんな時は早く時間が過ぎますようにと、ただ祈るだけ。
17階、18階……あと少し。そう思った瞬間。
『ぐううっ』
上昇する機械音に負けない、大きな音が響き渡った。ゆっくり振り返ると、その音の張本人と目が合って、わたしたちは同時に笑い声をあげてしまった。
「……あー恥ずかしいな。ついさっき成田に着いて、そのまま来たんです。昨日からご飯食べてないんですよね」
「ふふ。それはお腹すきますね」
恥ずかしそうに俯きながら笑うその人は、何度か頬を指で掻くと、顔を上げた。
「……あの、受付のお仕事って何時までですか?」
「……六時、ですけど」
「じゃあ、お仕事が終わったら食事に行きませんか? お腹が鳴っちゃった、格好悪い男とのディナーが嫌じゃなければ」
その後。三回目のデートのときに卓也が自分の生い立ちを教えてくれた。自分が代議士の息子であること、そして認知はされているけれど、正式な家族ではないことを。
「それでも良ければ、付き合ってほしい」
どこか寂しげな卓也に、頷いて答える。
家も、生活も保障されたけれど、学校は全て公立の最高峰に進むことを条件とされたらしい。血の繋がらない姉や弟、本当の家の子とは違う自分が苦しかった時期もあるけれど、大人になった今はなんてことないと卓也は言う。
付き合い始めて一年が経った頃、卓也が一緒に住もうと言い出した。世田谷にいい物件が売り出されたからと二百坪の土地を購入し、家を建て始めると言う卓也は、パソコンを開くと、得意げに家の図面をわたしに見せる。
「世田谷の奥沢の方なんだけどさ。いい土地なんだ」
「もう買ったの?」
「うん。もう家も建てるんだ」
「一度、見に行きたいな」
卓也はにっこりと笑いながらわたしの頭を撫でた。
「家はさ、完成したときに見に行こうよ。驚かせたいんだ。楽しみにしててよ」
「一緒に住むのに?」
「絶対いい家にするよ。綾乃は喘息気味だろ? だから壁とか材質とかこだわったんだ」
卓也は上手い。わたしの話なんて聞いていないという感じなのに、わたしのことを気に掛けてるよと伝えてくる。そう言われてしまうと、もう何も言えなくて、「ありがとう」とだけ口にした。
それにしても一緒に住むというのなら、やはり結婚ということになるのだろうか。
「卓也、一緒に住むならパパに言わないと。わたしたち……」
「それは、三か月後にしよう」
「三か月?」
「ああ、色々準備があるんだよ。やらなきゃいけないこととか」
「準備って何を……」
「まあ、いいじゃん。そうだ、綾乃、住所教えておいて」
本当に人の話を聞かない人。わたしの疑問や不安なんて、卓也はいつもお構い無し。
「住所? 何かに必要なの?」
「一緒に住む準備にね」
三か月の準備期間に疑問を抱きながらも、卓也の嬉しそうな顔にわたしはそれ以上深く考えることもなく漠然と結婚を夢見た。そして仕事を辞めて家にいてほしいと言う卓也に、迷いながらも頷いた。好きな人が望むなら、それに寄り添いたかったから。
卓也と出会い、結婚して子供を産む。そんな人生もいいかもしれない。
そう、思ったのに。卓也はいつだって卓也。
一緒に住もうと言われてから三か月。卓也が言っていた三か月という期間が経つはずなのに、わたしはいまだに家を知らない。そうこうしているうちに、会社を辞める日がきて、退職したわたしに卓也は普通に問いかけた。
「そうだ。綾乃、次の仕事どうするの?」
「……え?」
「仕事。考えてないの? ま、休憩するのもいいんじゃない? でも、転職先については考えておいたほうがいいよ」
「……卓也? あの、仕事辞めてって言っていたよね。家にいてほしいって。一緒に住もうって」
「あぁ、あの時はね」
「三か月後にって」
「一緒に住むのはやめるよ。ああ、それともし期待してたら申し訳ないから先に言うけど、結婚はないから」
「やめるよって……」
「色々考えたんだよ、俺も」
「卓也……わたし、会社辞めたのよ」
「会社って……はは。たかが受付嬢の仕事だろ」
仕事を辞めて欲しいと、一緒にいたいと言った男と目の前の男は同じ人間だろうか。なんでもないことのように言い放ったその男を、わたしはぼんやりと視界に映した。唇がまるで緩慢に動いて、それが得体の知れない生物のようで酷く不快だった。
何も言葉を発することのないわたしを見ることもなく、卓也はスマホを手にして仕事のときと同じように冷たい口調で続ける。
「綾乃ってさ、少し世間知らずだよね。見た目は清純で品があって……育ちが良さげっていうの? 貧乏人の家の子でも綾乃みたいになるんだな」
「え、家? お兄ちゃんのこと?」
「まさかだよ」
「いきなりなに……」
「綾乃、お兄さんの行方とか何も知らないの?」
「え?」
卓也は、自分で聞いてきたくせに、わたしの顔を見てどこか居心地が悪そうにして視線を逸らした。
「まあ、知らない方がいいか」
「卓也、何か」
「いや、改めて思っただけ」
卓也から見れば、大半の家庭が貧乏人の家だろう。でも、わたしが気になったのはそこじゃなかった。脈絡があるようで、ないこの会話は、何かを言いたくて、でも言えない。そんな気持ちがあることを暗に示していた。
そして、その後、初めてぶつかったメールでわたしたちの関係は終わりを告げる。それなりの日々を一緒に過ごしたはずだけれど、きちんと会って別れることもなく卓也は去っていく。
泣かれたら面倒だから会いたくないと送られてきたメッセージはわたしを黙らせるには十分だった。わたしは、卓也にとってそれほどの存在になってしまったのだ。そして、卓也は更に続けた。
「綾乃と似た顔と体の女は金があればいくらでも手に入る。もっと、ちゃんとした家の女が」
鋭利な刃物のように、心臓を抉ってくる。苦しい、そう感じて、はじめて息を忘れていたことに気づいた。
(——金で、手に入る)
わたしの価値は、「顔と体」。それも、金で買える程度の。目の前がぐらりと歪み、わたしは、文字通りそのまま床に崩れ落ちた。
「卓也。あの、あのねっ」
上手く説明ができずにいる自分をどこか他人事のように、どうしてこんなに慌てているのだろうと思う。けれど、溢れる言葉はとめどなく零れ落ちて、そしてそれは受け止められることはなかった。
「オーナー誘ってきたの?」
「うん、わたし……」
「行けばいいじゃん」
ああ、いつもの卓也の声だ。有無を言わせないような冷たい声。突き放すような、面白がるような言い方は、今までだって何度も聞いてきた。そして、電話のむこうから女性の声が聞こえてくるのもいつもと同じ。
「今、出張中なんだよね?」
「終わったから別のところに来てるよ。俺、これから食事に行かなきゃだから。綾乃ももう大人なんだから、行けば? 金持ってるよ、きっと。豪遊できるって」
こんな時、わたしはいつも決まってこう答える。「そうだね」と。怒りとか悲しみとか寂しさとかの感情が全部消えていく自分を感じながら、わたしはただそう答えて微笑んだ。
「じゃあ、また」
通話を終え、短く息を漏らす。
一人だ。ハワイでも日本でも変わらない。もう大人だから、こんなこと何でもないと思えばいい。もう大人だから、一人でも平気。もう大人だから。
◇◆
卓也と出会ったのは、五年前。まだ企業受付をしていた頃。いわゆるVIP待遇で、その日、VIP対応当番だったわたしは車寄せまで出迎えに行き、役員と呼ばれるにはまだ若い、紺色のスーツを着た黒い髪に白い肌の男性と出会った。
自分よりも年上であろう男性が開けるドアから降り立つ、男性。スーツも髪も全てが整えられていて、秘書室から送られてきた写真よりずっと隙がない感じがした。
(気を引き締めて行かなきゃ)
叩き込まれた笑顔を顔面に貼り付ける。
「田辺様、お待ちしておりました。受付の松嶋です」
「こんにちは」
「本日は二十五階の会議室でございます。わたくしがご案内いたします」
「ありがとう」
エレベーターに乗り込み、役員会議室がある25階のボタンを押すと、その箱はゆっくりと上昇し始める。静まる箱の中で、少しの緊張感が漂う。こんな時は早く時間が過ぎますようにと、ただ祈るだけ。
17階、18階……あと少し。そう思った瞬間。
『ぐううっ』
上昇する機械音に負けない、大きな音が響き渡った。ゆっくり振り返ると、その音の張本人と目が合って、わたしたちは同時に笑い声をあげてしまった。
「……あー恥ずかしいな。ついさっき成田に着いて、そのまま来たんです。昨日からご飯食べてないんですよね」
「ふふ。それはお腹すきますね」
恥ずかしそうに俯きながら笑うその人は、何度か頬を指で掻くと、顔を上げた。
「……あの、受付のお仕事って何時までですか?」
「……六時、ですけど」
「じゃあ、お仕事が終わったら食事に行きませんか? お腹が鳴っちゃった、格好悪い男とのディナーが嫌じゃなければ」
その後。三回目のデートのときに卓也が自分の生い立ちを教えてくれた。自分が代議士の息子であること、そして認知はされているけれど、正式な家族ではないことを。
「それでも良ければ、付き合ってほしい」
どこか寂しげな卓也に、頷いて答える。
家も、生活も保障されたけれど、学校は全て公立の最高峰に進むことを条件とされたらしい。血の繋がらない姉や弟、本当の家の子とは違う自分が苦しかった時期もあるけれど、大人になった今はなんてことないと卓也は言う。
付き合い始めて一年が経った頃、卓也が一緒に住もうと言い出した。世田谷にいい物件が売り出されたからと二百坪の土地を購入し、家を建て始めると言う卓也は、パソコンを開くと、得意げに家の図面をわたしに見せる。
「世田谷の奥沢の方なんだけどさ。いい土地なんだ」
「もう買ったの?」
「うん。もう家も建てるんだ」
「一度、見に行きたいな」
卓也はにっこりと笑いながらわたしの頭を撫でた。
「家はさ、完成したときに見に行こうよ。驚かせたいんだ。楽しみにしててよ」
「一緒に住むのに?」
「絶対いい家にするよ。綾乃は喘息気味だろ? だから壁とか材質とかこだわったんだ」
卓也は上手い。わたしの話なんて聞いていないという感じなのに、わたしのことを気に掛けてるよと伝えてくる。そう言われてしまうと、もう何も言えなくて、「ありがとう」とだけ口にした。
それにしても一緒に住むというのなら、やはり結婚ということになるのだろうか。
「卓也、一緒に住むならパパに言わないと。わたしたち……」
「それは、三か月後にしよう」
「三か月?」
「ああ、色々準備があるんだよ。やらなきゃいけないこととか」
「準備って何を……」
「まあ、いいじゃん。そうだ、綾乃、住所教えておいて」
本当に人の話を聞かない人。わたしの疑問や不安なんて、卓也はいつもお構い無し。
「住所? 何かに必要なの?」
「一緒に住む準備にね」
三か月の準備期間に疑問を抱きながらも、卓也の嬉しそうな顔にわたしはそれ以上深く考えることもなく漠然と結婚を夢見た。そして仕事を辞めて家にいてほしいと言う卓也に、迷いながらも頷いた。好きな人が望むなら、それに寄り添いたかったから。
卓也と出会い、結婚して子供を産む。そんな人生もいいかもしれない。
そう、思ったのに。卓也はいつだって卓也。
一緒に住もうと言われてから三か月。卓也が言っていた三か月という期間が経つはずなのに、わたしはいまだに家を知らない。そうこうしているうちに、会社を辞める日がきて、退職したわたしに卓也は普通に問いかけた。
「そうだ。綾乃、次の仕事どうするの?」
「……え?」
「仕事。考えてないの? ま、休憩するのもいいんじゃない? でも、転職先については考えておいたほうがいいよ」
「……卓也? あの、仕事辞めてって言っていたよね。家にいてほしいって。一緒に住もうって」
「あぁ、あの時はね」
「三か月後にって」
「一緒に住むのはやめるよ。ああ、それともし期待してたら申し訳ないから先に言うけど、結婚はないから」
「やめるよって……」
「色々考えたんだよ、俺も」
「卓也……わたし、会社辞めたのよ」
「会社って……はは。たかが受付嬢の仕事だろ」
仕事を辞めて欲しいと、一緒にいたいと言った男と目の前の男は同じ人間だろうか。なんでもないことのように言い放ったその男を、わたしはぼんやりと視界に映した。唇がまるで緩慢に動いて、それが得体の知れない生物のようで酷く不快だった。
何も言葉を発することのないわたしを見ることもなく、卓也はスマホを手にして仕事のときと同じように冷たい口調で続ける。
「綾乃ってさ、少し世間知らずだよね。見た目は清純で品があって……育ちが良さげっていうの? 貧乏人の家の子でも綾乃みたいになるんだな」
「え、家? お兄ちゃんのこと?」
「まさかだよ」
「いきなりなに……」
「綾乃、お兄さんの行方とか何も知らないの?」
「え?」
卓也は、自分で聞いてきたくせに、わたしの顔を見てどこか居心地が悪そうにして視線を逸らした。
「まあ、知らない方がいいか」
「卓也、何か」
「いや、改めて思っただけ」
卓也から見れば、大半の家庭が貧乏人の家だろう。でも、わたしが気になったのはそこじゃなかった。脈絡があるようで、ないこの会話は、何かを言いたくて、でも言えない。そんな気持ちがあることを暗に示していた。
そして、その後、初めてぶつかったメールでわたしたちの関係は終わりを告げる。それなりの日々を一緒に過ごしたはずだけれど、きちんと会って別れることもなく卓也は去っていく。
泣かれたら面倒だから会いたくないと送られてきたメッセージはわたしを黙らせるには十分だった。わたしは、卓也にとってそれほどの存在になってしまったのだ。そして、卓也は更に続けた。
「綾乃と似た顔と体の女は金があればいくらでも手に入る。もっと、ちゃんとした家の女が」
鋭利な刃物のように、心臓を抉ってくる。苦しい、そう感じて、はじめて息を忘れていたことに気づいた。
(——金で、手に入る)
わたしの価値は、「顔と体」。それも、金で買える程度の。目の前がぐらりと歪み、わたしは、文字通りそのまま床に崩れ落ちた。


