◇◆
あの時のお風呂の音と似たような水音を聴きながら、瞼を開ける。シャワーを終えて、鏡の前に呆然と立った。
特別綺麗でもなかったわたしは、死に物狂いだったのだ。肌も髪も全てのケアを怠らず、メイクを学び、理想の体になるためにダイエットとトレーニングに励んだ。
たくさんの男と遊んで、余裕のある笑みで男の心を翻弄する。メイクは派手に。服装は華やかに。この男から買い与えられる高級ブランドの服とアクセサリーを身に纏い、十センチのヒールで大理石の床を鳴らす。
街中でも、レストランでもホテルでも、すれ違う人間が思わず振り返るその容貌。この男が満足そうに笑えば、《《特別》》に近づいている気がした。
それなのに、少しも満たされない。何かを手にした感覚も、何かを達成した感覚もない。一生懸命歩き続けているはずなのに、ふと見たその床がウォーキングマシンでどこにも進んでいなくて、ただひたすら同じ場所に留まっている、そんな感覚だけがある。止まればマシンから落ちてしまうから、また歩く。歩いても歩いても、景色なんて変わらない。ずっと小さな箱の中だ。
——苦しい。
心を締め付けられるような声が頭の中で響く。その声は確かに聞こえるのに、少しも温かさを感じないのに、そこに戻るわたしが一番どうかしている。そんなことはとうの昔に気づいている。
龍介さんの声が、笑顔が、それらをかき消すように脳裏にやきつく。過去と今がぐちゃぐちゃになって混ざっていく。
「なにを、やってるのかな」
身支度を終えて、重い足取りで窓際に向かうと、真っ暗な海を眺めた。窓の外は、ただ暗闇が広がっていて、優しい波の音が聞こえる。目を閉じずとも、見つめる先で今日のサンセットが蘇った。龍介さんの横顔、リサの温もり、眩いオレンジ色の光。
スマホに手を伸ばし、龍介さんの連絡先を表示させようと操作した瞬間、彼の名前が自動的に表示される。それが電話の着信だと理解するまでに数秒かかり、慌てて通話ボタンを押す。
「……は、はい」
ひっくり返ったわたしの声を聞いて、龍介さんが電話の向こうで笑っている。
いつもなら、息をするように自然に出てくる「甘えた声」。それが、どうしても喉の奥で引っかかって出てこない。演じなきゃ。いつものように、男が喜ぶ完璧な女を。そう頭では分かっているのに、スマホを持つ手が微かに震えている。
(なに、これ……)
次の言葉を一生懸命探すけれど、頭の中にはなにも浮かばない。
「綾乃ちゃん、寝るとこだった?」
少しだけ震えそうになる声を悟られないように、心臓が静まるように、胸に手をあてる。
「あ、いえ。海を、見てて……」
「そう……海、見える?」
「…………真っ暗です」
素直にそう答えると、電話の向こうで笑顔が弾けるのがわかった。
「はは、だよね」
彼の笑い声が、耳元で優しく響く。たったそれだけのことで、心の奥底に沈んでいた不安や孤独が、少しずつ溶けていく。
「眠れそう?」
飛行機でそんなにしっかり眠ったわけじゃないから眠いはずなのに、胸が高鳴って、騒いで、眠れそうな気がしない。
「……がんばります」
「はは、頑張るの?」
「ふふ、頑張って寝ます」
「うん、そっか。一人で大丈夫そう? 寂しくない?」
「龍介さん、心配性ですね」
「あんまり放っておけるタイプじゃないよね」
「龍介さんには初めに情けないところを見られているから、甘えちゃってるのかもしれないですね」
「そんなことないよ。俺だって高所恐怖症だから、高いところは怖いよ」
「高いところって。もう」
電話から聞こえてくる彼の笑い声が心地いい。低くて、でも透き通っているその声。耳元で穏やかに広がるその声に微睡むように、自然とわたしは目を閉じていた。
「ごめんね。遅いのに電話して」
「いえ、嬉しいです。龍介さんの声が聴けて……」
そこまで言ってしまってから、我に返る。少女漫画のような台詞を発した自分にどれだけロマンチストなのかと驚きを隠せずに、その後の言葉が続かない。
「あ、あの」
「俺も……声、聴きたかった」
照れもせずにそう穏やかな声で囁ける彼は、わたしよりもずっとロマンチストなのかもしれない。走り出してしまいそうな気持ちが怖い。落ちてしまいそうな自分が怖い。短く息を吸い込んで、彼に聞こえないように吐き出した。
「そ、そろそろ寝ますね」
「ああ、そうだよね」
「龍介さん、今日は本当にありがとうございました」
「……全然」
「……あの、それじゃあ、おやすみなさい」
「おやすみ。また明後日」
通話を終えた後も、まるで魔法の言葉のように、その響きから逃れられない。わたしは、無理矢理ベッドに潜り込んで目を閉じた。
あの時のお風呂の音と似たような水音を聴きながら、瞼を開ける。シャワーを終えて、鏡の前に呆然と立った。
特別綺麗でもなかったわたしは、死に物狂いだったのだ。肌も髪も全てのケアを怠らず、メイクを学び、理想の体になるためにダイエットとトレーニングに励んだ。
たくさんの男と遊んで、余裕のある笑みで男の心を翻弄する。メイクは派手に。服装は華やかに。この男から買い与えられる高級ブランドの服とアクセサリーを身に纏い、十センチのヒールで大理石の床を鳴らす。
街中でも、レストランでもホテルでも、すれ違う人間が思わず振り返るその容貌。この男が満足そうに笑えば、《《特別》》に近づいている気がした。
それなのに、少しも満たされない。何かを手にした感覚も、何かを達成した感覚もない。一生懸命歩き続けているはずなのに、ふと見たその床がウォーキングマシンでどこにも進んでいなくて、ただひたすら同じ場所に留まっている、そんな感覚だけがある。止まればマシンから落ちてしまうから、また歩く。歩いても歩いても、景色なんて変わらない。ずっと小さな箱の中だ。
——苦しい。
心を締め付けられるような声が頭の中で響く。その声は確かに聞こえるのに、少しも温かさを感じないのに、そこに戻るわたしが一番どうかしている。そんなことはとうの昔に気づいている。
龍介さんの声が、笑顔が、それらをかき消すように脳裏にやきつく。過去と今がぐちゃぐちゃになって混ざっていく。
「なにを、やってるのかな」
身支度を終えて、重い足取りで窓際に向かうと、真っ暗な海を眺めた。窓の外は、ただ暗闇が広がっていて、優しい波の音が聞こえる。目を閉じずとも、見つめる先で今日のサンセットが蘇った。龍介さんの横顔、リサの温もり、眩いオレンジ色の光。
スマホに手を伸ばし、龍介さんの連絡先を表示させようと操作した瞬間、彼の名前が自動的に表示される。それが電話の着信だと理解するまでに数秒かかり、慌てて通話ボタンを押す。
「……は、はい」
ひっくり返ったわたしの声を聞いて、龍介さんが電話の向こうで笑っている。
いつもなら、息をするように自然に出てくる「甘えた声」。それが、どうしても喉の奥で引っかかって出てこない。演じなきゃ。いつものように、男が喜ぶ完璧な女を。そう頭では分かっているのに、スマホを持つ手が微かに震えている。
(なに、これ……)
次の言葉を一生懸命探すけれど、頭の中にはなにも浮かばない。
「綾乃ちゃん、寝るとこだった?」
少しだけ震えそうになる声を悟られないように、心臓が静まるように、胸に手をあてる。
「あ、いえ。海を、見てて……」
「そう……海、見える?」
「…………真っ暗です」
素直にそう答えると、電話の向こうで笑顔が弾けるのがわかった。
「はは、だよね」
彼の笑い声が、耳元で優しく響く。たったそれだけのことで、心の奥底に沈んでいた不安や孤独が、少しずつ溶けていく。
「眠れそう?」
飛行機でそんなにしっかり眠ったわけじゃないから眠いはずなのに、胸が高鳴って、騒いで、眠れそうな気がしない。
「……がんばります」
「はは、頑張るの?」
「ふふ、頑張って寝ます」
「うん、そっか。一人で大丈夫そう? 寂しくない?」
「龍介さん、心配性ですね」
「あんまり放っておけるタイプじゃないよね」
「龍介さんには初めに情けないところを見られているから、甘えちゃってるのかもしれないですね」
「そんなことないよ。俺だって高所恐怖症だから、高いところは怖いよ」
「高いところって。もう」
電話から聞こえてくる彼の笑い声が心地いい。低くて、でも透き通っているその声。耳元で穏やかに広がるその声に微睡むように、自然とわたしは目を閉じていた。
「ごめんね。遅いのに電話して」
「いえ、嬉しいです。龍介さんの声が聴けて……」
そこまで言ってしまってから、我に返る。少女漫画のような台詞を発した自分にどれだけロマンチストなのかと驚きを隠せずに、その後の言葉が続かない。
「あ、あの」
「俺も……声、聴きたかった」
照れもせずにそう穏やかな声で囁ける彼は、わたしよりもずっとロマンチストなのかもしれない。走り出してしまいそうな気持ちが怖い。落ちてしまいそうな自分が怖い。短く息を吸い込んで、彼に聞こえないように吐き出した。
「そ、そろそろ寝ますね」
「ああ、そうだよね」
「龍介さん、今日は本当にありがとうございました」
「……全然」
「……あの、それじゃあ、おやすみなさい」
「おやすみ。また明後日」
通話を終えた後も、まるで魔法の言葉のように、その響きから逃れられない。わたしは、無理矢理ベッドに潜り込んで目を閉じた。


