シンデレラ・スキャンダル

「綾乃、行くよ」

「やめて。離して! いい加減にするのは卓也よ。わたしは行かない。そういうことはしたくない。好きな人がいるの。ちゃんとお付き合いしてるのよ」

「……く……あはは!」

 突然、乾いた笑い声が静寂を切り裂いた。それはわたしが知っている、計算高い卓也の笑い声じゃない。もっと底知れない……そう、どこかに暗い愉悦を含んだ響き。空調の音さえ消えたオフィスに、その異質な声だけが反響する。

(なに、これ。何よ……すごく、嫌)

 頭の奥で警鐘をが鳴っている。——逃げろ、と。この男は、もうわたしの知っている人間じゃない。冷たいものが背中を一気に駆け抜ける。

「……っ帰る」

「綾乃。俺のところの仕事いつまでだっけ?」

 突然のにこやかな問いかけに、わたしの動きが止まる。

「……え?」

「仕事、いつまでだっけ?」

 まるで世間話でもするように、卓也は尋ねた。知らないはずがない。この男が契約書にサインをしたのだから。

「……あと、一週間だけど」

 答えた瞬間、目の前の唇が歪に弧を描く。その映像が、やけに瞼に焼き付くように残る。不快なほど鮮やかに。

「そうだよ、綾乃」

 柔らかな口調と人のよさそうな顔に浮かべられた微笑み。他の人が見ても、気にすることもない完璧な笑顔。でも、それは今までわたしが見たことのない卓也だった。まるで一枚の薄い仮面をかぶったかのような、作り物めいた表情。その完璧さに、背筋に冷たいものが走る。

 細められた瞳は、少しも笑っていない。その奥は、まるで暗い深淵を覗き込むかのように揺らめいて、わたしを逃がすまいととらえる。止まることなく襲ってくる、肌を刺すような寒気。そして、全身から吹き出す冷汗。

 卓也がゆっくりと、まるで追い詰めるかのように一歩踏み出し、さらにわたしに近づいてくる。一歩、また一歩。その足音が、妙に大きく、この静まり返った空間に響く。心臓は喉元で激しく脈打ち、呼吸は浅く、速くなる。震える足は、まるでその場に強力な接着剤で張り付いたかのように、一ミリも動いてくれない。

 伸ばされた指先が、わたしの首筋を這う。

「ひっ……」

 声にならない悲鳴が漏れ出た。 卓也は楽しそうに笑いながら、龍介さんから貰った大切なネックレスを指で掬い上げる。鎖が肌に食い込む。まるで、首輪をつけられたみたいに。

「一週間で終わりだよ、シンデレラ」

 その言葉と共に、ネックレスがチャリと小さな音を立てて落とされた。感情の欠片もなく、ただ事実を告げる冷徹な響き。それを言い終えると、卓也はオフィスにわたしだけを残して去っていった。ドアが静かに閉まる。


 今更、卓也と離れて後悔することなんて、わたしには一つもない。この関係の終わりを望み、解放される日を待ち望んでいたのだから。卓也だって、そうだ。わたしに未練の一つも残していないはず。

 ——なのに。何もないはずなのに、どうしてこんなにも冷たく、重苦しいのだろう。卓也の残り香が微かに漂うこのオフィスで、胸の奥が静かで、でもざわめいて、どうしても落ち着かない。

(どうして——?)

 大切な宝物が、泥で汚されたような気がして、わたしは震えが止まらなくなった。