「綾乃!」
いつもの声に振り向けば、車の中から屈託のない笑顔で出てくる人の姿があった。
「畑中、ありがとう。ここでいいよ」
「龍、すぐマンション入れよ」
「ああ」
わたしが両手に持っていたスーパーの袋を二つとも取り上げて、エントランスに進んでいく背中。それを慌てて追いかけながら振り返る。
「畑中さん、お疲れ様です」
「うん! 明日は、朝五時に龍のこと迎えに来るから」
「はい、わかりました」
「綾乃、鍵あけて」
「あ、はい!」
マンションのエントランスを抜け、エレベーターを待っていると、龍介さんがおでこを合わせて唇に軽く触れた。
「りゅ、龍介さんっ」
「大丈夫。マンションの中まで入ってこないよ」
龍介さんはそう言って、もう一度背をかがめて、唇に触れる。彼の胸に手で触れようとした瞬間——カツン——と乾いた靴音が響いた。体がビクリ跳ね、わたしたちは弾かれたように体を離す。誰もいないはずのエントランス。そこには、わたしたちだけのはず。でも、確かに聞こえた。
「行こう」
エレベーターの扉が閉まる寸前、わたしは恐る恐る振り返った。磨き上げられた大理石の柱の先で黒い影が揺れた気がして眼を凝らす——でも、近くの観葉植物も揺れずに、気配もない。
(気のせい、か)
扉が完全に閉ざされ、密室に戻った瞬間、思わず詰めていた息が少しだけ漏れた。
部屋に着くと、龍介さんが袋から食材を取り出しながら、眠そうに目をこする。
「龍介さん大丈夫ですか? 寝ててください。ご飯ができたら起こしますね」
「ん……ごめんね」
「明日も五時って早いですね。どこに行くんですか? 優くんがリハーサルは午後からって」
「千葉にね」
龍介さんが千葉に行くと言うときは、たいていあの薬物更生施設。龍介さんは、忙しいのに、少しでも時間ができれば、少年院や薬物厚生施設に訪れる。
「千葉ってあの施設ですか? この前も行ってませんでした?」
「ちょっとね。やることあって」
眠そうな龍介さんの背中を押して、寝室に行き、無理やりベッドに寝かせる。龍介さんは「大丈夫」と言いながらも、その目はもう閉じていた。「んん」と鼻にかかった声が聞こえてきて、思わず笑ってしまう。
「……まってて」
「ん?」
「お兄ちゃん……もう、ちょっとだから……」
小さな声で呟いて、そのまま寝息をたて始めた。妹の雪乃ちゃんの夢でも見ているのか、その柔らかい声が、胸にふわりと落ちた。
「おやすみなさい、龍介さん」
彼の体にゆっくりと布団をかけて、静かにその部屋のドアを閉めた。
いつもの声に振り向けば、車の中から屈託のない笑顔で出てくる人の姿があった。
「畑中、ありがとう。ここでいいよ」
「龍、すぐマンション入れよ」
「ああ」
わたしが両手に持っていたスーパーの袋を二つとも取り上げて、エントランスに進んでいく背中。それを慌てて追いかけながら振り返る。
「畑中さん、お疲れ様です」
「うん! 明日は、朝五時に龍のこと迎えに来るから」
「はい、わかりました」
「綾乃、鍵あけて」
「あ、はい!」
マンションのエントランスを抜け、エレベーターを待っていると、龍介さんがおでこを合わせて唇に軽く触れた。
「りゅ、龍介さんっ」
「大丈夫。マンションの中まで入ってこないよ」
龍介さんはそう言って、もう一度背をかがめて、唇に触れる。彼の胸に手で触れようとした瞬間——カツン——と乾いた靴音が響いた。体がビクリ跳ね、わたしたちは弾かれたように体を離す。誰もいないはずのエントランス。そこには、わたしたちだけのはず。でも、確かに聞こえた。
「行こう」
エレベーターの扉が閉まる寸前、わたしは恐る恐る振り返った。磨き上げられた大理石の柱の先で黒い影が揺れた気がして眼を凝らす——でも、近くの観葉植物も揺れずに、気配もない。
(気のせい、か)
扉が完全に閉ざされ、密室に戻った瞬間、思わず詰めていた息が少しだけ漏れた。
部屋に着くと、龍介さんが袋から食材を取り出しながら、眠そうに目をこする。
「龍介さん大丈夫ですか? 寝ててください。ご飯ができたら起こしますね」
「ん……ごめんね」
「明日も五時って早いですね。どこに行くんですか? 優くんがリハーサルは午後からって」
「千葉にね」
龍介さんが千葉に行くと言うときは、たいていあの薬物更生施設。龍介さんは、忙しいのに、少しでも時間ができれば、少年院や薬物厚生施設に訪れる。
「千葉ってあの施設ですか? この前も行ってませんでした?」
「ちょっとね。やることあって」
眠そうな龍介さんの背中を押して、寝室に行き、無理やりベッドに寝かせる。龍介さんは「大丈夫」と言いながらも、その目はもう閉じていた。「んん」と鼻にかかった声が聞こえてきて、思わず笑ってしまう。
「……まってて」
「ん?」
「お兄ちゃん……もう、ちょっとだから……」
小さな声で呟いて、そのまま寝息をたて始めた。妹の雪乃ちゃんの夢でも見ているのか、その柔らかい声が、胸にふわりと落ちた。
「おやすみなさい、龍介さん」
彼の体にゆっくりと布団をかけて、静かにその部屋のドアを閉めた。


