月下櫻涙―花に散り、月に生きて―

――大火の爪痕が、まだ江戸の空に残っていた頃。

人々の心が、炎の記憶から立ち直れずにいた時代。
江戸が、深い傷を抱えたまま息をしていた頃――。

寒村で暮らす百姓の女、春は、
この夜、ひとりきりで子を産もうとしていた。

嫁ぎ先に頼れる者はなく、
逃げ場も、甘えもない。

冬の名残が山々にしがみつき、
谷間には朝靄が溜まっている。

藁葺き屋根から立ちのぼる囲炉裏の煙が、
冷たい空に細く溶けていった。

その夜、村は不自然なほど静まり返っていた。

⸻

土間の奥。
わら布団の上で、春は歯を食いしばり、声を殺していた。

二十を少し越えたばかりの小柄な体が、
出産の痛みに震える。

額を流れる汗が、頬を伝い落ちる。

「……はぁ……はぁ……」

乱れる呼吸のたび、
腹の奥で、命が出口を探しているのがわかった。

闇に溶けるように、産婆の掠れた声が響く。

「春や……もうひと踏ん張りだよ」

春は、小さく頷いた。

逃げる気はなかった。
この痛みの先にしか、答えはないと知っていた。

長い苦しみの果て――。

甲高い産声が、家の闇を切り裂いた。

「……あ……」

声とも、吐息ともつかぬ音が、
春の喉からこぼれ落ちる。

小さな体が胸に抱かれた瞬間、
胸の奥に、じんわりと温かなものが広がった。

「……生まれてきてくれて、ありがとう……」

そのときだった。

産婆が赤子を拭いながら、ふと手を止める。

「……あれ?」

不安に駆られ、春は身を起こした。

赤子の首筋から胸にかけて、
淡い薄紅の痕が広がっている。

それはまるで――
桜の花びらが散り積もったような模様だった。

「……きれい……」

気づけば、そう呟いていた。

春は涙に濡れた目で微笑み、
赤子をそっと抱き寄せる。

「桜……この子は、桜」

その痕を、祝福のように見つめる春の背後で、
ひとりの男が、冷え切った目を向けていた。

「……気味が悪い」

父・左治衛の声だった。

酒の臭いをまとった男は、
一歩も近づかず、吐き捨てる。

「妖の子だ。普通じゃねぇ」

その一言が、
火のあるはずの部屋の空気を、一瞬で凍らせた。

⸻

春と桜が、共に過ごした時間は――
あまりにも短かった。

⸻

桜が生まれてから、ほんのわずかな間だけ。

春の世界は、奇跡のように穏やかだった。

夜明け前。
まだ鶏も鳴かぬ頃。

桜が小さく身じろぎすると、
春はすぐに目を覚ました。

泣き声が上がる前に、
その小さな体を胸に引き寄せる。

「……大丈夫よ。母さんは、ここにいる」

赤子は言葉を知らない。
それでも春の声を聞くと、不思議と泣き止み、
小さな指で、着物の端をぎゅっと掴んだ。

弱くて、儚くて――
それなのに、胸が締めつけられるほど確かな力。

「そんなに強く握ったら……」

笑いながら指を外そうとする。

けれど、桜は離さなかった。

まるで――
行かないで
ここにいて

そう訴えているかのように。

春は、思わず涙を落とした。

⸻

昼には、桜を背負って畑に出た。

首の痣が見えぬよう、
布を何重にも巻いて。

土を踏みしめながら、
春は何度も背中に声をかける。

「寒くない?」
「眠いの?」
「ちゃんと息、してる?」

返事はない。

それでも背中から伝わる温もりが、
確かに「生きている」と教えてくれた。

作業の合間、畦に腰を下ろし、
春は桜の顔をそっと覗き込む。

赤子は、口元をわずかに緩めて眠っていた。

「……笑ってる」

それが笑顔なのか、
ただの寝顔なのかは、わからない。

それでも――
春には、それで十分だった。

「来年の春にはね……」

誰に聞かせるでもなく、春は囁く。

「桜の花が咲く頃、
 お前を連れて、川の向こうまで歩こう」

「花びらが落ちてきたら、
 母さんが全部、払ってあげるから」

その未来を思い描いた瞬間、
胸の奥が、じんわりと熱くなった。

――この子がいる。
それだけで、生きていける。

⸻

夜。
囲炉裏の火が小さくなる頃。

春は桜を胸に抱いたまま、横になった。

規則正しい寝息。
上下する小さな背中。

確かめるように、何度も、何度も撫でる。

「……生まれてきてくれて、ありがとう」

「母さんのところに来てくれて、ありがとう」

それは、この世で誰にも聞かれない、
けれど、何よりも確かな言葉だった。

春は、まだ知らなかった。

この夜が――
桜と過ごす、最後の穏やかな時間になることを。