月とベイプ

 
 ──よみひと知らずの昔話がある。


 冬の湖の上を歩く少女の話だ。
 月夜の晩。凍りついた水面を、ブーツの紐を固く結んで。
 なんのためか。
 会いにゆくため。
 其処(そこ)で待つひとりの少女に、会いにゆくため。

 
 これが綴られたのは百年前のこと。
 長野県にある湖の街を舞台にして。

 今でこそ寂れてはいるが、大正時代には製糸産業で大いに栄えていた歴史がある。
 その担い手として、幾千もの少女たちが全国各地から集められ、あどけなさを残した顔のまま、女工として立派に製糸工場で働いていた。
 過酷な労働の日々にあっても、時には笑い、泣き、恋をしながら。
 
 (くだん)の昔話は、そんな少女たちの間で流行った──


 あたりまえの、
 ラブストーリーだったという。



 * * *



 私のご先祖さまはオオカミだったらしい。

 亡くなった曽祖母(ひいおばあちゃん)が私にこっそり教えてくれた。だからきっと嘘じゃないはずだ。
 それは“青い目をしたオオカミ”で、ユーラシア大陸を地の果てから海が尽きるまで駆け抜けていたという。
 ならばなぜ人間になってしまったのかと言うと……『月に吠えたから』それが理由なんだとか。

 ご先祖さまがやらかした呪いの残り香だろうか。私はどうも、月に嫌われている気がする。

 
 ──今夜は特に、そう思う。


「暗くなれ、暗くなれ、くらくらくらぁぁ…………あぁ────、明るいッ!」

 頭まで被っていた羽毛布団を跳ね飛ばす勢いで、私はベッドから身を起こした。
 手には、テレビのリモコンが握られている。先ほどまで、布団から腕だけをニョロリと出し『音量マイナス』を押し続けていたのだ。
 だが、下げたいのは音量ではない。
 ──月の光だ。

「長野県の月。明かりが過ぎるのでは?」

 標高が高いからか、空気が澄んでいるゆえか。
 いずれにせよ、遮光性能皆無の白いレースカーテンでは、月の光を遮るどころかむしろ拡散しているようだ。青白い光が8畳の部屋を包み込んでいる。
 私は、自慢の“ブロンドヘア”をわしゃわしゃと乱暴にかいては立ち上がり、よろめきながら掃き出し窓へと向かった。

「仕返し。しちゃるけえのう。オジキのカタキとっちゃるけえのう」

 寝床に入る前までヤクザ映画を視聴していたので影響されたようだ。ドスの効いたエセ広島弁を垂れ流し、よろめきながら窓へと詰め寄ってゆく。にっくき”カタキ“のツラを拝んでやろうと言うのだ。
 やがて辿り着いた私は、カーテンを掴み……シャッ!と一息に開け放った。

「ややっ!……びっっっくりしたぁ……」

 メンチを切るどころの話ではない、心臓が止まるほどに驚いた。
 窓の向こう。バルコニーに女の子が立っていて、こちらを覗いていたのだ!
 ……と一瞬思ったのだが、違う。
 窓に映っていたのはパジャマ姿の私だ。それも、まるで鏡であるかのようにくっきりと。
 
 肩ほどまであるブロンドヘア。母譲りの金髪だ。寝癖と先ほどのかきむしりでクシャクシャだけれど、わりと手入れは行き届いていると思う。
 驚いたせいで目は見開かれている。その瞳の色は、部屋を包み込んでいた月光のように青い。これは父から受け継いだもの。いや“オオカミ”からの贈り物かもしれない。
 そして……よかった。コンプレックスのそばかすは映ってなくて。

「なんかもう……白人が過ぎるな……お嬢さん、お名前は?」

 リリア・タンビスキー

 私の名前。
 思いっきり外国人だ。けれどレッキとした17歳の日本人女性である。ただほんのちょっぴり……4分の3ほどコーカソイドで構成されているだけ。

 仕返しするんじゃなかったのかい?
 と、嘲笑するかの如く、爛々と私を照らす月に気がついた。今日は満月ではなかった気がするけれど、随分と大きい顔をしている。
 私はムッとして青い瞳で睨み返した。反撃の時間だ。ちゃんちゃんこを羽織り、ベッドのヘッドボードに置いてあるボールペンのような形状の“ベイプ”を手に取って準備完了。
 一息置いてから、私は掃き出し窓を開け、バルコニーへと足を伸ばした。

「うぅぅわ、寒ぅぅ……」

 ── べらぼうに寒い。1月なのだから当然か。

 私は身を縮こまらせながら、ベイプの電源を入れた。
 ベイプ……電子タバコとも呼ばれるこの手のひらサイズのアイテム。
 少々誤解されがちなので弁明すると、タバコという名が付いてはいるがニコチンの類は含まれていないため、私のようなJKでも問題なく吸うことができる。それでも一応、心の中で「悪いことしてないよ?」と無意識に自分自身へフォローを入れてしまうのは、ほとほと小心者だからなのだろう。
 さて、そうこうしているうちにベイプのリキッドが熱せられたようだ。私はそっと咥えると、咽《む》せぬように加減しつつ水蒸気を吸い上げ、肩の力を抜いてじんわりと胸に溜めこみ、いっぱいに満たしてゆく……そして、月に向かってふぅ~っと吹いた。

「ざまぁみろ」

 してやったり。これが私の仕返し。月に吠える代わりに、ベイプの水蒸気をお見舞いしたのだ。
 無論、この水蒸気が届くはずはないのだが少しばかり気が晴れた。
 そのせいだろうか。ついで視界もクリアになったように感じる。

「……わぁ」

 ふと、視線を下ろした先に広がっていた光景が私を釘付けにした。その幻想的な美しさは、ため息すら凍りつくほどの寒さも忘れて見入ってしまうほど。

「湖が……これぜんぶ凍ってるんだ……」

 ここは高層マンションの最上階だ。バルコニーから見える景色はなかなかの絶景である。
 ──広大な湖。守矢湖(もりやこ)を眼下に一望できるのだ。
 その湖はいま、一面凍りついていた。
 まるで鏡のよう。空に瞬く星々が、地上へと降りてきたのではないかと錯覚する。
 私はいま一度星空を見上げ、ひとつふたつと星を数えて胸を撫で下ろしてから、再び視線を湖へと戻した。すると──

「……あれ、なんだろう……白い……」

 “それ”は湖の上に立っていた。
 
 この距離からでは、はっきりと認識できるわけではない。けれどわかったのだ。
 人が立っているのだと。
 私にはわかる。何故だろう。自分でも不思議に思う。だが確信していた。
 
 その人影は──
 
「女の子だ……」


 *


 長野県の中央部に位置する守矢湖(もりやこ)
 2つの市に跨るその湖は、古より“信濃の海”と呼ばれていた。それほどに広大でありながら、冬がくるとスケートリンクのように一面凍りつく。
 戦前は軍用機の離着陸に使われていたという記録もあり、その氷の厚さは想像に難くない。

 ゆえに、何ら揺らぐこともない。
 こうして女の子がひとり。いや、“ふたり”。凍った湖の上で挨拶を交わしたとて。

「こんにちは」

 まずは挨拶から……返事がない。

「あのぉ……こんにちはっ」
「……え、えっと」

 そう。私の思った通り。バルコニーから見えた白い影の正体は女の子だった。
 ならば聞くしかないだろう。こんなところで何をしているのって。

 とはいえ、答えに窮しているようだ。
 無理もないと思う。
 こんな真夜中に、人気(ひとけ)の無い凍った湖の上で突然話しかけられたのだから。
 それも、金髪で碧眼(へきがん)な白人の少女に……ちゃんと日本人なのだが。
 
「あ……間違えた。かも?」
「え?」
「こんにちは。じゃなくてぇ……こんばんは。ですかね?」
「え……あ、はぁ……そう、ですね?」
 
 いまだに困惑中の、かなりくせっ毛なショートヘアの女の子。彼女は両の手のひらをお皿のようにして月に掲げている。
 何かの儀式のようだな。と私が思った理由は、きっと彼女の服装によるものだろう。
 ──彼女は、白い着物を身に纏っているのだ。さらには袴も純白の。足元もまた白いブーツで統一されている。

 薄い雲に隠れていた月が顔を覗かせた。
 青白い月光がスポットライトのように彼女の姿を照らす。まるで、お月様が彼女だけに(ささや)いているみたいだ。
 
 神秘的が過ぎる……。
 正直、私は怯んでいた。けれどせっかく、こうしてスキーウェアに着替えて、凍った湖を歩いてきたのだ。ここでイモを引くわけにはいかない。

「あの私、白人みたいな顔だけど日本人──」
「女工さんみたい」
「えっ?」

 彼女は月に掲げていた手を下ろし、腰に提げている巾着袋に、先ほどまで手のひらに乗っていたであろう何かを流し入れた。ザラザラァァっと、米粒の擦れ合うような音がした。
 次いで、彼女は手袋をはめた。私が今はめているようなウィンタースポーツ用の分厚いグローブではない。就寝時に手荒れのケアに使うような薄い綿の手袋である。

「女の子がふたり。凍った湖の上でおしゃべりして。まるで女工さんの物語みたいだなって……そう思ったんです」

 少しはにかんだように手を擦り合わせながら、彼女はそう言った。

「ジョコウサン?えっと……」
「知りませんか?この街に伝わる昔話ですよ」
「あぁ~。私、越してきたばかりで。まだ2ヶ月ちょっとかな」
「そうでしたか……ごめんなさい、変なこと言ってしまって」

 ぺこり、ぺこりと小刻みなお辞儀を繰り返すショートヘアの彼女。お上品に“ヘドバン”してるみたいで。
 (え、かわいい)
 心を掴まれたせいで思考が飛んだが、彼女が謝罪する理由などない。フォローせねば。

「ややっ!全然。全然ですよ!私ね、けっこう好きですからね、歴史……戦史が。特に戦術とか好きなんです。最近、沼ってるのは近代で。今日気づいたのが、ナポレオンがアウステルリッツで用いた戦術と、戦国時代の島津家の“釣り野伏”に共通点あるなって。ややっ、共通点というか、ほぼ一緒。パクリなのでは?みたいな────あっ」

 北風小僧が口笛を吹いた。
 静まり返った凍てつく空気に、私は身を縮める。

「ごめんなさいぃ……なんか久しぶりで。こんなふうに女の子と話したのが……つい調子に乗っちゃって早口で……恥ずかしが過ぎるっ」

 私は彼女に背を向け、その場で膝を抱えて座った。
 お尻が冷たい。氷の上だし当然か。
 私は人差し指で氷をぐりぐりとほじくった。穴があったら入りたい気分なのだ。

「金髪……ですか?」
「へっ?」
「髪の毛。月明かりのせいかな?とても明るい色だなって」

 あぁ、そうか。私はボンボンのついたニット帽を被っているから、正面からでは見えなかったようだ。
 背を向けたことが幸い(?)したことで、自慢のミディアムのブロンドヘアをご照覧いただけたみたい。
 私は立ち上がり、お尻についた露を払いながら振り向く。そしてニット帽を脱いだ。

「大正解です。あ、染めてないですよ。地毛です」
「……外国の人?」
「4分の3白人でして。ややっ、でもこんなナリで日本語しか喋れないんですけどねっ」
「…………ほんとに……」
「え?」
「ほんとに……女工さんの昔話みたい」

 少し俯いて。ぽつりぽつりと彼女は続けた。

「恋のお話なんですよ。ひみつの恋の」
「ひみつ?」
「はい。だって……」

 ふいに、光が朧げになる。薄くたなびいた雲が月を隠したのだ。
 この時を待っていたかのように、彼女はそっと視線を上げ、私を見据えた。
 
「女の子ふたりが紡いだ……恋のお話ですから」

 凍てついたとて、水は動き続けるのだろう。足元で鈴の鳴るような音がした。予感めいたものが、私の心をそっと撫でてゆく。

 1月10日。気温は氷点下。
 それは、小望月(こもちづき)が見え隠れする

 ──夜半すぎの、ことだった。
 


 * * *



「ふぁああぁぁ…………あさ、朝……朝だ」

 寝不足である。
 
 昨夜。あのあと特に会話もなく、軽く会釈をして解散となったわけだけれど。なんだか夢心地のまま帰宅し、そののまま寝床に入ったのだが結局ほとんど眠ることができなかった。
 凍った湖の上で、月に語りかけるように手を掲げていた不思議な女の子。彼女の姿が、瞼を閉じると余計に思い浮かんでは胸が高鳴って仕方なくて、ベッドの上をコロコロ転がっては5回ほど落下した。おかげでカラダがあちこち痛い。

 とにかく、もう朝だ。
 千鳥足で洗面所へと向かう。

「さて……と」
 
 洗面台の前で思案する。
 レバーハンドルを右か左か……右でいこう。覚悟を決めた。これから真冬の滝行だ。

「冷っっったぁ────」
 
 やはり朝はこれだろう。冷水で洗顔をキメるのだ。肌がキュッと引き締まる……気がする。
 いかがなものかと、鏡に映った自分の顔を見てみた。
 寝癖のついたブロンドヘアに、いまだ醒めない寝ぼけまな青い瞳。

「白人が過ぎる……そばかす……増えてる……」

 ──女工さんの恋の昔話みたい。
 私の白人フェイスを見て、そうつぶやいた彼女の姿が頭をよぎった。

「女の子どうしの、恋……か。大正時代にもいたのかな」

 ──“私みたいな子”が。
 
 私は軽くため息をつくと、ちゃんちゃんこを羽織り、キッチンへと向かった。
 ウォーターサーバーの熱湯と冷水をほどよくブレンドして作った白湯を乾いたカラダにゆっくりと流し込む。ほっと一息ついたところで、お次は滞った血液を循環させるための朝のルーティンをはじめる。
 まずは相撲の四股のように肩幅ほどに足を開いて立ち、そのままゆっくりと腰を下げる。この体勢を30秒キープし……

「よいっしょぉー」

 掛け声とともに、バンザイをしながら足をまっすぐに戻す。これを何度か繰り返すのだ。
 この一連の動作は、旧日本海軍の予科練で行われていたストレッチ運動のひとつ『天突き体操』というやつだ。
 端的に言ってしまえばワイドスクワットなのだが、天突き体操と呼んだ方が日本人ぽくて私は好きだ。ちゃんちゃんこ姿でやるのもまたオツである。

 朝の運動が済み、代謝が上がってきたのを見計らって、私は日光のさすバルコニーへ出た。高層階ゆえの容赦ない風の歓迎を受ける。きゅっと身をすくめた。寒いのは百も承知だけれど、ここから見える景色を私はとても気に入っているから、事あるごとに足が向いてしまうのだ。
 
 広大な守矢湖を一望できる高層マンションの最上階。
 ここが私の家……もとい”居候“しているお宅だ。
 埼玉の実家は平屋建ての一軒家だったから、このようにマンションの17階から望む光景はただ眺めているだけでも私にとっては十分すぎるほど楽しい。
 そして、もうひとつ。この絶景を眼下に収めながらの一服。それも私の楽しみである。
 一服とはすなわち、電子タバコの『ベイプ』のことだ。
 何度でも弁明するが。タバコと言っても、これはフレーバーのついた水蒸気をふかすだけのオモチャで、ニコチンやタールの類は皆無。17歳の小娘ゆえ、タバコを吸う行為に憧れがある。というわけではなく、ベイプを吸うのには明確な理由がある。
 
 今の私は、ベイプを介して吸引する”CBD“を精神安定剤代わりに使っているから。

 CBD(カンナビジオール)とは、大麻草に含まれる天然の成分だ。
 大麻と聞くと身構えてしまうが、私の使用しているCBDリキッドは大麻から、いわゆる“ハイ”になる成分を除去し、リラックス効果に特化しているという製品のため違法性はない上に、日本国内での使用もちゃんと認められているのだ。その鎮静作用は非常に高く、パニック症状などには特に強い効果を発揮する。

 ──ゆえに私にはぴったり。

 太めのボールペンのような形状のベイプ。電源ボタンを連続で5回、素早く押せば電源がONになる。電源ボタンを長押しして、リキッドが気化されるのを見計らって口に咥えて、ボタンを押しながら水蒸気を吸い上げる……肺を十分に満たして……ふううぅぅ~っと水蒸気をゆっくり口から出す。

 そうだ。昨夜も眠れなくて、こうしてバルコニーでベイプを吹かしたんだった。
 そこで月が照らす湖面に白い影が見えて。あれは何だろうと頭よぎったかと思えば、気がつけば私は凍った湖の上を歩いていた。まるで迷いの森を前にして、魔女に手招きをされたかのように……そう。魔法にかけられて。だからこそ思う。

 (もしかして……あの女の子も……ぜんぶ夢だったり……?)
 (CBDで脳が……幻覚?)

 ふと、空を見上げた。優雅に旋回する鳥と目が合った気がする。ここは空が近いからだろうか。
 せっかくなので挨拶をしてみることにした。

「おはようございまーす」
「おはようございました」

 ほえー、長野県の鳥は日本語でお返事できるのかぁ。
 
 ──そんなわけはない。
 鳥さんの代わりに応答したのは、私の背後に立っている、おかっぱ頭の女の子……ではなく”男の子“だ。

「おはよ。セイちゃん」
「おう。朝めし持ってきた。ここ食おうぜ」

 “彼”はこの部屋の所有者の息子で、私の従兄弟。14歳の清十郎(せいじゅうろう)くん(セイちゃん)だ。
 元々父子家庭のうえ、彼の父親は仕事で家を空けることが多く、この3LDKのマンションで、セイちゃんは実質一人暮らしという状況だった。それゆえに私の引っ越し先として白羽の矢が立ったのである。

「えー、ここで?寒いよ、やだよー」
「白人は毛深いだろ?ヨユーヨユー」
「うわっ!人種差別だ!サベツだサベツだ!」
「うるせえよ。キャベツ食っとけ」

 圧に押され、私はしぶしぶテーブルについた。このマンションのバルコニーはかなり広く作られており、住人によっては家庭菜園をやる人もいるらしい。それゆえにテーブルと椅子を置いても、スペースは余り過ぎているほどだ。

 じっと見つめてみる。目の前の従兄弟を。

「……なに見てんだよ?」
「セイちゃんてさ、ほんと美少女だよね。男の子なのに」

 そうなのだ。
 セイちゃんは”見た目美少女な男子“なのである。
 私も肌は白いけれど、彼のは綿雪のような、触れたら溶けてしまいそうなキメの細かい白さである。そして涼し気な切れ長の一重瞼と、べらぼうに似合う艶やかな黒髪のおかっぱ頭。さらには、白魚の如くに細くしなやかな指先。
 欧風な顔立ちの私とは対照的。セイちゃんはメイドインジャパンな美少女……美少年……いやはや性の境目が曖昧である。
 
「スープ。冷めんぞ?」
「あっ、はい。お、ポトフ風味噌汁じゃん」
「この味噌、俺が去年仕込んだんだよ。まあまあだろ?ちょい塩気強いけどな」
「ほへー。美少女男子が育てたお味噌かぁ……ありがてぇありがてぇ」

 私はスープ皿を両手で持って、ふーふーと息を吹きかける。西洋みを帯びた信州味噌の香りと共に、湯気がまるで煙幕のように立ち上ってゆく。
 火傷しないように慎重に……ちょっとずつ啜った。

「あちぃー、でもうまっ」
「なぁ、リリア。ちゃんと眠れてんのか?疲れが顔に出てんぞ」
「えー、やっぱわかっちゃうもんだね。昨夜はなんか眠れなくってさー」
「なんかあったのかよ」
「ややっ……そんな何も……ないよぉ?全然まったく」

 何もない。こともない……か。
 頬杖をついて、訝しげに私をじっと見据える美少女フェイスな従兄弟に、私はひとつ問いかけてみることにした。

「ねぇ、セイちゃん。この街にさ、都市伝説ってある?」
「都市伝説?なんだよ、リリアは歴史オタクなんだろ?そーいうオカルトじみたのは邪道じゃねーの?」
「都市伝説だって立派な歴史だよー。トロイだって、遺跡が発掘されるまでは御伽噺でしかなかったんだから」
「ふぅ~ん」
「というわけでさ、なんかないの?都市伝説。幽霊的なやつとか」
「……そうだなぁ。幽霊じゃないけど、包帯グルグル巻きでセーラー服のミイラJKが彷徨(うろつ)いてるってのは聞いたことあるな」
「ちょっとセイちゃん、私はマジメに聞いてるんだが~?」
「都市伝説ってそういうもんだろ」

 それから、セイちゃんは守矢市に漂う都市伝説を幾つか話してくれたが、昨夜のような女の子を匂わせるものは出てこない。

「じゃあさ、こういうのはある?湖の上で佇んでる女の子の幽霊とか。白い着物を身に纏っててさ」
「聞いたことねー」
「湖で……自殺した女の子が幽霊になったとか……」
「……自殺?」

 ふぅん。と小さくつぶやいたセイちゃん。
 一瞬だが、その涼やかな切れ長の瞳が揺らいだように見開かれた。
 すると彼は私から顔を逸らし、湖を越えて遥か遠くに(そび)える雪化粧した北アルプスに目をやった。
 
「……リリア。お前さ。やたらバルコニーに出たがるよな」
「まぁ、そうかも。だから?」
「……自殺とか。考えてねえよな?」
「えっ」

 上空を旋回していた鳥が鳴いた。それが妙にクリアに私の耳に届く。

「な、なんでそんなこと……考えるわけないじゃん」
「……埼玉で一度したんだろ?」
「あ……」

 心臓をぎゅっと掴まれたよう。私は呼吸を止めた。

「親父からワケは聞いてる。危ないようなら連絡しろってこともな。ま、告げ口したりはしねーけど。大丈夫なんだよな?ほんとに」

 鼓動が少しずつ速まっていくのがわかる。
 ランニングマシンのスピードを一段二段と上げていくかのように。

「リリアがここに住むようになって2ヶ月。触れない方がいいかと思って知らんぷりしてたけどよ。ふとした時に、やっぱ気になっちまうんだよ……俺もガキだかんな」

 顔を背けまま、セイちゃんはそう言った。
 喉が詰まりそうになりながら、私もなんとか返事をする。

「そっか……そりゃ……知ってるよね。あははっ……当然か」

 テーブルに置かれたスープに視線を落とす。
 湯気を立たせてながら、熱によって対流する味噌汁が模様を描くように具材の隙間を這って行く。いままさに、忙しなく私のカラダを駆け巡っている血の流れのようだ。

「でも……でもね……大丈夫だよ。うん、ほんとに大丈夫。ごめん……心配かけて」

 セイちゃんが自分のスープ皿からソーセージを一本、箸で摘んで私のお皿へよそった。

「ま。腹減るうちは大丈夫か。お前めっちゃ食うもんな」

 そう言うと、セイちゃんはスープを飲み干し、空いた皿を持って部屋へと入っていった。
 
 年上の私を気遣って……口は悪いけれど、ほんとうに優しい子だ。だからこそ、気を遣わせてしまって申し訳なく思う。

「自殺……か。やっぱり、そう思われてるよね……ははっ」

 さっき、都市伝説と絡めて自殺なんてワードを出すんじゃなかった。そのせいで余計な心配を……。

「ん……?」

 罪悪感ゆえか、いや違う。この得体の知れぬ焦燥感にも似た手の震えは──

 額に熱を感じる。この寒空の下だというのに、じんわりと汗がにじんできた。スープでカラダが温まったからじゃない。心理的な要因。徐々に呼吸が浅くなり、息が苦しくなって……
 
 (まずい……きて(・・)しまった……)

 パニック症状。その一歩手前だ。
 心拍数の上昇を、もう止め置くことができない……

 ベイプを────!

 吸わないと。CBDを……こういう時のために持っているのだから。
 私は震える手元に慌てながらも、ベイプを手にとり電源ボタンを押した。リキッドが気化されゆくほんの数秒の時間がとてつもなく長く感じる。
 早く……早く……!
 歯を立てるような剣幕でベイプに震える唇を添えた私は、加減などできぬまま、首絞めから解放されたかのように一気に水蒸気を吸い上げてしまった。

「ウッ!ゴホッゴホッ!……うぅ……」

 ()せてしまった。まるではじめてベイプを吸った時のような失敗だ。

「ぁ……けほっ……ぅ……なにやってんだ、私……」

 私は目をぎゅっと目を瞑り、いま一度ベイプを咥えた。むせぬように、ゆっくりと水蒸気を肺に満たす。そして、ため息をするように大きく息を吐いた。

「おーい、リリア。学校行く前にちゃんと歯磨きしろよー」

 セイちゃんが部屋の中から声をかけてきた。
 彼は中学の部活(薙刀部)で朝練があるため、もう出かける準備をしているのだ。
 私の方もCBDがカラダに回って先ほどよりはリラックスできたようで、呼吸も平静を取り戻しつつある。おかげで、自然と声を出すことができた。

「あー、セイちゃん。ちょっと待ってー」
 
 冷めてしまったであろうスープを温め直してから食べよう。セイちゃんに一言断ってから。
 お皿を手に持って、私はバルコニーを後にした。