時計の針が十二時を指す。
ソファに深々と腰を下ろした男は、眠気に顔をしかめながら近くにあったリモコンに手を伸ばした。
彼はテレビの電源を入れる。
プツリという音とともに画面に光が灯る。
軽快な音楽とともに映像が映し出された。ちょうど深夜ニュース番組のオープニングが放送されているところだった。
「0時になりました。深夜報道ステーションのお時間です。」
女性アナウンサーが番組の始まりを告げる。
それを皮切りに男はチャンネルを切り替えた。どうやらニュース番組には興味がなかったようだ。彼は、リモコンを操作してころころとチャンネルを変える。しかし、別段見たい番組もなかったようで、また元のニュース番組にチャンネルを戻した。
「次のニュースです。」
先ほどの女性アナウンサーが原稿を読み上げている。
男は退屈そうに大きなあくびをする。赤い口紅が艶めいた。
「今から十七年前、当時三歳だった男の子『沢田 湊』君が誘拐されるという事件が起こりました。警察は当時、地域ボランティアを含む30人体制で捜索を行いましたが、湊君を発見することは出来ませんでした。当時、事件に関する多くの憶測が飛び交い、メディアやネットを震撼させました。
あの事件から十七年たった今日、新たな技術であるAI捜索により、再度捜索が行われることが決定しました。この件に関して、今回専門家の先生にお話を伺いたいと思います。」
そう言うと映像が切り替わり、アナウンサーの右隣に座っていた男性が映し出された。画面の下の方に現れたテロップには『九州ソフトウェア学院 犯罪捜査学部 教授』の肩書が飾ってあった。
「えー、AI捜索とはこのようにですね、AIによる画像解析と監視カメラの情報を総合的に利用して、行方不明になった方の顔を分析し、全国の防犯カメラの映像から探し出すというシンプルな方法になるのですが、捜査にAIが導入されたことによって、まず捜査の効率化、正確性が認められます。さらにですね、防犯カメラが設置されてから今に至るまでの膨大な情報の中から、AIが分析して手がかりとなる映像を探してくれるので、たとえ失踪から何年経っていようと、理論的には探し出すことが可能ということになります。つまり、失踪から十年以上たっているこの事件の捜査には打ってつけということですな。」
男性はなぜかやや自慢げに語っていた。
五月六日。
厚い雲が空を覆う。まだ昼間だというのに辺りは薄暗かった。
警察官の松村 圭吾は事件があったという旧朝倉火葬場に来ていた。ここは数年前まで、地元で長く運営されていた火葬場なのだが、人手不足などの問題で廃業せざるを得ない状況に追い込まれたようで、今では誰も立ち入らない廃施設となっていた。
圭吾は額に浮かぶ汗を拭いつつ、薄暗い廊下を速足で進んでいく。
歩くたびに短く切りそろえた白髪交じりの髪から汗が一粒、また一粒と垂れ落ちる。
汗で透けたシャツには、彼の年齢に見合わない立派な筋肉のシルエットが映し出されていた。
足を進めていると、一つの部屋にたどり着いた。炉前室だ。ここは問題となっている火葬炉のある部屋だ。
部屋につくと、すでに他の警察官と鑑識の人間が複数いた。彼はそんな人々に軽く会釈をしつつ、部屋の奥の方へと足を進める。
火葬炉の前につくと圭吾は黙祷を捧げた。
長い、長い沈黙だった。彼が黙祷を終え目を開けると、横に一人の警官が立っていた。
浦田 春樹。
圭吾の同期で事件の際はいつも行動を共にしている。言わば相棒のような存在だ。
細くスラリと伸びた背丈と身に着けた四角い眼鏡が彼の知的さを物語っている。
春樹は、圭吾が黙祷を終えたことに気づくと、おもむろに口を開いた。
「被害者の身元、性別、それと年齢も不明。ここまで何の手がかりもないと、事故として処理するしかなさそうだな。」
険しい顔をして語る彼の目線の先には、火葬炉の中に納まったボロボロの白骨遺体があった。
事の発端は昨日の夕方まで遡る。辺りも少しずつ暗くなってきた頃、近くを散歩していた男性が、火葬場から煙が立ち上っているところを発見した。
男性は近隣に住む住民で、この場所が数十年前からずっと使われていないことを知っていたらしい。不審に思った男性は近くにあった交番に駆け込み、すぐさま交番勤務の警官が中の様子を窺いに行ったそうだ。
そして警官が煙の出どころである炉前室へ行くと、なぜか火葬炉が稼働していたそうだ。煙が立ち上っているところを見ると、何かが焼かれているのは明確だった。警官はすぐに機械を停止しようと試みた。しかし、交番勤務の警官が火葬炉の操作方法などわかるわけもなく、無情にもそれは燃焼を続けた。
発見から十分ほどたった時、ようやくそれは動きを停止した。警官は間髪容れずに火葬炉の中を確認する。そして、絶句した。
燃焼を終えた火葬炉の中から出てきたのは、焼かれてボロボロに砕けた人間の骨だった。
この時点で件の騒動は殺人事件に関与していることが確定した。
その後到着した他の警察官により、防犯カメラの映像が確認されることになったが、無駄だったようだ。火葬場周辺には防犯カメラが一つもなかったのだ。さらに、現場には犯人に関する痕跡が何一つ残っておらず、警察はお手上げ状態だった。
事件解決に関する手がかりは、立ち上る煙と一緒に塵となって消えてしまっていたのだ。
現場確認を終えた圭吾は春樹に誘われ、喫茶店に来ていた。
テーブルの上には、先ほど届いたばかりのアメリカンコーヒーが二つ並んでいる。
圭吾は体中の疲労を吐き出すように深いため息をついた。
そして、胸ポケットから一枚の写真を取り出した。
それは彼が肌身離さずいつも持ち歩いているものだった。
圭吾はそれを眺め、少し寂しそうな顔をしていた。
写真には、彼とその両脇に一人の少年と一人の女性が映っていた。
彼の息子と妻だ。
「そうか、もう優太が家出してから四年経つのか……」
春樹は、ぽつりと呟いた。
少年は写真の中で微笑んでいる。
圭吾は、「あぁ。」と一言だけ発すると、まだ湯気が立ち上がるコーヒーのカップを強く握りしめ、中身を一気に飲み干した。
春樹はすぐに自分の言ったことを後悔した。圭吾にとってこれは禁忌的な話題だった。彼はどうにかこの空気を和ませようと、新しい話題を探していたが、圭吾を見てたちどころにそれをやめた。
彼は写真を握りしめ、テーブルに突っ伏していたのだ。
このところ彼はひどく疲弊しているようで、今のように休める時間があれば仮眠をとるようにしているのだ。
春樹は、圭吾に話しかける代わりに持ってきた小説を広げ、両手いっぱいに広がる文字たちを目でなぞる。まるで蚕が桑の葉をかじるように、無味乾燥な長編小説のページを一枚一枚読みすすんでいくのだった。
空がすっかり茜色に染まった午後六時。
圭吾は春樹と別れた後、ある人物のもとへと急いでいた。
慣れた道を早歩きで進んでいく。
しばらく歩いていると見慣れた看板が見えてきた。
居酒屋「あかね」。
彼は店の暖簾をくぐり、店内を見回す。
「こっち、こっち。」
圭吾を呼ぶ声が聞こえる。彼が声のする方へ目を向けると、カウンター席に一人の男が座っていた。
グレー色の髪をしたその男は、こちらを向いてにこにこと笑っている。
「すまん。待ったか。」
圭吾が尋ねると、男は顔に笑みを浮かべたまま、「いや。」と短く返事をした。
彼は席に着くと、再び彼の方に体を向けた。
「それにしても久しぶりだな。泰誠。」
「何言ってんだよ。つい一ヶ月前も一緒に飲んだじゃねーか。」
泰誠は楽しそうにケラケラ笑いながら言う。
「そうだったか?」
圭吾は苦笑いを浮かべ頭を掻いた。
「──そういえばお前、この前結婚記念日だったんだろ。」
泰誠はニヤニヤしながら尋ねてきた。
「あぁ。そうだったが、よく覚えてるな。」
「当たり前だろー。親友の結婚記念日を忘れるわけがないだろー。
──で、どうだったんだ。」
「どうだったって、何がだよ」
「だからその、、、やったのかって話だよ。」
「なんだよいきなり。……まさかお前その話が聞きたかっただけじゃねーのか。」
「いいじゃねーか、別に。話くらい聞かせてくれよ。」
泰誠は、なおもニヤニヤして圭吾の返事を待つ。
長い沈黙の後、観念したように圭吾が口を開いた。
「……してねーよ。」
彼は目を丸くした。
「え。」
「だから、してねーんだよ。断られたんだよ。」
途端に泰誠はゲラゲラと笑い始めた。
「そうか。断られたのか。」
泰誠は息をするのも苦しそうに笑い続けた。
一通り笑い終えると、彼は話し始めた。
「実はな、最近俺の嫁も全然相手してくれなくてよ。
嫌われたのかと思って心配してたんだよ。でも、お前のところもやってないってなると、そういうもんなのかーってちょっと安心するよ。」
「どういうことだよ。」
圭吾は渋い顔をして泰誠を見る。
「つまり、人間年取ると、そういうことをするのに億劫になるってことだよ。」
泰誠は、手元にあったビールを少し口に含んだ。
「なんか、こうして二人で馬鹿みたいに笑い話してるとよ、高校生の頃に戻ったみたいだよな。」
「そうだな。懐かしいな、あの頃が。」
泰誠は「あぁ。」と一言つぶやいてはにかんだ。
「そういえば、お前高校生の時、モテモテだったよな。」
泰誠は突然思い出したように言う。
「そうかぁ。いや、そんなこと無かったと思うぞ。」
「いや、モテてたって。お前昔から鈍感だよな。」
圭吾は首をひねる。
「俺ら昔、部活で陸上やってただろ。」
「あぁ。」
「その時のマネージャーだって、みんなお前のこと好きだったぞ。
お前、気づいてなかっただろ。」
「……知らなかった。」
「だろー。しかもお前、毎年あれだけバレンタインデーにチョコ貰っときながら、モテてる自覚ないんだもんなー。もはや才能だぞそれ。」
「そうかぁ?」
そう呟く圭吾を、泰誠は妬ましそうに見つめていた。
それから圭吾は、二時間ほど泰誠と話した後、彼と別れ帰路に就いた。
その夜、彼がちょうど風呂に入っている時だった。彼は浴槽の中で、激しい眠気を感じた。それは通常のものとは比べものにならないほど耐え難いものだった。圭吾は日中の捜査が影響していることを懸念しつつ、おぼつかない足取りで寝室へ向かうのだった。
時計の針が十時を指す。彼女は目覚めた。彼女は、部屋に備え付けのクローゼットから、おもむろに服を取り出す。
ピンク色のワンピースだった。
彼女はそれを身に纏うと、化粧を始めた。
三面鏡のドレッサーの前に座る。彼女の顔が鏡に反射して映った。彼女は荒れた肌に触れると、翳りを帯びた顔で笑った。
それから三十分ほどかけて化粧を完成させた。彼女は化粧の出来栄えに満足したようにうなずく。
そして、スマホを取り出し「イマスタ」という名のSNSのアプリを開いた。
画面の左上には『@Kasumi』というアカウント名が記されている。
さらにカスミはスマホを操作し、アプリ内のカメラ機能を起動させた。そして、自分にカメラを向けシャッターを切った。
それから、彼女はしばらく自撮りを続けていた。
何枚も何枚も写真を取り直していた彼女だったが、そのうちの一枚に納得したらしく、自撮りをやめて写真を投稿したようだ。
投稿された写真を見て彼女は笑みを浮かべた。
彼女はまた深い眠りに落ちた。
五月七日
圭吾は妻の嘆く声で眠りから目覚めた。彼は薄い目を開け、ベットの上から彼女の様子をうかがう。彼女は、ドレッサーの前に座っていた。どうやら、化粧をしているようだった。
隣に並ぶ彼女のベットは、すでにきれいに整頓されている。見たところによると、彼女は随分前に目覚めていたらしかった。
「どうしたんだ、香奈。」
圭吾はベットの上で、あぐらをかきながら尋ねた。
香奈はこっちを振り向く。
色白の肌に、肩まで伸びた紫光りする黒髪。
目元の泣きぼくろが圭吾を覗く。
圭吾と同い年のはずが、一見しただけでは十歳ほど年齢が離れているようだった。
「あぁ、起きてたんだ。おはよう、あなた。」
「あぁ、おはよう。で、なにかあったのか。」
「いや、大したことじゃないんだけどね。この前買ったばかりの化粧品が、もうなくなっちゃったみたいなのよ。」
香奈は口をヘの字に曲げた。
「そうなのか。元から入ってる量が少なかったんじゃないのか。」
「いや、そんなことないわ。だってほら、こんなにいっぱい入っていたのよ。」
そう言いながら、香奈は化粧品の裏面表示を見せてきた。
「じゃあ、ただ単に化粧が濃ゆくなっただけじゃないのか。」
「そんなことないわよ。」
香奈は口を膨らませて言った。
「ごめん。ほんの冗談だ。」
圭吾は笑ってごまかす。
香奈は「もー。」と言って唇をツンと尖らせていた。
キッチンからコトコトと小さい物音がする。
化粧を終えた香奈は朝ごはんの支度をしていた。
彼女の目の前にあるガスコンロでは、みそ汁と焼き魚に火がくべられていた。彼女は、それらに火が通るのを待つように、ふと目線を移した。
そこには代わり映えのない風景が広がっている。
リビングに置かれたダイニングテーブル。
その向こうには庭へ通じる大きな掃き出し窓。
そこから差し込む煌びやかな朝日。
差し込む光はまっすぐテーブルの方へと伸びていた。
テーブルの上には何錠もの薬が入ったピルケースと、きれいに写真立てに保管された一枚の写真が置かれていた。
香奈は吸い寄せられるように目線を写真に移す。
写真には三人の人が映っている。
圭吾と香奈、そして彼らの息子、優太だ。
この写真は圭吾の持ち歩いているものと同じものだった。
「……優太。」
彼女はぽつりと呟いた。
その顔はどこか寂しそうだった。
いつの間にか、キッチンには焦げ臭いにおいが広がっていた。
四月六日。
ふわり。ふわり。
彼が歩く度に甘い香りが舞う。
くるくるとうねる彼の髪はまるで子犬のようだ。
身に着けた青色のセーターも、彼の顔の端麗さが相まってより色彩が際立っていた。彼、田原 奏太は博多駅の改札前に着くとスマホを眺める。
スマホの液晶には、イマスタのダイレクトメッセージの画面が映っている。
連絡をしている相手のアカウント名は『@yukari』と記されていた。
彼は慣れた手つきでスマホを操作し、メッセージを打ち込む。 『今博多駅に着きました。ユカリさんはいつ頃来られますか?』
メッセージを入力し終えると、彼は送信ボタンを押した。
間髪入れずにユカリからの返信が返ってきた。
『もうすぐ着くよ!』
『わかりました。僕、今改札前にいるので着いたら連絡ください。』
奏太がメッセージを送信すると、すぐにユカリからスタンプが送られてきた。それは犬を模ったキャラクターのようで、喜色を浮かべた顔に、オッケーサインがユカリの意向を示していた。
その数分後、またユカリからメッセージが送信されてきた。
『今、駅に着いたよ!』
奏太はメッセージに目を通す。それとほぼ同タイミングで、改札から人が溢れ出てきた。
どうやら電車が駅に到着したようだった。
彼は人ごみに目を向ける。目をしきりに動かして大勢の中からユカリを探す。
しかし、しばらくしてもお目当ての人物は見当たらないらしかった。彼は視線を人ごみの後ろの方へずらす。
すると、一人の女性が彼に向けて、手を振っているのが見えた。
奏太の方もその女性に気づくと、手を振り返していた。
彼女は改札を出ると、美しい黒色の髪をなびかせながら、駆け足で彼の元へやって来た。
「ごめんね。待った?」
「いえ、僕も今来たところです。」
「そう、なら良かった。」
一拍おいて、奏太が改まった様子で言った。
「ユカリさん、時間ももったいないので、ここらでプランを開始してもよろしいでしょうか?」
そういうとユカリは表情を少し暗くした。
奏太はそんな彼女の様子を見て多少は心苦しく思ったのか、早口でプラン開始の常套句を告げた。
「……本日は三時間プランのご予約ありがとうございます。それでは、今からプランを開始させていただきます。」
奏太は大きく息を吸うと、先ほどとは打って変わって顔いっぱいに笑顔を作って言った。
「じゃあ、今日は三時間しっかり楽しもう。“お母さん”」
「うん。」
“お母さん”。そう言うと彼女は嬉しそうに顔を綻ばせていた。
ユカリと会って三十分たった午後一時半、奏太たちはカフェ『butterfly』に来ていた。大勢の女性客で賑わう店内は、洋楽のbgmと人々の話し声がまばらに響いている。ドライフラワーで飾られた天井には、食欲をそそるような甘い香りが立ち込めていた。メニュー表を開くと、色とりどりのスイーツたちが肩を並べている。彼はその中から一番人気のあるものを注文した。
数分ほど談笑していると、奏太のもとに目当ての品が届いた。
それを見てユカリは目を輝かせる。
幾重にも重なったパンケーキの上に大量のホイップクリーム、色とりどりのフルーツが散りばめられているそれは、この店の名物だった。周りの女性客も皆こぞってそれを頼んでいた。
「うわぁ、すごーい。」
ユカリが歓声をあげた。
「これ、すごいねー。」
奏太もつられて歓声をあげた。
香奈は興奮のあまりか、食べるのも忘れて夢中で写真を撮っていた。
「早く食べないとクリーム溶けちゃうよ。」
奏太が注意する。
見るとすでに溶け出したクリームが、パンケーキをつたっていた。
「ほんとだ。早く食べないと。」
ユカリは急に焦燥しだす。
奏太はそれがおかしいといった様子で笑っていた。
一時間後、ようやく二人は完食することができた。
テーブルの上では、白いクリームの残骸が残った大皿が幅を利かせている。
「もう何も食べれない。」
苦しそうな顔をしたユカリが呟く。しかし、その声色からはどこか満足感が感じられた。
「僕ももう何も食べれない。」
奏太もまた同じように呟いた。
彼女はクスリと笑う。
「おいしかったね。奏太君。」
「うん。おいしかった。」
奏太は愛想笑いを浮かべる。その垣間に店内の壁を一瞥する。
喧騒に満ち満ちたこの空間で、壁に吊るされた時計は午後三時を指していた。
彼は一拍置き、声色を変えて彼女に告げる。
「ユカリさん、三時間経ってしまったので本日のプランは終了となります。料金のお支払いをお願いします。」
ユカリはまた寂しそうに表情を暗くした。
「わかったわ。これ──。」
そう言うとユカリは素直に茶色の封筒を手渡してきた。
奏太が封筒を受け取ると、微かな厚みが彼の手に伝わった。
彼は受け取った封筒の中身を目視で確認する。
「ユカリさんこれ、入ってる量多いですよ。今回のプランは三時間なので……。」
「いいの。もらって。」
ユカリは寂し気に微笑んだ。
奏太はユカリを駅まで送り届けた後、改めて封筒の中身を確認していた。お札の枚数を一枚一枚丁寧に数える彼の顔は、いたずらな笑みを浮かべている。
その後、確認を終えた彼は軽やかな足取りで歩き出した。
西日が茜色に街を染める。奏太は例のごとく警固公園にやって来た。
公園といっても、実際は広場のようなもので、遊具なんて一つもない、ただ広いだけの殺風景な場所だった。さらに、市内でも特に栄えた場所に位置しているので、公園をぐるりと囲うように背の高いビルが建ち並んでいる。そのせいで昼間でも暗がりができる場所があった。それでもターミナル駅に面しているおかげで、人足が途絶えることはなかった。彼が周りを見渡すと、公園を駅までの抜け道として利用する通行人や、休憩場所として利用する若者で賑わっていた。
奏太は公園の奥の方へと足を進める。
低い石段が並ぶその場所に彼女は居た。
ピンク色のミニスカートに白色のシャツ。そのどれもがフリルやレース、リボンで装飾されている。
地雷系ファッションの名が定着した今日では、彼女の出で立ちを形容するのは、そう難しいことではなかった。
奏太は彼女に軽く手を振る。
彼女も奏太に気づいたらしく、同じく手を振り返していた。
「よぉ、夢。」
夢は黒々とした大きな瞳を彼に向ける。そして、その目を細めて笑った。
「奏太、仕事お疲れ様ー。」
「おう、さんきゅ。」
彼もまた夢を見て顔を綻ばせた。
「奏太、今日は何の仕事してきたの?」
「今日はママ活してきた。三時間。」
「へー、そうなんだ。いくら稼げたの?」
夢が首を傾ける。
「聞いて驚くなよ。今日は、五万も稼いできたんだよ。」
「えー、そんなに稼いだの!すごい。」
彼女は目を輝かせた。
「でも、三時間なのにどうやってそんなに稼いだの。」
「実は、いつもママ活してるユカリさんっているだろ。」
彼女が頷く。
「その人が、小遣いとしていつもより多くお金をくれたんだ。」
「えー、いいなー。」
彼女はうらやましそうに奏太を見た。
「だろー。しかも今日、パンケーキ一緒に食べただけなんだよ。」
「えぇ!それだけで五万円?。」
彼女は目を見開き、明快に驚きを体現した。
「そう。本当、いい商売だよね。」
「いいなー。私なんか最近、ずっとパパ活してくれてたおじさんから急に連絡途絶えたんだよ。」
「えー……、それは、ドンマイ。まぁ、また新しい人見つければいいじゃん。」
「まぁ、そうなんだけどさぁ。」
彼女は不服といった様子で口を膨らませる。
「あ、そういえば。」
奏太が突然思いついたように呟く。
「僕まだ今日の夕飯準備してないや、ちょっとそこのスーパーで買ってくるね。」
「オッケー。じゃあここで待っとくね。」
「うん。ありがとう。」
奏太は夢に手を振ると、そのまま走っていった。
彼が走っていってすぐ、入れ違うように夢の目の前を親子が通った。 母親と思われる女性と、その腰ほどしかない男の子。
仲よさそうにして手をつなぎながら、彼女の前を通っていった。
夢はその親子を見つめながら、もの寂しそうな目をしていた。
四月七日
圭吾はいつもより早起きをして身支度を進めていた。洗面台の鏡に映る彼の顔は、どこか浮き浮きとしている。
圭吾は今日、前々から計画を立てていた結婚記念日で、香奈と二人で出かける予定だった。
彼は身支度が整うと早速香奈の様子を見に行く。
圭吾が寝室へ戻ると、香奈はドレッサーの前で化粧をしているようだった。
香奈は鏡越しに圭吾が来たことに気づくと振り向いた。
「そろそろ準備終わるから、もう少し待って。」
「いや、別に急がなくてもいいんだ。ゆっくり準備してくれ。」
「そう。ありがとう。」
香奈が準備を終えたのはそれから三十分後のことだった。
「ごめん。遅くなっちゃった。」
香奈はリビングで待っていた圭吾に言う。
「全然大丈夫だよ。さぁ行こうか。」
「あ、ちょっと待って。」
突然香奈が思い出したように言った。
「どうした?」
「朝の薬飲み忘れちゃったみたい。飲んできてもいい?」
「あぁ、もちろん。」
その後、彼女が事を済ませるとようやく二人は家を出た。
二人はまず、市内にある大型のショッピングモールへ向かった。
モールに到着すると、圭吾は香奈を連れてとあるブランドショップへ足を運ぶ。そこで彼は前々から香奈が欲しがっていたバックをプレゼントした。
その他にも、香奈が欲しがっていた服、化粧品など様々なものをプレゼントする。どれも高額な商品ばかりだった。
遠慮する彼女をよそに圭吾は次から次へと商品を購入していった。
おかげで彼の両脇には大量の買い物袋が抱えられていた。
二人は一通り買い物を楽しむと、次に映画館へと足を運んだ。
彼は前々からリサーチしておいた映画のチケットを買う。
もちろんお金は彼が支払った。
その後、彼は売店で二人分のポップコーンセットを頼んだ。
香奈は申し訳なさそうにしながらも、ポップコーンを受け取ると、まるで子供のように嬉しそうに笑った。
それから二人は並んで劇場へと歩く。
劇場内に到着した圭吾は辺りを見渡した。
席はほぼ満席状態で、そのどれもが若い男女のカップルだった。
二人はそんな若者達の視線を?い潜りながら自分の席へと進む。
なんとか席にたどり着くと、ものの二分程度で場内が暗くなった。
スクリーンに映像が映し出される。
圭吾は画面に意識を集中した。
映画が開始してから一時間弱が経過し、物語が完結した。スクリーンにはエンドロールが流れている。
ふと圭吾が香奈の肩をたたき、小声でささやいた。
「香奈、上映が終わった後だと出口が混み合いそうだから今のうちに出とかない?」
香奈は手でオーケーサインをつくると、静かに席を立ちあがった。
劇場を後にした二人は歩きながら談笑している。
「面白かったねー。」
香奈が背伸びをしながら言う。
「面白かったな。」
圭吾は香奈の楽しそうな顔を見て、安堵の表情をうかべた。
「香奈、夜に予約を入れておいたレストランの時間まで、まだ二時間くらいあるから、とりあえずお茶でもしよう。」
「いいねー。じゃあそこのカフェとかでいいんじゃない。」
香奈が目の前にあったカフェを指さした。
彼がレストランを予約していることに関しては、二人の間ではもはや恒例行事のようになっていたので、別段香奈が反応を示すことはなかった。
「そうだな。」
圭吾たちはカフェの中へ入っていった。
席に着くと若い女性の店員がメニュー表を持って来る。
ふと彼と女性店員の目が合った。
しかし、店員は弾かれたようにすぐ視線を遠くの方へと移した。
その後圭吾はアメリカンコーヒー、香奈はカフェラテを頼んだ。
数分後、二人のもとに商品が届いた。香奈はすぐに飲み物に口をつける。しかし、圭吾の方は一向にコーヒーを飲む素振りを見せなかった。彼は先ほどから視線を香奈の顔と時計の間で行き来させ、どこか落ち着きがない様子だった。
「どうしたの、そんなにそわそわして。」
見かねた彼女が尋ねる。
「いや、何でもない。ただこの後のこと考えてただけだ。気にするな。」
「そう。楽しみにしとくね。」
「任せとけ。」
圭吾は自信満々といった様子で言い放った。
午後七時。圭吾と香奈はレストラン『WIN』にきていた。
重厚な建て前の扉を潜ると、身だしなみを律儀に整えたウエイターが出てきた。
「お名前お伺いしてもよろしいでしょうか。」
「松村です。」
「松村様。大変お待ちしておりました。」
「さぁどうぞ。」
そう言うとウエイターは彼らを店の中へ案内する。
「お荷物お預かりしますね。」
そう言われて、圭吾は自分の両手にたくさんの買い物袋がぶら下がっていることを思い出した。
彼は急に恥ずかしくなったかのように顔を赤くした。
もっともウエイターはそんなこと何とも思っていない様子で、淡々と圭吾たちを奥へと案内する。
席に着いた圭吾たちはワインを頼み、コース料理が届くのを待った。
しばらくするとウエイターが前菜のマリネを運んできた。
香奈は目を輝かせ料理を食べ始める。
それにつられ、奏太も料理のひとくち目を口にした。
九時半になった。圭吾たちは存分に食事を楽しむと、店から出てきた。
「料理おいしかったね。」
香奈は満足そうに言った。
「そうだな料理もうまかったけど、俺は久しぶりに香奈とたくさん話せてうれしかったよ。」
「私もだよ。今日は本当にありがとうね。」
「いいんだよ。俺がやりたくてやってることだから。」
「ありがとう。」
香奈はもう一度彼にお礼を言うと、そっと彼の手を握る。
圭吾はぎこちなく手を握り返した。
「あのさぁ。香奈。」
「どうしたの。」
「この後ちょっと休んで行かないか。」
圭吾は絞り出すように言った。
香奈はしばしの沈黙の後答える。
「ごめん。私たちもそろそろいい年だしさ、もうそういうことはしない方がいいんじゃないかな。」
圭吾は落胆したように眉を下げる。しかし、そのことを香奈に悟られないためか、瞬時に元の表情に戻した。
「そうだな。俺らもいい年だしな。そういうことはもうやめた方がいいよな。ごめんな、変なこと言って。」
「いや、全然大丈夫だよ。ごめんね、私もしてあげられなくて。」
二人の間には長い沈黙が流れた。
四月七日。午後四時四十分。
夢はこの日、朝からカフェのアルバイトで接客をしていた。
とあるショッピングモール内にあるごく一般的なカフェだ。
ここでの仕事は昼時こそ忙しいものの、その時間帯を過ぎてしまえば客足が収まり、比較的楽に働くことができた。
その気軽さを買い、ここでバイトをしている従業員も多くいた。何を隠そう、夢もそのうちの一人だった。
例のごとくこの時間も、店内に残るのは夢とその他数人の従業員、そして少数の客だけとなった。
それを良いことに、彼女は店のレジでスマホを触っている。
そんな中、突如として店のドアベルが鳴った。
誰かが入店して来たようだ。
彼女は反射的にスマホを隠し、ドアの方に目線をやる。
その瞬間、夢は目を見開く。
数秒の間、時が止まったかのように彼女は固まった。
店に入って来た人物、それは彼女の両親だった。
彼女の両親は夢に気づく素振りを見せず、平然と店の利用人数を告げた。
夢は上擦りそうになる声を何とか抑えて二人を席へと案内する。
彼らが席に着いたのを確認すると、夢はメニューを持って行った。
その後も、できるだけ平常心を保ちながらオーダーを取ると、直ぐに厨房の方に消えていった。
それからしばらく彼女は店の奥で二人の様子をうかがっていた。
彼の父親と母親は仲睦まじく会話をしている。
そんな両親を見るたびに、夢は呼吸が苦しくなっていくのを感じた。
彼女の顔色はみるみるうちに青白く変色していく。
そんな状態で厨房へ注文の品を受け取りに行くと、先輩である女性が心配そうな顔で夢の顔を覗き込んだ。
「夢ちゃん、顔色悪いけど大丈夫?」
「あ、いや大したことないです。」
夢は獣が唸るような声で彼女に言う。
「いやいや、全然大したことありそうなんだけど。本当に大丈夫?」
「大丈夫です、ちょっと気分が悪いだけなので。」
「いや、それ大丈夫じゃないじゃん。もう今日はお家に帰って休みなよ。」
夢はしばらく考え込んだ後頷く。
「じゃあ、お言葉に甘えて今日はもう切り上げます。」
「うん。それがいいよ。お大事にね。」
「すいません。ありがとうざいます。」
夢は丁寧にお礼をつげると、そそくさと店を後にした。
帰宅途中、夢は奏太にメッセージを送る。
『今から会えない?
相談したいことがある。』
夢はメッセージを送るとまっすぐ警固公園へと足を進めた。
沈みかける夕日を浴びて、白皙の顔が茜色の染まる。
夢が公園内の石段の上に座っていると、声をかけてくる人物がいた。
「ごめん、遅くなった。」
彼女はスマホに落としていた目線を上げる。
そこには髪をボサボサに振り乱し、心配そうな目をした奏太の姿があった。額に浮かぶ無数の汗を見れば、彼がここまで走ってきたのは明確だった。
「いや、大丈夫だよ。」
そう言う夢の声はいつもより暗かった。
奏太は彼女の横に腰を下ろした。
「夢、何かあったの?。」
彼は物腰柔らかく尋ねた。
夢は数秒の沈黙の後、小さく頷くと話だした。
「今日ね、朝からカフェでアルバイトしてたんだけど……、その日の夕方くらいにね……、親が店に来たの。」
「え。親が来たの!?」
奏太は驚きの表情を浮かべた。
「そう、私も最初は見間違いなんじゃないのかと思って、疑ってたんだけど……違かった。私が家を出ていった時よりも若干老けてたけど、あれは正真正銘私のお父さんとお母さんだった……。」
奏太は閉口した。
「私も最初はびっくりして、もしかしたらバレちゃうんじゃないかって焦ったんだけど。」
彼女は寂しそうな目で空虚を見つめる。
「でもお父さんもお母さんも全然私に気づかなかったの。それどころか……、私なんて最初からいなかったみたいに楽しそうに話していたの。」
夢の瞳が潤む。
「……結局私なんて、最初から居ても居なくても変わらなかったんだ。」
「そんなことない―――。」奏太は言いかけて言葉を飲み込んだ。
夢は息を震わせながら、深呼吸をする。
「私、本当はお父さんとお母さんに気づいてほしかったんだ……。でも、気づいてくれなかった。当たり前だよね、もう何年も前に家出をした子供のことなんて……分かるわけないよね……。」
夢の瞳がキラリと光る。
「それにこんなに見た目も変わっちゃったし、分かるわけないよ……」
彼女の瞼から、一筋の雫が静かに滴り落ちる。
押しつぶされてしまいそうな沈黙が襲った。
遠くで鳴り響く子供の笑い声がやけに大きく感じた。
奏太は口を開く。
「夢、久しぶりにドライブに行かないか。」
彼は遠くの方を見て言った。
「……うん。」
夢は小さく呟いた。
奏太は公園の駐輪場からバイクを持って来た。
彼は夢にヘルメットを手渡すと、自分の後ろにまたがらせる。
「出発するよ。しっかり掴まっといてね。」
「うん。」そう言うと夢は彼の背中に抱きついた。
勇ましいエンジン音とともにヘッドライトが光る。
辺りはすっかり暗くなってしまっていて、ライトの光が放射状に伸びてあたりを照らしていた。
バイクが走り出した。
夢の顔に心地の良い風が当る。
奏太の操るバイクは、ぐんぐんと暗い夜道を進んでいく。
両脇に建つ高層ビルの光が、煌々と辺りを照らしていた。
「……ねぇ、夢。僕たち出会ってからもう4年も経つんだよ。」
奏太が前を向きながら話す。
夢は無言で彼の声を聞いていた。
「時間が過ぎるのって本当に早いよね…………。ねぇ、夢。僕たちが出会ったときのこと覚えてる?」
彼女は小さく頷いた。
しかし、奏太が夢の小さな挙動に気づくことはなかった。彼は一人淡々と続ける。
「確か、初めて出会った場所って、警固公園だったよね。その時の夢、今とは全然違ってた。顔も声だって、どちらかというと男の子っぽかったし。」
夢が彼の背中にきつく抱き着く。
「あぁ、ごめん、ごめん。……でも僕にとっては昔の夢との思い出も大切な宝物なんだよ……。」
奏太の脳内に当時のことが鮮明にフラッシュバックした。
──四年前のある夏の日のこと。
十六歳の田原奏太は警固公園の石段の上で仰向けに寝そべっていた。
彼の目線の先には、ビルの隙間から顔を出す青く澄み切った空。
その空を見上げる奏太の表情はどこか暗い。
そんな彼のことを気にかけるように、どこからともなく一人の青年が声をかけてきた。
「ねぇ君、今朝からずっとそんな調子で空見上げてるけど、上に何かあるの?」
奏太は最初自分に話しかけられていることに気づかず、質問に答えずにいた。すると青年が彼の顔を覗き込んできた。
「ねぇ、もしかして寝てるの?」
青年の端麗な顔立ちが奏太の視界を覆う。
彼は驚いて飛び起きた。
彼の頭と青年の顔が衝突しそうになる。
「やっぱり起きてるんじゃん。」
青年はいたずらに笑った。
「ねぇ、何してたの?」
青年は首をかしげて奏太に問いかけた。
「いや、別に……。」
と、口をモゴモゴさせて奏太は答える。
「ふーん。そうなんだ。てっきり、空にUFOでも浮かんでるのかと思ったよ。」
青年はおどけて言った。
奏太は愛想笑いを浮かべると、そそくさとその場を立ち去ろうとした。
「ちょっと待って。」
青年が声で奏太の動きを制する。
「な、なんですか?」
奏太はおどおどとした様子で少年を見つめた。
「ねぇ君、家出でしょ。」
青年はいたずらに笑う。
奏太は驚いて目を見開き、逃げ出そうとした。
「待って……、僕も同じだよ。」
奏太の足が止まる。
「……同じ?」
奏太が振り向く、そこには寂寥な笑みを浮かべた青年が立っていた。
「そう、同じ。僕も家出してきたんだ。」
青年はまっすぐに奏太の顔を見て続ける。
「僕はユウ……。十六歳。ねぇ、友達になってくれない?」
これが奏太とユウの出会いだった。
それからすぐに彼らは打ち解けることができた。
「え、奏太も同い年なの!僕ら似た者同士だね。」
そう話すユウはどこかうれしそうだ。
「そうだね。」
奏太も自然と笑っていた。
「ねぇ、奏太。」
ユウが奏太の目を見つめる。まるで瞳の奥を覗いているようだ。
「もう、家に帰るつもりはないの?」
一拍おいて奏太が答える。
「……ないよ。」
「そっか。」
ユウが深く息を吸い込み、満面の笑みをうかべる。
「じゃあ、寝泊まりする場所を探さないとだね。」
「そうだね。」
二人はそれから寝る場所を求めて彷徨った。しかし、二人の思っている以上に寝床探しは難航し、気づくと辺りは薄暗くなっていた。そんな時、奏太の目にふと留まるものがあった。
ネットカフェだ。
二人は顔を見合わせると、建物の中へ入っていった。その後話し合いの末、二人一部屋で個室を借りることにした。広さは約三畳ほどで、ネットカフェの個室にしては広いほうだった。さらに個室は鍵付で防音機能まで備わっているようだ。
彼らはレジにて部屋番号の書かれたレシートを貰うと、その場を後にした。
「ふー、疲れたー。」
個室の中に入るとユウが声を漏らした。
「そうだねー。結構いろいろな場所探したもんね。」
奏太もやや疲弊したような口調で言う。
「だね。いやーでも、ネットカフェは思い付かなかったなー。」
「だねー。激安ホテルを探すのに使った体力を返してほしいくらいだよ。」
「ホントだよー。しかも、あんなに遠くまで探しに行ったのに、まさか公園の目の前で見つかるなんて……。」
そう徒労に口を尖らせると、ユウは体をだらりと項垂れさせた。
奏太はそれを見て表情を緩ませる。
「でもごめんねー、同部屋で。」
ユウは申し訳なさそうに奏太に言った。
「いや、全然いいんだよ。僕だってそんなにお金持ってないし。もし一人で部屋なんか借りたら、一週間でお金無くなってご飯が食べられなくなっちゃうよ。」
奏太は冗談交じりに言った。
「そっか。それならよかった。」
ユウは笑みを浮かべた。
その後二人は、ネットカフェ内の売店へ行き、夕飯のカップラーメンを購入した。
夕食としては少々味気なかったが、疲れた二人の体を癒すのには十分だった。
奏太とユウはそれを食べ終えると、二人横並びになって気を失うように眠りについた。
それからというもの、二人は所持金を分け合いながら生活した。節約のために昼は外で過ごし、値段の安くなる午後六時から午前七時の間だけをネットカフェで過ごすようにしてしていた。しかし、どれだけ節約をしてもやはりお金は減っていく一方だ。日に日に二人は、今まで通り生活することが難しくなっていった。
そんなある日、いつものようにカフェの利用料金の支払いを終えた時のことだった。
奏太はユウの様子がおかしいことに気づいた。
ユウは焦ったような表情を浮かべ、自身の財布の中を探っている。怪訝そうにこちらを見つめる店員をよそに彼女は言った。
「どうしよう、奏太……、僕もう持って来たお金全部なくなっちゃったよ……。」
見ると、彼の財布の中はがらんどうとしていた。
「僕も、もうほとんど残ってないよ……。」
奏太もそう言うと、財布の中身をユウに見せた。
彼の財布の中には細々とした小銭と数枚のレシートが残っているだけだった。
奏太は意を決したように口を開く。
「……しょうがない、ここを出よう。」
ユウも渋々といった様子でうなずいた。
二人は部屋へ戻り、荷物をまとめると、長く生活していたネットカフェに別れを告げた。午後七時のことだった。
外へ出ると辺りはすっかり暗くなっていた。
「ねぇ、これからどうする……。」
ユウは下を向きながら呟く。
「……わからない。」
「ねぇ、ぼく絶対家には戻りたくないよ……。」
ユウは懇願するような目を向けた。
「うん……、ぼくも同じだよ。」
そう言う奏太の顔は、まるで迷子になった幼い子供のようだった。
「でももう、お金もないし……」
奏太が続けて言いかけた言葉をユウが遮った。
「ねぇ……、これからは一緒に野宿すればいいじゃん……。」
そう言うユウの顔は、かつて奏太の家出を問い詰めた時とはまるで違い、子供が親に助けを求め縋っている時のような表情をしていた。
「公園で寝泊まりしてさ、……夜になったら、二人で身を寄せ合って眠ろうよ。そうしたら、きっと、きっと……」
ユウは何か言いたがっていたが、言葉が続かず黙ってしまった。
そんな彼を見かねて奏太が口を開く。
「僕もそうしたい……、けど、食べ物はどうするの。僕たちお金も全く持ってないのに……。こんなんじゃ生活できないよ……。」
奏太は足元ばかりを見て話していた。
そんな奏太の言葉に、ユウは反応しなかった。
彼は、ただ悔しそうな、悲しそうな顔をして下を向いているだけだった。
二人の間には、沈黙が重苦しく強固に、壁のように続く。
車の騒音、人の話し声だけがうるさく耳に響いた。
それからしばらく時間が経ったとき、何を思い立ったのかユウが突然立ち上がった。
奏太は急なユウの動きに体をびくつかせる。
ユウはまっすぐと前の方を向いていた。
彼は「どうしたの」とユウに尋ねようとした。
しかし奏太が尋ねるより先に、ユウは青天の霹靂の如く走り出した。
突然のことに奏太は放心してしまった。
彼はユウの行く末をただ茫然と見つめることしかできなかった。
それからまた幾分かの時間が流れていった。
奏太はまだ気を揉んで、ユウの走っていった道の先を茫然と見つめていた。
暗い道が街灯に照らされぼんやりと光っている。
人がまばらに歩いていた。
彼がじっと道の先の方を見ていると、ふと道の先の方から走ってくる人影が見えた。
歩く人々をよけながら、こちらに向かってきている。
奏太は目を細めてじっと観察する。
顔は遠くてよく見えない。また、周りの影がより一層彼の顔を見えづらくした。
しかし、彼はそんなことお構いなしに凝視する。
だんだんと輪郭がはっきりしてきた。
その時、奏太はハッとしたような顔をした。
だんだんとその人物が近ずいてくるにつれ、影で塗りつぶされていた顔があらわになって来る。
道の先から走って来た人物、その正体はユウだった。
街灯に照らされ彼の表情があらわになる。
彼はなぜか笑っていた。
「ユウ、なにしてたの!」
奏太は険しい顔で問いユウを問い詰める。
しかし、ユウは奏太の質問には答えず、要領を得ない回答をした。
「奏太、また一緒に暮らせるよ。」
「何言ってるの……。」
「ほら、これ――。」
そう言うと彼は右手を奏太に差し出す。見ると、茶色の長財布が握られていた。
「……なに、……それ?」
奏太は眉をひそめた。
「財布だよ、中にちゃんとお金も入ってるよ。」
ユウは嬉しそうに言う。
「いや、そうじゃなくて……それユウの財布じゃないよね?」
「うん、違うよ。」
「どうしたの、それ……。どこで……。」
途端にユウは口をつぐんだ。
「ねぇ、もしかして、……盗んできたの。」
数秒置いてユウはコクリと頷いた。
奏太が口を開き何か言おうとしたが、ユウがそれを遮った。
「だって、しょうがなかったじゃん!僕だって……本当はこんなことやりたくなかったよ……。でも、もう家には戻れないんだよ……。生きつなぐためにはやるしかなかった……。」
憑き物が落ちたように、ユウの目から大粒の涙が滴り落ちる。
奏太はユウにかける言葉が見つからず、ただ泣いている彼を見つめることしかできなかった。
奏太はユウの手を引き、一言「帰ろう。」と呟いた。
暗い夜道に二人の少年の影が消えていった。
奏太たちの目の前には見慣れた看板、ネットカフェの文字が並んでいた。
辺りはすっかり暗くなっているのに、その建物だけは煌々とまぶしく光り輝いていた。
二人は再びこの場所に戻ってきた。
またあの日のように建物のドアを通る。
「いらっしゃいませ。」
店員の聞きなれた声が飛んできた。
気だるそうなその声が刺さる。
彼らは重たい足取りでレジに向かうと、部屋を一つ借りた。
部屋番号は前回と同じものだった。
奏太が指定したのだ。
二人は、定員から部屋番号の書かれたレシートを手渡されると、その場を後にした。
見慣れた廊下を突き進むと、これまた見慣れたドアが二人を待ち伏せていた。ドアに取り付けられたプレートには部屋番号が掘られている。奏太が視線を下すと金色の丸いドアノブが光っていた。
彼はそれに触れる。
ヒンヤリとした感触が手のひら全体に伝わる。
思いっきり開けると、そこには見慣れた景色が広がっていた。
奏太は柔らかい床にへたり込む。そしてゆっくりと目を閉じ、鯨のような長い息をはく。長息によって足りなくなった空気を補おうと肺が躍動する。息を吸うのと同時にゆっくりと目を開けた。彼の目線の先には真っ暗な天井。奏太はまたそっと瞼を下した。
人々の負の感情の渦巻く街の一角、小さな箱の中、一人の少年が悲痛な面持ちで居すくまっていた。
それから奏太とユウは、毎日を戦々恐々に脅えて過ごしていた。
もし、被害者が通報して警察官がこの場所に押し寄せてきたら――。そう考えると、毎日不安が淀みなく溢れて強迫観念みたく二人を侵食していった。
この時から、毎日を無駄に浪費する日々が増えていった。
日の光が入らない暗い部屋の中で時間を反故にした。
ネットや漫画といったくだらない娯楽に時間を費やしては、また後悔した。
この世界のどこにも、自分たちの居場所が無くなってしまうような気がしていた。
そんなある日のこと、ユウが盗んだ財布の中身もとうとう二千円をきってしまった。
奏太は苦悶の表情を浮かべる。それと共に、彼はあることを決心した。
この日の夕方、再び部屋に戻ると奏太はユウに自分の腹積もりを打ち明けた。
「ねぇ、ユウ、またお金もなくなってきたし――、仕事探さない?そうしたら、ずっと家に帰らなくても生きていける。盗みだってしなくて良い。」
ユウは数秒の間があったあと静かに頷いた。
ユウの意向を確認できると、さっそく彼は目の前のパソコンを立ち上げる。
バイトの求人サイトを開くと、特殊な境遇の自分たちでも働くことのできる職場を探した。しかし、家出をしており、なおかつ携帯電話を持たない彼らが働くことのできる職場はそう簡単には見つからなかった。
探し始めて数時間が経ったとき、ふと彼の目の一つの求人広告が飛び込んできた。
未成年OK! 高収入? の文字が彼の視界を奪う。
応募条件を見た限りでは奏太たちでも働くことができそうだ。
ひとまず奏太は歓喜する。
しかし、勤務内容は少々疑問の残るもので、依頼者の女性の要望に応え、指定された時間を一緒に過ごすというものだった。
奏太は多少の不信感からユウの分は申し込まず、自分の分だけ面接を申し込んだ。
面接日当日、ユウには求人募集が残り一名だったと嘘をつき部屋を出てきた。もし、正直に話そうものなら彼は無理やりでもついてくるはずだ。奏太はそれを懸念したのだった。
ユウは不服そうな顔をしながらも素直に送り出してくれた。
奏太は面接で指定された場所まで歩いていく。
指定された場所はカフェからそこまで離れておらず、四、五分もすればすぐについた。
外観は事務所の様だった。
本当にここで合っているのかという疑念とともに彼は扉を開ける。
中に入ると一人の男性が出てきた。スーツを身にまとった男性は標準よりもやや痩せ型な体形に、黒縁の眼鏡。そして見上げるほどの高身長が目を引いた。
奏太は勇気を振り絞り声を発する。
「こんにちは。あの……面接を受けに来た田原なんですけど……。」
男性は「あぁー。」と納得したように呟く。
「どうぞこちらへ。」
そう言うと、奏太を奥へと案内してくれた。
男性は奏太にイスに座るよう促す。
奏太がイスに腰を掛けたのを確認すると、男性も腰を掛けた。
彼は顔に笑顔を作る。
「こんにちは。」
男性は柔らかい口調で言った。
「こ、こんにちは。」
奏太は緊張しているようだった。
「本日面接を対応させていただく田中というものです。早速ですが、面接を始めさせていただきますね。」
そういうと、田中はペンと薄い冊子を取り出す。彼は順次に質問事項を確認しながら奏太にいくつかの質問をした。
合間に他愛もない会話を挟みながら面接は進んでいった。
それからものの三十分ほどで面接が終わった。
「それでは以上で面接は終わりなんですけど、田原さんって明日とか予定は大丈夫そうですか?」
「えっ、予定は大丈夫ですけど……。」
「そうですか、では明日から田原さんの従業員登録をさせていただきますね。期日に自分のお顔のお写真とかって持ってこれますかね。自撮りとかで大丈夫なんですけど。」
「えっと……それはつまり、僕は採用ということで大丈夫なんでしょうか。」
「あぁ、そうですね。採用ということで。明日からよろしくお願いします。」
奏太は嬉しさのあまり微笑が満面に溢れ出る。彼はそれを必死に堪えようと口をつぐむが、そのうちの少しが唇から溢れ出て、にやける。彼は口早に「ありがとうございます」と言った。
「えっと……では最後に何か質問はありますか?」
田中がにこやかに尋ねた。
奏太は少し考えるそぶりを見せる。
「あの、一つだけ……まだ具体的な勤務内容を聞いてないんですが、僕はどういったことをすればいいんですか?」
「あぁ、そうでした。まだお話してなかったですね。えっと……合法のママ活と言ったらわかりやすいですかね……。まぁ、とは言っても若いお客さんも来られるんですけど。そのお客さんがまずカラオケのようなシステムで何時間かのパックを購入されます。そして、その時間内でお客さんの指定されたことを一緒にやるといった感じですかね。」
奏太はニ、三度頷いた。
「ほかに何か質問はありますか?」
「すいません、あともう一つだけいいですか?」
「えぇ、どうぞ。」
すると奏太は、言い出しにくそうに目線をそらして言った。
「その……、依頼主の女性から性的なことを依頼されされることって、やっぱりあるんですか?」
「あー……、まぁ無いと言ったら?になりますかね。でも、安心して下さい。ちゃんとそういった行為をNGにすることもできますから。」
「……あー、じゃあNGにしてもらってもいいですか?」
「大丈夫ですよ。じゃあ、NGにしときますね。 他に何か質問はありますか?」
「いや、もう大丈夫です。」
「でしたら、本日はこれで終了となります。明日からよろしくお願いしますね。」
「はい。よろしくお願いします。」
彼は弾むような軽やかな足取りで帰路についた。
ネットカフェに戻った奏太は、ユウに受かったことを伝える。
ユウは自分事のように喜び、祝福した。
次の日奏太は自身の顔写真を持って事務所へ向かう。
事務所の扉を開けると、昨日彼の面接対応をした田中が出迎えた。
「あぁ、田原君。待ってたよ。お願いしていた写真、もってきた?」
面接した日とは違い、田中は奏太に対してタメ口で接するようになっていた。
「あ、はい。持ってきました。」
そういうと奏太は肩にかけてあるバックの中から写真を取り出した。
田中は写真に目を通すと二、三度頷いた。
「オッケー。じゃあこの写真で登録しとくね。」
彼はそれだけ言うと自分のデスクへ戻ろうとした。
慌てて奏太が田中を引き留める。
「えっと……、今日は何をすればいいんでしょうか?」
田中は彼の言葉に顔をキョトンとさせた。
「え、もう今日は帰っていいけど。」
「え、僕って今日から働くんじゃないんですか?」
田中はハッとしたような顔をした。
「そういえば、説明してなかったね。うちの仕事って、お客さんが指名してくれるまでは仕事ができないんだよね。だから新しく入って来た子とかは、お客さんの目に留まって指名するまでの期間は仕事がないんだよ。大体早い子で二週間くらいで指名が来るから、それまでは働かなくて大丈夫だよ。」
二週間。その言葉に奏太はひどくショックを受けた。
その間仕事ができないということは、また金銭的に苦しい生活を強いられることになる。
奏太は思い足取りでユウの元へと帰っていった。
「そんな顔してどうしたの?仕事は?」
ネットカフェに帰るとユウが奏太に声をかけた。
「いや、なんか……初出勤の日間違ってたみたい。」
奏太が誤魔化すと、ユウはますます不審そうに奏太を見た。しかし、ユウがそれ以上奏太に聞きよることはなかった。
三日後の夕方。奏太はいつも通りネットカフェの漫画を読んで暇をつぶしていた。彼は貧乏ゆすりをし、終始落ち着かない様子であった。面接日から三日たった今日、当たり前ではあったが、未だ事務所からの連絡は来ていなかった。その間にも着々と無くなっていく金銭に、彼は焦りと微かな怒りを覚えていた。そんな時、ふとパソコンの中に通知が入って来た。奏太は目の前にあったパソコンを流れるように操作し、それを確認する。どうやら奏太宛にメールが届いていたようだった。その差出人の欄を見て彼は体を震わせる。差出人は奏太所属している事務所になっていた。奏太は急いでメールを開ける。
『田原君、こんにちは。田中です。
先日話した勤務の件で、田原君が働き始めるのは早くても二週間後って伝えてたと思うんだけど、実はもう既に田原君を指名する方が出てきちゃってて、明日から働いてもらうことになりそうなんだけど大丈夫そうかな?せっかくのお休み期間中にごめんね。また返信ください。』
メールを読み終えると奏太は小さくガッツポーズをした。
彼は大丈夫という旨のメールを返信すると、先ほどまでの不安などなかったかのようにまた漫画を渉猟し始めた。
次の日、奏太は田中に呼ばれ事務所に来ていた。
「今日、田原君を依頼した女性はこの人だよ。」
田中から奏太に写真が渡される。
そこには一人の女性が映っていた。写真の女性は見た限り五十歳前後の様で、顔には細かい皺が刻まれていた。それでも表情は穏やかで、優しそうな印象を受けた。
「木村さんっていう人で専業主婦をしているらしい。今日は五時間で予約されてるから、初仕事だけど頑張って!」
「了解しました!僕は今からどこに行けばいいんですか?」
「集合場所は天神駅の改札前って指定されてたから、十二時くらいにそこに行ってもらえれば大丈夫。あ、あとお昼ご飯は木村さんが一緒に食べたいって言われていたから、お腹は空かしておいてね。」
奏太は「はい。」と一言言うと、奥の壁にかかっている時計を見た。まだ集合時間まではニ時間ほどの有余があった。
「持って行った方がいいものとかありますか?」
「んー……、特にはないかなー。財布と携帯さえあれば大丈夫だよ。」
それを聞き、奏太は気まずそうな顔をして言った。
「あのー、僕携帯持ってないんですけど……。」
「あ、そうだった! ごめん、忘れていたよ。とりあえず今日は無しでいいよ。明日までに事務所の携帯電話準備しとくから、次回からはそれ使っていいよ。」
「本当ですか!ありがとうございます。」
奏太は幸運なことに仕事だけでなく、携帯電話までも手に入れることができた。
嬉しそうにする奏太に田中は言った。
「いやー……、それにしても君すごいよねー。まさか三日で指名されるなんて、うちの事務所で初だよ。」
「ありがとうございます。いや、でもなんで僕こんなに早かったんですかね。」
「単純にビジュアルのおかげじゃないかな。君自分では気づいてないかもだけど、相当なイケメンだよ。」
奏太は奥の窓に反射する自分の顔を一瞥する。
「そうですかねー。」
彼は頭を?いた。
「そうだよ。君には、これからもっと頑張っていって欲しいな。改めて、これからよろしくね、田原君。」
「もちろんです。これからよろしくお願いします。」
奏太は、田中に一礼すると事務所を後にした。
午後十二時。奏太は天神駅の改札前で依頼者を待っていた。彼は改札横の柱に寄りかかり、所在無さげに遠くの方を眺めている。そんな中彼は、何処からともなく微かな視線を感じていた。しばらくは耐えていた奏太だったが、いつまでも向けられるその凝然とした視線に居心地の悪さを感じ、堪忍できず、とうとう視線を感じた方へと目を向けるのだった。するとそこには、こちらを矯めつ眇めつ見る一人の女性がいた。その女性はこちらを凝視しながらジリジリと歩み寄ってくる。彼女は奏太が自分の方を向いたことに気づくと、足元のヒールをコツコツと鳴らしながら彼の元へと駆け寄ってきた。
腕を通さずに羽織っている紫色のカーディガンが、風にふかれてなびく。走るたびに両耳につけた大きなピアスが揺れるその姿は、妖艶な蝶を連想させた。女性は奏太の目の前まで駆けてくると、走ったことでずり落ちてきたショルダーバックを肩に掛けなおす。その際、バックについていた金色のロゴを見て、奏太は喉を鳴らした。そのロゴは巷では名の知れた有名ブランドのロゴだった。特に女性の身に着けたそのバックは、新品で買えば十万は優に超える高価なものだった。
奏太は若干気後れしながら彼女を見つめる。すると、女性の方から話しかけてきた。
「あのう……田原 奏太君ですか?」
彼は女性が自分の名を口にしたことに驚いたように眉を持ち上げた。
「……そうですけど。」
奏太がハッとしたような顔をする。
「もしかして、木村さんですか?」
「えぇ、そうよ。」
木村は朗らかに笑った。
奏太は思いがけず高貴な金持ちが自分を指名してたことに、内心でガッツポーズをする。そして、上辺では恐縮するように言った。
「あの……、今日はよろしくお願いします。」
「いいのよ、そんなにかしこまらなくたって。」
木村は楽しそうに笑う。そして続けざまに言った。
「それじゃあ、とりあえずランチにでも行きましょうか。」
「はい。」
奏太は威勢よく返事した。
木村がつれて来たのは、いかにも高級そうなイタリアンレストランだった。
奏太は初めての場所に緊張している様だ。
そんな彼に木村がメニュー表を手渡してきた。
「どれでも好きなものを食べていいのよ。」
それを見て彼は唖然とした。そこに載っているどれもが、普段自分が口にしないような高価なものばかりだったからだ。
彼はしばらく考える素振りを見せると、遠慮がちに言った。
「えっとー……、じゃあこれで。」
奏太が指さしたのは明太子のクリームパスタだった。木村は「おっけー。」と一言言うと、こなれた様子でウエターを呼ぶ。そして、それを二つ頼んだ。それから料理が届くまでの間、二人はこの後の予定について話し合うのだった。
ものの数十分ほどで料理は届いた。
律儀な恰好をしたウエイターが、これまた仰々しく丁寧に料理を運んできたのだ。
運ばれてきたそれは奏太が普段目にするパスタとは違い、金粉や名前の知らぬ黒い果実など、種々雑多な食材で装飾が施されていた。
そんな料理に彼は翻弄され、若干辟易しながらも一口目を口に放り込むのだった。
昼食を食べ終えると、二人は手持無沙汰にただ並んで道を歩いていた。一言でいえば散歩をしているだけだった。
その道中、奏太は木村にお礼を述べていた。先ほどの昼食の会計を木村がご馳走してくれたからだ。しかし、そんなこと当の木村は露ほどにも気にしていないようだ。むしろ当然の行いとまで豪語していたくらいだった。
彼女は、上機嫌で奏太に話しかける。
「奏太君、何か欲しいものとかある?」
彼は困ったような顔を浮かべる。
「いや、特にないです。」
「遠慮しなくていいのよ。なんでも好きなもの買ってあげるんだから。」
奏太は数秒考える素振りを見せると、申し訳なさそうに答えた。
「えっと、じゃあ……、洋服が欲しいです。」
対する木村は彼の嗜好に興味深々と言った様子だった。
「わかったわ。どんなのがいいの?」
「前々から欲しかったやつがあるんですけど、それでもいいですか?」
「分かったわ。じゃぁ連れて行ってちょうだい。」
奏太は謹慎がちに木村を連れ、お目当ての店へと足を運んだ。全面がガラス張りのその店は、地上三階建てだ。前面に押し出されたショーウィンドウの中には、黒色のマネキンが洒落た出で立ちで、得意げにポーズをきめていた。そんな彼らを一瞥しながら中に入ると、“いらっしゃいませ”の代わりにドアマンの慎み深いお辞儀が出迎えてくれた。それに次いで、ドア付近を通りかかったスーツ姿の女性店員も一礼をする。そしてお得意の営業スマイルを身に飾り、近寄って来るのだった。店員が最初に話しかけたのは案の定木村の方だった。店員が木村に話しかけたのは、言うまでもなくその出で立ちからだろう。
「お客様、本日はようこそおいでくださいました。何かお探しのものなどがあれば、ぜひともお申し付けください。」
店員がその常套句を言い終わるか、言い終わらないかの内に、木村が今日は奏太の服を買いに来たという旨を伝えた。店員はこういう状況には慣れっこなのか、はたまた、まったく顔の似ていない二人を親子とでも勘違いしたのか、別段驚いた様子も見せずに丁寧に奏太を接客した。
店員の手助けもあってか、買い物はスムーズに進んでいった。
最終的に奏太が買ってもらったのは、黒いフード付きのアウターだった。正面にはでかでかとブランドのロゴが載っている。レジにその商品が通されたとき、彼は初めてその商品の値段を知った。それを見て衝撃を受けたように声を発する。そんな高い買い物だったにもかかわらず、相変わらず木村は穏やかな笑顔を見せていた。
「はい、これ。」
木村が笑顔で商品を奏太に手渡す。
「すみません。こんな高いものだなんて知らなくて……」
「あぁ、別にいいのよ。私はこうやって若い男の子たちにプレゼントをあげることだけが唯一の趣味なんだから。気にせずに受け取って。」
彼女は、相変わらず穏やかな笑顔を浮かべていた。
「ありがとうございます。」
奏太は、まるで表彰台で賞状をもらうときのように丁寧にそれを受け取った。それが相当面白かったのか、木村は一人で爆笑していた。
店から出ると、木村は奏太の方を向いて言った。
「奏太君、たくさん歩いて疲れたでしょうどこかで休まない?」
「あ、ありがとうございます。」
奏太がとっさに口走ったのは賛成でも反対でもない、感謝の言葉だった。また、木村が笑う。
「じゃあ、私についてきて。いい場所知ってるから。」
どうやら彼女は奏太のその言葉を賛成の意として受け取ったらしかった。
奏太は木村の連れられるがままについて行った。
五分程歩いた末にたどり着いた場所を見て、彼は困惑の表情を浮かべていた。
「木村さんここって……」
奏太はたどたどしい様子で言った。
「いいからついてきてちょうだい。」
木村は強引に奏太の手を引っ張る。
彼の目の前に佇んでいるは、派手な装飾の施された建物だった。ピンク色に光るハートマークやLOVEの文字がその建物の使用目的を明確にさせた。
木村に連れられるがままに建物内に入った奏太は、流れるようにそのまま部屋まで連れ込まれた。部屋内は薄暗く、ピンクのLEDだけがじっとりと部屋内を薄く照らしていた。その色がよりその場所をいやらしい雰囲気を誘発しているようだった。
「奏太君、先にシャワー浴びてきていいよー。」
木村は無駄に明るい声で、ドアの前で佇む奏太のことを呼んだ。まるでこの後行われるであろう行為なんて無いかのように。奏太の顔色は徐々に絶望に染まってきていた。
「木村さん、困ります。僕、性的なことはNG出してるんですけど。」
「ちょっとくらいいいじゃないの。あなた恩を仇で返すつもり?信じられないんだけど。」
その顔からは、先ほどまでの穏やかな表情なんて消え去り、憤怒の表情が張り付いていた。先ほどまでとはまるで別人だった。
「あんなに高いものを買わせておいて、このまま何もさせないなんてことは無いでしょうね。」
「すいません。……できません」
奏太の顔には恐怖がにじみ出ていた。
「はぁ?」
木村は一瞬険しい顔をさらに険しくして迫る。しかし、顔を強張らせている奏太を見て、平然を取り繕うようにすぐ真顔に戻った。彼女はベットに腰を掛け、足を組みながら言った。
「じゃあ、分かった。いくらあげればいいの?」
「え……」
「だから、いくら払えばやらせてくれるのかって聞いてるのよ。」
木村は威圧的な視線で彼を見下ろす。
「いや、できません。僕はもう帰らせてもらいます。」
奏太は木村の提案には聞く耳を持たないといった調子で、ドアノブに手を掛けた。それを見て木村は脊髄反射で言った。
「わかった。十万でどう?」
木村の発言に奏太の足が止まる。
「あなた今、お金ないんでしょ。それに、私が思うに、あなた家出でしょ。」
「なんで、それを……」
木村は意地の悪い笑顔を浮かべて言った。
「身なりを見れば分かるわよ。そんなにくたびれた服を着て、それで普通の子供にでもカモフラージュしたつもりなの?」
木村はじっとりとした目で奏太を見る。
「悪い話じゃないと思うんだけど。」
奏太は顔に困惑の色を浮かべてしばらく考える素振りを見せる。その後か細い声で一言「……やります。」と呟いた。
「よろしい。じゃあ、先にシャワー浴びてきて。」
木村は穏やかな表情に戻っていた。しかし、声にはまだ威圧が感じられる。木村の顔はよく見ると、事務所で見た写真の笑顔と全く一緒だった。張り付いたような笑顔。よく見ると不自然だった。まるで、微笑んだまま筋肉が硬直して、動かなくなってしまった。そんな顔をしていた。
木村との行為の時間はニ時間にも及んだ。木村のたるんだ体が、まだ成熟しきっていない奏太の体と深く密着する。彼女の陰湿な視線。じっとりとした体温。ぬるぬるとした汗。生暖かい吐息。かすかに漏れる不快な声。きつい香水の香り。そして、生臭い口臭。それらに耐えるように目を閉ざしていた。密着しては離れ、そしてまた密着する。褐色の陰部に吸い込まれていく自分の体の一部を感じて、彼は嘔吐しそうになる。時々意図したように当ててくる垂れた乳房の萎れたつぼみは、より一層それを加速させた。奏太はそれらの不快な感触に耐えながら、逃げ場所を求めるように、脳裏にユウのことを思っていた。彼の純白な笑顔が、瞼の裏にこびりついたように投影され続ける。彼の口からは、自然と溢れ出たように「ユウごめん。」という錯乱した五文字が、唇を伝って流れ出た。彼の顔面は、これ以上ないまで絶望に暮れ切っていた。そんな苦痛に歪む奏太の顔を見て、木村はより一層興奮したような笑みを浮かべるのだった。
血のように赤く染まった空の元、一人の少年の長く黒い影が落ちる。ホテルに入室してから二時間、やっとのことで建物から出てきた奏太の表情は、すべての感情が抜け落ち、真顔とも似つかない、まるで死人のような表情になっていた。彼は重い足取りで帰路を辿る。一歩一歩足を踏み込むたびに、「絶対に気づかれたらだめだ。」というどうしようもなく悲痛な思いが、真っ黒なアスファルトに彫り込まれていっているようだった。また一歩足を踏み込んだ彼の右手には、木村から徴収した札束が握りしめてある。もう片方の手には彼女から買ってもらったアウターの入った紙袋が握られていた。夏の嫌な湿っぽい感覚が張り付いた道には、こびりついたようにきつい香水の匂いが充満していた。
それからユウの元へ帰った奏太は空元気で彼に話しかける。
「ユウ、お土産だよ!今日のお客さんから貰ったんだ。」
奏太はユウに紙袋を差し出す。
「え、これ僕に?」
ユウは受け取ると、中身を確認した。紙袋の中には黒いアウターが入っていた。
「え、こんな高いもの、どうしたの?」
「あぁ、今日のお客さんに買ってもらったんだよ。」
「そうなんだ。でも、こんな高いものもらえないよ。」
ユウが遠慮がちに言った。
「いいんだよ、ユウのためにと思って買ってきたものだから。」
「本当にいいの?」
「うん、いいんだよ。」
「じゃ、貰うね。ありがとう!」
ユウは奏太に笑いかける。次の瞬間ユウの表情は困惑するようなものに変わった。
「……どうしたの?奏太」
「どうしたって、何が?」
「いや、その……、変だよ笑い方が」
奏太は鏡を見る。そこには、かつての木村のみたく張り付いたような不自然な笑顔を浮かべる自分の姿があった。
彼は焦ったように言う。
「何、言っているの。いつもどおりだよ。」
そう言う奏太の声は普段よりも明るく聞こえて、逆にそれが不自然だった。
まるで感情のない機械が、人間の喋りを真似したような調子だった。
「ねぇ、何かあった?」
ユウが気遣わし気に奏太の顔を覗き込む。
奏太はそれを拒むように、顔をそらした。
「いや、何もないよ。」
ユウは奏太の答えに納得していないようだったが、それ以上奏太に聞くことはなかった。
奏太は、それから毎週ニ、三回ほどの仕事をこなした。客によって要望は様々だったが、結局最後には性行為を強要してくる女性ばかりだった。そのたびに、奏太は自分を殺した。お金のためなら手段を選ばなくなっていた。
奏太は田中に呼び出され、事務所に向かっていた。カフェから事務所はそこまで離れていないため、四、五分もすると事務所のドア前までたどり着いた。磨りガラスが張られたそのドアには、黒い人型の影が映っている。おそらくドアの向こうに誰かが立っているんだろうと踏んだ奏太は、その人物を怪我させないためにも、ゆっくりとドアを開ける。隙間が広がっていくにつれ、だんだんと向こう側に立っている人物の姿が見えてきた。その人は職員と話をしているようで、向こう側を向いており、顔を確認することは難しかった。しかし、見覚えのある背丈、髪型、身なりに思わず身近な人の顔を想像してしまう。何よりその人物の声を聴いたことで、確信がこちらににじり寄ってきたように感じ、その愚考ともいえる悪い予感に、生死の主導権を握られているような錯覚に陥った。奏太は「すいません」と言いつつ、その人の横を通り過ぎようとした。真横を通りすぎるとき、奏太は横目にその人物の顔を見る。瞬間、彼の胸騒ぎが止むとともに、彼は放心した。その人は、中に入って来た人がなかなか横を通りすぎないことを不思議に思ったのか、ちらりと奏太の顔を見た。瞬間にその人は目を見開く。
奏太は絞り出すように言った。
「……なんで、ユウがここにいるの。」
扉の向こう側に立っていた人物、その正体はユウだった。
ユウは嬉しそうに顔をニコニコさせながら、あっけらかんとした様子で言った。
「僕も、今日から奏太と一緒に働くことになったんだー。実は結構前にここの面接受けてたんだよねー。」
それを聞いて奏太は声を荒げた。
「だめだ!早く帰れ。」
奏太は顔を険しくした。
「どうして?」
「どうしてもだ。もう二度とここには来んな!」
「なんでそんなこと言うの。せっかく奏太のためにお金稼げると思ったのに……。」
ユウは哀切に表情を曇らせると、そのまま事務所から出て行ってしまった。ユウの目の前にいた社員は困惑したような顔をしている。
奏太が肩を大きく上下に動かしながら深呼吸をしていると、事務所の奥の方から田中が出て来た。
「どうしたの田原君、そんなに声を荒げて。」
「いや、別に……。」
「あれ、ユウ君は?」
奏太はその質問に答えなかった。すると、事務所の社員が後ろから口をはさんできた。
「田原さんが怒鳴って出て行っちゃいましたよー。」
田中はそれを聞いて驚いたように、大きく目を見開いた。
「田原君、なんでそんなことしちゃったのー?」
奏太はまたも彼の質問には答えなかった。
しばらくの無言の間の後、奏太は言った。
「今から仕事があるのでもう行きますね。」
田中はやれやれといった調子で大きく息を吐いた。
ユウは事務所から出て行った後、博多駅の改札前に来ていた。手には田中から支給してもらったスマホが握られている。それをしげしげと見つめながら立ち尽くしていた。予定時刻になり、彼は周りを見渡す。すると、すぐ近くに見覚えのある顔があった。それは端麗な衣服に身を包んだ女性だった。四十代後半といったところだろうか、目元には細かな皺が見られる。彼が先程、事務所で見せてもらった写真と同じものだった。彼は女性に近づき、声を掛ける。
「すいません。もしかして、川上さんですか?」
女性は眉を少し持ち上げる。
「えぇ、そうですが――。」
彼女はハッとして言った。
「……もしかしてユウ君ですか?」
「あ、はい。そうです。」
ユウは安堵したように表情を緩ませた。
それから約三十分後、二人はランチを食べるためにレストランへ入った。イタリアンが有名なレストランらしい。メニュー表にはシェフらしき西洋人の男性の写真が載っており、その横で五つ星のマークが輝いていた。メニューに載っていたのは、お皿の大きさに対して一回りも小さい料理で、色とりどりの食材できれいに飾り付けが施されていた。ユウはページをペラペラとめくりながら目を見開いていた。
「ここのお料理って、どれも高いんですね。」
どうやら、ユウが驚いたのは料理ではなく値段の方だったようだ。
「そうかしら、このくらいイタリアンだったら当然の値段だと思うわ。何ならここの料理はちょっと安いくらいよ。」
川上は得意げな顔をして言った。それを見てユウは苦笑いをする。そして、口ごもって言った。
「あの……、僕そんなにお金持ってないので、ここのお料理買えないです……。」
すると、川上はまたも意気揚々として言った。
「大丈夫よ、お金は全部私が払うから。ユウ君は好きなものなんでも食べてもいいのよ。」
ユウが明快に目を光らせる。彼は店員を呼ぶと、今まで我慢していた食欲が爆発したかのように次から次へと料理を注文した。川上はその様子をほほえましそうに見ていた。ふと、ユウが我に返ったように川上を見る。
「すいません。こんなにいっぱい頼んで……。」
「あぁ、別にいいのよ。私、いっぱい食べる子好きだから。」
そう言うと微笑んだ。
それから三十分後、料理が続々と到着しだした。ユウはそれを見て再び目を輝かせる。
「わぁ、僕こんな高そうな料理初めて食べます。」
ユウが最初に食べ始めたのは内側が深い赤色をしたステーキだった。
川上も同じものを頼んだようで、彼女の目の前にも同じように深紅のステーキが並ぶ。ユウはナイフとフォークを使い、肉を一口サイズに切った。彼はそれを慎重に口へ運ぶ。ユウは口に肉を含むと顔を綻ばせた。そして最初の一口目を味わうかのようにじっくりと租借していた。川上はそんなユウを艶かしい眼差しで見つめ、唇を舌でなぞる。
「いやー、それにしてもあなた、本当にきれいな顔をしてるわよね。私写真と全く同じ顔の人が来て驚いちゃった。」
「えぇ、本当ですか?ありがとうございます。」
「あ、そうだ。ユウ君何か欲しいものとかある?おばちゃん何でも買ってあげるよ。」
「いいんですか?」
ユウは興奮気味に言った。
「いいわよー。」
川上は目を細めて笑う。
そんな彼女の眼下では、先ほど頼んだステーキが自分の存在を主張するかのように芳醇な香りを発している。半分に切り分けられたステーキ。その断面からは赤い肉汁がどくどくと流れ出ていた。
食事を終えた二人は、近くのデパートに来ていた。
「それで、なにが欲しいの?」
「えっと……、じゃあ洋服が欲しいです。」
「分かったわ。どこの洋服が欲しいの?」
川上は片眉を持ち上げて尋ねる。
ユウはとある有名ブランドの名前を口にした。
「あぁ、そこなら私もよくお洋服を買うわ。場所も分かるから付いてきて頂戴。」
ユウは川上に言われるがままについて行く。
ものの十分程度でその場所には着いた。
デパートの一角に佇むその店は、黒を基調としたスタイリッシュな外観をしている。どこか高級感あふれる店先の看板は、文無しのユウを尻込みさせた。
彼は川上に後押しされどうにか店に入店すると、一直線に目当ての商品の元へ足を進めた。その商品は、入店してすぐの見えやすい位置にマネキンにコーディネートされていた。それは黒色のトレーナーで、背中には有名な白い猫のアニメキャラクターがプリントされている。言わばコラボ商品だった。ユウは商品を手に取るや否や川上に突きつけるように見せた。
「これが欲しいです。」
「ずいぶんと決めるのが早かったのね。」
川上は少々驚いたように言った。
「はい、実は前々からこの服が気になっていて――」
川上は「なるほどね。」と呟くと、納得したようにうなずいた。
それから彼女は、会計をするために店の奥の方にあるレジへと足を運んだ。ユウも彼女のあとを追ってレジへと向かう。レジに着くと黒縁の眼鏡をかけた店員が、川上に向かって軽く礼をした。その後、ユウを一瞥すると同じように一礼する。そして商品のバーコードが店員の手によってスキャンされた。こなれた動作に彼は見とれる。しかし、レジに表示された金額を見てユウは一気に現実に引き戻された。彼は目を見張る。川上はそんな彼の反応を見て、唇の片側だけを持ち上げて笑い、意気揚々とクレジットカードを取り出した。
モノクロの世界から一歩外へ出ると、周囲に潜んでいた色たちが急に存在感を増し、彼の無防備な瞳の中に飛び込んでくる。
店を出たユウは、少し目を細めた。それと共に、右手に伝わる確かな重みを感じて高揚感の高波に飲まれる。彼の右手には、先ほど木村に買ってもらった商品、黒色のトレーナーが入っていた。自分の片腕に数十万円の重りがぶら下がっていると考えると、彼は焦り身震いするような思いだった。その所感からか、彼は申し訳なさそうに木村に当面した。
「すみませんこんなに高いもの……。」
「別にいいのよ。それに私からしたらこの程度のもの、たいして高くもないし。」
彼の焦りとは裏腹に、彼女は誇り顔で言い放った。
「ありがとうございます。」
彼は何度もお礼を言った。
川上は満更でもない様子だ。
「ユウ君、他に欲しいものある?」
「いや、もう充分です。本当にありがとうございました。」
川上は満足そうに頷くと、声色を1トーン落として言った。
「ねぇ、ユウ君の欲しいもの買ってあげたし、私のしたい事にも付き合ってくれない?」
川上の浮かべた笑みは、人知れず怪しく翳る。
そんなこと露知らず、ユウは愛想よく言った。
「もちろんです。何でも付き合いますよ。」
川村はそんな彼に艶かしい目線を浴びせた。
それからユウは川上に連れられ、とある場所に連れてこられた。
「川上さんここに入るんですか?」
ユウの目の前に佇んでいるのは、ピンクのネオンがうごめく煌びやかな建物。その端麗な射光の合間に、妖艶で卑猥な男女の相が見え隠れしている。それはラブホテルだった。ユウは訝し気に川上を見る。
すると川上は、その訝し気な目を黒に染め上げるように、瞳の奥の水晶体でユウを睨んだ。
「ちょっとくらいいいじゃない。それも買ってあげたんだし。」
川上は高圧的な口調で言う。彼女は、ユウが手に持つ紙袋を指さした。
ユウは正鵠を射られ、表情を曇らせる。
「でも、僕性的なことはNG出してて……。」
ユウがまごまごと言う。
今度はそんな彼を嘲笑うような調子で彼女は言った。
「大丈夫、ただの遊びよ。それに、もし付き合ってくれれば追加で“お金”払ってあげるわよ。」
“お金”。その言葉にユウは体をピクリと震わせた。彼の頭の中で金色に輝くその一言だけが、ぐるぐると渦巻く。
ユウはしばらく考え込んだのち、か細い声で言った。
「……付き合います。」
川上の満面に、じわりじわりと勝ち誇ったような笑みがにじみ出る。
「そう。ありがとう。」
川上は嬉しそうに呟くと、そのまま彼の手を取り、中へと連れ込んでいった。
それから三時間後、うつろな目をしたユウがホテルから出てきた。その隣に川上の姿はない。ボサボサに乱れた髪に、頬をじっとりと濡らす汗、皺のついたシャツには赤い口紅の痕。そのどれもが彼の悲痛を叫んでいた。ユウの左手には紙袋が、右手には厚い茶封筒が握りしめられている。封筒の開いた口からは、幾重にも重なった札束の側面が顔をのぞかせている。0.5cmはあるであろうその厚い札束の端は、折れ曲がっていたり、小さな亀裂が入っていたりで、未だ綺麗な状態のものは一つとしてなかった。彼は光の入らない目で遠くの方を見つめる。覚束ない足取りで歩き出した。茜色に染まった町の中では、夕日だけが町を照らす。ユウの足から伸びる影はいつもより濃く、長く、大きく映っていた。
ネットカフェに帰り着いたユウは、暗い通路を歩く。部屋の前までたどり着くと、そっとドアを開けた。そこには先程まで漫画を読んでくつろいでいたであろう奏太の姿があった。彼は開かれたままの漫画を両手で持ち、からだ半分をドアの方へ向けて固まっていた。
「……お帰り、ユウ。」
気まずさと心配が相まったような調子で言う。
ユウはうつむき、奏太の手に持つ漫画に目を落としながら一言「うん。」と呟いた。
奏太はユウの表情を見て何かを悟ったようだった。彼は気遣わし気に眉を下げる。
「結局、仕事行ってきたんだね……。」
数秒の間をおいた後ユウが小さく呟いた。
「……うん。」
奏太は顔を俯かせ、何度か頷いた。
彼は次の言葉を発しようとして口を動かそうとする。しかし、もたついてうまく動かなかったようだった。奏太は、しゃべることを諦め大きく深呼吸をした。彼の吐き出したその息は、微弱に震えていた。奏太は顔をうつむかせると、唇を固く閉じ、しばらく次の言葉を発さなかった。彼は眉根に深く刻んだ皺をピクリともさせなかった。ユウもまた、自分から話そうとはせず沈黙の時間が続いた。
それからしばらくして奏太が顔をあげた。奏太は赤く腫れた目をしてユウの姿を見つめると、口を開き、沈黙を破った。
「ごめんね……、辛かったよね……。」
同病相哀れむ。
彼の声は微かに震えていた。彼は眉根に刻んだ皺をより一層深くした。
ユウは彼の言葉にぐちゃりと顔を歪める。眉間にしわを寄せ、歯を食いしばりながら小さく頷く。彼は、固く目を閉じ、しばらくの間小さく震えていた。しかし、耐えきれなきなったのか食いしばった歯の隙間から微かに嗚咽が漏れだして、途端に閉じた瞼からも大粒の涙がこぼれだした。漏れ出した嗚咽は徐々に大きくなり、甚大な号哭へと変わった。部屋の中に彼の鳴き声が響き渡る。奏太は静かにユウを抱きしめると、声を押し殺して嗚咽した。
次の日の朝、奏太はぼんやりとした意識の中、目を眇ませる。四角く真っ黒な天井が映った。その横でバタバタとした物音。視線の端でひらひらとちらつく影。少し体を起き上がらせると、その正体はすぐに分かった。ユウが身支度をしていたのだ。彼はちょうど服を着替えている最中だった。
「ユウ何してるの?」
奏太は眉を顰める。
「何って、仕事に行く準備をしてるんだよ。今日も予約入ってるから。」
ユウはあっけらかんとした口調で言う。昨夜の一件から一夜明けた今日、ユウはまた仕事に出かけようとしていた。
奏太は心配そうに言う。
「ユウ、本当に仕事辞めなくていいの?生活費だってもう十分に溜まってるし、ユウが働かなくても普通に生活できるんだよ。」
そんな彼にユウはに力強く笑って見せた。
「僕、やりたいことがあるんだ。だから、この仕事もうちょとだけ頑張ってみようと思うよ。」
そう言うと、彼は壁に備え付けてあるハンガーラックから、ぶら下がっている一枚のTシャツをはぎ取った。彼はそれを頭から被ると、そそくさと部屋から出て行ってしまった。
ブオーンというトラックの走行音とともに、奏太は現実へと引き戻された。彼はバイクの後部座席に夢を乗せてドライブをしてる最中だった。奏太はそのことを思い出したかのようだ。焦ったように視線を後ろへ向ける。そこには奏太の背中に抱き着く夢の姿があった。彼女の被るヘルメットからは、納まりきらなかった長い髪の毛がはみ出し、風に吹かれなびいている。彼は安堵の息を吐くと、右手につけている腕時計を確認した。時間はまだ三十分程しかたっていなかった。彼はバイクのハンドルを強く握り直すとバイクを加速させた。彼は自分の両脇をどんどん過ぎ去って行く夜景を肌で感じながら、再び思い出の海へ沈んでいった。
奏太がユウと出会ってから二年が経ったある日の午後、二人は警固公園の石段の上に隣り合って座っていた。奏太もユウも、出会った当初と比べ風貌が一層大人っぽく変化していた。奏太はこの二年間で身長が伸びたようで、ユウと頭一個分ほど差があった。それに対しユウは、身長は伸びていないものの顔から幼さが抜け、大人っぽい雰囲気を醸し出していた。また彼は、数か月前から伸ばし始めた髪がもう肩につきそうになっていた。伸ばし始めた理由は定かではなかったが、美丈夫のユウにはその長い髪がとても似つかわしく、よく似合っているように思えた。
彼らの座る石段の前を様々な人が通りすぎていった。大学生くらいの若い男女のカップル。小さな男の子を連れた仲のよさそうな夫婦。黒いヘッドホンを耳に当て、俯きがちに歩いている中学生――。ユウはそんな人々を横目に奏太の方に向き直ると、意気込んだように言った。
「……僕、今まで仕事で稼いだお金、全部貯金してるって言ってたよね。」
奏太は思い出したかのように言った。
「うん、言ってたね。確か……、したいことがあるとか言ってなかったっけ。」
ユウはぎこちなく頷いた。
「そうそう。そのお金が最近やっと溜まったんだけど、奏太にまだ何に使うか話してなかったなと思って……」
ユウは息を震わせながら深呼吸をすると、俯きがちに言った。
「実は僕……、性同一性障害なんだ……。こころの中の僕は、ずっと女の子だったんだ……」
奏太はユウの突拍子のない発言に一瞬困惑するような、驚いたような顔をした。しかし、刹那のうちに彼はどこか納得したように何度か頷く。
奏太は俯くユウを見つめて言った。
「……知ってた。」
ユウは弾かれたように顔を上げる。彼は目を見開いて奏太を見つめていた。
そんなユウを奏太は微笑みながら見つめる。
ユウは安堵したかのように肩の力を抜かした。そして、奏太の顔を見ていたずらに笑い言った。
「そっか、ばれてたか」
「うん。」
「……引かないの?」
ユウが一瞬不安げな表情で奏太を見る。
奏太はユウを一瞥すると言った。
「引くわけないじゃん。ユウはユウなんだから別に性別がどうこうとか関係ないよ。」
彼は真剣な眼差しでユウを見つめていた。
「……そっか、……ありがとう。」
ユウは消え入るような声で言った。
彼の瞳の内側が光った。彼はそれを誤魔化すかのように瞼をごしごしこすりながら、いつもの調子で話し出した。
「で、貯めたお金を何に使うかって話なんだけど まあ、大体は想像ついてるだろうけど、性転換手術とか体を女性にするために使いたいんだよね。」
奏太はユウの言葉を嬉しそうに頷きながら聞いていた。
「そうなんだ、いいんじゃない。かわいくなったユウを見るの楽しみだなー。」
奏太のその言葉を聞いた瞬間、ユウは咄嗟に上を見上げ天を仰いだ。
「……もう、せっかく頑張って堪えてたのに。」
口を手で覆いながら彼女は言う。
彼女の瞳からきらきら光るしずくが頬を伝って滴り落ちていた。
一か月後、ユウは性転換手術などを受けるために東京へと旅立っていった。それからユウが奏太の元へと帰って来たのは約二ヶ月後、十月になってからのことである。
この日奏太は、ユウから事前にメールで連絡を受け、福岡空港まで彼女のことを迎えに来ていた。数年前にリニューアルされたばかりのこの空港は、まだ真新しい気勢の余韻がのこっている。中に入ると前面がガラス張りのエレベーター、利便性の観点から、一階の入り口から四階の搭乗口までを一直線につなぐ長大なエスカレーター、県の郷土料理である豚骨ラーメンを前面に押し出したフードコート『ラーメン横丁』なんてものもできていた。そんな場所を颯爽と通り過ぎ、奏太が到着ロビーに着いた時には、とっくに飛行機の到着時刻を過ぎてしまっていた。彼は焦りに染まった顔を浮かべ、スマホを手に取る。その後、メッセージアプリを開くと、ユウに連絡を入れる。彼は再び無人の到着口を眺め、ユウの姿を探した。しかし彼の姿は一向に見当たらなかった。未だメッセージの返信もない。それから四、五分経った頃、ようやく到着口から一人の人が出て来た。それからすぐに続々と人が溢れ出て来た。奏太は集団を凝視する。大量の石ころの中から一粒の小さな結晶を探すかのごとく、人ごみの中からユウを探す。
彼が到着口から出てくる人々の顔を順々に確認していると、ふと一人の女性と目が合った。黒い髪を肩まで伸ばした女性。彼はその女性の顔を見ると大きく目を見開いた。見覚えのあるスーツケース。彼女も同じく驚いたように黒目を大きくした。奏太が女性の元へ駆け寄る。ふわりと漂うラベンダーの香り。彼は興奮するように口を開いた。
「もしかして……、ユウ?」
彼女は嬉しそうに笑みを浮かべながら言った。
「そうだよ。よくわかったね。」
ユウの声。容姿は見違えるほど変わっていたが、そのいたずらな笑みからは、彼の面影が痛快に感じられた。
女性は紛れもなくユウそのものだった。
「久しぶりだね奏太。元気そうでよかった!」
「ユウも元気そうでよかったよ。」
奏太の目に映るユウは、以前よりも生き生きとしていて、何より幸せそうだった。
奏太は彼女を一瞥すると言った。
「ユウ、本当に見違えるほどきれいになったね。」
「本当?うれしい!ありがとう。」
ユウは嬉しそうに顔を緩ませる。そして恥じらうように目線を下げる。数秒おいて再度奏太の目を見た。きらきら光る瞳孔が彼を見据える。微笑みがちに彼女は言った。
「……それにしても本当に奏太には感謝しかないよ。今の私がいるのも奏太のおかげだし。本当にありがとう。」
奏太は照れ臭そうに頭を掻く。
「いやいや、僕はそんな大層なこと何もしてないよ。……でも、ユウのためになれたなら良かったよ。」
奏太は、はにかみがちにそう言った。
二人は一通り話したのち、帰路に着く。それからいつものネットカフェに帰宅したのは一時間後のことだった。
ユウは久しぶりに帰って来た二人の住処に歓喜しつつ、部屋に着くとその場に寝転んだ。クッション性のある床が彼女を出迎える。
「いやー、やっぱりいいねここは。落ち着く。」
彼女はリラックスしたように表情を緩ませ、言った。
奏太はニコニコしながら、「だねー。」と一言呟く。
会話が途切れる。しかし、そのあとの会話をユウは続かせようとはしなかった。奏太もまた同じく、二人は無言で、一緒にいるその空間を嗜んでいるようだった。
それからしばらくして、ユウが突然起き上がった。彼女は改まった様子で奏太の方に向き直ると、重い口を開いた。
「あのさ……、私、せっかく体も女の子になれたしどうせなら名前も女の子っぽいのにしたいと思うんだけど……どうかな?」
奏太も仰向けになっているからだを起き上がらせると言った。
「いいと思うよ。僕はユウがやりたいと思うことならなんでも応援するよ。」
「本当!よかったー。もし奏太に反対されたらどうしようかと思ったよー。」
奏太は微笑した。
「僕が反対するわけないでしょ。」
「それもそうだね。」
彼女は楽しそうに笑う。
「それはそうと、もうどんな名前にするか決めたの?」
「いや、実はまだ決めてないんだよねー。」
「あ、そうなんだ。」
「そうそう。」
ユウは難し気に顔をしかめる。
彼女は数秒考える素振りを見せると、突然声を発した。
「あ、そうだ! 」
ユウが突然思い立ったかのように言う。
「奏太が考えてよ、私の名前。」
奏太は目を丸くした。
「え、僕が?」
「うん、奏太に考えてほしい。」
彼は当惑するように眉をひそめて言った。
「別に僕はいいんだけど……。本当に僕でいいの?僕、ネーミングセンス悪いし、ろくな名前を思いつかないよ。」
ユウはそんな奏太を一瞥すると言った。
「いいんだよ。それでも私は奏太の考えてくれた名前がいい。」
奏太は数秒考える素振りを見せると言った。
「分かった。じゃあ頑張って考えてみる。」
ユウは満面に喜色をうかべる。
「やったー!ありがとう!」
歓声をあげるユウの横で奏太は彼女をほほえましそうに見ていた。
それからまた一週間経った。彼は警固公園にユウを呼び出し、ベンチに隣り合って座っていた。奏太がユウの方に真剣な面持ちで向き直る。
「ユウ、名前考えて来たよ。ダサいかもしれないけど僕なりに頑張って考えたから聞いてほしい。」
「うん。分かった。」
彼女もまた真剣な眼差しで奏太の方に向き直る。
奏太とユウの目があう。奏太は真剣な面持ちから一変し、顔を赤面させた。
「なんか、自分で考えた名前を伝えるのって恥ずかしいね。」
「えー、そんなこと言わないでよー。今から私の名前になるかもしれないのに。」
「それもそっか。」
奏太は苦笑した。
「じゃあ言うよ……。」
ユウは気唾を飲み込む。
「うん。」
彼は顔を赤らめ、俯きがちに言った。
「……ゆめ。」
「ん?」
「だから、考えて来た名前だよ! 夢って言うのが僕が考えて来た名前。」
「……夢……夢……」
ユウは数回夢という名を呟きなが思案顔を浮かべる。
奏太はまた俯きがちに言った。
「やっぱダサいよね。今のなし。やっぱり名前は自分で決めた方がいいよ。」
そんなネガティブな状態に陥っている彼を彼女は慌てて否定する。
「いやいや、全然そんなことない……。……むしろむちゃくちゃ気に入ったよ!めちゃくちゃいいじゃんこの名前!」
「本当?」
奏太は訝しげに聞いた。
「本当だよ!」
彼が疑わし気にユウの顔を覗き込む。
彼女の顔は紛れもなく満面に笑みを浮かべていた。
彼女が嬉しそうに呟く。
「夢かぁ……。ずっとこんなかわいい名前に憧れてたんだ。ほんとにうれしい。」
「そっか。それなら良かった。」
奏太は照れ隠しのためかややそっけなく言った。
彼女はそんなことは気にも留めていないようで、先ほどから夢という名前を口ずさんでは嬉しそうに顔を綻ばせていた。
「ねぇねぇ奏太。」
「ん、何?」
「あのさ……、夢って呼んでよ。」
「うん。もちろんこれからは夢って呼ぶけど。」
奏太は訝し気に首を傾げた。
「違う、そうじゃない!今呼んでほしいの!」
「あ、そういうことか。いいよ。」
奏太が再び改まったように夢に向き直った。ウズウズとした様子の彼女が目に映る。
「……なんか恥ずかしいな。」
「そういうのいいから、早く言って!」
彼女は急かすように言った。
「わ、分かったよ。……夢」
彼女は感動の声をあげる。
「おぉー。なんか新鮮だね。」
「えー。感想それだけー?」
「だって、さっき散々自分で言いつくしちゃったんだもん。」
「まぁ、そりゃそうか。」
奏太が苦笑した。
「でも……、めちゃくちゃ嬉しい。本当にいい名前だね。」
「でしょー。この名前考えるのに一週間丸々かかったんだから。」
今度は自慢げに言った。
「えー、そんなに長い間考えてくれてたの!」
「そうだよー。あー、疲れた。」
奏太はわざとらしく明快に疲労したような演技をする。
夢はそれを見て、面白そうに笑う。
「でも、本当にありがとね。大切にする、この名前。」
奏太は満足そうに頷いた。
ブオーンという轟音とともに奏太はまたもや現実に引き戻された。今度はスポーツカーの走行音だった。
彼はぐるりと首を回し、辺りを確認する。彼の運転するバイクは舗装された山道を進んでいた。彼は後ろを一瞥すると夢に向かって言った。
「あと三十分くらいすると着くよ。」
夢は奏太の背中に埋めていた顔をあげる。
「あ、そうなんだ。思ったよりも時間かからなかったね。」
事もなげ調子で夢が言う。
彼女の機嫌はすっかり良くなっているようだ。
奏太は苦笑いを浮かべて言った。
「そうみたいだね。」
それから奏太が三十分程バイクを走らせて山道を登っていく。その途中、道路脇に古い錆びた看板があった。そこには掠れた文字で「油山展望台」と書かれている。彼がその看板を通り過ぎると平坦な何もない広場のような場所に辿り着いた。周りにその場所を照らす照明となるものが一つもないので、そこは暗闇に包まれていた。また、その看板を境に山道と平坦な場所が隔てられているようで、舗装されたアスファルトの道と砂利の広がる広場の境目が足の感触でくっきりと分かった。彼は、まだらにバイクの止まっている粗末な駐輪場に自分のバイクを止める。エンジンを切り、鍵を抜き取ると、奏太は夢の手をひき、さらに奥の方へと進んでいった。すると今までは暗さで見えていなかったが、五段ほどの短い階段が現れた。奏太は夢と目を見合わせるとその階段を上る。ちょうど三段目に到達したところで夢が歓声をあげた。奏太も同じく声をあげる。
彼らは駆け足で階段を登りきると、再度、場の空気が震えるような歓声をあげた。
「うわぁー!すごーい!」
夢が叫んだ。
それにつられて奏太も感動の声をあげる。
「うわ、すっごー!めちゃくちゃ綺麗!」
彼らの見下ろす先には町の明かりが形作る、一面に星屑をちりばめたような幻想的な夜景が広がっていた。
二人は自然と閉口し、しばらくの間その夜景に陶然と見とれるかのようにただぼーっと眺めていた。二人の他にも展望台には幾分の人々が見られ、その人々もまた目の前の光景に唖然として言葉を失っている。
そんな状況の中しばらくして奏太が口を開く。
「本当にきれいだね―――。」
彼はうっとりとした様子で言った。
「うん。」
彼女もまた見とれた様子で言った。
「あのさぁ夢……」
「ん、何?」
「僕さぁ、ずっと君のことが好きだったんだよね……」
「ふーんー……ん?え?」
奏太の突拍子のない発言に驚いたように大きな声を出して、彼の方を振り返った。
「本気で言ってるの?」
夢は彼の正気を疑うように聞く。彼女は奏太の顔を覗く。しかし、暗がりでうまく表情が視認できないようだった。
「うん。本気だよ。出会ったときからずっと君に惹かれていた。君が男か女かとかに関係なく。」
奏太には夢と出会った当初のユウが重なって見えた。
夢は戸惑っているようだった。
「ごめん、ちょっと一回待って、いまいち状況が呑み込めてない。一回整理させて。」
彼女は眼下の夜景に目を伏せる。さっきまではあんなにも感動した景色が、今となってはうまく認識できない。いくつにも連なった光の粒が、無秩序に点滅するのを見て、やっとのことで追いついてきた思考に頬を赤らめた。
「大丈夫。やっと状況が呑み込めた。つづけて。」
「うん」奏太は笑いながら言う。
夢が唾をゴクリと飲み込むのが暗闇の中でも容易に分かった。
奏太が夢の方に向き直る。
その刹那、先程までやかましいほどに射光していた町明かり達が、スッと点滅をやめた。
目の前の奏太が口を開く。彼の一呼吸に夢の胸が高鳴る。
「夢、あなたのことが大好きです。僕と付き合ってください。」
数秒の静寂。
ずれる目線。
火照る頬。
過ぎ行く時間、その一秒一秒が甚大にその存在を主張する。
意を決したように夢の唇が動く。
「はい、喜んで。」
夢の顔には満面の笑み。
「よっっしゃああ!」
奏太が喜びの咆哮をあげる。
それを見て夢は目を細めて微笑む。
夜空に彼の声が響き渡る。熱くオーバーヒートした彼の頬にも笑みが灯る。無機質なその空に一粒の星がきらりと光っていた。
四月十三日
ユカリは博多駅の西口へ来ていた。彼女がスマートフォンでイマスタのメッセージを開く。トーク履歴の一番上にとある人物が上がっていた。
@Souta
つい先週彼女が指名したママ活の男の子だ。ユカリは先週に引き続き今週も彼との予約を入れておいたのだ。彼女は胸を躍らせてメッセージを入力する。
『奏太君、いつ頃に着くかな?私今西口の所にいるから、近くまで来たら教えてね!』
返信は数秒もしないうちに返って来た。
『僕も今、博多駅に到着しました。すぐ西口の方に向かいますね!』
彼女がメッセージに目を通してるうちに彼は彼女の元へとやって来た。
「ユカリさーん!」
ユカリの背後で彼女を呼ぶ声が聞こえる。彼女は驚いたように後ろを振り返った。すると、そこにはニコニコと人懐っこそうな表情をして立つ奏太の姿があった。
「すいません。待ちましたか?」
彼は申し訳なさそうに尋ねた。
「いやいや、全然待ってないよ。それにしてもずいぶんと早かったね、移動するの。」
奏太は曖昧模糊な彼女の質問の意図を瞬時にくみ取ったようだ。
「あ、いや僕も元々西口の方に向かってたんですよ。そこにユカリさんからのメッセージが来て―――。」
「あー、なるほど。そういうことだったのね。」
ユカリは納得したようにうなずいた。
その後、奏太はいつものごとくプランの説明の常套句を告げる。その間彼女は黙って彼の説明を聞く。この一連の流れが、二人が会ったときの一つのルーティンと化していた。
ようやく説明が終わり彼女が口を開く。
「それじゃあ奏太くん今日は何をする?」
ユカリがウキウキとした様子で尋ねる。
「あー、僕はなんでもいいよー。」
「そんなこと言わずに、ほら、なんでもしたい事言っていいんのよ。」
「んー。じゃあショッピングモールに行きたい!」
ユカリが面白そうに笑う。
「奏太君、本当ショッピングモール好きだね。いいよ、行こっか。」
二人は近辺のショッピングモールへと歩き出した。
件の場所に行く道中、ユカリが奏太の全身を舐めまわすように見る。
「それにしても、奏太君、今日のお洋服とっても似合ってるね。」
ユカリはストリートスタイルのコーデを身に纏っている奏太を見て言った。彼の纏う、カーキ色のカーゴパンツが揺れる。
「本当ですか!ありがとうございます。……ここだけの話、実は内心似合うかどうか心配だったんですよねー。僕、普段はどちらかというと正反対な感じのコーデをしてるから。」
「そうだったのね。でも本当にとっても似合ってるから安心して。それに私はどちらかというと、そういう感じのかっこいい系のコーデの方が好きだから。」
ユカリは喜色を浮かべ言った。
その後、二人は駅から近くのショッピングモールに到着した。二人はそのままの足取りで、最上階にある映画館へと進む。道中で、ユカリから映画を見ることを提案をされたからだ。ユカリ曰く、その映画は以前彼女が誰かと一緒に見たもので、面白かったからぜひ一緒に見たいということだった。内容はよくある青春ラブコメディだった。二人は券売機でチケットを買うと、劇場に入場した。その際奏太はユカリから買ってもらったポップコーンセットを大事そうに抱えていた。
映画は一時間半程度で終了した。
「あー、面白かったー。」
奏太は背伸びをしながら満足そうに言った。
彼の手には空のポップコーンバケットとドリンクカップが握られている。
「本当?よかった。連れて来た甲斐があったわ。」
彼女は微笑ましく彼を見た。
奏太が時計を一瞥する。
「お母さん。まだ結構時間あるけどどうする?」
言うまでもなく時間というのはプラン終了までの残り時間のことを指す。
「えーと、そうだなー。じゃあどこかでカフェでもしましょ。」
「いいねー。」
二人は、ショッピングモール内にあるカフェ『ドワーフ』に移動した。
お昼を過ぎたばかりの店内は人が少なくガラリとしていて、平静を保っている。全体がアンティーク調で落ち着いた雰囲気の内装とは裏腹に、軽快でポップなBGMが流れ、場に相応しくない賑やかな雰囲気を醸し出していた。
「――奏太君は何にする?」
机上に広げられたメニュー表に目を落とすユカリが尋ねる。
奏太も眼下のメニュー表に目を向ける。
「えーと……、じゃあミルクティーで。」
「オッケー。」
ユカリは店員を呼ぶと、さっそくオーダーを伝えた。
注文の品は数分程度で届いた。
奏太は店員からユカリの手を介してそれを受け取る。
「ねぇ――。」
彼が声のする方を振り向くと、ユカリが彼の顔を見つめていた。
「……“奏君”は、甘いものが好きなの?」
奏太の動きが止まる。
彼はユカリの声を聞くや否や、刹那としてその目の内側に緊張と驚愕の色が灯った。
「……今、、、何て言いましたか?」
彼は唖然として目を見開いていた。
そんな彼に対して、ユカリは何のことか分からないと言った様子でキョトンと首を傾げていた。
「甘いものが好きかどうかってこと?」
彼女は探る様に聞いた。
「違う。その前。」
彼は無意識のうちに語尾を強めていた。
彼女はハッとして言う。
「もしかして、奏君って言われるの嫌だった?」
二度目にその名前で呼ばれた瞬間、太刀風が両脇を通りすぎるかの如く、奏太の頭の中に、ものすごいスピードで記憶がフラッシュバックする。
彼は突如として、発生源の分からない白い光に包まれた。
奏太は気が付くと白い光の中で、自分より幾分も背の高い女性に頭をなでられていた。――違う女性の身長が高いのではなく、彼自身の身長が縮んでいたのだ。奏太はちょうど小学校低学年くらいの背丈まで体が縮んでいた。
しかし、彼はそんな事実に気づくことも、疑問に思うこともなく、ただ素直に目の前の事象を受け入れていた。
「……奏君泣かないで、大丈夫だよ。」
彼の頭をなでながら女性が言う。
奏太は自分の頬に触れる。どことなく湿っているようだ。いくつかの熱い雫が彼の指先に触れた。奏太は、そこで初めて自分が泣いていたという事実に気づいたようだった。けれども彼の中からは悲しみなどの感情は一切感じられず、その代わりに強烈な幸福感だけが、体と精神を支配していた。
奏太はずっと俯かせていた顔を上げ、ふと女性の顔を見る。自分がよく知る人物の顔にどことなく似ているような気がした。しかし、その人が誰なのか、分からない。
彼が必死に思い出そうとしていると、突然後ろの方から男の声で怒号が飛んできた。彼は反射的に振り向く。
そこには、害虫でも見るような目で二人を睨む男の姿があった。男は続けざまに彼らを呵責する。その時、彼は今までの罵詈雑言がすべて自分たちに向けられたものだったということを直感的に理解した。
彼は男の顔を見るや否や、言いようのない恐怖に顔を歪め、俯いた。彼の背後で男が罵倒を続ける。奏太は両手で自分の耳を塞ぎ、その声を遮断しようとした。
頭が痛くなるほど強く、強く両耳を押さえつけた。それでもその声は、脳みそに直接語りかけているかのようにはっきりと聞こえ、無慈悲な程に彼のむき出しの精神を攻撃し続けた。彼は太刀打ちできず、うめき声を上げながら悶え苦しみ、のたうち回る。奏太は錯乱のせいで遠のく意識の中、どこか見覚えのあるあの男の顔を思い浮かべた。憎悪、嫌悪、怒り、怨み――そんな言葉では到底言い表せないようなどす黒い感情が、胃の奥から奔騰し彼を飲み込んだ。突如、彼の体のあちこちで鈍い痛みが迸る。彼は脊髄反射で痛みの根源へと目を向ける。一番最初に目に入ったのは自分の両腕だった。細く白い腕。骨ばったその腕を労わるように優しくさする。すると、彼の腕の表面に次々と小さな斑点が浮かび上がってきた。その斑点は徐々に大きさを増して行って、終いには大小さまざまな痣の形へと変化した。奏太の両腕には痛々しい痣の数々。それらは腕だけではなく全身に広がっていた。煙草を押し付けられてできたようなやけどの痣、患部が腫れて青紫色になったもの、黄色くなっているもの……彼はそれらの痛々しい傷を見て即座に思い出した、今まで男から行われてきた卑劣な所業の数々を。そして地獄のような日々を。彼は戦慄し、顔面蒼白になってすぐさま駆け出した。奏太は、足がもつれそうになりながら必死に走る。息をすることも忘れてただ走り続けた。
次に奏太が気が付くとそこは葬儀場だった。先ほどまで彼を包んでいた白い光は消え、葬儀場内の殺風景な風景、真っ黒な服に身を包んだ人の数々が目に映った。彼は今現在起こっているこの事態に理解が追い付かず、訳もわからずに立ち尽くしていた。すると、周りの黒装束を身に纏った大人達が棺桶から伸びる長い列に並ぶようにと促してきた。彼は促されるままに列に整列する。その時不思議と先ほどまでの恐怖感は感じなかった。代わりに正体不明の深い悲しみと喪失感が彼を飲み込もうとしていた。彼がそんな感情に打ちひしがれていると、いよいよ彼の順番が回って来た。彼は意を決して棺桶の中を覗き込む。棺桶の中に眠る女性を見たとき、先ほどまでの悲しみや喪失感は一層深いものとなった。
「あぁ……そうだった」
奏太はひとりでに呟いた。棺桶の中に眠っていたのは先ほどの女性だった。しかしその顔はつぎはぎだらけで見るも無残な姿になっていた。彼は顔を歪め、瞳に光るものを溜めながらまた呟く。
「そうだった……お母さん、事故で死んじゃったんだった。」
一度あふれ出した涙は止まることを知らず、彼の目から止めどなく流れる。瞳から零れ落ちた涙が彼の頬を伝って落ち、棺桶の中で眠る女性の頬を濡らした。途端に彼は膝から崩れ落ちた。彼は大声で泣き喚く。声は粛然とした葬儀場の中で虚しく木霊していた。
それからどれだけの時間が経ったのだろうか、彼は気が付くとまた白い光に包まれていた。先ほどまで自分がいた式場は忽然と姿を消し、周りを見渡せどもただ何もない空間がそこに広がっているだけだった。奏太は空虚な空間に自分一人というこの現状にひたすらに孤独を感じる。彼は今まで自分を支配していた孤独感、虚無感、喪失感、悲しみ――。そのいずれの負の感情に再び支配されるのを恐れ、その場にうずくまった。それでいて彼は結局、断然的に支配されているのだった。彼は打ちのめされ、そうしてしばらく身動きを取らずにいた。
不意に、どこからともなくぼんやりと女の声が聞こえて来た。
「……くん……うたくn……奏太君……」
奏太は直感的に自分が誰かに呼ばれているのを察知した。
彼はむくりと起き上がる。そして、ただ声のする方へ我武者羅に駆け出した。
「――奏太君……奏太君……」
気が付くと奏太は元居たカフェに戻っていた。
「どうしたの奏太君。なんで泣いているの?」
ユカリが心配そうにこちらを覗き込んだ。
奏太がユカリから渡された鏡で顔を確認すると、確かに瞼からその下の頬にかけて涙の伝った後があった。
「いや、なんでもないんです。」
奏太は口を濁した。
「そう……」
ユカリは怪訝と心配が入り混じった顔をして言った。
その後は二人とも口を堅く閉ざし、終始無言が流れていた。
静静とした空間に気まずさと、心配、その他の粗悪な感情がうつらうつらと宙を舞ってた。
四月十六日。
圭吾は此の節立て続けに起こっている連続レジ強盗を追ってコンビニの前で張り込みを行っていた。圭吾が身を潜めているのは、コンビニの入り口向かって左側に位置する一軒家の物陰だ。そのコンビニの駐車場には、春樹の乗った一台の車が停車している。いずれもコンビニの中からは死角になっていて張り込みをする上では絶好の穴場となっていた。二人は店内の様子を固唾をのんで監視する。閑静な住宅地に佇むその店は、どこか物々しい雰囲気が漂っている。
この時すでに、二人が監視を始めて四時間が経過していた。しかし、依然として強盗犯と思しき人物は現れない。二人の中には半ば諦めの気持ちが芽生えつつあった。そんな時、ふと一人の人物がコンビニ内へと立ち入るのが見えた。上下に黒のスウェットを身に着けた大学生くらいの男だ。頭には深くニット帽を被っている。その男は何喰わぬ顔で店の中へ入って行った。車の中の春樹が緊張した面持ちで圭吾にアイコンタクトを取る。圭吾はさらに注意深く店内を注視した。男が店内をうろうろと立ち廻っている。タイミングをうかがっているっようだ。男は店内をぐるりと一周すると、レジの方へ歩を進めていった。圭吾もまた相手に気づかれないようにそろりそろりと店の近くまで進む。店内では男がレジの目の前まで接近していた。すると次の瞬間、男はポケットからナイフを取り出して店員に突き付けた。圭吾は弾かれたように店内へ突貫する。男は突如として店内に入り込んできた慮外な客に吃驚してナイフを手から滑らせた。ゴトリと重たい音を立ててナイフがレジカウンターの上に落ちる。男は慌ててそれを拾おうとしたが、圭吾が透かさず銃を取り出したことによって動きを封じられた。
「動くな、警察だ。速やかに投降しなさい。」
圭吾の権幕に押され、観念したかのように男は両手を上げる。
圭吾は即座に男を取り押さえた。圭吾の目に、はっきりと男の顔が映る。男の顔は、圭吾が想像していたものよりもずっと若かった。おそらく十代後半であろうその少年の、沈鬱な目が圭吾を見据える。その一瞬、彼の姿が歪んだように見えた。少年とは違う何者かの写像が、上から覆いかぶさったようだ。圭吾は唖然とする。そのせいで彼は少年を取り押さえる手を少し緩めてしまったようだった。拘束が緩んだことに気づいた男はニヤリと笑みを浮かべる。彼は圭吾を振り切り、猛スピードで逃げて行ったしまった。圭吾は少年の行く末を茫然と見つめることしかできなかった。
圭吾が呆然自失としてコンビニから出てくると、目の前の駐車場で春樹が待ち構えていた。
「おい、何ださっきのミスは。」
春樹は血相を変えた様子で彼を叱責する。
「すまない。」
圭吾は心苦しそうに顔を歪めて謝罪する。
「本当、何やってんだよ全く。俺が入口の前で待ち構えてたからよかったものの。もし俺がいなかったら大変なことになっていたんだぞ。分かっているのか。」
圭吾は、春樹の後ろに停車している一台のパトカーを一瞥する。中には、先ほど彼が取り逃がした黒スウェットの少年がいた。彼は後部座席で不服そうに鎮座している。圭吾はますます申し訳なくなり、地に頭が付く勢いで春樹に頭を下げた。
「本当に申し訳ない。」
春樹は大きなため息を一つつくと、怪訝そうに顔をしかめて聞く。
「お前まさか、また優太のことを思い出してたのか?」
圭吾は力なく頷いた。先ほど彼の拘束が緩んだ理由、それは、少年の姿とその少年と年齢が近い息子優太の姿、その二つが重なりあって混濁し、彼の思考を半ば破壊したためであった。そんなことになった理由は、他でもない息子への憂惧や懐旧の情に、日々駆られているせいだろう。
そんな圭吾に対して、春樹は諭すように言った。
「いい加減、自分の息子と他のガキを重ね合わせるのはやめないか。こうも毎度毎度ガキ一人に手こずっているようじゃ、警察官としての示しがつかないだろ。」
「すまない。でもどうも息子のことになるとダメみたいなんだ。」
春樹は呆れたようにため息をついた。
「いい加減もう優太のことは忘れたらどうだ、仕事に支障が出るだろ。第一優太が家出してからもう四年もたっているじゃないか。もうあいつも立派な大人になっているだろう。お前がそんなに心配しなくたってちゃんとやっていけてるさ。」
「あぁ……」
圭吾は暗い顔で頷いた。
沈みかけた夕日が空を茜色に染める。圭吾は泰誠に呼ばれ居酒屋『あかね』に来ていた。
圭吾は、入ってすぐのところにあるカウンター席に座り、店員から先ほど注文した生ビールを二つ受け取っていた。グラスについていた水滴が、彼の両手を濡らし、数滴がその手を伝って机上に落ちていった。彼は、カウンターに乱雑に置いてあったおしぼりでそれを拭う。ふと、誰かが彼の隣に座ってきた。圭吾は振り向く。そこには泰誠の姿があった。
「よう、待ったか。」
彼は眉を持ち上げて言った。
「いや、俺も今来たところだ。」
「そうか。なら良かった。」
泰誠は明快に笑う。そんな彼に圭吾は疲弊した笑顔を浮かべる。
「なんだお前。今日はやけに暗いじゃねーか。」
「そうか。」
「あぁ。なんかあったのか?」
「いや、実は仕事でちょっとヘマしてさ。」
「ヘマ?――分かった。なんのヘマをしたのか俺が当ててやるよ。」
「なんだよそれ。」
圭吾は酒を少し口に含むとほくそ笑んだ。
「いや、簡単な問題だ。どうせまた優太関係で何かあったんだろ。」
彼はバツが悪そうに頷いた。
「よくわかったな。」
「いや簡単なことだったよ。なんせ、お前が仕事でヘマをすると言ったら、息子関係のことしかないしな。」
「確かにな。」
圭吾は自嘲気味に笑う。そんな彼に、泰誠は突拍子もなく呟いた。
「そういえばさ、昔、優太がまだ五歳くらいのときに遊園地で迷子になったときのこと覚えてるか?」
「そんなことあったか?」
「あぁ、あったよ。忘れたのか?」
「んー。そんなこともあったような……」
「まぁいいや。そんでその時、俺もお前の付きそいで一緒に行ってたんだよ、遊園地に。それでちょうど昼時だったかな、腹ごしらえのためにフードコートにいったんだよ。当然お前と、あと優太も一緒にな。結局何食ったのかは忘れたんだけど、とりあえず二人して店の列に並んでたんだよ。そしたらさ、急にお前が『優太がいない』とか騒ぎ出してさ、見るとほんとにいねえんだよ、どこにも。おそらく、一瞬だけ二人ともあいつから目を離したんだよ。それで気づいたら、狐に包まれたように姿を消しててさ。もう、頼んでた飯そっちのけで二人してあいつを探したよ。」
「言われてみれば確かにあったな、そんなこと。」
「お、思いだしてきたか。」
「ぼちぼちだな。」
「そうか、まあいいや。それでさ、あいつ探してるときのお前の表情と言ったら、それはもう酷い顔してたよ。あの顔は今でも忘れないな。」
「そんな酷い顔してたのか俺?」
「あぁ、それはもう酷い顔だったぞ。この世の終わり見たいな顔してあいつのこと探すから、俺もう、お前が不審者と勘違いされないかヒヤヒヤしてたよ。」
「どんな顔だよそれ。」
圭吾は哄笑した。そんな彼を一蹴するように春樹はポツリと言った。
「焦燥感と恐怖心が混濁したような表情だったよ。」
圭吾の心臓が微拍を打つ。
彼は何も言えずにただ一口酒をすすった。
時計の針が十時を指す。カスミは目覚めた。ベットからおもむろに起き上がった彼女は、枕元に置いてあったスマートフォンを手に取る。それから火照った目をして独言する。
「やっぱり泰誠君はかっこいいなぁ。」
その火照った目線の先には、右手に握られているスマートフォン。その画面には写真フォルダー。左上に表示されているフォルダー名には、『泰誠』の文字が綴られていた。フォルダー内には、スマホの一画面を埋め尽くすように数多の写真が保存してある。そのどれもが一人の人間を映したものだった。彼女は顔を高揚させる。微かに震える指先で画面をスワイプした。画一的な笑顔が、何列にも連なって下から上へと流れていく。画面の大部分を占領しながら蠢く。
彼女はそれらを舐めるように眺めながら、色気の籠った長息を吐いた。部屋全体に妖艶な空気が漂う。
彼女はその空気に毒されるかの如く呼吸を荒くした。
空気中に散りばめられた生々しい感情が、質量をもって彼女に迫り、圧死させようとしていた。
そんな気味合に犯されつつ、彼女は、また深い眠りに落ちていくのだった。
四月十七日
窓の外から小鳥のさえずりが聞こえてくる。清々しい朝だった。午前六時。香奈は優太の部屋にいた。全体的に青色で統一された部屋は、まるで窓の外に浮かぶ空の青そのものが、部屋内に充満して浸透しているようだ。部屋の片隅には、埃を被ったサッカーボールや未開封の仮面ライダー変身ベルトが物寂し気に転がっていて、そのどれもが、この部屋の主が男の子であるということを静かに主張していた。窓際に設けられた学習机には、学校の教材らしきものが放り出され、そのままになっている。開かれた教科書の表面には、薄い埃の膜が張っていた。そんな寂寥感の充満した空間の中で一人、香奈は放心するように立ち尽くしていた。憂いを帯びた目でただ一点を見つめている。彼女の見つめる先には、壁に沿って設けられた一つの棚があった。棚の高さは彼女の肩ほどまであり、横にも90cmほどの幅がある。この棚もまた、部屋の色と同様青い色をしていた。そのためか、棚自体は部屋の雰囲気によくなじんでいた。しかし、どことなく漂う違和感。それを異質な存在にしていたのは、おそらく中に飾られている各々のせいだろう。その棚一面には、バービー人形やクマのぬいぐるみ、ピンク色のソープフラワーなど、棚の色に反したかわいらしいものが所せましと並んでいた。そのせいか、青色が蔓延したこの空間の中で、一か所に集中した淡いピンク。そこだけポッカリと穴が開いているようだった。なんだかアンバランスな感じだ。彼女を見つめるぬいぐるみの目が光る。
その棚を見ていると香奈は、幼い頃の優太が目の前にいるような錯覚を覚えた。
『お母さん。見て!この子かわいいでしょ。』
喜色を浮かべた幼い優太が、香奈の元へ駆け寄ってくる。手にはあるものが握られていた。
それはクマのぬいぐるみだった。
『これね、お父さんに買ってもらったの!』
優太は両手で大事そうに抱えているそれを、香奈の顔の前に突き出した。
嬉しそうな彼の笑顔が、彼女の溝内あたりを殴る。香奈は表情を曇らせた。彼女は優太の目線の位置まで腰をかがめると、言い聞かせるようにして言う。
「そうね。かわいいね。……だけど、それ女の子のおもちゃだよ。男の子なんだから、そんなの持ってたら恥ずかしいよ。」
それから彼女はわざとらしく手を叩き、「そうだ!」と言った。
「そのぬいぐるみと、これ交換しない?」
そう言って彼女が後ろから取り出したのは、仮面ライダーの変身ベルトだった。
「お母さん、奮発してこんなの買っちゃった。男の子なんだからそんなのよりこっちのベルトの方がずっといいよ。」
彼女は優太を見つめる。その眼にはどこか懇願の色が混ざっていた。
『でも……』
そう言って優太がまごまごしていると、香奈は強引にぬいぐるみを彼から引きはがした。
『あぁ……。』
彼は哀切な声を漏らす。
そんな彼に彼女はベルトを渡す。優太は哀傷に顔を歪める。
彼は両目に溜めた涙が、恨めしそうにそれを見ていた。
気が付くと香奈の目の前には中学生くらいの優太が立っていた。
彼女はプログラムされた機械みたく、右手を彼の顔の前に突き出す。その手にはいつの間にかビニール袋が握られていた。中に何かが入っているようで、くちを縛った下の方が大きく膨らんでいた。
「ねぇ、これ何なの?なんで、男の子なのにこんなの持ってるのよ」
そう言って彼女は袋を揺らす。
カラカラという乾いた音がした。透明なその袋の中には、きらきらと光沢のある、種々雑多な何かが入っている。それはシルバーであったり、赤色だったりした。そして、それらの表面には掠れた文字で化粧品メーカーのロゴが刻まれていた。香奈が袋の中からシルバーの丸棒を一本摘まみ上げて見せる。棒の表面には宝石を模ったラインストーンたちが、ここぞとばかりにちりばめられていた。彼女はそのキャップを軽く引っ張る。すると、中から真紅の口紅が姿を現す。血で染まったような赤いルージュがあざ笑うかのようにこちらを覗いていた。口紅の容器の曲面に優太の顔が歪んで反射する。戦慄した彼の顔が異様に長く伸びていた。
だんまりとした優太を突き放すように香奈は言う。
「お母さんに隠れてこんなもの集めて……。ほんっとうに気持ち悪い。もうこれ全部捨てるから。」
そう言い放ち香奈は部屋から出ようとした。その時、彼女の袖が何かに引っ掛かった。香奈が振り向くと、そこには優太の手があった。白く細い手が、彼女の手首を必死につかんでいた。
『お願い……捨てないで。宝物なの……。」
優太の懇願するような目が彼女を覗く。
香奈はそんな彼を突き放すように睨みつける。そして、掴まれたその腕をさっさと振り払い、部屋から出て行ってしまった。
『待って……行かないで……。」
青色で統一された部屋の中、一人の少女の断末魔だけがむなしく響き渡った。
それから何年か経って優太はその家を出て行ってしまった。
青で統一されていた部屋は、いつの間にか千差万別さまざまな色が混濁してしまっていたようで、すっかり濁りきっていた。
空が刻々と色を朱色に染めてゆく。カスミは“あの時”と同じ警固公園のベンチに座り、目の前を取りすぎる男女を恨めしく眺めていた。彼女の瞳が暁の残照に照らされ、虚ろに光る。
「夢……なぜ私を裏切ったの」
彼女はひそかに独言した。
声は朱色の光とともに虚しく色褪せていった。
○月○日
カスミは気づいた時にはそこに存在していた。
辺りをぐるりと見渡す。まばらに人がいて、隅の方には追いやられた遊具があった。
「公園……」
彼女はぼそりと呟いた。
どうやら彼女がいる場所は公園の中だったようだ。
彼女は訳も分からずデクノボウのように立ち尽くす。
……私は誰だ。
彼女の中にふとそんな思いが奔騰した。
途端に言い知れぬ不安感が、重く重く曇天から圧し掛かる。
自分自身が得体のしれない何かみたく、性が知れない。謂れが知れない。そんな中で唯一、天界から差し伸べられた仏の手の如く無意識に自分を自覚させるものがあった。「カスミ」。彼女の名だ。特段誰かに教わったわけではない。
ただ自分の奥底に眠る何かが、その名を一心不乱に叫んでいたのだった。
そんな彼女は、気が付くといつも違う場所にいた。それは路地だったり電車内だったり、ひどいときには福岡から遠く離れた東京駅のホームに突っ立っていたこともあった。しかし、彼女自身には自分が移動した記憶はなかった。また、その現象が起こるのは決まって夜、時計の針が十時を指し示す頃だった。いつも決まってその時間に目覚めては、寸分ほどの世界を堪能する。その後強い眠気に襲われ、為す術なく意識が遠のき、気が付くとまた別の場所にいた。例の如く時計は十時を指し示していた。
毎日がその繰り返しだった。
自分が眠っている間にも活動を続けていたという自覚は彼女にはなかった。まるでゲームのキャラクタ―みたく、毎日同じ時間に世界に放り込まれては、所在なくあたりを巡回する日々だった。
しかし、カスミ自身はこのことについて何の疑問を持つこともなかった。彼女は、ただ傍観するようにその状況を受け入れていたのだった。
そんな生活が何日……いや、何回も続いて次第に彼女は自分の状況を傍観の傍らで理解し始めたようだ。
カスミがよく目を覚ます白い家が自分の家だということ。自分が世間一般の女性とは少し異なっているということ。そして、彼女には同棲している人がいるということ。
ある時彼女が目覚めるとそこは居酒屋の中だった。
彼女はカウンターでジョッキを片手に座っていた。
周りを見渡すと大勢の人が酒や料理を嗜みながら楽しそうに談笑している。ふと誰かに横から話しかけられた。彼女は反射的に振り向く。そこにはグレーの髪をした一人の男性がいた。男は楽しそうにカスミに話しかける。男の口調からすると初対面ではないことは確かだった。
しかし、彼女の方は彼のことを思い出すことが出来ず苦悶していた。そこで彼女は彼のことについて根ほり葉ほり訪ねていった。
最初は彼の方も困惑している様子だったが、次第に面白くなってきたのか彼女の質問に次々に応えていった。
そこで彼女はいろいろなことを知る。彼の名前が杉田 泰誠であること。泰誠と彼女は同じ高校に通っていたこと。そして同じ部活に入っていたということ。それでも彼女は思い出せなかった。彼女の中には彼と同じ学校に通っていた記憶は愚か、同部ので輝かしい青春を送っていたことさえも忘却してしまっていた。
ここまでくると彼はついに杞憂しだし、彼女の顔色を窺いつつ言った。
「お前だいぶ酔ってないか?大丈夫か?」
彼がカスミの顔を覗き込む。
泰誠の端正な顔が彼女の顔に接近した。
瞬間、仄かに琴線に触れるような感覚が彼女の胸を貫いた。
刹那のうちにカスミは泰誠に恋慕したのだった。
それからというもの、彼女は無き泰誠との思い出を渇望するようになった。
彼女は限られた一日の時間の中で、自分の身に起こっている奇妙な現象について手当たり次第に渉猟した。
言わずもがな書物などを入手することは困難を極めたため、彼女の研究材料は主に持ち合わせているスマートフォンだけだった。
その際、誰かに自分の病状が知れたらと臆し、履歴は必ず消すようにしていた。
それから幾分かの時を経たが、病の委細を究明することはできず、自身の身に宿る謎は深まるばかりだった。彼女は日々大いに悩み苦悶するとともに、しだいに自身の心中に諦念の心が芽生え始めていることを感じた。
そんなある日のこと、例のごとくスマートフォンのウェブブラウザアプリを開いたカスミは、半ば諦めの気持ちで画面を見つめる。
彼女が調べものを始めて、数分経った時、彼女の目に一つのウェブ広告が目に留まった。
「イマスタ……?」
それは近年若者を中心に流行しているSNSアプリ、『イマスタ』の広告だった。
カスミはその広告を見たとき、広告の大部分を飾っているキャッチフレーズに目を惹かれた。
『私らしさを発信する』
それがそのアプリのキャッチフレーズだった。
カスミは頭あの中で何度もそのフレーズを反芻する。そのフレーズは彼女の中にまるで根掛かりしたかの如く印象づいたようだった。
それから彼女がそのアプリをダウンロードしたのは、ものの数分後のことだった。彼女は脳神経に焼き付いた件のフレーズに操られる様にそれをダウロードした。
とは言え彼女は他人にこのアプリを見られることを気恥ずかしく感じたのか、スマートフォンを操作してすぐに通知をオフにし、アプリを非表示にしていた。
親指が絶え間なくスマートフォンをスワイプする。それに連れて投稿が下から上へと流れていく。尚も指は動きをやめない。
薄暗い部屋の中、ベットに横たわったスマートフォンの明かりだけが煌々と光る。
イマスタをダウンロードして早数日、カスミはすっかり件のアプリに耽溺していた。
また指が画面をスワイプする。一つの投稿にハートを押した。
あれから数日で彼女はイマスタの操作を完璧にマスターしたようで、今では意識がある状態の時はいつだってそれに惑溺していた。
もはや、当初の病のことなんかどうでもよくなっているようだった。
カスミのスマホで通知が鳴る。タスクバーが画面の上から姿を現した。
彼女はすかさずそれをタップして、通知の根元を探る。
タスクバーをタップして現れたもの、それはある人物の投稿だった。
@yume
アカウント名にはそう記されている。投稿には一枚の写真が載せられていた。
画面の中で笑う白皙の少女。手にはストロベリーのフラペチーノが握られている。赤いソース、分厚いホイップの上にちりばめられたチョコチップが鮮やかに光る。
写真を横にスワイプする。
今度は違うアングル、違うポーズを決めている彼女の写真が載っていた。
彼女は長い時間をかけて投稿を拝観し終えると、すぐさまハートを押す。ついでに保存を済ませると彼女は一度画面をスリープさせた。
真っ黒な画面に彼女の顔が反射して映る。
そこには怪しげにほくそ笑む白い歯が浮かんでいた。
@yumeは彼女の心の拠り所であり言わば推しのような存在となっていた。
カスミと彼女が出会ったのはイマスタを始めてすぐの頃。夜中の駅のホーム、電車の走り去る轟音を背にスマートフォンを眺めていた時のことだった。
その日もまた手持無沙汰で、投稿を上から下へと目で追って時間をつぶしていた。
そんな時ふと彼女の目に一つの投稿が目に留まったのだ。
画面越しに笑う白皙の少女。その黒々とした瞳にカスミは魅入られそうになった。
カスミは興味本位でそのアカウントを覗く。
そこには自分の追い求めていた理想の“女の子”。
刹那のうちに彼女は@yumeに魅了された。
さらにプロフィール欄には“福岡在住”の文字が記されている。彼女は強い親近感を覚えた。
それが@yumeとの初めての出会いだった。
それからカスミは、ことあるごとに彼女の投稿を追跡するようになった。
それから幾星霜の時が経った。
カスミは未だ@yumeの投稿を追跡していた。
彼女への執着のようなものは、日を追うごとにより色濃く、強く根付いていった。
そんなある日のこと、@yumeのアカウントにあるものが投下された。
カスミはその日も何の気なしにイマスタを眺めていた。
そこへ通知が来た。彼女は弩にでも弾かれたようにそれをタップする。
画面は@yumeのアカウントへ飛んだ。カスミは心を躍らせる。
そのままカスミは流れるように彼女の投稿を確認した。
そこでカスミは目を見張ることとなった。
その投稿に上がっていたのは普段のかわいらしい彼女ではなく、髪を短くしてボーイッシュな。一見して男子にしか見えないような、そんな彼女の姿だった。メイクもしてないようで肌もいつもより1トーン暗くみえた。しかし、美丈夫であることは確かだ。
カスミは激しい動悸押さえてキャプション欄へ目を落とした。
そこにはこんな文章が綴られていた。
『今日で私が女の子になってからちょうど二年!この際だから昔の写真を再投稿したよ。やっぱり今と比べると結構変わった?昔の私も割とイケメンでよかったな笑笑。冗談はさておき、みんな今まで応援してきてくれてありがとう。これからもよろしくね!』
カスミの鳥影を見るような表情が画面上の文字をなぞる。
カスミの中の彼女の理想像というのは一瞬のうちに崩れ去った。
彼女はひどく瞠目した。
しかしそれととともに、仄かに彼女に対して以前よりも強い興味や一種の憧れのようなものを感じるようになった。
それからまた数日後。
カスミの部屋の端に置かれたローテーブルの上には、@yumeの紹介していた化粧品がずらりと並んでいた。
そこにはプチプラのメイク用品に留まらず、一本何千円もする化粧水や口紅なども置いてあった。
つい先日、@yumeのリール動画を見ているときに化粧品紹介の動画が上がってきたようで、動画を見ているうちに無性に欲しくなり、衝動買いしてしまったようだ。
それで彼女は先日から化粧水などのスキンケアグッズを使っているのだが、以前よりも肌の調子が格段に上がっているように見えた。精悍な肌は、きめ細やかなまるでシルクのような肌へと変容している。
メイクも@yumeを真似して最近は毎日行っており、かなりこなれていた。そして、カスミは以前よりも執拗に彼女の動向を探る様になっていた。@yumeはカスミに取ってもはや生きる糧となり、彼女の心の支えとなっていた。
そんなある日のこと、彼女が目覚めるとそこには見慣れた景色が広がっていた。
彼女が目覚めた場所、それはあの日と同じ警固公園の中だった。
彼女が天を仰ぐと相変わらず空は黒く染まりきっており、夕焼けの残り香すらも感じられない。
カスミは所在なさげに手近なベンチに腰をかけ、しばらくの間目の前を通る通行人を眺めて惚けていた。カスミの真上にある街灯が彼女の頭めがけて光を照射している。
光はぼんやりと辺りを照らしていた。
十分ほど経った頃だろうか。前の方から仲のよさそうなカップルが歩いてきた。
彼女は最初、そのカップルのこともほかの通行人と同様にあまり気には留めていなかった。
彼らがちょうどカスミの目の前を通りすぎたとき、そのカップルの顔がカスミの目にはっきりと映り込んだ。
その時、彼女は時間の流れがスローモーションみたく遅くなったように感じた。
ぼんやりとした光に照らされ、彼らの顔の全貌が明らかになったとき、
彼女は絶句した。
自分の目を疑った。
にわかに信じ難いが、カスミの目の前を通り過ぎた人物、
その顔が@yumeに酷似していたのだ。
しかも追い打ちをかけるように、横を歩いていた彼氏と思わしき人物が、その女性のことを「ゆめ。」とはっきり呼んだのだった。
カスミは今自分の目の前で起きている事象に脳の処理が追い付かず、放心していた。
そんな中、割り込むようにカスミのスマートフォンで通知が鳴った。
彼女はハッとした。
カスミはすぐさま自分を落ち着かせようとスマートフォンを取り出し通知を開く。
すると画面はすぐに移行した。
一瞬暗くなった画面に再び明かりが灯ると、そこには@yumeのアカウントが映し出されていた。
カスミは息を飲んだ。
彼女はすぐさま画面を閉じようとしたが、そこで@yumeのアカウントに新しい投稿が追加されていることに気づいた。
カスミはどうも気掛かりでその投稿を確認してしまった。
彼女は刹那に後悔した。
そこに投稿されていたのは、警固公園をバックにした男女二人のツーショットだった。
その内一人は@yumeだとすぐに分かるが、もう一人の男の方はというと、顔がスタンプで隠れて見えなかった。
しかしそんなこと、もはや彼女にとってはどうでもよかった。
この投稿こそが先ほどのカップルが@yumeたち本人だと裏付ける何よりもの証拠となった。
彼女の中から先程のショックを大きく上回るような絶望が奔騰し、彼女を襲った。
カスミの頭の中がぐるぐると渦巻く。
それにつられて彼女の視界までもが歪み始めた。
胸中の怨嗟。
カスミはひどいめまいに悶えベンチに倒れ込んだ。
ぼんやりとした光が彼女を覆う。
その周りは黒。闇が永遠と広がっているようだった。
四月十八日
圭吾はけたたましく鳴り響く目覚ましの音で目を覚ます。まだ夢と現実の境目のような意識の中、彼は薄く目を開く。視界いっぱいに白い天井が映った。その片鱗に橙色の光を見つけ、根源を探す。窓の外に寛大な朝焼けが広がっていた。圭吾はその夕焼けを幾分か見つめると、むくりと起き上がった。圭吾はベットの上で胡坐をかき、改めて部屋の中を見回す。彼の隣にある妻、香奈のベットは相変わらずきれいに整頓されていた。彼はそのベットの一点を見つめじっとあることを考えていた。それは昨夜のことだった。圭吾は眉をひそめて記憶を呼び起こす。
しかしされど思い出すことができない。
昨日の帰宅途中からの記憶がないのだ。気がついたら部屋のベットの上で眠っていた。帰宅途中に酒でも飲んで酔っ払ってしまったのだろうか。圭吾は浮足立つ気持ちを押さえリビングへ歩を進める。リビングでは朝食を並べたテーブルの椅子に腰を掛け、テレビを見ている香奈がいた。彼女は圭吾が起きてきたのに気付くと、テレビから視線を外し、「おはよう」と言って圭吾を一瞥する。テレビからアナウンサーの声が聞こえる。どうやらニュースを見ていたようだ。彼は彼女に挨拶を返した。その後、食卓につくと朝食を食べ進めながら香奈に尋ねる。
「香奈、俺昨晩どこかおかしいところなかったか?」
香奈は首をかしげた。
「というと?」
「だから……、えっと……なんか様子が変だったとか。」
「あぁ、そういえば昨日圭吾くんすごく酔っていたみたいだったよ。」
「酔っていた……? ――あぁそういえば昨日、帰宅途中春樹から一杯行こうって誘われたんだよ。確か、安い場所があるとか言ってたけな……。」
「あぁ、じゃあそのせいじゃない?足取りが若干ふらついていたから。結構お酒飲んだの?」
「いや……、そんなに飲んでいないような気がするんだけどな……」
圭吾は腑に落ちないような顔をしながらも、これ以上考えても無駄だと悟ったのかその件について深く考えることはなかった。
香奈は圭吾と朝食を取り終えたあと、一人食器を片付けていた。
蛇口から流れ出る水の中で細かく白い水泡が躍る。水泡達は彼女の両手に当たるまでの刹那の時を嗜んでいるようだった。その後それらは心地よい音を立てながら食器に着いた泡をスルリと流し、排水口へ消えていくのだった。そして排水口の周りには水の勢いに流されまいとしがみ付く洗剤の泡たちが微かに残っていた。蛇口から出た水はどんどんとが黒い穴の中へ吸い込まれていく。それはまるでブラックホールのようだった。
突然香奈のすぐ近くでスマホの着信音が鳴った。彼女は手を伸ばしてスマホを引き寄せると画面を確認する。画面には、つい先程来たばかりの通知が表示されていた。それを見て彼女の表情が少し曇った。
「ゆうた……」
彼女が寂し気に呟いた。よく見ると彼女の視線はタスクバーではなく待ち受け写真に向けられていた。待ち受け写真には三歳くらいの男の子が映っていた。男の子がこちらに向かってにっこりと笑いピースをしている。
彼女の中で優太との出会い走馬灯のようにありありと思い出された瞬間だった。
香奈が優太と出会ったのは、まだ彼女が圭吾と出会う前、優太がニ歳くらいの時だった。彼は香奈の実子ではなかった。
彼女は当時アパートで独り暮らしをしており、生計を立てるためにバイトをいくつか掛け持ちして生活していた。そんなバイトの帰り道に必ずと言っていい程、毎回通る公園があった。そこは彼女のアパートから程遠くない距離にある公園なのだが、普段子供が遊んでいるところは見たことがなく、錆びた滑り台やブランコが寂し気に揺れる廃れた場所だった。
ある夏の日の昼過ぎ、香奈がいつものようにバイト先から帰宅途中、公園の前を通りかかった時、その公園の滑り台の下に何か動くものを見つけた。彼女は道路を挟んだ反対側にある公園の滑り台の下を遠目で覗き込む。するとやはり動くものがあった。
彼女は恐る恐るその滑り台の近くへと近づいて行った。
すると、そこには三歳児くらいの小さな男の子がうずくまっていた。
男の子はつぶらな瞳でこちら側を覗き込む。
その天使のような可愛らしさに彼女は悶えた。
香奈はきょろきょろと周りを見渡す。近くにこの子の親は居ないようだった。彼女は幾許か煩悶すると、やっとのことで意を決っし、その子を保護することにしたようだった。香奈はアパートへ連れ帰ろうとその子の手を引く。
途端につないだその手から全身に電流が走ったような錯覚を覚えた。
小さく柔らかいその手は彼女の手を微かに握り返しす。それだけで彼女は酩酊するような幸福感に惑溺し、微弱な官能的快楽までも覚えたのだった。その後彼女は幸福感に打ちひしがれながら、その子の手を引き、アパートまで連れ帰った。それからしばらくの間は彼女がその子供のことを保護して育てることにした。ところが、あいにく発語がまだだったようで、名前も何も分からない。彼女が尋ねても漆黒のつぶらな瞳でただこちらをじっと見つめるばかりだった。香奈は悩んだ末彼女自身の一存で決めることにした。
そうしてついた名前が優太だった。
それから時は過ぎ優太は三歳になった。相変わらず言葉を話すことは苦手なようで、まだ喃語しか発したことがなかった。それでも体の方は着々と成長し、去年よりも一回りも大きく見えた。
そんなある日のこと、香奈が優太と一緒に出掛けている最中のことだった。満員とまではいかないが人がたくさんいる電車の中、彼女らが立って電車に乗車していると、どこからか強い視線を感じた。香奈は恐る恐る視線を上げる。すると前に座る中年男性と目があった。視線に圧力を感じる。どうやらこの男が先ほどから香奈たちを注視していた犯人だったようだ。香奈は辟易する。これといった被害は受けていないものの不安になった彼女は場所を移動することにした。彼女らは電車が次の駅に停車するのを見計らい一度電車を電車から降り、再度別車両へと身を移した。
しかし、移動した別車両にもその男はいた。ドアのすぐ近くの手すりの部分によっかかり、またもや高圧的な目で彼女らのことを注視していた。まるで香奈たちが車両を移動することを分かっていて電車内から先回りしていたようだった。
彼女の背後で車両のドアの閉まる音が聞こえる。その乾いた音が電車内にむなしく響いた。電車内が静かなせいか閉まる音は無情に大きく聞こえる。それはまるでゲームオーバーを知らせる音のようだった。
万事休すだ。
ひとまず、彼女は優太を自分の後ろにやって隠すと突拍子もなく彼女は車両内を見渡す。そして、よしと頷くと大きく息を吸い叫んだ。
「すいません。誰か助けてください!痴漢です!」
彼女は叫んだ。
周囲の視線が一斉に彼女たちの方へ集まる。
彼女は続けざまに言った。
「この男が痴漢をしてきました。誰か捕まえてください!」
香奈が中年の男を指さす。
男は困惑と狼狽の色が混濁したような表情をし、あたふたしだした。
そのうち乗客の一人がこちら側に小走りでやって来た。
スーツを身にまとった筋肉質な肉体に、清潔感漂う七三分けの髪をした男だ。
男は「大丈夫ですか?」と心配そうな顔で香奈に尋ねた。
香奈は緊張感がほどけたような安堵の表情で頷いた。
男は依然として恐慌をきたしていた。
その後中年の男は勇敢な男の手によって警察へ明け渡されていった。
「先ほどはありがとうございました!」
香奈は深々とお辞儀を下げて言った。
静閑なホームの中、彼女の声が木霊する。
ホームで電車を待つ何人かの人々が一瞬こちらを振り返っては、また視線を戻した。
「いえいえ、僕はそんな大層なことはしていませんよ。」
勇敢な男は表情を緩め、ボリボリと頭を?きながら言った。
「いえいえ、そんなことありません。あなたがいなければ私たちはどうなっていた事やら……本当に感謝してます。何かお礼をさせてください。」
香奈が食い下がる。
「そんな、お礼だなんて……。本当に大丈夫ですから。お気をお使いになさらず。」
そう言って勇敢な男は微笑みを浮かべた。
「そうですか――。ではせめてお名前だけでも。」
男は照れたように頭を?きながら言った。
「松村 圭吾です。」
こうして香奈と圭吾は出会ったのだった。
燦々と日差しが照りつける道を奏太は小走りで進んで行く。
時折スマートフォンで時間を気にする素振りを見せながら。
そうして彼が向かった先は、背の高いビルが立ち並ぶ博多駅北口だった。
奏太は北口に到着すると辺りをきょろきょろと見渡した。その額には今まで走って来たせいか、小粒の雫が光っていた。
しばらくすると右往左往していた彼の視点が一点に止まった。
彼は右手を高く上げると軽く左右に振る。
間もなく奏太の元へ一人の人物がやって来た。
「奏太くん。ごめんね待った?」
そう言って彼の元へ歩み寄って来たのは、白いセーターを身に纏い上機嫌そうに顔を緩めたユカリだった。
「いえいえ、僕も今来たところですよ。」
奏太は先程までの疲れを感じさせない爽やかな笑顔で答える。
「そっか、じゃあよかった!」
彼女は奏太に微笑んだ。
気まずい沈黙が流れる。
奏太が切り出した。
「……本日は八時間プランのご予約ありがとうございます。それでは、今からプランを開始させていただきます。」
そいうとユカリは少し哀切に表情を曇らせる。
奏太は大きく息を吸うと、先ほどとは打って変わって顔いっぱいに笑顔を作った。
「じゃあ、今日は八時間しっかり楽しもう。“お母さん”」
「うん!」
“お母さん”そう言うと彼女は嬉しそうに顔を綻ばせた。
午後七時四十分になった。
ゴウンゴウンと音を立て走る列車に揺られながら、奏太はユカリと隣り合って座席に座っていた。窓の外では街頭やビルの光が転がる様に後ろへ流れていっていた。
彼はユカリとの“業務”を終え彼女を最寄りの駅まで送っている
最中だった。
「ホントいいのにー。わざわざ送ってくれなくて。」
そう言いつつも彼女の顔は嬉しさを明快に表現していた。
「いえいえ、そういうわけにはいきませんよ。“お母さん”を安全に送り届けるのは“息子”の使命なので。」
意気揚々と彼は言った。
この日奏太はユカリから支払い額よりもかなり多くお金をもらった。それですっかり上機嫌になった彼はサービスのつもりで“お母さん”呼びを続行していたのだった。
キンという鋭い音を立て、電車は駅に停車した。
彼女の最寄りは博多駅から一駅しか離れていないJR竹下駅だった。都心からのアクセスが良好なうえに近くにショッピングモールなどもあり住みやすそうな印象を受けた。
奏太は改札口を出るとユカリを近くのコンビニエンスストアまで見送った。
彼女を自宅まで送ってやりたい気持ちは山々だったようだが、事務所のルール上客の自宅を知ることは禁じられていたため、あえなく断念したようだった。
香奈はぼんやりと街灯が照らす道を歩きながら、名残り惜しそうに何度もこちらを振り返る。
着々と小さくなっていく彼女を奏太は、笑顔で耐えなく手を振りながら見送った。
彼はユカリの行く末を見届けると今まで振っていた手をダラリと気怠気に垂らし、すっと真顔に戻る。
そのままくるりと踵を返すと一直線に駅の方へと歩いて行く
――つもりだった。
駅まで戻ろうとする彼の目の前に一人の人物が立ちはだかったのだ。
その人物を見て奏太は目を丸くした。
「おぉ夢、奇遇だね。」
そこにはブランドもので全身を固めた夢がいた。
その出で立ちを見る限りパパ活の帰りということが容易に想像できた。
しかし、その表情はどこか曇り、翳りを帯びていた。
夢が訝し気に奏太に尋ねる。
「奏太今の人って……」
夢が言葉尻を濁したので奏太は「あぁー」と言い言葉の意味を汲み取ったように数回小さくうなずく。
「最近話してた、めっちゃ貢いでくれる定期の依頼主だよ。」
「え……、あの人が?」
夢の顔色がみるみるうちに青白くなっていく。
彼女の指先が震えていた。
「どうしたの?」
奏太は俯く夢の顔を心配そうに覗き込んだ。
途端に夢は顔をそむける。
そのまま彼女は逃げるようにその場から走り出した。
「えっ、待って夢!」
奏太は夢の手を掴もうと手を伸ばす。
しかし、手は彼女に触れることなく空を切った。
夢が脇目も降らずに走っていく、奏太を一人残して。
あの時と同じだった。
まだ未熟な彼が、消して許されない過ちをおかしたあの夜と。
奏太の中を何か嫌な予感が駆け巡る。
一瞬のうちに彼の脳裏にあの夜がフラッシュバックした。
闇夜に駆ける夢の背中が。
一人置いてけぼりを食らった子供のように、ただ茫然として、哀切な気持ちに浸るだけだったあの闇路が。
あの時夢を止めることができていれば……と、何度も呪った愚かな自分が。
気が付くと奏太は走り出していた。
前を走る夢を捕まえようと、息きれぎれになりながら走る。
いつの間にか彼らの周りからは人の気配が消え、通行人はおろか自動車すらも姿を消していた。
薄暗い世界の中、二人の両脇で等間隔に並ぶ街灯がぼんやりと辺りを照らす。
ひっそりとした世界の中、二人の荒い吐息とバタバタと不規則に地を弾く足音が木霊する。
近づいたり遠ざかったりする夢の背中が、不規則なリズムで上下左右に揺れる。
色白で細い彼女の腕が、「どうかもっと遠くに行きたい」と願うかの如く、揺れる体の横でめちゃくちゃに振られていた。
奏太はその手を捕まえたくて、必死に手を伸ばした。
それでも触れることさえできず、夜風に吹かれるように惨めにひらひらと漂うだけだった。
激しい動機が二人を襲う。
それでも二人は走り続けた。
嗟嘆の混じった淡い息を吐きながら。
まるで見えない何かと鬼ごっこでもするかのように。
走る。走る。走る。
奏太は未来永劫にこの世界が続くような気がした。
まばゆい色が世界を染める。
警固公園に着いた。
夢の足が止まっていた。
奏太も夢も肩で息をしていて、苦しそうにその場にへたり込む。
固い地面の感触と小石、あとは塵芥、砂。それらの感触が一度に奏太の背中を襲った。
疲労困憊。満身創痍。
気が付くと二人の周りには光が戻り、音が戻り、人々の影が世界を埋めた。
通行人の刺すような目線が彼らを貫く。
それでも彼らは気にしないように、もしくはそこまで意識が行き届かないのか、呆然と寝転がっていた。
背の高いビルが立ち並ぶ中心にこの公園はある。
寝転がって上を見上げると、ポッカリとそこだけ穴が開いたように濁った夜空が広がっていた。
それでもビルの燦然たる光が空を染めるおかげで、星羅雲布の夜空の皮を被っているようだった。。
あちらこちらから種種雑多な男、女の声、自動車、バイクの騒音が聞こえてくる。自動車の騒音に交じって、キャバクラの広告車両の音楽までもが耳をついた。
「……死ぬかと思った。」
隣で声が聞こえる。
奏太は声のする方へ頭を動かした。
そこにはすでに休息を終えて、息を整えた夢がしゃがみこんでいた。 奏太も体を起こす。
「……ていうか、死にたかった。」
平然とした口調だったが、そのことばの片鱗に何とも形容しがたい重みが感じられた。
「このまま走り続ければいつか力尽きて、そのうち息が出来なくなって死ねるかも……とか思ったりもした。」
「……消えたかった。一刻も早く。この世から。」
奏太は夢の顔を見る。
いろいろな光を受けて、表情がよく読みとれた。
彼女は、取り繕った真顔で遠くの方を眺めていた。
夢は一度だけ深呼吸をすると続けざまに言った。
「……あのね、実はさ……さっきの人、私のお母さんなんだよ。」
奏太は一瞬彼女の言ったことが理解できずに固まった。
そして事の重大さに気づいた時、彼は戦慄した。
「……さっきの人って、ユカリさんのこと?」
少し間が空いて彼女が答える。
「なにその名前。そんな偽名使ってまでママ活してたんだ。」
彼女は乾いた笑いをあげた。直接的な答えにはなっていないものの、これは同意の意を示すものに他ならなかった。
「嘘……」
「本当だよ。」
「見間違い……じゃなくて?」
奏太は半ば縋るような気持ちだった。
「違うよ。何なら証拠見せてあげてもいいけど。」
そう言って彼女は懐から一枚の写真を取り出した。
彼は夢からそれを受け取った。
写真の中では三人の人物が肩を寄せ合って幸せそうに表情を緩めていた。写真の中心には幼い頃の夢(ユウ)、彼の横に父親と思わしき人物の顔がある。
そして、その中の一点を彼女は指さす。
そこには彼らの隣に並び、幸せそうに笑うユカリの姿があった。
奏太は言葉を失った。
追い打ちをかけるように彼女が言う。
「これだよ。……これが私のお母さん。」
彼女の目から光が消えた。
奏太は羊の毛皮を被った狼に背後から噛みつかれたような錯覚を覚えた。
午後十二時四十分。
圭吾と春樹は署内のデスクで昼食をとっていた。
圭吾のデスクは窓側から隔たった部屋の中央付近にあり、その隣に春樹のデスクが位置していた。
「おい、圭吾。聞いてくれよ。」
隣で弁当を頬張る春樹が顔だけを圭吾の方へ向けて話しかける。
「うちの幸人のテストがこの前帰って来たんだけどよ、その結果があまりにも悪くて……」
幸人というのは春樹の一人息子の名だ。
春樹は頭を抱える素振りを見せた。
「はー、相変わらずだな。」
圭吾は明快に笑う。弁当箱から箸で白米のひとかけらを持ち上げ口へ運んだ。
「笑い事じゃねえんだよ。真剣に悩んでんだから。」
「悪い、悪い。で、どのくらいだったんだよ、そのテストの結果っていうのは。」
春樹は一瞬ためらうような素振りを見せると言った。
「学年で下から数えて五番目だぜ。」
「これはまた、えらい点数とったな。」
圭吾が明快に笑う。
「だから笑い事じゃねえんだって、もうほんとどうしようもねえよ。まったく、なんでこうなったんだか……」
「まあ、別にいいじゃねえか、またテストはあるんだしよ。」
あっけらかんと圭吾が言ったのが気に食わなかったのか春樹は眉を寄せた。
「まったく、他人事だからそんな呑気なこと言ってられるんだぞ。」
「まあな、しょせんは他人事だけどよ。」
圭吾は春樹をなだめるように言った。
「……そういえばなんでそんな点数を取ることになったのか原因を考えたりはしなかったのか?」
圭吾が続けざまに言った。
「考えたさ。あいつが言うには寝不足だったらしいけどな。」
「寝不足か。そりゃしょうがねえな。」
圭吾はまた豪快に笑った。
「だからしょうがなくねえんだって。まず、テストの日に寝不足になるのがいけねえんだって。」
「まあ、たしかになあ。でも、まあ俺だって寝不足でミスすることはしょっちゅうあるしなあ。」
圭吾はハッとした顔をして呟く。
「……寝不足といえば、俺、最近夜になるとやけに眠くてよぉ。」
「そりゃ夜なんだから当たり前だろ。」
春樹はきっぱりと言い張った。
圭吾はかぶりを振った。
「いや、そうじゃないんだよ、なんていうか、気を失うのに近いような感覚で、それを必死に耐えてるっていうか……説明が難しいな。」
「なんじゃそりゃ。じゃあなんだ、その耐えるのをやめたら気絶しちまうとでも言うのか? じゃあ、出先でその眠気とやらが襲ってきたらどうなるんだよ。……まさか、そのまま寝ちまうのか?」
圭吾は目を見開いて、首を大きく縦に振る。
「そうそう、そうなんだよ。耐えられなくなったら、意識がなくなっていって、それで気づいたら家のベットの上で朝を迎えてるんだよ。」
春樹が訝し気に圭吾を睨む。
「家のベット?まさか、その気を失ってい間に体が勝手に一人歩きして家まで帰り着いているとでもいうのか?」
「そうなんだよ。」
疲弊した顔で話す圭吾に春樹は噛みつく。
「はぁ?そんなファンタジーなことあるわけねえだろ。第一そんなことあったら嫁さんが気づいてるはずだろ。」
「いや、それがどこも変わりないって言ってるんだよ。」
「じゃあ、お前の思い違いなんじゃないのか?」
「いや、そんなはずないんだけどな……」
「いや、そんなことあるだろ。もしくは夢遊病か何かだな。まぁ、お前に限ってそんな病気かかるはずねぇけど。―――まぁ、なんだ、そんなに気になるようなら一度病院で検査でもしてみたらどうだ?」
多少は気掛かりになのか春樹は声色を変えて圭吾に提案する。
「そうだなぁ。まぁ、今度行ってみようと思うよ。」
対する圭吾は呑気に答えた。
それから彼が検査に行ったのは程なくしての頃だった。
彼自身、検査に行く気は毛頭なかったようなのだが、憂えた春樹がわざわざ病院を調べてくれたようで、行かざるを得ない状況になったようだ。
1時間にも及ぶ検査を終え、結果が即日出ないことを看護師に伝えられると、圭吾は口惜しそうに病院を後にした。
午後十時
いつものようにカスミは目を覚ます。
今日はベットの上だった。
彼女は少しだけ体を持ち上げ、起きようと試みる。
しかし、寸分もたたぬうちに、また崩れるようにベットに倒れ込んだ。カスミはあの警固公園の一件以来長らくこんな調子だった。
彼女はあの日以来生きている心地がしなかった。
あの時の@yumeの顔が浮かぶたびに、頭が割れるような頭痛に悩まされ、胃の奥から胃液が奔騰するような感覚が襲った。今にも溜飲してきそうな胸中の怒り 、悲しみ、悲憤慷慨 によって人形みたく操られているようだった。艱難辛苦が取りついた日常で、彼女は惰眠をむさぼる生活を繰り返していた。
カスミは手近にあったスマートフォンを取る。
イマスタを開く。
一番上にあった投稿が彼女の目に飛び込んできた。
@yumeの投稿だった。
彼女は画面を睨むように目を細めた。
インターネットの中の彼女は相変わらずきれいで、幸せそうに息をしていた。
そんな投稿を見るたびに、またカスミの中で何かが溢れ出した。
部屋の中が翳る。
アプリを閉じる気力さえなくなった彼女の右手は、スマホを横に放り投げ、陰湿さを十分に含んだ部屋の中の空気を?く。
カスミは深いため息を吐いた、まるで自分の中に溜まった沈鬱な気分までも一緒に吐き出しているようだった。
ため息で満たされた部屋の中はまるで深い海の底みたく、ただひたすらに暗く、息が詰まりそうだ。
未処理の怨嗟が浮かんだ海の底で彼女は再び眠りに落ちた。
ネットカフェの個室の一角、奏太は一人以前よりも広くなった部屋の中で呆然としていた。照明の点いていない部屋の中、パソコンのモニターから漏れる光だけが周りの状況を把握させる唯一の手立てだった。
奏太は壁にもたれ掛かり、曇りきった顔を俯かせて座り込んでいた。
奏太は今、深い苦境に陥っていた。
昨夜以来、夢が口を利いてくれなくなってしまったのだ。突然のことで彼自身も困惑していた。話しかけようと彼が近づいても、そそくさとどこかへ逃げて行ってしまう。彼は自分が避けれられていることを如実に感じた。その後すぐに夢はこの部屋を後にし、別の個室へと移ってしまった。
そのことが原因で彼は気が滅入っているようだった。
その日の正午、奏太の携帯に一本の連絡が入った。
事務所の田中からだった。
「こんにちは田原君。田中です。急なのですが、今夜vipのお客様が田原君を指名でプランをご予約されました。それに付随して、今晩は予定を空けていただくようよろしくお願いします。」
奏太は深いため息をついた。
vipの客は原則即時予約が可能となっている。そのため奏太達“従業員”は、たとえスケジュール的に都合が合わなくても、無理やり予定を変更しなければならないのだ。
奏太は重い腰を上げ支度を始める。
まだ予定時刻まで時間はごまんとあったが、手持無沙汰であったのだろう。
それから支度を終えた奏太は散歩へ出かけた。
理由は無論暇つぶしのためだった
ネットカフェを出た彼は警固公園の前まで差し掛かっていた。
そこで彼は公園内で時間をつぶすことにした。
あの日と同じように、ただ行き交う通行を眺めて物思いにふけるのだ。奏太は公園内のベンチに腰を掛けた。
そこで彼は目を見張ることになる。多くの人を隔てた向こう側に見覚えのある出で立ち。
そこには夢の姿があったのだ。
彼女は紺色のロングコートを翻しながらターミナル駅の方へと歩いて行っていた。どこか浮足立っている様子の彼女を目で追う。
奏太は幾何か悩んだ末に彼女の後を追うことにした。
彼女は五分程歩いた末に100円ショップに入っていった。
奏太もつられて中に入る。
夢は彼の存在に気づいていないようだった。
彼女は何か目的の物を探すかのように店内を右往左往している。ちょうど夢が奥の方の列の品薄な棚の前に差し掛かった時、
奏太は隙を見計らって棚越しに彼女の表情を視認した。
そこで彼は息を飲む。
そこにいたのは奏太の知っている夢ではなかった。
彼女は見るも無残なひどくやつれた顔をしていた。
目の下のクマの黒さが彼女の疲弊を物語っていた。さらには、目だけが爛々と怪しい光を放っており、奏太は本能的に身震いをする。
そんな彼の絶句に気づいたのか、気づいていないのか彼女はハッとした顔をして場所を移動する。
夢は足早に料理コーナーへ移動した。
どうやら彼女はまだ奏太の存在には気づいていないだった。
奏太はひとまず安堵する。
彼女の両側を隔てる棚の中には食器類やフライパン類、料理の便利グッツなどが所せましと並んでいた。夢はその中の一点を凝視している。
そこには種々雑多な包丁が整然と並べられていた。
奏太は思わずぎょっとする。
彼女は真剣な表情でそれを見つめていた。また、時折そのうちの一つを手に取ってみては、何かを深く考えるそぶりを見せた。その時彼女は決まって苦しそうに顔を歪め、下唇を強く噛むのだった。彼女の下唇にはうっすらと血が滲んでいた。
はたから見ると、やはり彼女の様子がおかしいのは明確だった。
商品の陳列をしている定員までもが、訝し気に彼女の様子を窺っている。
しかし彼女はそんなことお構いなしで遮二無二にそれらを吟味していた。
それから次に彼女がその場を動いたのは、入店後四十分を過ぎたあたりだった。
彼女はたくさん並んでいるうちの、一番オーソドックスな形の包丁を手に取ると、足早にレジへと向う。
その後、会計を済ませると、すぐさま店を後にした。
奏太も慌てて店を出る。
その後再び彼女は再びどこかへ向かって歩き出した。挙動不審な彼女の様子が、奏太の中の嫌な予感を急速に駆り立てた。
奏太はそんな胸騒ぎを抑えて、気づかれぬように細心の注意を払い尾行する。
夢の小刻みに震える背中が奏太の前を行く。
その背中を見て、意図せず彼の脳内に最悪の事態の情景が浮かんできた。
それは、夢が自分自身の手でその鋭利な刃先を柔らかな胸に突き立て、和肌を切り裂き自害するというものだった。
奏太はそれをかき消すようにかぶりを振る。
しかし、夢が来た道とは反対の方向に歩を進めるたびに、奏太のその疑念は容易く鮮明さを増していった。
奏太の目には、彼女が自分の人生を終える場を探し彷徨っているように映った。
彼はそんな最悪の情景が色濃く脳裏に投影される度に、この場から逃げ出したいという逃走本能のようなものに駆られた。
しかし、彼の中に眠る潜在的な何かがそれを許そうとしなかった。彼は半ば引きずられるように彼女の後を追う。
気が付くと見慣れた駅の前まで来ていた。
目の前に佇む入り口の看板には、ユカリの最寄りである「竹下駅」の名が刻まれていた。
彼の脳内にユカリの顔が浮かんできた。
その時、不意に奏太の中に先程とは別の疑念が浮かんできた。
それは空気ボンベに繋がれたバルーンのごとく、急速に膨らんでいった。
途端に奏太は戦慄する。
それは、彼自身も驚愕するような常軌を逸した内容だったからだ。
しかし、もし彼の想像通りに夢が行動しようとしているのなら、今までの彼女の挙動不審な行動のすべてに合点がいくのだ。
彼は自分の悪い妄想が、まるでその事象が起きる地点までぐんぐんと邁進するかの如く現実味を帯びていっているように感じ、憂える。そしてどうかその荒唐無稽な予感が杞憂となってくれることを切望した。
しかし、彼の意に反するように夢は不明朗な行動を繰り返す。
彼女は周辺を見渡すと、覚束ない足取りで駅前のビルの陰に身を潜めた。
奏太も夢にばれることを危惧して、彼女とは違うビルの物陰に身を潜めた。この場所は夢が潜むビルと向かい合った対角線上に位置しているため、彼女の行動一挙手一投足をはっきりと見渡すことができた。
ビルの陰に隠れている彼女は相変わらず浮足立っており、その様子はまるで何かに怯えているかのようにも見えた。心なしか指先が震えているようだった。
雑居ビルの黒々とした影が彼女の全身を覆う。
奏太が空を見上げるとすでに橙に染まっていた。
時刻は午後五時半だった。
平日の夕方と言えども、この日はやけに人通りが少なかった。
見渡せども奏太と夢を除く、人っ子一人の気配すら感じられなかった。
橙色に染まった空の下、突如として夢が体を震わせた。
心なしか顔も先ほどより強張っているように見えた。
奏太は目を細めて夢の動向を見据える。
彼女は上空から獲物を捉えたトンビのごとく鋭い目つきで何かを睨んでいた。
奏太は彼女の目線の先を追う。
彼女の目線は、二つのビルがそびえ建つ中央にある竹下駅の入り口に向けられていた。
そこには駅の改札口から出てくる一人の女性がいた。
奏太は必死に目を凝らす、しかし強い西日のせいで顔がよく視認できないようだった。
女性は駅の改札口を出るとそのまま真っ直ぐに歩いてくる。彼女の進行方向から向かって左側には夢の潜むビルがあった。
奏太は女性と夢をかたみがわりに見る。
女性が近づくにつれ夢は落ち着きをなくしていった。青い顔をして、苦渋に表情を歪めているその様は、まるで何かに脅迫されているかのようだった。
彼女の頬にまた一筋、汗が伝う。
一筋の汗は彼女の顎を伝い、橙の光を明快に乱反射させながら静かに落下した。
それを皮切りにしたかの如く、夢が懐からあるものを取り出した。
奏太は目を見張る。
そこにはギラりと橙色の光を反射する包丁が握られていた。
彼はまさかと思い、歩いてくる女性に目を向けた。
先ほどまで女性を包み込んでいた燦然たる西日はもうそこにはいなかった。ビルの陰に遮られていたのだ。
女性の顔を見た奏太は吃驚する。
そこにいたのはユカリだった。
悪い妄想が妄想ではなくなってしまった。
彼の中でなにかがガラガラと崩れ落ちる音がした。
ユカリは彼らの潜む二つのビルの間を通りすぎて行った。
それを皮切りにして、夢がビルの陰から身を乗り出す。
それに気づいた奏太も、気が付くと足を一歩前に出していた。
そして彼は走り出した。夢の潜むビルの方へ、猪突猛進する。
意識的に走り出したわけではなかった。ただ彼の中に眠る潜在的な何かがそうさせたのだ。
彼は走りながら横眼にユカリを見た。
彼女はこちらに気づく様子は一切なく、平然と道を歩いている。
奏太は少しばかり胸をなでおろした。彼の走るスピードが緩まる。
ところが、安堵したのも束の間、彼は絶句した。
向かいのビルから半狂乱になった夢が飛び出してきたのだ。
彼女の目線は一直線にユカリの方に向いている。
よく見るとその手には包丁が握られていた。
興奮した様子の夢が奏太の前を通り過ぎる。
その時、血走った目が一瞬こちらを向いた。
瞬間、彼女は驚愕した様子で奏太の顔を見る。
そして、立ち止まる。
彼女の口元が微かに動いた。
聞こえないほどの微弱な声だったが、確かに彼女は言っていた。
「なんで」と。
哀切に瞳を潤ませ奏太を見つめる。
奏太は何も言わずにただ辛気臭い顔で夢を見つめることしかできなかった。
そんな彼に夢は寂し気な笑みを浮かべる。再び彼女は走り出した。
しかし、そんな夢を止めるように奏太は彼女の前に飛び込んだ。
数秒後、奏太は腹部に燃えるような激しい痛みを感じた。
夢が顔面蒼白になって後ずさりをしている。
その時彼女の手にはすでに、包丁は握られていなかった。
「いっっったっ」
奏太は短い悲鳴を上げて腹部を抑える。
金属のような固い突起と生暖かくぬるぬるとした感触が彼の手に触れる。
彼は驚いて自分の右手を見る。
べっとりと真っ赤な血がこびりついていた。ところどころ赤黒く濁っているところもあった。
彼は驚愕して腹部に目をやる。真っ赤に染まったシャツから包丁の柄の部分が飛び出していた。
奏太は朦朧とする頭で事態の取集が追い付かず、呆然自失する。
喉の奥で嗚咽が鳴る。
途端に何かが溜飲してきた。
彼は口を拭う。
そこにも真っ赤な血。
彼は深紅に染まった両手を見る。そのうち、脳が思い起こしたかのように患部からじりじりと、寄波のように痛みが広がってきた。
瞬間、声を出しかねるほどの激痛が迸る。
奏太はその場で崩れ落ちるように倒れる。
そして、悲痛に顔を歪めた。充血した目は目玉が飛び出そうになる程大きく見開き、歯を食いしばった。瞳にはうっすらと涙が浮かび、歯の隙間からは小さく呻き声が漏れ出していた。
奏太の正面では夢が絶望に顔を委縮させている。震える唇で無暗に謝っていた。
「ごめんね……ごめんね……」と、何度も。
まるで呪文を唱えるかのように。
自分を戒めるように。
しかし、絶望に潤んだ彼女の瞳が奏太の姿を捉えることはなかった。
翳る二つの眼は、いつまでも下を向くばかりだった。
彼女の臆病な心では、この無惨で不可逆な現実を受け止めることは限りなく不可能なことに相違いなかった。
そんな彼女をよそに、奏太の息が上がりだす。
彼は苦しそうに顔を顰め、肩で息をしていた。
しかし息をするたびに、まるで喉に痰がへばり付いている時のようなガラガラという雑音がして、うまく呼吸ができていないようだった。
数秒も経たないうちにその息は詰まるようになり、彼は咳き込む。
奏太は苦痛に歪んだ目に諦念の色を醸し、ノイズ交じりの長息を吐いた。
彼は、眇ませた目で夢を見る。
そして、残された最後の力を振り絞るように無理やり笑って見せた。
痛々しいほどに。
その時、夢がまるで何かに顔を叩かれたようにハッとして、奏太の方を向く。
そこには、あの時と同じ笑顔の奏太がいた。
夢はたまらず駆け寄る。
すると、彼は声を絞り出すようにして言った。
「夢は悪く……ない……これ……は事故だ……。だから、君には……何の罪もない。」
奏太は苦しそうに一息吸うと、続けざまに言った。
「でも、もし……誰かに……見つかっ……たら、……確実に君……は罪を問われることになる。 だ…から、夢……僕を隠せ、……決して……見つからないように……」
夢が泣きそうな顔で何度も頷く。
それを見て奏太は満足そうに微笑んだ。
「それと夢……ありがとう……。僕は……君のことが………大好きだ…………」
奏太の手から力が抜けていく。
やがて彼は息を引き取った。
夢は改めて彼を見た。
そこには満面の笑みなのに頬には無数の涙が伝う、ちぐはぐな少年の姿があった。
夢は暗くなった夕焼けに背を向けて、大声で喚き、叫んだ。
先程降り出した遣らずの雨が止むことはなかった。
街灯が消えた深夜、一人の少女が少年の亡骸を背負い暗い夜道へ消えていった。
後日近くの廃火葬場で一人の遺体が見つかった。遺体は火葬炉の中に遺棄されていたらしい。無論、その後警察による調査が行われたようだが、詳細は分からなかったようだ。なぜならその遺体は、すでに何者かにより火葬され白骨化していたからだ。
被害者に関する手がかりは、立ち上る煙と一緒に塵となって消えてしまっていた。
一朝一夕に時は流れ、奏太の死から一か月ほど経った。
ここ何日か続いてる穏やかな晴天は今日も健在で、心地の良い暖かさが町を包んでいた。心なしかこの町で息をする人々の表情も晴れやかに見える。
そんな平穏な街で一人、その世界から隔離されたように陰鬱な表情を浮かべる者がいた。
夢だった。
彼女は、生気のない顔で真っ暗な部屋の天井を、放心状態で眺めていた。
時の流れが夢の罪悪感や魑魅魍魎な感情たちを払拭してくれるはずもなく、今でも彼女は抑鬱に虐げられていた。
奏太が没してからの約一カ月間、彼女は何日も眠れない夜を過ごし、食事をとることさえもままならない日々を過ごした。
そんな日常に嫌気がさし、「いっそこのまま死んでしまおう」と何度も自殺を試みた。何度も高所に立った。何度も縄を結んだ。何度も刃を突き立てた。
しかし、そのたびに奏太を刺した感触、光景がフラッシュバックして怖くなり、自殺することができなかったのだ。
そうやって思いとどまるたびに、また彼女は自己嫌悪し、後悔の海に浸る。
そんな悪循環に彼女は徐々に、しかし如実にズブズブと沈んでいくのだった。
そんなある日の夜、彼女は突拍子もなく急激な空腹に襲われた。
彼女は必死に堪えようとした、が無駄だった。
夢の意識とは反対に体はどこまでも食べ物を欲した。
居てもたってもいられなくなり彼女は部屋を飛び出した。
ずっと部屋の中に居たため気がつかなかったが、外はすっかり暗くなっていた。
しかし、彼女はそんなこと気にも留めていないようで、無心で近くのコンビニへ駆け込んだ。
そしてコンビニで大量に食物を買い、むさぼり続けた。
彼女の意識とは反対に体は必死に生きようとしていた。
さんざん暴飲暴食して一息つくと、今度は急激な虚しさに襲われた。
彼女はそれさえも堪えることができず、近くの公園へ行く。
人肌恋しさに久々ににイマスタへの投稿もした。
しかし、やはり何かが物足りないようだった。
彼女の中には孤立した虚しさだけが残った。
あたりが暗くなりだした午後十時。カスミは自宅の目の前で目を覚ます。
右手に微かな重みを感じ、そこへ目をやった。
右手にはスマホが握られいた。
その時不意に「今、あの女は何をしているんだろう」という思いに駆られた。
彼女は長らく開いていなかったイマスタのアプリをタップする。
アプリを開くと新着の通知が来ていた。
カスミは何気なくそれをタップするのだった。
画面が移行して、とある投稿が表示された。
投稿時間、三十秒前。
その表示が彼女の目に飛び込んでくる。
投稿者は@yumeだった。カスミの顔が上気する。彼女はとある風景の写真をアップしていた。
そこに写るものを見て彼女は目を見張る。
そこには見慣れた景色。警固公園のベンチが写っていた。
血走る目。たぎる血潮。
弾かれたように彼女は走り出した。
夜八時半。
夢は公園を後にして、ネットカフェへ帰っている最中だった。
彼女は見慣れない道を歩く。
気晴らしにいつもとは違う道から帰っていたのだ。
この通りは、夜と言えども人通りや車の通行量が多く賑わっている。
彼女はそんな喧騒に満ちた道を歩いていた。
しばらく歩いていると歩道橋に差し掛かった。
夢は歩道橋の錆びた階段を登っていく。
階段を登りきると、夢は錆びた歩道橋から身を乗り出し、下の景色を見下ろした。
そこには、自動車のヘッドライトとビルの明かりできらきらと輝く街の姿があった。
彼女はそんな表面だけの美しさの町を恨めしく思った。
風が吹いた。
何本かの髪が彼女の顔にかかる。
それを払うように彼女は頬に触れた。
その時手のひらに、小さな突起が三つ四つ触れた。
ほんのり赤く腫れたそれは、色白な彼女の顔の上で憎らしいほどに存在感を放っていた。
度重なるストレスと不規則な生活のせいで、彼女の肌な荒んでいた。
彼女は深いため息をつく。
また歩きだした。
目前に階段が見える。
それを下ろうとした。
その時だった、彼女は後ろで微かな気配を感じたのだった。
夢は咄嗟に振り返ろうとした。
しかし、彼女が振り返るよりも先に夢の体は宙を舞った。
瞬間天地が逆転する。
いままで遠くに感じていた死が、大きな口を開け眼下で待ち伏せているようだった。
夢の体は階段を転げ落ちていった。
固い地面に叩きつけられた彼女は低く小さな悲鳴を漏らす。
手足はめちゃくちゃな方向に曲がり、右手の肘から骨が飛び出していた。
落ちた衝撃で打ち付けた頭部からは真っ赤な血がドクドクと流れ出ていた。
彼女の体は小刻みに痙攣する
しかし意識はまだはっきりしていた。
夢は必死の思いで階段の上へ目線を向ける。
そして、彼女は見た、階段の上で不気味に白い歯を見せて笑う黒い影を。
その黒い影は一通りその光景を楽しそうに眺めると去っていった。
静寂が過ぎ去る。
多くの未練が彼女を襲った。
また、多くの疑問や疑惑といったものが頭を駆け巡った。
しかし、その中に微かな解放の光が見えたのを感じて、彼女はため息を一つ吐いた。
夢は朦朧としだした意識の中、端無く「走馬灯なんて見ないじゃないか」と静かに自嘲する。
そこにあったのは、残酷で無慈悲で無惨な現実だけだった。
ふと、目の前に誰かが立っているのが見えた。
彼女は目だけを動かしてその人の顔を捉える。
奏太だった。
奏太がこちらを見てほくそえんでいた。
遠くで人の声が聞こえる、彼女は静かに目を閉じた。
暗い空のもと少女の安らかな破顔が一つ孤独に転がっていた。
6月24日 圭吾と春樹は通報があった件の歩道橋へ来ていた。
作晩、一人の女性が歩道橋の階段の上から何者かに突き落とされ命を絶った。
発見者によると遺体の状況は悲惨なものだったらしい。
話を聞いたところ、熟練した圭吾でも思わず耳を覆いたくなるほどだった。
事件後、歩道橋は通行禁止の黄色いテープが張り巡らされ、女性の死亡した場所にはブルーシートが高々と張られていた。
圭吾たちはそんなブルーシートの合間を潜って中に入る。
案の定中には警察、鑑識が複数人いた。
彼らは軽く挨拶を交わしつつ現場検証に取り掛かった。
数時間後、現場検証を終えた二人は一度署に戻った。
「なあ、圭吾一つアンケートに答えくれないか?」
デスクに深々と腰を掛けた春樹が言った。
珍しく神妙な面持ちの彼に、圭吾は訝し気に答える
「アンケート?これまたなんでそんな急に?」
「なぁに、ただの暇つぶしさ。特に深い意味なんてものはねぇよ。」
そう言うと、春樹は冊子のようなものを一つ圭吾に手渡した。
圭吾はしげしげとそれを見つめて言った。
「これまた随分本格的だな。」
「まぁ、心理テストとでも思って気楽に解いてくれよ。」
「おぉ、分かった。」
そう言うと圭吾はアンケートを解き始めた。
三日後の週末、圭吾と妻の香奈が町のショッピングセンターで買い物をしていると春樹から着信があった。
事件のことで分かったことがあるので来て欲しいという旨の連絡だった。
「すまん、今妻と買い物をしていたんだ。だから、一旦妻を家に置いてから行く。ちょっと時間がかかると思うが大丈夫か?」
「いや、好都合だ。一緒に来てくれ。大至急だ。」
好都合という三文字が耳に引っ掛かったが、言う通り香奈を連れて署へ直行した。
署につくと入り口のところで春樹が待ち構えていた。
「おぉ、待ったぞ。とりあえず来てくれ。」
春樹の声から若干の緊張が感じられた。
「すまんな、スーツじゃなくて。なんせ誰かさんが”大至急”で来いと言うもんだからな。」
圭吾は大至急という三文字を強調し皮肉を込めていった。
「悪かったよ。今度何か奢るから」
圭吾はふんと鼻を鳴らした。
署に入ると取調室に入るように促された。なんせ、他に人がいると話しにくいとかの理由だった。
圭吾は香奈を取り調べ室の外のソファーに座らせて、部屋の中に入っていった。
部屋の中はやけにひんやりとしていた。
剥き出しのコンクリートの壁に鉄パイプ製の机と椅子が、より一層部屋内の雰囲気を醸し出していた。
圭吾は春樹に座るように促され、椅子に腰を掛ける。
机上に一枚の紙が置かれているのが目に入った。
圭吾がその紙に手を伸ばす。
しかし、春樹はそれを制するように紙の上にドンとノートパソコンを置いた。
圭吾の方に向けられた画面にはとある映像が映っていた。
暗くてよく見えないがどうやら例の歩道橋のようだ。
「これは先日事件があった歩道橋の防犯カメラの映像なんだが―――」
春樹は話を途中で区切り、席を立つ。そして圭吾の後ろに回ると、部屋の鍵を閉めた。
カチャリという単調な音が部屋の中に大きく響いた。
「なぜ鍵を閉める?」
「いや、別に深い意味はねえよ。」
そう言うと春樹は再び席に着いた。
そして、圭吾に画面を見るように促す。
圭吾は画面を注視した。
しばらく映像は誰もいない歩道橋を映し出していた。
見かねた春樹が映像を倍速にする。
ふと画面の右端から女性が歩いてきた。倍速されているので、すごい速さで足が動いている。
春樹は映像を一旦停止させると、倍速を戻し、また再生させる。
夜景を眺めていた一人の女性が、ちょうど歩き始めるところから映像は再開した。
女性はゆっくりとした足取りで階段の方に向かって歩いていく。
すると、画面の右端からフードを被った男性が速足で歩いてきた。
女性が全く気付く気配がないところを見ると、おそらく足音を抑えていたのだろう。
男性はどんどんと女性に近づいていく。
そして、女性が階段に差し掛かった時には、すでに真後ろまで迫っていた。
そこで、さすがに女性も気づいたのか後ろを振り向いた、瞬間だった。
男が女性の背中を思いっきり突き飛ばしたのだ。
女性は無惨にも階段から転げ落ちていった、体をめちゃくちゃな方向に捻じ曲げながら。
男は階段の上からしばらく下を眺めていた。まるで女性の様子を観察するように。
そして、女性の動きが止むと満足したように踵を返した。
しかし、男は二、三歩歩くとまた立ち止まった。そしていきなりおなかを抱えてその場に倒れた。そのとき、男の体は小刻みに震えていた。
圭吾は最初、男が何らかの病気によって身もだえしているのかと思った。
しかし、一連の動作が病的な何かによって即発されたものではないことはすぐに分かった。
なぜならその数秒後、男の口元に光が当たり原因があらわになったからである。
男は笑っていた。
ただの笑いではなく、爆笑だった。
男はやっとのことで体を起き上がらせると、また歩き出した。
その時、ふと男がフードを脱いだ。
そこで、春樹が動画を停止させる。
深刻な表情で圭吾の顔を見ていた。
圭吾は困惑しつつ画面に目線を戻す。
再び画面を見たとき、彼は戦慄した。
そこには、フードの隙間から満面に、狂気的な笑顔を浮かべる圭吾の姿があった。
春樹は眉を顰め言った。
「圭吾、俺の言うことに正直に答えてくれ。 犯行があった日お前は何をしていた。」
圭吾はいつも自分が容疑者に聞いているはずのその言葉に、やけに重みを感じた。
彼は思考を巡らせ必死に考える。
「その日は、普通に仕事をして、そのあと……そうだ、お前と飲みに行ったんだよ。」
「あぁ、そうだな。そのあと何をしていた?」
「お前と飲みに行って……それで……それで……」
不思議なことにいくら思考を巡らせても圭吾は、春樹と飲みに行った後の記憶を微塵も思い出すことができなかった。
「……だめだ、思い出せない……。俺が……やったのか?」
その時春樹は、微かに神妙な表情を浮かべた。
「本当に思い出せないのか?」
圭吾は必死の形相で春樹に乞う。
「あぁ、本当なんだ。頼む……信じてくれ。」
春樹は長いため息をついた。
そしてパソコンの下に置いてあった一枚の紙を取り出した。
春樹は紙を裏返した。
そこにはびっしりと長い文字の羅列があった。
そして文の最後に大きくとある文字が書かれていた。
陽生。
「なぁ、圭吾。この前お前アンケートを受けたよな。」
「あ、あぁ。受けたな。たしかお前にやれって言われて―――」
「あぁ、そうだ。あれ実はな……テストだったんだよ。解離性同一障害の。」
陽生。その文字の左側には解離性同一障害の文字が書き綴られていた。
「簡単に言えば、多重人格だったんだよ、お前は。」
圭吾は混乱する。
「そんな……」
混乱する圭吾をよそに尚も春樹は続ける。
「お前、前に俺に話したことあったろ。夜中になると突発的に眠気が襲ってきて意識を無くしちまうって。」
圭吾は「あぁ。」と一言言った。
「どうやらお前は、夜十時になると人格が入れ替わってしまうらしい。」
圭吾は身じろぎできず閉口してしまう。
春樹がパソコンの画面を操作しだした。
「実はな、お前のメールアドレスで登録されているSNSのアカウントを見つけたんだ。」
そう言うと春樹は操作を終えたパソコンの画面を圭吾に見せる。
ある人物のプロフィールが表示される。
その下の投稿を見て圭吾は驚愕した。
そこには女性ものの服を着て、メイクをしている、言わば女装をしている男の写真が数多く投稿されていた。
そして、そこに写る男の顔は紛れもなく圭吾本人だった。
圭吾は自分の脳内がぐるぐるとかき混ぜられ渦巻いているような錯覚を覚える。
春樹がひとりでに言った。
「このアカウント、投稿時間が全部十時から十二時までの間だけなんだよ。」
春樹が写真の右上にあるアイコンをタップする。
画面が元のプロフィールに戻った。
アイコンの横にはアカウント名が表示されていた。
アカウント名は『@kasumi』だった。
静まり返った取調室の中、突如として圭吾が笑い出した。
春樹は彼のその様子を冷静に見つめていた。
「ばれちゃったかー。」
明らかに圭吾の口調ではなかった。
彼――彼女は笑い続けた。狂ったように。
取調室の中には血の匂いを含有した愉快な笑い声が響いていた。
春樹は取調室から出ると、今度は香奈を連れて別の取調室へと入っていった。
「あの……なんで取り調べ室なんでしょうか?」
「いや、別にこれといった理由はありませんよ。」
「そうですか。それで先ほどおっしゃっていた話って何のことでしょうか?」
「あぁ、それですか。別段大した話じゃないですよ。気にしないでください。それより、奥さんこのニュースをご存じですか?」
そういうと彼は、またもパソコンを操作して香奈の方へ向けた。
一瞬訝し気な表情の香奈が画面に反射する。
パソコンの画面には何年も前の古いニュースの映像が映っていた。
「―――次のニュースです。昨日午後四時半過ぎ、福岡県内の公園で『目を離したすきに息子がいなくなった』と母親から110番通報がありました。警察によりますと、行方不明になっているのは福岡県南区に住む男の子『沢田 湊』くん三歳で、昼過ぎ頃から公園で遊んでいたのですが、母親が電話に出るため目を離した数分の間に姿が見えなくなったということです。湊ちゃんは身長およそ90センチのやせ型で灰色のパーカー、迷彩柄のズボン―――」
春樹が映像を止め、香奈に尋ねた。
「この事件に関して最近また捜査が開始されたのを知っていますか?」
「あぁ、確かAI捜索が導入されたとかなんとか……」
「そうです。よくご存じですね。」
「えぇ、まあニュースは割とよく見るほうなので。」
「あぁ、そうですか。ところで、お宅の息子さんも行方不明になっていましたよね、確か十六歳の時に。」
香奈はあからさまに顔を顰めた。
「えぇ、まぁそうですけど。……それ何か関係あります?なんの脈絡もないことを言うのやめていただけませんか。まさかそのAI捜索とやらでうちの息子が見つかったわけでもあるまいし。」
「―――えぇ。見つかりましたよ、お宅の息子さん。」
香奈の動きが一瞬止まる。
「え……」
次の瞬間、彼女は目を見開いて歓声を上げた。
「本当ですか?本当なんですか?本当にうちの息子が見つかったんですか?」
満面の笑みを浮かべる彼女は春樹の手を取って言った。
「えぇ。見つかりましたよ。」
すると彼女は今にも飛び跳ねそうな勢いで喜び、春樹に何度も礼を述べた。
「それで、あの子は今どこにいるんですか?」
香奈が目を輝かせながら尋ねる。
「あまり急かさないでくださいよ。僕にだっていろいろ踏まなければならない“手順”というものがあるんですよ。場所は後で必ず教えます。だから、その前にいくつか質問させてください。」
「質問?わかりました。」
春樹は改まったように香奈に向き直った。
「先ほど見せたニュースのことについてなんですが……。あなたですよね、湊くんを誘拐したの。」
香奈はあからさまに顔を顰める。
「はぁ?いきなり何を言って―――」
「それと、その誘拐した少年、その子こそが優太君ですよね。」
「はぁ?違いますよ。なんでそういうことになるんですか。
……確かに優太は私の実子ではないですよ。でも、だからと言って、私が湊くんを誘拐して尚且つ自分の子供にした根拠にはなりませんよね。」
「いや、我々もそんな短絡的な思想で決めつけたりはしませんよ。ちゃんと証拠があります。しっかりと映っていたんですよ、防犯カメラにね。」
「はぁ?防犯カメラ?それなら当時も調べられたんじゃないんですか?それでも、結局何もわからなかったようじゃありませんか。」
「えぇ、当時はね。なんせ画質が荒かったもんで。でも、先ほども僕、申し上げましたよね、近年ではAIによる操作が行われているって。」
「何が言いたいんですか?」
「だから、AIを駆使して当時の防犯カメラ映像の画質を上げることに成功したんですよ。そこにあなたの顔がはっきりと映っていたんです。」
そういうと春樹がとある映像を香奈に見せた。
そこにはとある公園が映っていた。
錆びたブランコが寂し気に揺れる廃れた公園。その端の方には色褪せた滑り台。その下に何かうごめくものがあった。
正体はすぐに分かった。
男の子だった。
滑り台の下でしゃがんだ幼い少年。
その少年のもとへ一人の人物が近づいてきた。
髪の長い女。
その女はゆっくりとした足取りで少年に近づくと、強引に手を引き、あっという間にその子を連れ去ってしまった。
一瞬の出来事だったので香奈は女の顔を確認し損なったようだった。
すると、見かねたように春樹が映像を巻き戻した。
今度は映像が停止された状態で巻き戻した。
ちょうど女の顔がこちらを向いている場面が映し出される。
女の顔がはっきりと視認できた。そこには香奈に似た女の姿があった。
しかし、顔は今の香奈よりも一回り程若く見えた。
春樹が何やらパソコンを操作してアプリを立ち上げた。
するとその映像に映る香奈の顔が拡大され、その横に香奈の証明写真が出現した。その後、数秒間「Loading」の文字が画面中央でぐるぐると回る。さらに数秒後、『一致率 99.99…』の表示が画面中央にでかでかと表示された。
「そんな……そんなはずはないわ。機械が間違っているのよ。」
突拍子もなく香奈が声を荒げた。
そんな彼女に春樹は冷ややかな目をして言い放った。
「この時代、機械が間違えることなんて有るはずがないんですよ。」
すると香奈は先ほどとは打って変わって大人しくなりむせび泣き始めた。
「いやだ………そんな……いやだ……いやだ………………」
震えた声が部屋の中に静かに響く。
「優太は……私の子供なの……私の……私が産んだの……ゆ、優太は……私のもの……優太に合わせてください……お願いします…………
―――違う、私はやっていない。優太は私の子なの。ねえ、返してよ。ねぇ、ねぇ返して」
彼女は情緒不安定な感情で脈絡のない文章をただ永遠と吐き出していた。その様子は、もはや幼子そのものだった。
春樹がため息交じりに言う。
「香奈さん、あなたはそう思い込んでいるだけなんですよ。あなたは妄想性障害なんです。思い出してください。家にも薬がたくさんあるはずですよ。現に今そのバッグの中にも薬が入っているはずですよ。」
そういうと彼女のバッグを指さす。そこには真っ赤なヘルプマークのぶら下がった茶色の手提げかばんがあった。
「それに―――」
春樹は一枚の紙を取り出して香奈に見せる。それは障害者手帳のうつしだった。指名:松村 香奈 等級:2級
彼女の中に情景がフラッシュバックした。荒んだ公園で出会った天使のような男の子。それに対する歪でドロドロとした醜い愛情。彼女はその感情に突き動かされるままに少年を誘拐した。そこにあったのはもはや愛情ではなく一種の異性としての禁足的な恋愛感情だった。
気づくと香奈は頭を抱え大声で号哭していた。
見かねた春樹は部屋を後にした。
デスクに戻った春樹は、机の上に乗っている一枚の紙に目を目を向ける。それは先日の歩道橋の事件での志望者リストだった。
死亡者:松村 夢
性別 :女
その他の情報:被害者は二十歳の女性。
過去に男性から女性への性転換有り。
性転換以前の氏名
【自称】松村 優太。
【本名】沢田 湊。
※バイト先では『松村 ユウ』という偽名を使用。
一通り書類に目を通した春樹は、虚空を見上げ深いため息を吐く。煮えた頭を冷やすためか、彼はデスクを後にすると屋上へ出た。彼のデスクの位置からはわからなかったが、今日は曇りのようだった。ポツリポツリと彼の腕に小さな水滴が当たる。いや、やはり雨だったようだ。しかし、曇天を見据える彼の目には、その小粒は映っていないようだった。ただその純粋な肌感覚のみがその存在を確認し、認識した。彼はまたため息をついた。ただ、今度のは先程のものとは少しばかり違った。その生暖かい吐息の中、仄かに色めいた何かが入り混じっていた。春樹は胸ポケットから四角い箱を取り出す。その中から、一本の煙草を取り出した。人差し指と中指で挟む。手で覆いながらライターで火をつけた。彼はそれを口に咥えると、めいいっぱい息を吸い込む。禊のつもりなのだろうか。激熱な煙が、淡いピンク色の肺の中に一気に流れ込んできた。春樹は激しくせき込む。それと同時に瞳が潤んだ。彼は呼吸を荒くする。上気した顔を冷ますためか、彼は眼下の景色に目を伏せる。閑静な住宅街が目の前の視界を覆った。彼はしばらくもの思いにふける。そんな中、ふと先ほどの歩道橋の防犯カメラの映像が頭をよぎった。女が階段を転げ落ち、無惨に絶命するシーンが何度もリピート再生される。めちゃくちゃに崩れる体。乱雑に飛び散る血。断末魔。
再生される度に春樹はまた、呼吸を荒くする。だんだんと頬が高揚してきているようにも見えた。春樹の瞳の奥が光る。
その射光する何かは、悔恨の意による悲嘆の炎なのか。はたまた、官能的な興奮による卑猥なLEDなのか。それは、彼すらもまだ知る余地はなかった。
ソファに深々と腰を下ろした男は、眠気に顔をしかめながら近くにあったリモコンに手を伸ばした。
彼はテレビの電源を入れる。
プツリという音とともに画面に光が灯る。
軽快な音楽とともに映像が映し出された。ちょうど深夜ニュース番組のオープニングが放送されているところだった。
「0時になりました。深夜報道ステーションのお時間です。」
女性アナウンサーが番組の始まりを告げる。
それを皮切りに男はチャンネルを切り替えた。どうやらニュース番組には興味がなかったようだ。彼は、リモコンを操作してころころとチャンネルを変える。しかし、別段見たい番組もなかったようで、また元のニュース番組にチャンネルを戻した。
「次のニュースです。」
先ほどの女性アナウンサーが原稿を読み上げている。
男は退屈そうに大きなあくびをする。赤い口紅が艶めいた。
「今から十七年前、当時三歳だった男の子『沢田 湊』君が誘拐されるという事件が起こりました。警察は当時、地域ボランティアを含む30人体制で捜索を行いましたが、湊君を発見することは出来ませんでした。当時、事件に関する多くの憶測が飛び交い、メディアやネットを震撼させました。
あの事件から十七年たった今日、新たな技術であるAI捜索により、再度捜索が行われることが決定しました。この件に関して、今回専門家の先生にお話を伺いたいと思います。」
そう言うと映像が切り替わり、アナウンサーの右隣に座っていた男性が映し出された。画面の下の方に現れたテロップには『九州ソフトウェア学院 犯罪捜査学部 教授』の肩書が飾ってあった。
「えー、AI捜索とはこのようにですね、AIによる画像解析と監視カメラの情報を総合的に利用して、行方不明になった方の顔を分析し、全国の防犯カメラの映像から探し出すというシンプルな方法になるのですが、捜査にAIが導入されたことによって、まず捜査の効率化、正確性が認められます。さらにですね、防犯カメラが設置されてから今に至るまでの膨大な情報の中から、AIが分析して手がかりとなる映像を探してくれるので、たとえ失踪から何年経っていようと、理論的には探し出すことが可能ということになります。つまり、失踪から十年以上たっているこの事件の捜査には打ってつけということですな。」
男性はなぜかやや自慢げに語っていた。
五月六日。
厚い雲が空を覆う。まだ昼間だというのに辺りは薄暗かった。
警察官の松村 圭吾は事件があったという旧朝倉火葬場に来ていた。ここは数年前まで、地元で長く運営されていた火葬場なのだが、人手不足などの問題で廃業せざるを得ない状況に追い込まれたようで、今では誰も立ち入らない廃施設となっていた。
圭吾は額に浮かぶ汗を拭いつつ、薄暗い廊下を速足で進んでいく。
歩くたびに短く切りそろえた白髪交じりの髪から汗が一粒、また一粒と垂れ落ちる。
汗で透けたシャツには、彼の年齢に見合わない立派な筋肉のシルエットが映し出されていた。
足を進めていると、一つの部屋にたどり着いた。炉前室だ。ここは問題となっている火葬炉のある部屋だ。
部屋につくと、すでに他の警察官と鑑識の人間が複数いた。彼はそんな人々に軽く会釈をしつつ、部屋の奥の方へと足を進める。
火葬炉の前につくと圭吾は黙祷を捧げた。
長い、長い沈黙だった。彼が黙祷を終え目を開けると、横に一人の警官が立っていた。
浦田 春樹。
圭吾の同期で事件の際はいつも行動を共にしている。言わば相棒のような存在だ。
細くスラリと伸びた背丈と身に着けた四角い眼鏡が彼の知的さを物語っている。
春樹は、圭吾が黙祷を終えたことに気づくと、おもむろに口を開いた。
「被害者の身元、性別、それと年齢も不明。ここまで何の手がかりもないと、事故として処理するしかなさそうだな。」
険しい顔をして語る彼の目線の先には、火葬炉の中に納まったボロボロの白骨遺体があった。
事の発端は昨日の夕方まで遡る。辺りも少しずつ暗くなってきた頃、近くを散歩していた男性が、火葬場から煙が立ち上っているところを発見した。
男性は近隣に住む住民で、この場所が数十年前からずっと使われていないことを知っていたらしい。不審に思った男性は近くにあった交番に駆け込み、すぐさま交番勤務の警官が中の様子を窺いに行ったそうだ。
そして警官が煙の出どころである炉前室へ行くと、なぜか火葬炉が稼働していたそうだ。煙が立ち上っているところを見ると、何かが焼かれているのは明確だった。警官はすぐに機械を停止しようと試みた。しかし、交番勤務の警官が火葬炉の操作方法などわかるわけもなく、無情にもそれは燃焼を続けた。
発見から十分ほどたった時、ようやくそれは動きを停止した。警官は間髪容れずに火葬炉の中を確認する。そして、絶句した。
燃焼を終えた火葬炉の中から出てきたのは、焼かれてボロボロに砕けた人間の骨だった。
この時点で件の騒動は殺人事件に関与していることが確定した。
その後到着した他の警察官により、防犯カメラの映像が確認されることになったが、無駄だったようだ。火葬場周辺には防犯カメラが一つもなかったのだ。さらに、現場には犯人に関する痕跡が何一つ残っておらず、警察はお手上げ状態だった。
事件解決に関する手がかりは、立ち上る煙と一緒に塵となって消えてしまっていたのだ。
現場確認を終えた圭吾は春樹に誘われ、喫茶店に来ていた。
テーブルの上には、先ほど届いたばかりのアメリカンコーヒーが二つ並んでいる。
圭吾は体中の疲労を吐き出すように深いため息をついた。
そして、胸ポケットから一枚の写真を取り出した。
それは彼が肌身離さずいつも持ち歩いているものだった。
圭吾はそれを眺め、少し寂しそうな顔をしていた。
写真には、彼とその両脇に一人の少年と一人の女性が映っていた。
彼の息子と妻だ。
「そうか、もう優太が家出してから四年経つのか……」
春樹は、ぽつりと呟いた。
少年は写真の中で微笑んでいる。
圭吾は、「あぁ。」と一言だけ発すると、まだ湯気が立ち上がるコーヒーのカップを強く握りしめ、中身を一気に飲み干した。
春樹はすぐに自分の言ったことを後悔した。圭吾にとってこれは禁忌的な話題だった。彼はどうにかこの空気を和ませようと、新しい話題を探していたが、圭吾を見てたちどころにそれをやめた。
彼は写真を握りしめ、テーブルに突っ伏していたのだ。
このところ彼はひどく疲弊しているようで、今のように休める時間があれば仮眠をとるようにしているのだ。
春樹は、圭吾に話しかける代わりに持ってきた小説を広げ、両手いっぱいに広がる文字たちを目でなぞる。まるで蚕が桑の葉をかじるように、無味乾燥な長編小説のページを一枚一枚読みすすんでいくのだった。
空がすっかり茜色に染まった午後六時。
圭吾は春樹と別れた後、ある人物のもとへと急いでいた。
慣れた道を早歩きで進んでいく。
しばらく歩いていると見慣れた看板が見えてきた。
居酒屋「あかね」。
彼は店の暖簾をくぐり、店内を見回す。
「こっち、こっち。」
圭吾を呼ぶ声が聞こえる。彼が声のする方へ目を向けると、カウンター席に一人の男が座っていた。
グレー色の髪をしたその男は、こちらを向いてにこにこと笑っている。
「すまん。待ったか。」
圭吾が尋ねると、男は顔に笑みを浮かべたまま、「いや。」と短く返事をした。
彼は席に着くと、再び彼の方に体を向けた。
「それにしても久しぶりだな。泰誠。」
「何言ってんだよ。つい一ヶ月前も一緒に飲んだじゃねーか。」
泰誠は楽しそうにケラケラ笑いながら言う。
「そうだったか?」
圭吾は苦笑いを浮かべ頭を掻いた。
「──そういえばお前、この前結婚記念日だったんだろ。」
泰誠はニヤニヤしながら尋ねてきた。
「あぁ。そうだったが、よく覚えてるな。」
「当たり前だろー。親友の結婚記念日を忘れるわけがないだろー。
──で、どうだったんだ。」
「どうだったって、何がだよ」
「だからその、、、やったのかって話だよ。」
「なんだよいきなり。……まさかお前その話が聞きたかっただけじゃねーのか。」
「いいじゃねーか、別に。話くらい聞かせてくれよ。」
泰誠は、なおもニヤニヤして圭吾の返事を待つ。
長い沈黙の後、観念したように圭吾が口を開いた。
「……してねーよ。」
彼は目を丸くした。
「え。」
「だから、してねーんだよ。断られたんだよ。」
途端に泰誠はゲラゲラと笑い始めた。
「そうか。断られたのか。」
泰誠は息をするのも苦しそうに笑い続けた。
一通り笑い終えると、彼は話し始めた。
「実はな、最近俺の嫁も全然相手してくれなくてよ。
嫌われたのかと思って心配してたんだよ。でも、お前のところもやってないってなると、そういうもんなのかーってちょっと安心するよ。」
「どういうことだよ。」
圭吾は渋い顔をして泰誠を見る。
「つまり、人間年取ると、そういうことをするのに億劫になるってことだよ。」
泰誠は、手元にあったビールを少し口に含んだ。
「なんか、こうして二人で馬鹿みたいに笑い話してるとよ、高校生の頃に戻ったみたいだよな。」
「そうだな。懐かしいな、あの頃が。」
泰誠は「あぁ。」と一言つぶやいてはにかんだ。
「そういえば、お前高校生の時、モテモテだったよな。」
泰誠は突然思い出したように言う。
「そうかぁ。いや、そんなこと無かったと思うぞ。」
「いや、モテてたって。お前昔から鈍感だよな。」
圭吾は首をひねる。
「俺ら昔、部活で陸上やってただろ。」
「あぁ。」
「その時のマネージャーだって、みんなお前のこと好きだったぞ。
お前、気づいてなかっただろ。」
「……知らなかった。」
「だろー。しかもお前、毎年あれだけバレンタインデーにチョコ貰っときながら、モテてる自覚ないんだもんなー。もはや才能だぞそれ。」
「そうかぁ?」
そう呟く圭吾を、泰誠は妬ましそうに見つめていた。
それから圭吾は、二時間ほど泰誠と話した後、彼と別れ帰路に就いた。
その夜、彼がちょうど風呂に入っている時だった。彼は浴槽の中で、激しい眠気を感じた。それは通常のものとは比べものにならないほど耐え難いものだった。圭吾は日中の捜査が影響していることを懸念しつつ、おぼつかない足取りで寝室へ向かうのだった。
時計の針が十時を指す。彼女は目覚めた。彼女は、部屋に備え付けのクローゼットから、おもむろに服を取り出す。
ピンク色のワンピースだった。
彼女はそれを身に纏うと、化粧を始めた。
三面鏡のドレッサーの前に座る。彼女の顔が鏡に反射して映った。彼女は荒れた肌に触れると、翳りを帯びた顔で笑った。
それから三十分ほどかけて化粧を完成させた。彼女は化粧の出来栄えに満足したようにうなずく。
そして、スマホを取り出し「イマスタ」という名のSNSのアプリを開いた。
画面の左上には『@Kasumi』というアカウント名が記されている。
さらにカスミはスマホを操作し、アプリ内のカメラ機能を起動させた。そして、自分にカメラを向けシャッターを切った。
それから、彼女はしばらく自撮りを続けていた。
何枚も何枚も写真を取り直していた彼女だったが、そのうちの一枚に納得したらしく、自撮りをやめて写真を投稿したようだ。
投稿された写真を見て彼女は笑みを浮かべた。
彼女はまた深い眠りに落ちた。
五月七日
圭吾は妻の嘆く声で眠りから目覚めた。彼は薄い目を開け、ベットの上から彼女の様子をうかがう。彼女は、ドレッサーの前に座っていた。どうやら、化粧をしているようだった。
隣に並ぶ彼女のベットは、すでにきれいに整頓されている。見たところによると、彼女は随分前に目覚めていたらしかった。
「どうしたんだ、香奈。」
圭吾はベットの上で、あぐらをかきながら尋ねた。
香奈はこっちを振り向く。
色白の肌に、肩まで伸びた紫光りする黒髪。
目元の泣きぼくろが圭吾を覗く。
圭吾と同い年のはずが、一見しただけでは十歳ほど年齢が離れているようだった。
「あぁ、起きてたんだ。おはよう、あなた。」
「あぁ、おはよう。で、なにかあったのか。」
「いや、大したことじゃないんだけどね。この前買ったばかりの化粧品が、もうなくなっちゃったみたいなのよ。」
香奈は口をヘの字に曲げた。
「そうなのか。元から入ってる量が少なかったんじゃないのか。」
「いや、そんなことないわ。だってほら、こんなにいっぱい入っていたのよ。」
そう言いながら、香奈は化粧品の裏面表示を見せてきた。
「じゃあ、ただ単に化粧が濃ゆくなっただけじゃないのか。」
「そんなことないわよ。」
香奈は口を膨らませて言った。
「ごめん。ほんの冗談だ。」
圭吾は笑ってごまかす。
香奈は「もー。」と言って唇をツンと尖らせていた。
キッチンからコトコトと小さい物音がする。
化粧を終えた香奈は朝ごはんの支度をしていた。
彼女の目の前にあるガスコンロでは、みそ汁と焼き魚に火がくべられていた。彼女は、それらに火が通るのを待つように、ふと目線を移した。
そこには代わり映えのない風景が広がっている。
リビングに置かれたダイニングテーブル。
その向こうには庭へ通じる大きな掃き出し窓。
そこから差し込む煌びやかな朝日。
差し込む光はまっすぐテーブルの方へと伸びていた。
テーブルの上には何錠もの薬が入ったピルケースと、きれいに写真立てに保管された一枚の写真が置かれていた。
香奈は吸い寄せられるように目線を写真に移す。
写真には三人の人が映っている。
圭吾と香奈、そして彼らの息子、優太だ。
この写真は圭吾の持ち歩いているものと同じものだった。
「……優太。」
彼女はぽつりと呟いた。
その顔はどこか寂しそうだった。
いつの間にか、キッチンには焦げ臭いにおいが広がっていた。
四月六日。
ふわり。ふわり。
彼が歩く度に甘い香りが舞う。
くるくるとうねる彼の髪はまるで子犬のようだ。
身に着けた青色のセーターも、彼の顔の端麗さが相まってより色彩が際立っていた。彼、田原 奏太は博多駅の改札前に着くとスマホを眺める。
スマホの液晶には、イマスタのダイレクトメッセージの画面が映っている。
連絡をしている相手のアカウント名は『@yukari』と記されていた。
彼は慣れた手つきでスマホを操作し、メッセージを打ち込む。 『今博多駅に着きました。ユカリさんはいつ頃来られますか?』
メッセージを入力し終えると、彼は送信ボタンを押した。
間髪入れずにユカリからの返信が返ってきた。
『もうすぐ着くよ!』
『わかりました。僕、今改札前にいるので着いたら連絡ください。』
奏太がメッセージを送信すると、すぐにユカリからスタンプが送られてきた。それは犬を模ったキャラクターのようで、喜色を浮かべた顔に、オッケーサインがユカリの意向を示していた。
その数分後、またユカリからメッセージが送信されてきた。
『今、駅に着いたよ!』
奏太はメッセージに目を通す。それとほぼ同タイミングで、改札から人が溢れ出てきた。
どうやら電車が駅に到着したようだった。
彼は人ごみに目を向ける。目をしきりに動かして大勢の中からユカリを探す。
しかし、しばらくしてもお目当ての人物は見当たらないらしかった。彼は視線を人ごみの後ろの方へずらす。
すると、一人の女性が彼に向けて、手を振っているのが見えた。
奏太の方もその女性に気づくと、手を振り返していた。
彼女は改札を出ると、美しい黒色の髪をなびかせながら、駆け足で彼の元へやって来た。
「ごめんね。待った?」
「いえ、僕も今来たところです。」
「そう、なら良かった。」
一拍おいて、奏太が改まった様子で言った。
「ユカリさん、時間ももったいないので、ここらでプランを開始してもよろしいでしょうか?」
そういうとユカリは表情を少し暗くした。
奏太はそんな彼女の様子を見て多少は心苦しく思ったのか、早口でプラン開始の常套句を告げた。
「……本日は三時間プランのご予約ありがとうございます。それでは、今からプランを開始させていただきます。」
奏太は大きく息を吸うと、先ほどとは打って変わって顔いっぱいに笑顔を作って言った。
「じゃあ、今日は三時間しっかり楽しもう。“お母さん”」
「うん。」
“お母さん”。そう言うと彼女は嬉しそうに顔を綻ばせていた。
ユカリと会って三十分たった午後一時半、奏太たちはカフェ『butterfly』に来ていた。大勢の女性客で賑わう店内は、洋楽のbgmと人々の話し声がまばらに響いている。ドライフラワーで飾られた天井には、食欲をそそるような甘い香りが立ち込めていた。メニュー表を開くと、色とりどりのスイーツたちが肩を並べている。彼はその中から一番人気のあるものを注文した。
数分ほど談笑していると、奏太のもとに目当ての品が届いた。
それを見てユカリは目を輝かせる。
幾重にも重なったパンケーキの上に大量のホイップクリーム、色とりどりのフルーツが散りばめられているそれは、この店の名物だった。周りの女性客も皆こぞってそれを頼んでいた。
「うわぁ、すごーい。」
ユカリが歓声をあげた。
「これ、すごいねー。」
奏太もつられて歓声をあげた。
香奈は興奮のあまりか、食べるのも忘れて夢中で写真を撮っていた。
「早く食べないとクリーム溶けちゃうよ。」
奏太が注意する。
見るとすでに溶け出したクリームが、パンケーキをつたっていた。
「ほんとだ。早く食べないと。」
ユカリは急に焦燥しだす。
奏太はそれがおかしいといった様子で笑っていた。
一時間後、ようやく二人は完食することができた。
テーブルの上では、白いクリームの残骸が残った大皿が幅を利かせている。
「もう何も食べれない。」
苦しそうな顔をしたユカリが呟く。しかし、その声色からはどこか満足感が感じられた。
「僕ももう何も食べれない。」
奏太もまた同じように呟いた。
彼女はクスリと笑う。
「おいしかったね。奏太君。」
「うん。おいしかった。」
奏太は愛想笑いを浮かべる。その垣間に店内の壁を一瞥する。
喧騒に満ち満ちたこの空間で、壁に吊るされた時計は午後三時を指していた。
彼は一拍置き、声色を変えて彼女に告げる。
「ユカリさん、三時間経ってしまったので本日のプランは終了となります。料金のお支払いをお願いします。」
ユカリはまた寂しそうに表情を暗くした。
「わかったわ。これ──。」
そう言うとユカリは素直に茶色の封筒を手渡してきた。
奏太が封筒を受け取ると、微かな厚みが彼の手に伝わった。
彼は受け取った封筒の中身を目視で確認する。
「ユカリさんこれ、入ってる量多いですよ。今回のプランは三時間なので……。」
「いいの。もらって。」
ユカリは寂し気に微笑んだ。
奏太はユカリを駅まで送り届けた後、改めて封筒の中身を確認していた。お札の枚数を一枚一枚丁寧に数える彼の顔は、いたずらな笑みを浮かべている。
その後、確認を終えた彼は軽やかな足取りで歩き出した。
西日が茜色に街を染める。奏太は例のごとく警固公園にやって来た。
公園といっても、実際は広場のようなもので、遊具なんて一つもない、ただ広いだけの殺風景な場所だった。さらに、市内でも特に栄えた場所に位置しているので、公園をぐるりと囲うように背の高いビルが建ち並んでいる。そのせいで昼間でも暗がりができる場所があった。それでもターミナル駅に面しているおかげで、人足が途絶えることはなかった。彼が周りを見渡すと、公園を駅までの抜け道として利用する通行人や、休憩場所として利用する若者で賑わっていた。
奏太は公園の奥の方へと足を進める。
低い石段が並ぶその場所に彼女は居た。
ピンク色のミニスカートに白色のシャツ。そのどれもがフリルやレース、リボンで装飾されている。
地雷系ファッションの名が定着した今日では、彼女の出で立ちを形容するのは、そう難しいことではなかった。
奏太は彼女に軽く手を振る。
彼女も奏太に気づいたらしく、同じく手を振り返していた。
「よぉ、夢。」
夢は黒々とした大きな瞳を彼に向ける。そして、その目を細めて笑った。
「奏太、仕事お疲れ様ー。」
「おう、さんきゅ。」
彼もまた夢を見て顔を綻ばせた。
「奏太、今日は何の仕事してきたの?」
「今日はママ活してきた。三時間。」
「へー、そうなんだ。いくら稼げたの?」
夢が首を傾ける。
「聞いて驚くなよ。今日は、五万も稼いできたんだよ。」
「えー、そんなに稼いだの!すごい。」
彼女は目を輝かせた。
「でも、三時間なのにどうやってそんなに稼いだの。」
「実は、いつもママ活してるユカリさんっているだろ。」
彼女が頷く。
「その人が、小遣いとしていつもより多くお金をくれたんだ。」
「えー、いいなー。」
彼女はうらやましそうに奏太を見た。
「だろー。しかも今日、パンケーキ一緒に食べただけなんだよ。」
「えぇ!それだけで五万円?。」
彼女は目を見開き、明快に驚きを体現した。
「そう。本当、いい商売だよね。」
「いいなー。私なんか最近、ずっとパパ活してくれてたおじさんから急に連絡途絶えたんだよ。」
「えー……、それは、ドンマイ。まぁ、また新しい人見つければいいじゃん。」
「まぁ、そうなんだけどさぁ。」
彼女は不服といった様子で口を膨らませる。
「あ、そういえば。」
奏太が突然思いついたように呟く。
「僕まだ今日の夕飯準備してないや、ちょっとそこのスーパーで買ってくるね。」
「オッケー。じゃあここで待っとくね。」
「うん。ありがとう。」
奏太は夢に手を振ると、そのまま走っていった。
彼が走っていってすぐ、入れ違うように夢の目の前を親子が通った。 母親と思われる女性と、その腰ほどしかない男の子。
仲よさそうにして手をつなぎながら、彼女の前を通っていった。
夢はその親子を見つめながら、もの寂しそうな目をしていた。
四月七日
圭吾はいつもより早起きをして身支度を進めていた。洗面台の鏡に映る彼の顔は、どこか浮き浮きとしている。
圭吾は今日、前々から計画を立てていた結婚記念日で、香奈と二人で出かける予定だった。
彼は身支度が整うと早速香奈の様子を見に行く。
圭吾が寝室へ戻ると、香奈はドレッサーの前で化粧をしているようだった。
香奈は鏡越しに圭吾が来たことに気づくと振り向いた。
「そろそろ準備終わるから、もう少し待って。」
「いや、別に急がなくてもいいんだ。ゆっくり準備してくれ。」
「そう。ありがとう。」
香奈が準備を終えたのはそれから三十分後のことだった。
「ごめん。遅くなっちゃった。」
香奈はリビングで待っていた圭吾に言う。
「全然大丈夫だよ。さぁ行こうか。」
「あ、ちょっと待って。」
突然香奈が思い出したように言った。
「どうした?」
「朝の薬飲み忘れちゃったみたい。飲んできてもいい?」
「あぁ、もちろん。」
その後、彼女が事を済ませるとようやく二人は家を出た。
二人はまず、市内にある大型のショッピングモールへ向かった。
モールに到着すると、圭吾は香奈を連れてとあるブランドショップへ足を運ぶ。そこで彼は前々から香奈が欲しがっていたバックをプレゼントした。
その他にも、香奈が欲しがっていた服、化粧品など様々なものをプレゼントする。どれも高額な商品ばかりだった。
遠慮する彼女をよそに圭吾は次から次へと商品を購入していった。
おかげで彼の両脇には大量の買い物袋が抱えられていた。
二人は一通り買い物を楽しむと、次に映画館へと足を運んだ。
彼は前々からリサーチしておいた映画のチケットを買う。
もちろんお金は彼が支払った。
その後、彼は売店で二人分のポップコーンセットを頼んだ。
香奈は申し訳なさそうにしながらも、ポップコーンを受け取ると、まるで子供のように嬉しそうに笑った。
それから二人は並んで劇場へと歩く。
劇場内に到着した圭吾は辺りを見渡した。
席はほぼ満席状態で、そのどれもが若い男女のカップルだった。
二人はそんな若者達の視線を?い潜りながら自分の席へと進む。
なんとか席にたどり着くと、ものの二分程度で場内が暗くなった。
スクリーンに映像が映し出される。
圭吾は画面に意識を集中した。
映画が開始してから一時間弱が経過し、物語が完結した。スクリーンにはエンドロールが流れている。
ふと圭吾が香奈の肩をたたき、小声でささやいた。
「香奈、上映が終わった後だと出口が混み合いそうだから今のうちに出とかない?」
香奈は手でオーケーサインをつくると、静かに席を立ちあがった。
劇場を後にした二人は歩きながら談笑している。
「面白かったねー。」
香奈が背伸びをしながら言う。
「面白かったな。」
圭吾は香奈の楽しそうな顔を見て、安堵の表情をうかべた。
「香奈、夜に予約を入れておいたレストランの時間まで、まだ二時間くらいあるから、とりあえずお茶でもしよう。」
「いいねー。じゃあそこのカフェとかでいいんじゃない。」
香奈が目の前にあったカフェを指さした。
彼がレストランを予約していることに関しては、二人の間ではもはや恒例行事のようになっていたので、別段香奈が反応を示すことはなかった。
「そうだな。」
圭吾たちはカフェの中へ入っていった。
席に着くと若い女性の店員がメニュー表を持って来る。
ふと彼と女性店員の目が合った。
しかし、店員は弾かれたようにすぐ視線を遠くの方へと移した。
その後圭吾はアメリカンコーヒー、香奈はカフェラテを頼んだ。
数分後、二人のもとに商品が届いた。香奈はすぐに飲み物に口をつける。しかし、圭吾の方は一向にコーヒーを飲む素振りを見せなかった。彼は先ほどから視線を香奈の顔と時計の間で行き来させ、どこか落ち着きがない様子だった。
「どうしたの、そんなにそわそわして。」
見かねた彼女が尋ねる。
「いや、何でもない。ただこの後のこと考えてただけだ。気にするな。」
「そう。楽しみにしとくね。」
「任せとけ。」
圭吾は自信満々といった様子で言い放った。
午後七時。圭吾と香奈はレストラン『WIN』にきていた。
重厚な建て前の扉を潜ると、身だしなみを律儀に整えたウエイターが出てきた。
「お名前お伺いしてもよろしいでしょうか。」
「松村です。」
「松村様。大変お待ちしておりました。」
「さぁどうぞ。」
そう言うとウエイターは彼らを店の中へ案内する。
「お荷物お預かりしますね。」
そう言われて、圭吾は自分の両手にたくさんの買い物袋がぶら下がっていることを思い出した。
彼は急に恥ずかしくなったかのように顔を赤くした。
もっともウエイターはそんなこと何とも思っていない様子で、淡々と圭吾たちを奥へと案内する。
席に着いた圭吾たちはワインを頼み、コース料理が届くのを待った。
しばらくするとウエイターが前菜のマリネを運んできた。
香奈は目を輝かせ料理を食べ始める。
それにつられ、奏太も料理のひとくち目を口にした。
九時半になった。圭吾たちは存分に食事を楽しむと、店から出てきた。
「料理おいしかったね。」
香奈は満足そうに言った。
「そうだな料理もうまかったけど、俺は久しぶりに香奈とたくさん話せてうれしかったよ。」
「私もだよ。今日は本当にありがとうね。」
「いいんだよ。俺がやりたくてやってることだから。」
「ありがとう。」
香奈はもう一度彼にお礼を言うと、そっと彼の手を握る。
圭吾はぎこちなく手を握り返した。
「あのさぁ。香奈。」
「どうしたの。」
「この後ちょっと休んで行かないか。」
圭吾は絞り出すように言った。
香奈はしばしの沈黙の後答える。
「ごめん。私たちもそろそろいい年だしさ、もうそういうことはしない方がいいんじゃないかな。」
圭吾は落胆したように眉を下げる。しかし、そのことを香奈に悟られないためか、瞬時に元の表情に戻した。
「そうだな。俺らもいい年だしな。そういうことはもうやめた方がいいよな。ごめんな、変なこと言って。」
「いや、全然大丈夫だよ。ごめんね、私もしてあげられなくて。」
二人の間には長い沈黙が流れた。
四月七日。午後四時四十分。
夢はこの日、朝からカフェのアルバイトで接客をしていた。
とあるショッピングモール内にあるごく一般的なカフェだ。
ここでの仕事は昼時こそ忙しいものの、その時間帯を過ぎてしまえば客足が収まり、比較的楽に働くことができた。
その気軽さを買い、ここでバイトをしている従業員も多くいた。何を隠そう、夢もそのうちの一人だった。
例のごとくこの時間も、店内に残るのは夢とその他数人の従業員、そして少数の客だけとなった。
それを良いことに、彼女は店のレジでスマホを触っている。
そんな中、突如として店のドアベルが鳴った。
誰かが入店して来たようだ。
彼女は反射的にスマホを隠し、ドアの方に目線をやる。
その瞬間、夢は目を見開く。
数秒の間、時が止まったかのように彼女は固まった。
店に入って来た人物、それは彼女の両親だった。
彼女の両親は夢に気づく素振りを見せず、平然と店の利用人数を告げた。
夢は上擦りそうになる声を何とか抑えて二人を席へと案内する。
彼らが席に着いたのを確認すると、夢はメニューを持って行った。
その後も、できるだけ平常心を保ちながらオーダーを取ると、直ぐに厨房の方に消えていった。
それからしばらく彼女は店の奥で二人の様子をうかがっていた。
彼の父親と母親は仲睦まじく会話をしている。
そんな両親を見るたびに、夢は呼吸が苦しくなっていくのを感じた。
彼女の顔色はみるみるうちに青白く変色していく。
そんな状態で厨房へ注文の品を受け取りに行くと、先輩である女性が心配そうな顔で夢の顔を覗き込んだ。
「夢ちゃん、顔色悪いけど大丈夫?」
「あ、いや大したことないです。」
夢は獣が唸るような声で彼女に言う。
「いやいや、全然大したことありそうなんだけど。本当に大丈夫?」
「大丈夫です、ちょっと気分が悪いだけなので。」
「いや、それ大丈夫じゃないじゃん。もう今日はお家に帰って休みなよ。」
夢はしばらく考え込んだ後頷く。
「じゃあ、お言葉に甘えて今日はもう切り上げます。」
「うん。それがいいよ。お大事にね。」
「すいません。ありがとうざいます。」
夢は丁寧にお礼をつげると、そそくさと店を後にした。
帰宅途中、夢は奏太にメッセージを送る。
『今から会えない?
相談したいことがある。』
夢はメッセージを送るとまっすぐ警固公園へと足を進めた。
沈みかける夕日を浴びて、白皙の顔が茜色の染まる。
夢が公園内の石段の上に座っていると、声をかけてくる人物がいた。
「ごめん、遅くなった。」
彼女はスマホに落としていた目線を上げる。
そこには髪をボサボサに振り乱し、心配そうな目をした奏太の姿があった。額に浮かぶ無数の汗を見れば、彼がここまで走ってきたのは明確だった。
「いや、大丈夫だよ。」
そう言う夢の声はいつもより暗かった。
奏太は彼女の横に腰を下ろした。
「夢、何かあったの?。」
彼は物腰柔らかく尋ねた。
夢は数秒の沈黙の後、小さく頷くと話だした。
「今日ね、朝からカフェでアルバイトしてたんだけど……、その日の夕方くらいにね……、親が店に来たの。」
「え。親が来たの!?」
奏太は驚きの表情を浮かべた。
「そう、私も最初は見間違いなんじゃないのかと思って、疑ってたんだけど……違かった。私が家を出ていった時よりも若干老けてたけど、あれは正真正銘私のお父さんとお母さんだった……。」
奏太は閉口した。
「私も最初はびっくりして、もしかしたらバレちゃうんじゃないかって焦ったんだけど。」
彼女は寂しそうな目で空虚を見つめる。
「でもお父さんもお母さんも全然私に気づかなかったの。それどころか……、私なんて最初からいなかったみたいに楽しそうに話していたの。」
夢の瞳が潤む。
「……結局私なんて、最初から居ても居なくても変わらなかったんだ。」
「そんなことない―――。」奏太は言いかけて言葉を飲み込んだ。
夢は息を震わせながら、深呼吸をする。
「私、本当はお父さんとお母さんに気づいてほしかったんだ……。でも、気づいてくれなかった。当たり前だよね、もう何年も前に家出をした子供のことなんて……分かるわけないよね……。」
夢の瞳がキラリと光る。
「それにこんなに見た目も変わっちゃったし、分かるわけないよ……」
彼女の瞼から、一筋の雫が静かに滴り落ちる。
押しつぶされてしまいそうな沈黙が襲った。
遠くで鳴り響く子供の笑い声がやけに大きく感じた。
奏太は口を開く。
「夢、久しぶりにドライブに行かないか。」
彼は遠くの方を見て言った。
「……うん。」
夢は小さく呟いた。
奏太は公園の駐輪場からバイクを持って来た。
彼は夢にヘルメットを手渡すと、自分の後ろにまたがらせる。
「出発するよ。しっかり掴まっといてね。」
「うん。」そう言うと夢は彼の背中に抱きついた。
勇ましいエンジン音とともにヘッドライトが光る。
辺りはすっかり暗くなってしまっていて、ライトの光が放射状に伸びてあたりを照らしていた。
バイクが走り出した。
夢の顔に心地の良い風が当る。
奏太の操るバイクは、ぐんぐんと暗い夜道を進んでいく。
両脇に建つ高層ビルの光が、煌々と辺りを照らしていた。
「……ねぇ、夢。僕たち出会ってからもう4年も経つんだよ。」
奏太が前を向きながら話す。
夢は無言で彼の声を聞いていた。
「時間が過ぎるのって本当に早いよね…………。ねぇ、夢。僕たちが出会ったときのこと覚えてる?」
彼女は小さく頷いた。
しかし、奏太が夢の小さな挙動に気づくことはなかった。彼は一人淡々と続ける。
「確か、初めて出会った場所って、警固公園だったよね。その時の夢、今とは全然違ってた。顔も声だって、どちらかというと男の子っぽかったし。」
夢が彼の背中にきつく抱き着く。
「あぁ、ごめん、ごめん。……でも僕にとっては昔の夢との思い出も大切な宝物なんだよ……。」
奏太の脳内に当時のことが鮮明にフラッシュバックした。
──四年前のある夏の日のこと。
十六歳の田原奏太は警固公園の石段の上で仰向けに寝そべっていた。
彼の目線の先には、ビルの隙間から顔を出す青く澄み切った空。
その空を見上げる奏太の表情はどこか暗い。
そんな彼のことを気にかけるように、どこからともなく一人の青年が声をかけてきた。
「ねぇ君、今朝からずっとそんな調子で空見上げてるけど、上に何かあるの?」
奏太は最初自分に話しかけられていることに気づかず、質問に答えずにいた。すると青年が彼の顔を覗き込んできた。
「ねぇ、もしかして寝てるの?」
青年の端麗な顔立ちが奏太の視界を覆う。
彼は驚いて飛び起きた。
彼の頭と青年の顔が衝突しそうになる。
「やっぱり起きてるんじゃん。」
青年はいたずらに笑った。
「ねぇ、何してたの?」
青年は首をかしげて奏太に問いかけた。
「いや、別に……。」
と、口をモゴモゴさせて奏太は答える。
「ふーん。そうなんだ。てっきり、空にUFOでも浮かんでるのかと思ったよ。」
青年はおどけて言った。
奏太は愛想笑いを浮かべると、そそくさとその場を立ち去ろうとした。
「ちょっと待って。」
青年が声で奏太の動きを制する。
「な、なんですか?」
奏太はおどおどとした様子で少年を見つめた。
「ねぇ君、家出でしょ。」
青年はいたずらに笑う。
奏太は驚いて目を見開き、逃げ出そうとした。
「待って……、僕も同じだよ。」
奏太の足が止まる。
「……同じ?」
奏太が振り向く、そこには寂寥な笑みを浮かべた青年が立っていた。
「そう、同じ。僕も家出してきたんだ。」
青年はまっすぐに奏太の顔を見て続ける。
「僕はユウ……。十六歳。ねぇ、友達になってくれない?」
これが奏太とユウの出会いだった。
それからすぐに彼らは打ち解けることができた。
「え、奏太も同い年なの!僕ら似た者同士だね。」
そう話すユウはどこかうれしそうだ。
「そうだね。」
奏太も自然と笑っていた。
「ねぇ、奏太。」
ユウが奏太の目を見つめる。まるで瞳の奥を覗いているようだ。
「もう、家に帰るつもりはないの?」
一拍おいて奏太が答える。
「……ないよ。」
「そっか。」
ユウが深く息を吸い込み、満面の笑みをうかべる。
「じゃあ、寝泊まりする場所を探さないとだね。」
「そうだね。」
二人はそれから寝る場所を求めて彷徨った。しかし、二人の思っている以上に寝床探しは難航し、気づくと辺りは薄暗くなっていた。そんな時、奏太の目にふと留まるものがあった。
ネットカフェだ。
二人は顔を見合わせると、建物の中へ入っていった。その後話し合いの末、二人一部屋で個室を借りることにした。広さは約三畳ほどで、ネットカフェの個室にしては広いほうだった。さらに個室は鍵付で防音機能まで備わっているようだ。
彼らはレジにて部屋番号の書かれたレシートを貰うと、その場を後にした。
「ふー、疲れたー。」
個室の中に入るとユウが声を漏らした。
「そうだねー。結構いろいろな場所探したもんね。」
奏太もやや疲弊したような口調で言う。
「だね。いやーでも、ネットカフェは思い付かなかったなー。」
「だねー。激安ホテルを探すのに使った体力を返してほしいくらいだよ。」
「ホントだよー。しかも、あんなに遠くまで探しに行ったのに、まさか公園の目の前で見つかるなんて……。」
そう徒労に口を尖らせると、ユウは体をだらりと項垂れさせた。
奏太はそれを見て表情を緩ませる。
「でもごめんねー、同部屋で。」
ユウは申し訳なさそうに奏太に言った。
「いや、全然いいんだよ。僕だってそんなにお金持ってないし。もし一人で部屋なんか借りたら、一週間でお金無くなってご飯が食べられなくなっちゃうよ。」
奏太は冗談交じりに言った。
「そっか。それならよかった。」
ユウは笑みを浮かべた。
その後二人は、ネットカフェ内の売店へ行き、夕飯のカップラーメンを購入した。
夕食としては少々味気なかったが、疲れた二人の体を癒すのには十分だった。
奏太とユウはそれを食べ終えると、二人横並びになって気を失うように眠りについた。
それからというもの、二人は所持金を分け合いながら生活した。節約のために昼は外で過ごし、値段の安くなる午後六時から午前七時の間だけをネットカフェで過ごすようにしてしていた。しかし、どれだけ節約をしてもやはりお金は減っていく一方だ。日に日に二人は、今まで通り生活することが難しくなっていった。
そんなある日、いつものようにカフェの利用料金の支払いを終えた時のことだった。
奏太はユウの様子がおかしいことに気づいた。
ユウは焦ったような表情を浮かべ、自身の財布の中を探っている。怪訝そうにこちらを見つめる店員をよそに彼女は言った。
「どうしよう、奏太……、僕もう持って来たお金全部なくなっちゃったよ……。」
見ると、彼の財布の中はがらんどうとしていた。
「僕も、もうほとんど残ってないよ……。」
奏太もそう言うと、財布の中身をユウに見せた。
彼の財布の中には細々とした小銭と数枚のレシートが残っているだけだった。
奏太は意を決したように口を開く。
「……しょうがない、ここを出よう。」
ユウも渋々といった様子でうなずいた。
二人は部屋へ戻り、荷物をまとめると、長く生活していたネットカフェに別れを告げた。午後七時のことだった。
外へ出ると辺りはすっかり暗くなっていた。
「ねぇ、これからどうする……。」
ユウは下を向きながら呟く。
「……わからない。」
「ねぇ、ぼく絶対家には戻りたくないよ……。」
ユウは懇願するような目を向けた。
「うん……、ぼくも同じだよ。」
そう言う奏太の顔は、まるで迷子になった幼い子供のようだった。
「でももう、お金もないし……」
奏太が続けて言いかけた言葉をユウが遮った。
「ねぇ……、これからは一緒に野宿すればいいじゃん……。」
そう言うユウの顔は、かつて奏太の家出を問い詰めた時とはまるで違い、子供が親に助けを求め縋っている時のような表情をしていた。
「公園で寝泊まりしてさ、……夜になったら、二人で身を寄せ合って眠ろうよ。そうしたら、きっと、きっと……」
ユウは何か言いたがっていたが、言葉が続かず黙ってしまった。
そんな彼を見かねて奏太が口を開く。
「僕もそうしたい……、けど、食べ物はどうするの。僕たちお金も全く持ってないのに……。こんなんじゃ生活できないよ……。」
奏太は足元ばかりを見て話していた。
そんな奏太の言葉に、ユウは反応しなかった。
彼は、ただ悔しそうな、悲しそうな顔をして下を向いているだけだった。
二人の間には、沈黙が重苦しく強固に、壁のように続く。
車の騒音、人の話し声だけがうるさく耳に響いた。
それからしばらく時間が経ったとき、何を思い立ったのかユウが突然立ち上がった。
奏太は急なユウの動きに体をびくつかせる。
ユウはまっすぐと前の方を向いていた。
彼は「どうしたの」とユウに尋ねようとした。
しかし奏太が尋ねるより先に、ユウは青天の霹靂の如く走り出した。
突然のことに奏太は放心してしまった。
彼はユウの行く末をただ茫然と見つめることしかできなかった。
それからまた幾分かの時間が流れていった。
奏太はまだ気を揉んで、ユウの走っていった道の先を茫然と見つめていた。
暗い道が街灯に照らされぼんやりと光っている。
人がまばらに歩いていた。
彼がじっと道の先の方を見ていると、ふと道の先の方から走ってくる人影が見えた。
歩く人々をよけながら、こちらに向かってきている。
奏太は目を細めてじっと観察する。
顔は遠くてよく見えない。また、周りの影がより一層彼の顔を見えづらくした。
しかし、彼はそんなことお構いなしに凝視する。
だんだんと輪郭がはっきりしてきた。
その時、奏太はハッとしたような顔をした。
だんだんとその人物が近ずいてくるにつれ、影で塗りつぶされていた顔があらわになって来る。
道の先から走って来た人物、その正体はユウだった。
街灯に照らされ彼の表情があらわになる。
彼はなぜか笑っていた。
「ユウ、なにしてたの!」
奏太は険しい顔で問いユウを問い詰める。
しかし、ユウは奏太の質問には答えず、要領を得ない回答をした。
「奏太、また一緒に暮らせるよ。」
「何言ってるの……。」
「ほら、これ――。」
そう言うと彼は右手を奏太に差し出す。見ると、茶色の長財布が握られていた。
「……なに、……それ?」
奏太は眉をひそめた。
「財布だよ、中にちゃんとお金も入ってるよ。」
ユウは嬉しそうに言う。
「いや、そうじゃなくて……それユウの財布じゃないよね?」
「うん、違うよ。」
「どうしたの、それ……。どこで……。」
途端にユウは口をつぐんだ。
「ねぇ、もしかして、……盗んできたの。」
数秒置いてユウはコクリと頷いた。
奏太が口を開き何か言おうとしたが、ユウがそれを遮った。
「だって、しょうがなかったじゃん!僕だって……本当はこんなことやりたくなかったよ……。でも、もう家には戻れないんだよ……。生きつなぐためにはやるしかなかった……。」
憑き物が落ちたように、ユウの目から大粒の涙が滴り落ちる。
奏太はユウにかける言葉が見つからず、ただ泣いている彼を見つめることしかできなかった。
奏太はユウの手を引き、一言「帰ろう。」と呟いた。
暗い夜道に二人の少年の影が消えていった。
奏太たちの目の前には見慣れた看板、ネットカフェの文字が並んでいた。
辺りはすっかり暗くなっているのに、その建物だけは煌々とまぶしく光り輝いていた。
二人は再びこの場所に戻ってきた。
またあの日のように建物のドアを通る。
「いらっしゃいませ。」
店員の聞きなれた声が飛んできた。
気だるそうなその声が刺さる。
彼らは重たい足取りでレジに向かうと、部屋を一つ借りた。
部屋番号は前回と同じものだった。
奏太が指定したのだ。
二人は、定員から部屋番号の書かれたレシートを手渡されると、その場を後にした。
見慣れた廊下を突き進むと、これまた見慣れたドアが二人を待ち伏せていた。ドアに取り付けられたプレートには部屋番号が掘られている。奏太が視線を下すと金色の丸いドアノブが光っていた。
彼はそれに触れる。
ヒンヤリとした感触が手のひら全体に伝わる。
思いっきり開けると、そこには見慣れた景色が広がっていた。
奏太は柔らかい床にへたり込む。そしてゆっくりと目を閉じ、鯨のような長い息をはく。長息によって足りなくなった空気を補おうと肺が躍動する。息を吸うのと同時にゆっくりと目を開けた。彼の目線の先には真っ暗な天井。奏太はまたそっと瞼を下した。
人々の負の感情の渦巻く街の一角、小さな箱の中、一人の少年が悲痛な面持ちで居すくまっていた。
それから奏太とユウは、毎日を戦々恐々に脅えて過ごしていた。
もし、被害者が通報して警察官がこの場所に押し寄せてきたら――。そう考えると、毎日不安が淀みなく溢れて強迫観念みたく二人を侵食していった。
この時から、毎日を無駄に浪費する日々が増えていった。
日の光が入らない暗い部屋の中で時間を反故にした。
ネットや漫画といったくだらない娯楽に時間を費やしては、また後悔した。
この世界のどこにも、自分たちの居場所が無くなってしまうような気がしていた。
そんなある日のこと、ユウが盗んだ財布の中身もとうとう二千円をきってしまった。
奏太は苦悶の表情を浮かべる。それと共に、彼はあることを決心した。
この日の夕方、再び部屋に戻ると奏太はユウに自分の腹積もりを打ち明けた。
「ねぇ、ユウ、またお金もなくなってきたし――、仕事探さない?そうしたら、ずっと家に帰らなくても生きていける。盗みだってしなくて良い。」
ユウは数秒の間があったあと静かに頷いた。
ユウの意向を確認できると、さっそく彼は目の前のパソコンを立ち上げる。
バイトの求人サイトを開くと、特殊な境遇の自分たちでも働くことのできる職場を探した。しかし、家出をしており、なおかつ携帯電話を持たない彼らが働くことのできる職場はそう簡単には見つからなかった。
探し始めて数時間が経ったとき、ふと彼の目の一つの求人広告が飛び込んできた。
未成年OK! 高収入? の文字が彼の視界を奪う。
応募条件を見た限りでは奏太たちでも働くことができそうだ。
ひとまず奏太は歓喜する。
しかし、勤務内容は少々疑問の残るもので、依頼者の女性の要望に応え、指定された時間を一緒に過ごすというものだった。
奏太は多少の不信感からユウの分は申し込まず、自分の分だけ面接を申し込んだ。
面接日当日、ユウには求人募集が残り一名だったと嘘をつき部屋を出てきた。もし、正直に話そうものなら彼は無理やりでもついてくるはずだ。奏太はそれを懸念したのだった。
ユウは不服そうな顔をしながらも素直に送り出してくれた。
奏太は面接で指定された場所まで歩いていく。
指定された場所はカフェからそこまで離れておらず、四、五分もすればすぐについた。
外観は事務所の様だった。
本当にここで合っているのかという疑念とともに彼は扉を開ける。
中に入ると一人の男性が出てきた。スーツを身にまとった男性は標準よりもやや痩せ型な体形に、黒縁の眼鏡。そして見上げるほどの高身長が目を引いた。
奏太は勇気を振り絞り声を発する。
「こんにちは。あの……面接を受けに来た田原なんですけど……。」
男性は「あぁー。」と納得したように呟く。
「どうぞこちらへ。」
そう言うと、奏太を奥へと案内してくれた。
男性は奏太にイスに座るよう促す。
奏太がイスに腰を掛けたのを確認すると、男性も腰を掛けた。
彼は顔に笑顔を作る。
「こんにちは。」
男性は柔らかい口調で言った。
「こ、こんにちは。」
奏太は緊張しているようだった。
「本日面接を対応させていただく田中というものです。早速ですが、面接を始めさせていただきますね。」
そういうと、田中はペンと薄い冊子を取り出す。彼は順次に質問事項を確認しながら奏太にいくつかの質問をした。
合間に他愛もない会話を挟みながら面接は進んでいった。
それからものの三十分ほどで面接が終わった。
「それでは以上で面接は終わりなんですけど、田原さんって明日とか予定は大丈夫そうですか?」
「えっ、予定は大丈夫ですけど……。」
「そうですか、では明日から田原さんの従業員登録をさせていただきますね。期日に自分のお顔のお写真とかって持ってこれますかね。自撮りとかで大丈夫なんですけど。」
「えっと……それはつまり、僕は採用ということで大丈夫なんでしょうか。」
「あぁ、そうですね。採用ということで。明日からよろしくお願いします。」
奏太は嬉しさのあまり微笑が満面に溢れ出る。彼はそれを必死に堪えようと口をつぐむが、そのうちの少しが唇から溢れ出て、にやける。彼は口早に「ありがとうございます」と言った。
「えっと……では最後に何か質問はありますか?」
田中がにこやかに尋ねた。
奏太は少し考えるそぶりを見せる。
「あの、一つだけ……まだ具体的な勤務内容を聞いてないんですが、僕はどういったことをすればいいんですか?」
「あぁ、そうでした。まだお話してなかったですね。えっと……合法のママ活と言ったらわかりやすいですかね……。まぁ、とは言っても若いお客さんも来られるんですけど。そのお客さんがまずカラオケのようなシステムで何時間かのパックを購入されます。そして、その時間内でお客さんの指定されたことを一緒にやるといった感じですかね。」
奏太はニ、三度頷いた。
「ほかに何か質問はありますか?」
「すいません、あともう一つだけいいですか?」
「えぇ、どうぞ。」
すると奏太は、言い出しにくそうに目線をそらして言った。
「その……、依頼主の女性から性的なことを依頼されされることって、やっぱりあるんですか?」
「あー……、まぁ無いと言ったら?になりますかね。でも、安心して下さい。ちゃんとそういった行為をNGにすることもできますから。」
「……あー、じゃあNGにしてもらってもいいですか?」
「大丈夫ですよ。じゃあ、NGにしときますね。 他に何か質問はありますか?」
「いや、もう大丈夫です。」
「でしたら、本日はこれで終了となります。明日からよろしくお願いしますね。」
「はい。よろしくお願いします。」
彼は弾むような軽やかな足取りで帰路についた。
ネットカフェに戻った奏太は、ユウに受かったことを伝える。
ユウは自分事のように喜び、祝福した。
次の日奏太は自身の顔写真を持って事務所へ向かう。
事務所の扉を開けると、昨日彼の面接対応をした田中が出迎えた。
「あぁ、田原君。待ってたよ。お願いしていた写真、もってきた?」
面接した日とは違い、田中は奏太に対してタメ口で接するようになっていた。
「あ、はい。持ってきました。」
そういうと奏太は肩にかけてあるバックの中から写真を取り出した。
田中は写真に目を通すと二、三度頷いた。
「オッケー。じゃあこの写真で登録しとくね。」
彼はそれだけ言うと自分のデスクへ戻ろうとした。
慌てて奏太が田中を引き留める。
「えっと……、今日は何をすればいいんでしょうか?」
田中は彼の言葉に顔をキョトンとさせた。
「え、もう今日は帰っていいけど。」
「え、僕って今日から働くんじゃないんですか?」
田中はハッとしたような顔をした。
「そういえば、説明してなかったね。うちの仕事って、お客さんが指名してくれるまでは仕事ができないんだよね。だから新しく入って来た子とかは、お客さんの目に留まって指名するまでの期間は仕事がないんだよ。大体早い子で二週間くらいで指名が来るから、それまでは働かなくて大丈夫だよ。」
二週間。その言葉に奏太はひどくショックを受けた。
その間仕事ができないということは、また金銭的に苦しい生活を強いられることになる。
奏太は思い足取りでユウの元へと帰っていった。
「そんな顔してどうしたの?仕事は?」
ネットカフェに帰るとユウが奏太に声をかけた。
「いや、なんか……初出勤の日間違ってたみたい。」
奏太が誤魔化すと、ユウはますます不審そうに奏太を見た。しかし、ユウがそれ以上奏太に聞きよることはなかった。
三日後の夕方。奏太はいつも通りネットカフェの漫画を読んで暇をつぶしていた。彼は貧乏ゆすりをし、終始落ち着かない様子であった。面接日から三日たった今日、当たり前ではあったが、未だ事務所からの連絡は来ていなかった。その間にも着々と無くなっていく金銭に、彼は焦りと微かな怒りを覚えていた。そんな時、ふとパソコンの中に通知が入って来た。奏太は目の前にあったパソコンを流れるように操作し、それを確認する。どうやら奏太宛にメールが届いていたようだった。その差出人の欄を見て彼は体を震わせる。差出人は奏太所属している事務所になっていた。奏太は急いでメールを開ける。
『田原君、こんにちは。田中です。
先日話した勤務の件で、田原君が働き始めるのは早くても二週間後って伝えてたと思うんだけど、実はもう既に田原君を指名する方が出てきちゃってて、明日から働いてもらうことになりそうなんだけど大丈夫そうかな?せっかくのお休み期間中にごめんね。また返信ください。』
メールを読み終えると奏太は小さくガッツポーズをした。
彼は大丈夫という旨のメールを返信すると、先ほどまでの不安などなかったかのようにまた漫画を渉猟し始めた。
次の日、奏太は田中に呼ばれ事務所に来ていた。
「今日、田原君を依頼した女性はこの人だよ。」
田中から奏太に写真が渡される。
そこには一人の女性が映っていた。写真の女性は見た限り五十歳前後の様で、顔には細かい皺が刻まれていた。それでも表情は穏やかで、優しそうな印象を受けた。
「木村さんっていう人で専業主婦をしているらしい。今日は五時間で予約されてるから、初仕事だけど頑張って!」
「了解しました!僕は今からどこに行けばいいんですか?」
「集合場所は天神駅の改札前って指定されてたから、十二時くらいにそこに行ってもらえれば大丈夫。あ、あとお昼ご飯は木村さんが一緒に食べたいって言われていたから、お腹は空かしておいてね。」
奏太は「はい。」と一言言うと、奥の壁にかかっている時計を見た。まだ集合時間まではニ時間ほどの有余があった。
「持って行った方がいいものとかありますか?」
「んー……、特にはないかなー。財布と携帯さえあれば大丈夫だよ。」
それを聞き、奏太は気まずそうな顔をして言った。
「あのー、僕携帯持ってないんですけど……。」
「あ、そうだった! ごめん、忘れていたよ。とりあえず今日は無しでいいよ。明日までに事務所の携帯電話準備しとくから、次回からはそれ使っていいよ。」
「本当ですか!ありがとうございます。」
奏太は幸運なことに仕事だけでなく、携帯電話までも手に入れることができた。
嬉しそうにする奏太に田中は言った。
「いやー……、それにしても君すごいよねー。まさか三日で指名されるなんて、うちの事務所で初だよ。」
「ありがとうございます。いや、でもなんで僕こんなに早かったんですかね。」
「単純にビジュアルのおかげじゃないかな。君自分では気づいてないかもだけど、相当なイケメンだよ。」
奏太は奥の窓に反射する自分の顔を一瞥する。
「そうですかねー。」
彼は頭を?いた。
「そうだよ。君には、これからもっと頑張っていって欲しいな。改めて、これからよろしくね、田原君。」
「もちろんです。これからよろしくお願いします。」
奏太は、田中に一礼すると事務所を後にした。
午後十二時。奏太は天神駅の改札前で依頼者を待っていた。彼は改札横の柱に寄りかかり、所在無さげに遠くの方を眺めている。そんな中彼は、何処からともなく微かな視線を感じていた。しばらくは耐えていた奏太だったが、いつまでも向けられるその凝然とした視線に居心地の悪さを感じ、堪忍できず、とうとう視線を感じた方へと目を向けるのだった。するとそこには、こちらを矯めつ眇めつ見る一人の女性がいた。その女性はこちらを凝視しながらジリジリと歩み寄ってくる。彼女は奏太が自分の方を向いたことに気づくと、足元のヒールをコツコツと鳴らしながら彼の元へと駆け寄ってきた。
腕を通さずに羽織っている紫色のカーディガンが、風にふかれてなびく。走るたびに両耳につけた大きなピアスが揺れるその姿は、妖艶な蝶を連想させた。女性は奏太の目の前まで駆けてくると、走ったことでずり落ちてきたショルダーバックを肩に掛けなおす。その際、バックについていた金色のロゴを見て、奏太は喉を鳴らした。そのロゴは巷では名の知れた有名ブランドのロゴだった。特に女性の身に着けたそのバックは、新品で買えば十万は優に超える高価なものだった。
奏太は若干気後れしながら彼女を見つめる。すると、女性の方から話しかけてきた。
「あのう……田原 奏太君ですか?」
彼は女性が自分の名を口にしたことに驚いたように眉を持ち上げた。
「……そうですけど。」
奏太がハッとしたような顔をする。
「もしかして、木村さんですか?」
「えぇ、そうよ。」
木村は朗らかに笑った。
奏太は思いがけず高貴な金持ちが自分を指名してたことに、内心でガッツポーズをする。そして、上辺では恐縮するように言った。
「あの……、今日はよろしくお願いします。」
「いいのよ、そんなにかしこまらなくたって。」
木村は楽しそうに笑う。そして続けざまに言った。
「それじゃあ、とりあえずランチにでも行きましょうか。」
「はい。」
奏太は威勢よく返事した。
木村がつれて来たのは、いかにも高級そうなイタリアンレストランだった。
奏太は初めての場所に緊張している様だ。
そんな彼に木村がメニュー表を手渡してきた。
「どれでも好きなものを食べていいのよ。」
それを見て彼は唖然とした。そこに載っているどれもが、普段自分が口にしないような高価なものばかりだったからだ。
彼はしばらく考える素振りを見せると、遠慮がちに言った。
「えっとー……、じゃあこれで。」
奏太が指さしたのは明太子のクリームパスタだった。木村は「おっけー。」と一言言うと、こなれた様子でウエターを呼ぶ。そして、それを二つ頼んだ。それから料理が届くまでの間、二人はこの後の予定について話し合うのだった。
ものの数十分ほどで料理は届いた。
律儀な恰好をしたウエイターが、これまた仰々しく丁寧に料理を運んできたのだ。
運ばれてきたそれは奏太が普段目にするパスタとは違い、金粉や名前の知らぬ黒い果実など、種々雑多な食材で装飾が施されていた。
そんな料理に彼は翻弄され、若干辟易しながらも一口目を口に放り込むのだった。
昼食を食べ終えると、二人は手持無沙汰にただ並んで道を歩いていた。一言でいえば散歩をしているだけだった。
その道中、奏太は木村にお礼を述べていた。先ほどの昼食の会計を木村がご馳走してくれたからだ。しかし、そんなこと当の木村は露ほどにも気にしていないようだ。むしろ当然の行いとまで豪語していたくらいだった。
彼女は、上機嫌で奏太に話しかける。
「奏太君、何か欲しいものとかある?」
彼は困ったような顔を浮かべる。
「いや、特にないです。」
「遠慮しなくていいのよ。なんでも好きなもの買ってあげるんだから。」
奏太は数秒考える素振りを見せると、申し訳なさそうに答えた。
「えっと、じゃあ……、洋服が欲しいです。」
対する木村は彼の嗜好に興味深々と言った様子だった。
「わかったわ。どんなのがいいの?」
「前々から欲しかったやつがあるんですけど、それでもいいですか?」
「分かったわ。じゃぁ連れて行ってちょうだい。」
奏太は謹慎がちに木村を連れ、お目当ての店へと足を運んだ。全面がガラス張りのその店は、地上三階建てだ。前面に押し出されたショーウィンドウの中には、黒色のマネキンが洒落た出で立ちで、得意げにポーズをきめていた。そんな彼らを一瞥しながら中に入ると、“いらっしゃいませ”の代わりにドアマンの慎み深いお辞儀が出迎えてくれた。それに次いで、ドア付近を通りかかったスーツ姿の女性店員も一礼をする。そしてお得意の営業スマイルを身に飾り、近寄って来るのだった。店員が最初に話しかけたのは案の定木村の方だった。店員が木村に話しかけたのは、言うまでもなくその出で立ちからだろう。
「お客様、本日はようこそおいでくださいました。何かお探しのものなどがあれば、ぜひともお申し付けください。」
店員がその常套句を言い終わるか、言い終わらないかの内に、木村が今日は奏太の服を買いに来たという旨を伝えた。店員はこういう状況には慣れっこなのか、はたまた、まったく顔の似ていない二人を親子とでも勘違いしたのか、別段驚いた様子も見せずに丁寧に奏太を接客した。
店員の手助けもあってか、買い物はスムーズに進んでいった。
最終的に奏太が買ってもらったのは、黒いフード付きのアウターだった。正面にはでかでかとブランドのロゴが載っている。レジにその商品が通されたとき、彼は初めてその商品の値段を知った。それを見て衝撃を受けたように声を発する。そんな高い買い物だったにもかかわらず、相変わらず木村は穏やかな笑顔を見せていた。
「はい、これ。」
木村が笑顔で商品を奏太に手渡す。
「すみません。こんな高いものだなんて知らなくて……」
「あぁ、別にいいのよ。私はこうやって若い男の子たちにプレゼントをあげることだけが唯一の趣味なんだから。気にせずに受け取って。」
彼女は、相変わらず穏やかな笑顔を浮かべていた。
「ありがとうございます。」
奏太は、まるで表彰台で賞状をもらうときのように丁寧にそれを受け取った。それが相当面白かったのか、木村は一人で爆笑していた。
店から出ると、木村は奏太の方を向いて言った。
「奏太君、たくさん歩いて疲れたでしょうどこかで休まない?」
「あ、ありがとうございます。」
奏太がとっさに口走ったのは賛成でも反対でもない、感謝の言葉だった。また、木村が笑う。
「じゃあ、私についてきて。いい場所知ってるから。」
どうやら彼女は奏太のその言葉を賛成の意として受け取ったらしかった。
奏太は木村の連れられるがままについて行った。
五分程歩いた末にたどり着いた場所を見て、彼は困惑の表情を浮かべていた。
「木村さんここって……」
奏太はたどたどしい様子で言った。
「いいからついてきてちょうだい。」
木村は強引に奏太の手を引っ張る。
彼の目の前に佇んでいるは、派手な装飾の施された建物だった。ピンク色に光るハートマークやLOVEの文字がその建物の使用目的を明確にさせた。
木村に連れられるがままに建物内に入った奏太は、流れるようにそのまま部屋まで連れ込まれた。部屋内は薄暗く、ピンクのLEDだけがじっとりと部屋内を薄く照らしていた。その色がよりその場所をいやらしい雰囲気を誘発しているようだった。
「奏太君、先にシャワー浴びてきていいよー。」
木村は無駄に明るい声で、ドアの前で佇む奏太のことを呼んだ。まるでこの後行われるであろう行為なんて無いかのように。奏太の顔色は徐々に絶望に染まってきていた。
「木村さん、困ります。僕、性的なことはNG出してるんですけど。」
「ちょっとくらいいいじゃないの。あなた恩を仇で返すつもり?信じられないんだけど。」
その顔からは、先ほどまでの穏やかな表情なんて消え去り、憤怒の表情が張り付いていた。先ほどまでとはまるで別人だった。
「あんなに高いものを買わせておいて、このまま何もさせないなんてことは無いでしょうね。」
「すいません。……できません」
奏太の顔には恐怖がにじみ出ていた。
「はぁ?」
木村は一瞬険しい顔をさらに険しくして迫る。しかし、顔を強張らせている奏太を見て、平然を取り繕うようにすぐ真顔に戻った。彼女はベットに腰を掛け、足を組みながら言った。
「じゃあ、分かった。いくらあげればいいの?」
「え……」
「だから、いくら払えばやらせてくれるのかって聞いてるのよ。」
木村は威圧的な視線で彼を見下ろす。
「いや、できません。僕はもう帰らせてもらいます。」
奏太は木村の提案には聞く耳を持たないといった調子で、ドアノブに手を掛けた。それを見て木村は脊髄反射で言った。
「わかった。十万でどう?」
木村の発言に奏太の足が止まる。
「あなた今、お金ないんでしょ。それに、私が思うに、あなた家出でしょ。」
「なんで、それを……」
木村は意地の悪い笑顔を浮かべて言った。
「身なりを見れば分かるわよ。そんなにくたびれた服を着て、それで普通の子供にでもカモフラージュしたつもりなの?」
木村はじっとりとした目で奏太を見る。
「悪い話じゃないと思うんだけど。」
奏太は顔に困惑の色を浮かべてしばらく考える素振りを見せる。その後か細い声で一言「……やります。」と呟いた。
「よろしい。じゃあ、先にシャワー浴びてきて。」
木村は穏やかな表情に戻っていた。しかし、声にはまだ威圧が感じられる。木村の顔はよく見ると、事務所で見た写真の笑顔と全く一緒だった。張り付いたような笑顔。よく見ると不自然だった。まるで、微笑んだまま筋肉が硬直して、動かなくなってしまった。そんな顔をしていた。
木村との行為の時間はニ時間にも及んだ。木村のたるんだ体が、まだ成熟しきっていない奏太の体と深く密着する。彼女の陰湿な視線。じっとりとした体温。ぬるぬるとした汗。生暖かい吐息。かすかに漏れる不快な声。きつい香水の香り。そして、生臭い口臭。それらに耐えるように目を閉ざしていた。密着しては離れ、そしてまた密着する。褐色の陰部に吸い込まれていく自分の体の一部を感じて、彼は嘔吐しそうになる。時々意図したように当ててくる垂れた乳房の萎れたつぼみは、より一層それを加速させた。奏太はそれらの不快な感触に耐えながら、逃げ場所を求めるように、脳裏にユウのことを思っていた。彼の純白な笑顔が、瞼の裏にこびりついたように投影され続ける。彼の口からは、自然と溢れ出たように「ユウごめん。」という錯乱した五文字が、唇を伝って流れ出た。彼の顔面は、これ以上ないまで絶望に暮れ切っていた。そんな苦痛に歪む奏太の顔を見て、木村はより一層興奮したような笑みを浮かべるのだった。
血のように赤く染まった空の元、一人の少年の長く黒い影が落ちる。ホテルに入室してから二時間、やっとのことで建物から出てきた奏太の表情は、すべての感情が抜け落ち、真顔とも似つかない、まるで死人のような表情になっていた。彼は重い足取りで帰路を辿る。一歩一歩足を踏み込むたびに、「絶対に気づかれたらだめだ。」というどうしようもなく悲痛な思いが、真っ黒なアスファルトに彫り込まれていっているようだった。また一歩足を踏み込んだ彼の右手には、木村から徴収した札束が握りしめてある。もう片方の手には彼女から買ってもらったアウターの入った紙袋が握られていた。夏の嫌な湿っぽい感覚が張り付いた道には、こびりついたようにきつい香水の匂いが充満していた。
それからユウの元へ帰った奏太は空元気で彼に話しかける。
「ユウ、お土産だよ!今日のお客さんから貰ったんだ。」
奏太はユウに紙袋を差し出す。
「え、これ僕に?」
ユウは受け取ると、中身を確認した。紙袋の中には黒いアウターが入っていた。
「え、こんな高いもの、どうしたの?」
「あぁ、今日のお客さんに買ってもらったんだよ。」
「そうなんだ。でも、こんな高いものもらえないよ。」
ユウが遠慮がちに言った。
「いいんだよ、ユウのためにと思って買ってきたものだから。」
「本当にいいの?」
「うん、いいんだよ。」
「じゃ、貰うね。ありがとう!」
ユウは奏太に笑いかける。次の瞬間ユウの表情は困惑するようなものに変わった。
「……どうしたの?奏太」
「どうしたって、何が?」
「いや、その……、変だよ笑い方が」
奏太は鏡を見る。そこには、かつての木村のみたく張り付いたような不自然な笑顔を浮かべる自分の姿があった。
彼は焦ったように言う。
「何、言っているの。いつもどおりだよ。」
そう言う奏太の声は普段よりも明るく聞こえて、逆にそれが不自然だった。
まるで感情のない機械が、人間の喋りを真似したような調子だった。
「ねぇ、何かあった?」
ユウが気遣わし気に奏太の顔を覗き込む。
奏太はそれを拒むように、顔をそらした。
「いや、何もないよ。」
ユウは奏太の答えに納得していないようだったが、それ以上奏太に聞くことはなかった。
奏太は、それから毎週ニ、三回ほどの仕事をこなした。客によって要望は様々だったが、結局最後には性行為を強要してくる女性ばかりだった。そのたびに、奏太は自分を殺した。お金のためなら手段を選ばなくなっていた。
奏太は田中に呼び出され、事務所に向かっていた。カフェから事務所はそこまで離れていないため、四、五分もすると事務所のドア前までたどり着いた。磨りガラスが張られたそのドアには、黒い人型の影が映っている。おそらくドアの向こうに誰かが立っているんだろうと踏んだ奏太は、その人物を怪我させないためにも、ゆっくりとドアを開ける。隙間が広がっていくにつれ、だんだんと向こう側に立っている人物の姿が見えてきた。その人は職員と話をしているようで、向こう側を向いており、顔を確認することは難しかった。しかし、見覚えのある背丈、髪型、身なりに思わず身近な人の顔を想像してしまう。何よりその人物の声を聴いたことで、確信がこちらににじり寄ってきたように感じ、その愚考ともいえる悪い予感に、生死の主導権を握られているような錯覚に陥った。奏太は「すいません」と言いつつ、その人の横を通り過ぎようとした。真横を通りすぎるとき、奏太は横目にその人物の顔を見る。瞬間、彼の胸騒ぎが止むとともに、彼は放心した。その人は、中に入って来た人がなかなか横を通りすぎないことを不思議に思ったのか、ちらりと奏太の顔を見た。瞬間にその人は目を見開く。
奏太は絞り出すように言った。
「……なんで、ユウがここにいるの。」
扉の向こう側に立っていた人物、その正体はユウだった。
ユウは嬉しそうに顔をニコニコさせながら、あっけらかんとした様子で言った。
「僕も、今日から奏太と一緒に働くことになったんだー。実は結構前にここの面接受けてたんだよねー。」
それを聞いて奏太は声を荒げた。
「だめだ!早く帰れ。」
奏太は顔を険しくした。
「どうして?」
「どうしてもだ。もう二度とここには来んな!」
「なんでそんなこと言うの。せっかく奏太のためにお金稼げると思ったのに……。」
ユウは哀切に表情を曇らせると、そのまま事務所から出て行ってしまった。ユウの目の前にいた社員は困惑したような顔をしている。
奏太が肩を大きく上下に動かしながら深呼吸をしていると、事務所の奥の方から田中が出て来た。
「どうしたの田原君、そんなに声を荒げて。」
「いや、別に……。」
「あれ、ユウ君は?」
奏太はその質問に答えなかった。すると、事務所の社員が後ろから口をはさんできた。
「田原さんが怒鳴って出て行っちゃいましたよー。」
田中はそれを聞いて驚いたように、大きく目を見開いた。
「田原君、なんでそんなことしちゃったのー?」
奏太はまたも彼の質問には答えなかった。
しばらくの無言の間の後、奏太は言った。
「今から仕事があるのでもう行きますね。」
田中はやれやれといった調子で大きく息を吐いた。
ユウは事務所から出て行った後、博多駅の改札前に来ていた。手には田中から支給してもらったスマホが握られている。それをしげしげと見つめながら立ち尽くしていた。予定時刻になり、彼は周りを見渡す。すると、すぐ近くに見覚えのある顔があった。それは端麗な衣服に身を包んだ女性だった。四十代後半といったところだろうか、目元には細かな皺が見られる。彼が先程、事務所で見せてもらった写真と同じものだった。彼は女性に近づき、声を掛ける。
「すいません。もしかして、川上さんですか?」
女性は眉を少し持ち上げる。
「えぇ、そうですが――。」
彼女はハッとして言った。
「……もしかしてユウ君ですか?」
「あ、はい。そうです。」
ユウは安堵したように表情を緩ませた。
それから約三十分後、二人はランチを食べるためにレストランへ入った。イタリアンが有名なレストランらしい。メニュー表にはシェフらしき西洋人の男性の写真が載っており、その横で五つ星のマークが輝いていた。メニューに載っていたのは、お皿の大きさに対して一回りも小さい料理で、色とりどりの食材できれいに飾り付けが施されていた。ユウはページをペラペラとめくりながら目を見開いていた。
「ここのお料理って、どれも高いんですね。」
どうやら、ユウが驚いたのは料理ではなく値段の方だったようだ。
「そうかしら、このくらいイタリアンだったら当然の値段だと思うわ。何ならここの料理はちょっと安いくらいよ。」
川上は得意げな顔をして言った。それを見てユウは苦笑いをする。そして、口ごもって言った。
「あの……、僕そんなにお金持ってないので、ここのお料理買えないです……。」
すると、川上はまたも意気揚々として言った。
「大丈夫よ、お金は全部私が払うから。ユウ君は好きなものなんでも食べてもいいのよ。」
ユウが明快に目を光らせる。彼は店員を呼ぶと、今まで我慢していた食欲が爆発したかのように次から次へと料理を注文した。川上はその様子をほほえましそうに見ていた。ふと、ユウが我に返ったように川上を見る。
「すいません。こんなにいっぱい頼んで……。」
「あぁ、別にいいのよ。私、いっぱい食べる子好きだから。」
そう言うと微笑んだ。
それから三十分後、料理が続々と到着しだした。ユウはそれを見て再び目を輝かせる。
「わぁ、僕こんな高そうな料理初めて食べます。」
ユウが最初に食べ始めたのは内側が深い赤色をしたステーキだった。
川上も同じものを頼んだようで、彼女の目の前にも同じように深紅のステーキが並ぶ。ユウはナイフとフォークを使い、肉を一口サイズに切った。彼はそれを慎重に口へ運ぶ。ユウは口に肉を含むと顔を綻ばせた。そして最初の一口目を味わうかのようにじっくりと租借していた。川上はそんなユウを艶かしい眼差しで見つめ、唇を舌でなぞる。
「いやー、それにしてもあなた、本当にきれいな顔をしてるわよね。私写真と全く同じ顔の人が来て驚いちゃった。」
「えぇ、本当ですか?ありがとうございます。」
「あ、そうだ。ユウ君何か欲しいものとかある?おばちゃん何でも買ってあげるよ。」
「いいんですか?」
ユウは興奮気味に言った。
「いいわよー。」
川上は目を細めて笑う。
そんな彼女の眼下では、先ほど頼んだステーキが自分の存在を主張するかのように芳醇な香りを発している。半分に切り分けられたステーキ。その断面からは赤い肉汁がどくどくと流れ出ていた。
食事を終えた二人は、近くのデパートに来ていた。
「それで、なにが欲しいの?」
「えっと……、じゃあ洋服が欲しいです。」
「分かったわ。どこの洋服が欲しいの?」
川上は片眉を持ち上げて尋ねる。
ユウはとある有名ブランドの名前を口にした。
「あぁ、そこなら私もよくお洋服を買うわ。場所も分かるから付いてきて頂戴。」
ユウは川上に言われるがままについて行く。
ものの十分程度でその場所には着いた。
デパートの一角に佇むその店は、黒を基調としたスタイリッシュな外観をしている。どこか高級感あふれる店先の看板は、文無しのユウを尻込みさせた。
彼は川上に後押しされどうにか店に入店すると、一直線に目当ての商品の元へ足を進めた。その商品は、入店してすぐの見えやすい位置にマネキンにコーディネートされていた。それは黒色のトレーナーで、背中には有名な白い猫のアニメキャラクターがプリントされている。言わばコラボ商品だった。ユウは商品を手に取るや否や川上に突きつけるように見せた。
「これが欲しいです。」
「ずいぶんと決めるのが早かったのね。」
川上は少々驚いたように言った。
「はい、実は前々からこの服が気になっていて――」
川上は「なるほどね。」と呟くと、納得したようにうなずいた。
それから彼女は、会計をするために店の奥の方にあるレジへと足を運んだ。ユウも彼女のあとを追ってレジへと向かう。レジに着くと黒縁の眼鏡をかけた店員が、川上に向かって軽く礼をした。その後、ユウを一瞥すると同じように一礼する。そして商品のバーコードが店員の手によってスキャンされた。こなれた動作に彼は見とれる。しかし、レジに表示された金額を見てユウは一気に現実に引き戻された。彼は目を見張る。川上はそんな彼の反応を見て、唇の片側だけを持ち上げて笑い、意気揚々とクレジットカードを取り出した。
モノクロの世界から一歩外へ出ると、周囲に潜んでいた色たちが急に存在感を増し、彼の無防備な瞳の中に飛び込んでくる。
店を出たユウは、少し目を細めた。それと共に、右手に伝わる確かな重みを感じて高揚感の高波に飲まれる。彼の右手には、先ほど木村に買ってもらった商品、黒色のトレーナーが入っていた。自分の片腕に数十万円の重りがぶら下がっていると考えると、彼は焦り身震いするような思いだった。その所感からか、彼は申し訳なさそうに木村に当面した。
「すみませんこんなに高いもの……。」
「別にいいのよ。それに私からしたらこの程度のもの、たいして高くもないし。」
彼の焦りとは裏腹に、彼女は誇り顔で言い放った。
「ありがとうございます。」
彼は何度もお礼を言った。
川上は満更でもない様子だ。
「ユウ君、他に欲しいものある?」
「いや、もう充分です。本当にありがとうございました。」
川上は満足そうに頷くと、声色を1トーン落として言った。
「ねぇ、ユウ君の欲しいもの買ってあげたし、私のしたい事にも付き合ってくれない?」
川上の浮かべた笑みは、人知れず怪しく翳る。
そんなこと露知らず、ユウは愛想よく言った。
「もちろんです。何でも付き合いますよ。」
川村はそんな彼に艶かしい目線を浴びせた。
それからユウは川上に連れられ、とある場所に連れてこられた。
「川上さんここに入るんですか?」
ユウの目の前に佇んでいるのは、ピンクのネオンがうごめく煌びやかな建物。その端麗な射光の合間に、妖艶で卑猥な男女の相が見え隠れしている。それはラブホテルだった。ユウは訝し気に川上を見る。
すると川上は、その訝し気な目を黒に染め上げるように、瞳の奥の水晶体でユウを睨んだ。
「ちょっとくらいいいじゃない。それも買ってあげたんだし。」
川上は高圧的な口調で言う。彼女は、ユウが手に持つ紙袋を指さした。
ユウは正鵠を射られ、表情を曇らせる。
「でも、僕性的なことはNG出してて……。」
ユウがまごまごと言う。
今度はそんな彼を嘲笑うような調子で彼女は言った。
「大丈夫、ただの遊びよ。それに、もし付き合ってくれれば追加で“お金”払ってあげるわよ。」
“お金”。その言葉にユウは体をピクリと震わせた。彼の頭の中で金色に輝くその一言だけが、ぐるぐると渦巻く。
ユウはしばらく考え込んだのち、か細い声で言った。
「……付き合います。」
川上の満面に、じわりじわりと勝ち誇ったような笑みがにじみ出る。
「そう。ありがとう。」
川上は嬉しそうに呟くと、そのまま彼の手を取り、中へと連れ込んでいった。
それから三時間後、うつろな目をしたユウがホテルから出てきた。その隣に川上の姿はない。ボサボサに乱れた髪に、頬をじっとりと濡らす汗、皺のついたシャツには赤い口紅の痕。そのどれもが彼の悲痛を叫んでいた。ユウの左手には紙袋が、右手には厚い茶封筒が握りしめられている。封筒の開いた口からは、幾重にも重なった札束の側面が顔をのぞかせている。0.5cmはあるであろうその厚い札束の端は、折れ曲がっていたり、小さな亀裂が入っていたりで、未だ綺麗な状態のものは一つとしてなかった。彼は光の入らない目で遠くの方を見つめる。覚束ない足取りで歩き出した。茜色に染まった町の中では、夕日だけが町を照らす。ユウの足から伸びる影はいつもより濃く、長く、大きく映っていた。
ネットカフェに帰り着いたユウは、暗い通路を歩く。部屋の前までたどり着くと、そっとドアを開けた。そこには先程まで漫画を読んでくつろいでいたであろう奏太の姿があった。彼は開かれたままの漫画を両手で持ち、からだ半分をドアの方へ向けて固まっていた。
「……お帰り、ユウ。」
気まずさと心配が相まったような調子で言う。
ユウはうつむき、奏太の手に持つ漫画に目を落としながら一言「うん。」と呟いた。
奏太はユウの表情を見て何かを悟ったようだった。彼は気遣わし気に眉を下げる。
「結局、仕事行ってきたんだね……。」
数秒の間をおいた後ユウが小さく呟いた。
「……うん。」
奏太は顔を俯かせ、何度か頷いた。
彼は次の言葉を発しようとして口を動かそうとする。しかし、もたついてうまく動かなかったようだった。奏太は、しゃべることを諦め大きく深呼吸をした。彼の吐き出したその息は、微弱に震えていた。奏太は顔をうつむかせると、唇を固く閉じ、しばらく次の言葉を発さなかった。彼は眉根に深く刻んだ皺をピクリともさせなかった。ユウもまた、自分から話そうとはせず沈黙の時間が続いた。
それからしばらくして奏太が顔をあげた。奏太は赤く腫れた目をしてユウの姿を見つめると、口を開き、沈黙を破った。
「ごめんね……、辛かったよね……。」
同病相哀れむ。
彼の声は微かに震えていた。彼は眉根に刻んだ皺をより一層深くした。
ユウは彼の言葉にぐちゃりと顔を歪める。眉間にしわを寄せ、歯を食いしばりながら小さく頷く。彼は、固く目を閉じ、しばらくの間小さく震えていた。しかし、耐えきれなきなったのか食いしばった歯の隙間から微かに嗚咽が漏れだして、途端に閉じた瞼からも大粒の涙がこぼれだした。漏れ出した嗚咽は徐々に大きくなり、甚大な号哭へと変わった。部屋の中に彼の鳴き声が響き渡る。奏太は静かにユウを抱きしめると、声を押し殺して嗚咽した。
次の日の朝、奏太はぼんやりとした意識の中、目を眇ませる。四角く真っ黒な天井が映った。その横でバタバタとした物音。視線の端でひらひらとちらつく影。少し体を起き上がらせると、その正体はすぐに分かった。ユウが身支度をしていたのだ。彼はちょうど服を着替えている最中だった。
「ユウ何してるの?」
奏太は眉を顰める。
「何って、仕事に行く準備をしてるんだよ。今日も予約入ってるから。」
ユウはあっけらかんとした口調で言う。昨夜の一件から一夜明けた今日、ユウはまた仕事に出かけようとしていた。
奏太は心配そうに言う。
「ユウ、本当に仕事辞めなくていいの?生活費だってもう十分に溜まってるし、ユウが働かなくても普通に生活できるんだよ。」
そんな彼にユウはに力強く笑って見せた。
「僕、やりたいことがあるんだ。だから、この仕事もうちょとだけ頑張ってみようと思うよ。」
そう言うと、彼は壁に備え付けてあるハンガーラックから、ぶら下がっている一枚のTシャツをはぎ取った。彼はそれを頭から被ると、そそくさと部屋から出て行ってしまった。
ブオーンというトラックの走行音とともに、奏太は現実へと引き戻された。彼はバイクの後部座席に夢を乗せてドライブをしてる最中だった。奏太はそのことを思い出したかのようだ。焦ったように視線を後ろへ向ける。そこには奏太の背中に抱き着く夢の姿があった。彼女の被るヘルメットからは、納まりきらなかった長い髪の毛がはみ出し、風に吹かれなびいている。彼は安堵の息を吐くと、右手につけている腕時計を確認した。時間はまだ三十分程しかたっていなかった。彼はバイクのハンドルを強く握り直すとバイクを加速させた。彼は自分の両脇をどんどん過ぎ去って行く夜景を肌で感じながら、再び思い出の海へ沈んでいった。
奏太がユウと出会ってから二年が経ったある日の午後、二人は警固公園の石段の上に隣り合って座っていた。奏太もユウも、出会った当初と比べ風貌が一層大人っぽく変化していた。奏太はこの二年間で身長が伸びたようで、ユウと頭一個分ほど差があった。それに対しユウは、身長は伸びていないものの顔から幼さが抜け、大人っぽい雰囲気を醸し出していた。また彼は、数か月前から伸ばし始めた髪がもう肩につきそうになっていた。伸ばし始めた理由は定かではなかったが、美丈夫のユウにはその長い髪がとても似つかわしく、よく似合っているように思えた。
彼らの座る石段の前を様々な人が通りすぎていった。大学生くらいの若い男女のカップル。小さな男の子を連れた仲のよさそうな夫婦。黒いヘッドホンを耳に当て、俯きがちに歩いている中学生――。ユウはそんな人々を横目に奏太の方に向き直ると、意気込んだように言った。
「……僕、今まで仕事で稼いだお金、全部貯金してるって言ってたよね。」
奏太は思い出したかのように言った。
「うん、言ってたね。確か……、したいことがあるとか言ってなかったっけ。」
ユウはぎこちなく頷いた。
「そうそう。そのお金が最近やっと溜まったんだけど、奏太にまだ何に使うか話してなかったなと思って……」
ユウは息を震わせながら深呼吸をすると、俯きがちに言った。
「実は僕……、性同一性障害なんだ……。こころの中の僕は、ずっと女の子だったんだ……」
奏太はユウの突拍子のない発言に一瞬困惑するような、驚いたような顔をした。しかし、刹那のうちに彼はどこか納得したように何度か頷く。
奏太は俯くユウを見つめて言った。
「……知ってた。」
ユウは弾かれたように顔を上げる。彼は目を見開いて奏太を見つめていた。
そんなユウを奏太は微笑みながら見つめる。
ユウは安堵したかのように肩の力を抜かした。そして、奏太の顔を見ていたずらに笑い言った。
「そっか、ばれてたか」
「うん。」
「……引かないの?」
ユウが一瞬不安げな表情で奏太を見る。
奏太はユウを一瞥すると言った。
「引くわけないじゃん。ユウはユウなんだから別に性別がどうこうとか関係ないよ。」
彼は真剣な眼差しでユウを見つめていた。
「……そっか、……ありがとう。」
ユウは消え入るような声で言った。
彼の瞳の内側が光った。彼はそれを誤魔化すかのように瞼をごしごしこすりながら、いつもの調子で話し出した。
「で、貯めたお金を何に使うかって話なんだけど まあ、大体は想像ついてるだろうけど、性転換手術とか体を女性にするために使いたいんだよね。」
奏太はユウの言葉を嬉しそうに頷きながら聞いていた。
「そうなんだ、いいんじゃない。かわいくなったユウを見るの楽しみだなー。」
奏太のその言葉を聞いた瞬間、ユウは咄嗟に上を見上げ天を仰いだ。
「……もう、せっかく頑張って堪えてたのに。」
口を手で覆いながら彼女は言う。
彼女の瞳からきらきら光るしずくが頬を伝って滴り落ちていた。
一か月後、ユウは性転換手術などを受けるために東京へと旅立っていった。それからユウが奏太の元へと帰って来たのは約二ヶ月後、十月になってからのことである。
この日奏太は、ユウから事前にメールで連絡を受け、福岡空港まで彼女のことを迎えに来ていた。数年前にリニューアルされたばかりのこの空港は、まだ真新しい気勢の余韻がのこっている。中に入ると前面がガラス張りのエレベーター、利便性の観点から、一階の入り口から四階の搭乗口までを一直線につなぐ長大なエスカレーター、県の郷土料理である豚骨ラーメンを前面に押し出したフードコート『ラーメン横丁』なんてものもできていた。そんな場所を颯爽と通り過ぎ、奏太が到着ロビーに着いた時には、とっくに飛行機の到着時刻を過ぎてしまっていた。彼は焦りに染まった顔を浮かべ、スマホを手に取る。その後、メッセージアプリを開くと、ユウに連絡を入れる。彼は再び無人の到着口を眺め、ユウの姿を探した。しかし彼の姿は一向に見当たらなかった。未だメッセージの返信もない。それから四、五分経った頃、ようやく到着口から一人の人が出て来た。それからすぐに続々と人が溢れ出て来た。奏太は集団を凝視する。大量の石ころの中から一粒の小さな結晶を探すかのごとく、人ごみの中からユウを探す。
彼が到着口から出てくる人々の顔を順々に確認していると、ふと一人の女性と目が合った。黒い髪を肩まで伸ばした女性。彼はその女性の顔を見ると大きく目を見開いた。見覚えのあるスーツケース。彼女も同じく驚いたように黒目を大きくした。奏太が女性の元へ駆け寄る。ふわりと漂うラベンダーの香り。彼は興奮するように口を開いた。
「もしかして……、ユウ?」
彼女は嬉しそうに笑みを浮かべながら言った。
「そうだよ。よくわかったね。」
ユウの声。容姿は見違えるほど変わっていたが、そのいたずらな笑みからは、彼の面影が痛快に感じられた。
女性は紛れもなくユウそのものだった。
「久しぶりだね奏太。元気そうでよかった!」
「ユウも元気そうでよかったよ。」
奏太の目に映るユウは、以前よりも生き生きとしていて、何より幸せそうだった。
奏太は彼女を一瞥すると言った。
「ユウ、本当に見違えるほどきれいになったね。」
「本当?うれしい!ありがとう。」
ユウは嬉しそうに顔を緩ませる。そして恥じらうように目線を下げる。数秒おいて再度奏太の目を見た。きらきら光る瞳孔が彼を見据える。微笑みがちに彼女は言った。
「……それにしても本当に奏太には感謝しかないよ。今の私がいるのも奏太のおかげだし。本当にありがとう。」
奏太は照れ臭そうに頭を掻く。
「いやいや、僕はそんな大層なこと何もしてないよ。……でも、ユウのためになれたなら良かったよ。」
奏太は、はにかみがちにそう言った。
二人は一通り話したのち、帰路に着く。それからいつものネットカフェに帰宅したのは一時間後のことだった。
ユウは久しぶりに帰って来た二人の住処に歓喜しつつ、部屋に着くとその場に寝転んだ。クッション性のある床が彼女を出迎える。
「いやー、やっぱりいいねここは。落ち着く。」
彼女はリラックスしたように表情を緩ませ、言った。
奏太はニコニコしながら、「だねー。」と一言呟く。
会話が途切れる。しかし、そのあとの会話をユウは続かせようとはしなかった。奏太もまた同じく、二人は無言で、一緒にいるその空間を嗜んでいるようだった。
それからしばらくして、ユウが突然起き上がった。彼女は改まった様子で奏太の方に向き直ると、重い口を開いた。
「あのさ……、私、せっかく体も女の子になれたしどうせなら名前も女の子っぽいのにしたいと思うんだけど……どうかな?」
奏太も仰向けになっているからだを起き上がらせると言った。
「いいと思うよ。僕はユウがやりたいと思うことならなんでも応援するよ。」
「本当!よかったー。もし奏太に反対されたらどうしようかと思ったよー。」
奏太は微笑した。
「僕が反対するわけないでしょ。」
「それもそうだね。」
彼女は楽しそうに笑う。
「それはそうと、もうどんな名前にするか決めたの?」
「いや、実はまだ決めてないんだよねー。」
「あ、そうなんだ。」
「そうそう。」
ユウは難し気に顔をしかめる。
彼女は数秒考える素振りを見せると、突然声を発した。
「あ、そうだ! 」
ユウが突然思い立ったかのように言う。
「奏太が考えてよ、私の名前。」
奏太は目を丸くした。
「え、僕が?」
「うん、奏太に考えてほしい。」
彼は当惑するように眉をひそめて言った。
「別に僕はいいんだけど……。本当に僕でいいの?僕、ネーミングセンス悪いし、ろくな名前を思いつかないよ。」
ユウはそんな奏太を一瞥すると言った。
「いいんだよ。それでも私は奏太の考えてくれた名前がいい。」
奏太は数秒考える素振りを見せると言った。
「分かった。じゃあ頑張って考えてみる。」
ユウは満面に喜色をうかべる。
「やったー!ありがとう!」
歓声をあげるユウの横で奏太は彼女をほほえましそうに見ていた。
それからまた一週間経った。彼は警固公園にユウを呼び出し、ベンチに隣り合って座っていた。奏太がユウの方に真剣な面持ちで向き直る。
「ユウ、名前考えて来たよ。ダサいかもしれないけど僕なりに頑張って考えたから聞いてほしい。」
「うん。分かった。」
彼女もまた真剣な眼差しで奏太の方に向き直る。
奏太とユウの目があう。奏太は真剣な面持ちから一変し、顔を赤面させた。
「なんか、自分で考えた名前を伝えるのって恥ずかしいね。」
「えー、そんなこと言わないでよー。今から私の名前になるかもしれないのに。」
「それもそっか。」
奏太は苦笑した。
「じゃあ言うよ……。」
ユウは気唾を飲み込む。
「うん。」
彼は顔を赤らめ、俯きがちに言った。
「……ゆめ。」
「ん?」
「だから、考えて来た名前だよ! 夢って言うのが僕が考えて来た名前。」
「……夢……夢……」
ユウは数回夢という名を呟きなが思案顔を浮かべる。
奏太はまた俯きがちに言った。
「やっぱダサいよね。今のなし。やっぱり名前は自分で決めた方がいいよ。」
そんなネガティブな状態に陥っている彼を彼女は慌てて否定する。
「いやいや、全然そんなことない……。……むしろむちゃくちゃ気に入ったよ!めちゃくちゃいいじゃんこの名前!」
「本当?」
奏太は訝しげに聞いた。
「本当だよ!」
彼が疑わし気にユウの顔を覗き込む。
彼女の顔は紛れもなく満面に笑みを浮かべていた。
彼女が嬉しそうに呟く。
「夢かぁ……。ずっとこんなかわいい名前に憧れてたんだ。ほんとにうれしい。」
「そっか。それなら良かった。」
奏太は照れ隠しのためかややそっけなく言った。
彼女はそんなことは気にも留めていないようで、先ほどから夢という名前を口ずさんでは嬉しそうに顔を綻ばせていた。
「ねぇねぇ奏太。」
「ん、何?」
「あのさ……、夢って呼んでよ。」
「うん。もちろんこれからは夢って呼ぶけど。」
奏太は訝し気に首を傾げた。
「違う、そうじゃない!今呼んでほしいの!」
「あ、そういうことか。いいよ。」
奏太が再び改まったように夢に向き直った。ウズウズとした様子の彼女が目に映る。
「……なんか恥ずかしいな。」
「そういうのいいから、早く言って!」
彼女は急かすように言った。
「わ、分かったよ。……夢」
彼女は感動の声をあげる。
「おぉー。なんか新鮮だね。」
「えー。感想それだけー?」
「だって、さっき散々自分で言いつくしちゃったんだもん。」
「まぁ、そりゃそうか。」
奏太が苦笑した。
「でも……、めちゃくちゃ嬉しい。本当にいい名前だね。」
「でしょー。この名前考えるのに一週間丸々かかったんだから。」
今度は自慢げに言った。
「えー、そんなに長い間考えてくれてたの!」
「そうだよー。あー、疲れた。」
奏太はわざとらしく明快に疲労したような演技をする。
夢はそれを見て、面白そうに笑う。
「でも、本当にありがとね。大切にする、この名前。」
奏太は満足そうに頷いた。
ブオーンという轟音とともに奏太はまたもや現実に引き戻された。今度はスポーツカーの走行音だった。
彼はぐるりと首を回し、辺りを確認する。彼の運転するバイクは舗装された山道を進んでいた。彼は後ろを一瞥すると夢に向かって言った。
「あと三十分くらいすると着くよ。」
夢は奏太の背中に埋めていた顔をあげる。
「あ、そうなんだ。思ったよりも時間かからなかったね。」
事もなげ調子で夢が言う。
彼女の機嫌はすっかり良くなっているようだ。
奏太は苦笑いを浮かべて言った。
「そうみたいだね。」
それから奏太が三十分程バイクを走らせて山道を登っていく。その途中、道路脇に古い錆びた看板があった。そこには掠れた文字で「油山展望台」と書かれている。彼がその看板を通り過ぎると平坦な何もない広場のような場所に辿り着いた。周りにその場所を照らす照明となるものが一つもないので、そこは暗闇に包まれていた。また、その看板を境に山道と平坦な場所が隔てられているようで、舗装されたアスファルトの道と砂利の広がる広場の境目が足の感触でくっきりと分かった。彼は、まだらにバイクの止まっている粗末な駐輪場に自分のバイクを止める。エンジンを切り、鍵を抜き取ると、奏太は夢の手をひき、さらに奥の方へと進んでいった。すると今までは暗さで見えていなかったが、五段ほどの短い階段が現れた。奏太は夢と目を見合わせるとその階段を上る。ちょうど三段目に到達したところで夢が歓声をあげた。奏太も同じく声をあげる。
彼らは駆け足で階段を登りきると、再度、場の空気が震えるような歓声をあげた。
「うわぁー!すごーい!」
夢が叫んだ。
それにつられて奏太も感動の声をあげる。
「うわ、すっごー!めちゃくちゃ綺麗!」
彼らの見下ろす先には町の明かりが形作る、一面に星屑をちりばめたような幻想的な夜景が広がっていた。
二人は自然と閉口し、しばらくの間その夜景に陶然と見とれるかのようにただぼーっと眺めていた。二人の他にも展望台には幾分の人々が見られ、その人々もまた目の前の光景に唖然として言葉を失っている。
そんな状況の中しばらくして奏太が口を開く。
「本当にきれいだね―――。」
彼はうっとりとした様子で言った。
「うん。」
彼女もまた見とれた様子で言った。
「あのさぁ夢……」
「ん、何?」
「僕さぁ、ずっと君のことが好きだったんだよね……」
「ふーんー……ん?え?」
奏太の突拍子のない発言に驚いたように大きな声を出して、彼の方を振り返った。
「本気で言ってるの?」
夢は彼の正気を疑うように聞く。彼女は奏太の顔を覗く。しかし、暗がりでうまく表情が視認できないようだった。
「うん。本気だよ。出会ったときからずっと君に惹かれていた。君が男か女かとかに関係なく。」
奏太には夢と出会った当初のユウが重なって見えた。
夢は戸惑っているようだった。
「ごめん、ちょっと一回待って、いまいち状況が呑み込めてない。一回整理させて。」
彼女は眼下の夜景に目を伏せる。さっきまではあんなにも感動した景色が、今となってはうまく認識できない。いくつにも連なった光の粒が、無秩序に点滅するのを見て、やっとのことで追いついてきた思考に頬を赤らめた。
「大丈夫。やっと状況が呑み込めた。つづけて。」
「うん」奏太は笑いながら言う。
夢が唾をゴクリと飲み込むのが暗闇の中でも容易に分かった。
奏太が夢の方に向き直る。
その刹那、先程までやかましいほどに射光していた町明かり達が、スッと点滅をやめた。
目の前の奏太が口を開く。彼の一呼吸に夢の胸が高鳴る。
「夢、あなたのことが大好きです。僕と付き合ってください。」
数秒の静寂。
ずれる目線。
火照る頬。
過ぎ行く時間、その一秒一秒が甚大にその存在を主張する。
意を決したように夢の唇が動く。
「はい、喜んで。」
夢の顔には満面の笑み。
「よっっしゃああ!」
奏太が喜びの咆哮をあげる。
それを見て夢は目を細めて微笑む。
夜空に彼の声が響き渡る。熱くオーバーヒートした彼の頬にも笑みが灯る。無機質なその空に一粒の星がきらりと光っていた。
四月十三日
ユカリは博多駅の西口へ来ていた。彼女がスマートフォンでイマスタのメッセージを開く。トーク履歴の一番上にとある人物が上がっていた。
@Souta
つい先週彼女が指名したママ活の男の子だ。ユカリは先週に引き続き今週も彼との予約を入れておいたのだ。彼女は胸を躍らせてメッセージを入力する。
『奏太君、いつ頃に着くかな?私今西口の所にいるから、近くまで来たら教えてね!』
返信は数秒もしないうちに返って来た。
『僕も今、博多駅に到着しました。すぐ西口の方に向かいますね!』
彼女がメッセージに目を通してるうちに彼は彼女の元へとやって来た。
「ユカリさーん!」
ユカリの背後で彼女を呼ぶ声が聞こえる。彼女は驚いたように後ろを振り返った。すると、そこにはニコニコと人懐っこそうな表情をして立つ奏太の姿があった。
「すいません。待ちましたか?」
彼は申し訳なさそうに尋ねた。
「いやいや、全然待ってないよ。それにしてもずいぶんと早かったね、移動するの。」
奏太は曖昧模糊な彼女の質問の意図を瞬時にくみ取ったようだ。
「あ、いや僕も元々西口の方に向かってたんですよ。そこにユカリさんからのメッセージが来て―――。」
「あー、なるほど。そういうことだったのね。」
ユカリは納得したようにうなずいた。
その後、奏太はいつものごとくプランの説明の常套句を告げる。その間彼女は黙って彼の説明を聞く。この一連の流れが、二人が会ったときの一つのルーティンと化していた。
ようやく説明が終わり彼女が口を開く。
「それじゃあ奏太くん今日は何をする?」
ユカリがウキウキとした様子で尋ねる。
「あー、僕はなんでもいいよー。」
「そんなこと言わずに、ほら、なんでもしたい事言っていいんのよ。」
「んー。じゃあショッピングモールに行きたい!」
ユカリが面白そうに笑う。
「奏太君、本当ショッピングモール好きだね。いいよ、行こっか。」
二人は近辺のショッピングモールへと歩き出した。
件の場所に行く道中、ユカリが奏太の全身を舐めまわすように見る。
「それにしても、奏太君、今日のお洋服とっても似合ってるね。」
ユカリはストリートスタイルのコーデを身に纏っている奏太を見て言った。彼の纏う、カーキ色のカーゴパンツが揺れる。
「本当ですか!ありがとうございます。……ここだけの話、実は内心似合うかどうか心配だったんですよねー。僕、普段はどちらかというと正反対な感じのコーデをしてるから。」
「そうだったのね。でも本当にとっても似合ってるから安心して。それに私はどちらかというと、そういう感じのかっこいい系のコーデの方が好きだから。」
ユカリは喜色を浮かべ言った。
その後、二人は駅から近くのショッピングモールに到着した。二人はそのままの足取りで、最上階にある映画館へと進む。道中で、ユカリから映画を見ることを提案をされたからだ。ユカリ曰く、その映画は以前彼女が誰かと一緒に見たもので、面白かったからぜひ一緒に見たいということだった。内容はよくある青春ラブコメディだった。二人は券売機でチケットを買うと、劇場に入場した。その際奏太はユカリから買ってもらったポップコーンセットを大事そうに抱えていた。
映画は一時間半程度で終了した。
「あー、面白かったー。」
奏太は背伸びをしながら満足そうに言った。
彼の手には空のポップコーンバケットとドリンクカップが握られている。
「本当?よかった。連れて来た甲斐があったわ。」
彼女は微笑ましく彼を見た。
奏太が時計を一瞥する。
「お母さん。まだ結構時間あるけどどうする?」
言うまでもなく時間というのはプラン終了までの残り時間のことを指す。
「えーと、そうだなー。じゃあどこかでカフェでもしましょ。」
「いいねー。」
二人は、ショッピングモール内にあるカフェ『ドワーフ』に移動した。
お昼を過ぎたばかりの店内は人が少なくガラリとしていて、平静を保っている。全体がアンティーク調で落ち着いた雰囲気の内装とは裏腹に、軽快でポップなBGMが流れ、場に相応しくない賑やかな雰囲気を醸し出していた。
「――奏太君は何にする?」
机上に広げられたメニュー表に目を落とすユカリが尋ねる。
奏太も眼下のメニュー表に目を向ける。
「えーと……、じゃあミルクティーで。」
「オッケー。」
ユカリは店員を呼ぶと、さっそくオーダーを伝えた。
注文の品は数分程度で届いた。
奏太は店員からユカリの手を介してそれを受け取る。
「ねぇ――。」
彼が声のする方を振り向くと、ユカリが彼の顔を見つめていた。
「……“奏君”は、甘いものが好きなの?」
奏太の動きが止まる。
彼はユカリの声を聞くや否や、刹那としてその目の内側に緊張と驚愕の色が灯った。
「……今、、、何て言いましたか?」
彼は唖然として目を見開いていた。
そんな彼に対して、ユカリは何のことか分からないと言った様子でキョトンと首を傾げていた。
「甘いものが好きかどうかってこと?」
彼女は探る様に聞いた。
「違う。その前。」
彼は無意識のうちに語尾を強めていた。
彼女はハッとして言う。
「もしかして、奏君って言われるの嫌だった?」
二度目にその名前で呼ばれた瞬間、太刀風が両脇を通りすぎるかの如く、奏太の頭の中に、ものすごいスピードで記憶がフラッシュバックする。
彼は突如として、発生源の分からない白い光に包まれた。
奏太は気が付くと白い光の中で、自分より幾分も背の高い女性に頭をなでられていた。――違う女性の身長が高いのではなく、彼自身の身長が縮んでいたのだ。奏太はちょうど小学校低学年くらいの背丈まで体が縮んでいた。
しかし、彼はそんな事実に気づくことも、疑問に思うこともなく、ただ素直に目の前の事象を受け入れていた。
「……奏君泣かないで、大丈夫だよ。」
彼の頭をなでながら女性が言う。
奏太は自分の頬に触れる。どことなく湿っているようだ。いくつかの熱い雫が彼の指先に触れた。奏太は、そこで初めて自分が泣いていたという事実に気づいたようだった。けれども彼の中からは悲しみなどの感情は一切感じられず、その代わりに強烈な幸福感だけが、体と精神を支配していた。
奏太はずっと俯かせていた顔を上げ、ふと女性の顔を見る。自分がよく知る人物の顔にどことなく似ているような気がした。しかし、その人が誰なのか、分からない。
彼が必死に思い出そうとしていると、突然後ろの方から男の声で怒号が飛んできた。彼は反射的に振り向く。
そこには、害虫でも見るような目で二人を睨む男の姿があった。男は続けざまに彼らを呵責する。その時、彼は今までの罵詈雑言がすべて自分たちに向けられたものだったということを直感的に理解した。
彼は男の顔を見るや否や、言いようのない恐怖に顔を歪め、俯いた。彼の背後で男が罵倒を続ける。奏太は両手で自分の耳を塞ぎ、その声を遮断しようとした。
頭が痛くなるほど強く、強く両耳を押さえつけた。それでもその声は、脳みそに直接語りかけているかのようにはっきりと聞こえ、無慈悲な程に彼のむき出しの精神を攻撃し続けた。彼は太刀打ちできず、うめき声を上げながら悶え苦しみ、のたうち回る。奏太は錯乱のせいで遠のく意識の中、どこか見覚えのあるあの男の顔を思い浮かべた。憎悪、嫌悪、怒り、怨み――そんな言葉では到底言い表せないようなどす黒い感情が、胃の奥から奔騰し彼を飲み込んだ。突如、彼の体のあちこちで鈍い痛みが迸る。彼は脊髄反射で痛みの根源へと目を向ける。一番最初に目に入ったのは自分の両腕だった。細く白い腕。骨ばったその腕を労わるように優しくさする。すると、彼の腕の表面に次々と小さな斑点が浮かび上がってきた。その斑点は徐々に大きさを増して行って、終いには大小さまざまな痣の形へと変化した。奏太の両腕には痛々しい痣の数々。それらは腕だけではなく全身に広がっていた。煙草を押し付けられてできたようなやけどの痣、患部が腫れて青紫色になったもの、黄色くなっているもの……彼はそれらの痛々しい傷を見て即座に思い出した、今まで男から行われてきた卑劣な所業の数々を。そして地獄のような日々を。彼は戦慄し、顔面蒼白になってすぐさま駆け出した。奏太は、足がもつれそうになりながら必死に走る。息をすることも忘れてただ走り続けた。
次に奏太が気が付くとそこは葬儀場だった。先ほどまで彼を包んでいた白い光は消え、葬儀場内の殺風景な風景、真っ黒な服に身を包んだ人の数々が目に映った。彼は今現在起こっているこの事態に理解が追い付かず、訳もわからずに立ち尽くしていた。すると、周りの黒装束を身に纏った大人達が棺桶から伸びる長い列に並ぶようにと促してきた。彼は促されるままに列に整列する。その時不思議と先ほどまでの恐怖感は感じなかった。代わりに正体不明の深い悲しみと喪失感が彼を飲み込もうとしていた。彼がそんな感情に打ちひしがれていると、いよいよ彼の順番が回って来た。彼は意を決して棺桶の中を覗き込む。棺桶の中に眠る女性を見たとき、先ほどまでの悲しみや喪失感は一層深いものとなった。
「あぁ……そうだった」
奏太はひとりでに呟いた。棺桶の中に眠っていたのは先ほどの女性だった。しかしその顔はつぎはぎだらけで見るも無残な姿になっていた。彼は顔を歪め、瞳に光るものを溜めながらまた呟く。
「そうだった……お母さん、事故で死んじゃったんだった。」
一度あふれ出した涙は止まることを知らず、彼の目から止めどなく流れる。瞳から零れ落ちた涙が彼の頬を伝って落ち、棺桶の中で眠る女性の頬を濡らした。途端に彼は膝から崩れ落ちた。彼は大声で泣き喚く。声は粛然とした葬儀場の中で虚しく木霊していた。
それからどれだけの時間が経ったのだろうか、彼は気が付くとまた白い光に包まれていた。先ほどまで自分がいた式場は忽然と姿を消し、周りを見渡せどもただ何もない空間がそこに広がっているだけだった。奏太は空虚な空間に自分一人というこの現状にひたすらに孤独を感じる。彼は今まで自分を支配していた孤独感、虚無感、喪失感、悲しみ――。そのいずれの負の感情に再び支配されるのを恐れ、その場にうずくまった。それでいて彼は結局、断然的に支配されているのだった。彼は打ちのめされ、そうしてしばらく身動きを取らずにいた。
不意に、どこからともなくぼんやりと女の声が聞こえて来た。
「……くん……うたくn……奏太君……」
奏太は直感的に自分が誰かに呼ばれているのを察知した。
彼はむくりと起き上がる。そして、ただ声のする方へ我武者羅に駆け出した。
「――奏太君……奏太君……」
気が付くと奏太は元居たカフェに戻っていた。
「どうしたの奏太君。なんで泣いているの?」
ユカリが心配そうにこちらを覗き込んだ。
奏太がユカリから渡された鏡で顔を確認すると、確かに瞼からその下の頬にかけて涙の伝った後があった。
「いや、なんでもないんです。」
奏太は口を濁した。
「そう……」
ユカリは怪訝と心配が入り混じった顔をして言った。
その後は二人とも口を堅く閉ざし、終始無言が流れていた。
静静とした空間に気まずさと、心配、その他の粗悪な感情がうつらうつらと宙を舞ってた。
四月十六日。
圭吾は此の節立て続けに起こっている連続レジ強盗を追ってコンビニの前で張り込みを行っていた。圭吾が身を潜めているのは、コンビニの入り口向かって左側に位置する一軒家の物陰だ。そのコンビニの駐車場には、春樹の乗った一台の車が停車している。いずれもコンビニの中からは死角になっていて張り込みをする上では絶好の穴場となっていた。二人は店内の様子を固唾をのんで監視する。閑静な住宅地に佇むその店は、どこか物々しい雰囲気が漂っている。
この時すでに、二人が監視を始めて四時間が経過していた。しかし、依然として強盗犯と思しき人物は現れない。二人の中には半ば諦めの気持ちが芽生えつつあった。そんな時、ふと一人の人物がコンビニ内へと立ち入るのが見えた。上下に黒のスウェットを身に着けた大学生くらいの男だ。頭には深くニット帽を被っている。その男は何喰わぬ顔で店の中へ入って行った。車の中の春樹が緊張した面持ちで圭吾にアイコンタクトを取る。圭吾はさらに注意深く店内を注視した。男が店内をうろうろと立ち廻っている。タイミングをうかがっているっようだ。男は店内をぐるりと一周すると、レジの方へ歩を進めていった。圭吾もまた相手に気づかれないようにそろりそろりと店の近くまで進む。店内では男がレジの目の前まで接近していた。すると次の瞬間、男はポケットからナイフを取り出して店員に突き付けた。圭吾は弾かれたように店内へ突貫する。男は突如として店内に入り込んできた慮外な客に吃驚してナイフを手から滑らせた。ゴトリと重たい音を立ててナイフがレジカウンターの上に落ちる。男は慌ててそれを拾おうとしたが、圭吾が透かさず銃を取り出したことによって動きを封じられた。
「動くな、警察だ。速やかに投降しなさい。」
圭吾の権幕に押され、観念したかのように男は両手を上げる。
圭吾は即座に男を取り押さえた。圭吾の目に、はっきりと男の顔が映る。男の顔は、圭吾が想像していたものよりもずっと若かった。おそらく十代後半であろうその少年の、沈鬱な目が圭吾を見据える。その一瞬、彼の姿が歪んだように見えた。少年とは違う何者かの写像が、上から覆いかぶさったようだ。圭吾は唖然とする。そのせいで彼は少年を取り押さえる手を少し緩めてしまったようだった。拘束が緩んだことに気づいた男はニヤリと笑みを浮かべる。彼は圭吾を振り切り、猛スピードで逃げて行ったしまった。圭吾は少年の行く末を茫然と見つめることしかできなかった。
圭吾が呆然自失としてコンビニから出てくると、目の前の駐車場で春樹が待ち構えていた。
「おい、何ださっきのミスは。」
春樹は血相を変えた様子で彼を叱責する。
「すまない。」
圭吾は心苦しそうに顔を歪めて謝罪する。
「本当、何やってんだよ全く。俺が入口の前で待ち構えてたからよかったものの。もし俺がいなかったら大変なことになっていたんだぞ。分かっているのか。」
圭吾は、春樹の後ろに停車している一台のパトカーを一瞥する。中には、先ほど彼が取り逃がした黒スウェットの少年がいた。彼は後部座席で不服そうに鎮座している。圭吾はますます申し訳なくなり、地に頭が付く勢いで春樹に頭を下げた。
「本当に申し訳ない。」
春樹は大きなため息を一つつくと、怪訝そうに顔をしかめて聞く。
「お前まさか、また優太のことを思い出してたのか?」
圭吾は力なく頷いた。先ほど彼の拘束が緩んだ理由、それは、少年の姿とその少年と年齢が近い息子優太の姿、その二つが重なりあって混濁し、彼の思考を半ば破壊したためであった。そんなことになった理由は、他でもない息子への憂惧や懐旧の情に、日々駆られているせいだろう。
そんな圭吾に対して、春樹は諭すように言った。
「いい加減、自分の息子と他のガキを重ね合わせるのはやめないか。こうも毎度毎度ガキ一人に手こずっているようじゃ、警察官としての示しがつかないだろ。」
「すまない。でもどうも息子のことになるとダメみたいなんだ。」
春樹は呆れたようにため息をついた。
「いい加減もう優太のことは忘れたらどうだ、仕事に支障が出るだろ。第一優太が家出してからもう四年もたっているじゃないか。もうあいつも立派な大人になっているだろう。お前がそんなに心配しなくたってちゃんとやっていけてるさ。」
「あぁ……」
圭吾は暗い顔で頷いた。
沈みかけた夕日が空を茜色に染める。圭吾は泰誠に呼ばれ居酒屋『あかね』に来ていた。
圭吾は、入ってすぐのところにあるカウンター席に座り、店員から先ほど注文した生ビールを二つ受け取っていた。グラスについていた水滴が、彼の両手を濡らし、数滴がその手を伝って机上に落ちていった。彼は、カウンターに乱雑に置いてあったおしぼりでそれを拭う。ふと、誰かが彼の隣に座ってきた。圭吾は振り向く。そこには泰誠の姿があった。
「よう、待ったか。」
彼は眉を持ち上げて言った。
「いや、俺も今来たところだ。」
「そうか。なら良かった。」
泰誠は明快に笑う。そんな彼に圭吾は疲弊した笑顔を浮かべる。
「なんだお前。今日はやけに暗いじゃねーか。」
「そうか。」
「あぁ。なんかあったのか?」
「いや、実は仕事でちょっとヘマしてさ。」
「ヘマ?――分かった。なんのヘマをしたのか俺が当ててやるよ。」
「なんだよそれ。」
圭吾は酒を少し口に含むとほくそ笑んだ。
「いや、簡単な問題だ。どうせまた優太関係で何かあったんだろ。」
彼はバツが悪そうに頷いた。
「よくわかったな。」
「いや簡単なことだったよ。なんせ、お前が仕事でヘマをすると言ったら、息子関係のことしかないしな。」
「確かにな。」
圭吾は自嘲気味に笑う。そんな彼に、泰誠は突拍子もなく呟いた。
「そういえばさ、昔、優太がまだ五歳くらいのときに遊園地で迷子になったときのこと覚えてるか?」
「そんなことあったか?」
「あぁ、あったよ。忘れたのか?」
「んー。そんなこともあったような……」
「まぁいいや。そんでその時、俺もお前の付きそいで一緒に行ってたんだよ、遊園地に。それでちょうど昼時だったかな、腹ごしらえのためにフードコートにいったんだよ。当然お前と、あと優太も一緒にな。結局何食ったのかは忘れたんだけど、とりあえず二人して店の列に並んでたんだよ。そしたらさ、急にお前が『優太がいない』とか騒ぎ出してさ、見るとほんとにいねえんだよ、どこにも。おそらく、一瞬だけ二人ともあいつから目を離したんだよ。それで気づいたら、狐に包まれたように姿を消しててさ。もう、頼んでた飯そっちのけで二人してあいつを探したよ。」
「言われてみれば確かにあったな、そんなこと。」
「お、思いだしてきたか。」
「ぼちぼちだな。」
「そうか、まあいいや。それでさ、あいつ探してるときのお前の表情と言ったら、それはもう酷い顔してたよ。あの顔は今でも忘れないな。」
「そんな酷い顔してたのか俺?」
「あぁ、それはもう酷い顔だったぞ。この世の終わり見たいな顔してあいつのこと探すから、俺もう、お前が不審者と勘違いされないかヒヤヒヤしてたよ。」
「どんな顔だよそれ。」
圭吾は哄笑した。そんな彼を一蹴するように春樹はポツリと言った。
「焦燥感と恐怖心が混濁したような表情だったよ。」
圭吾の心臓が微拍を打つ。
彼は何も言えずにただ一口酒をすすった。
時計の針が十時を指す。カスミは目覚めた。ベットからおもむろに起き上がった彼女は、枕元に置いてあったスマートフォンを手に取る。それから火照った目をして独言する。
「やっぱり泰誠君はかっこいいなぁ。」
その火照った目線の先には、右手に握られているスマートフォン。その画面には写真フォルダー。左上に表示されているフォルダー名には、『泰誠』の文字が綴られていた。フォルダー内には、スマホの一画面を埋め尽くすように数多の写真が保存してある。そのどれもが一人の人間を映したものだった。彼女は顔を高揚させる。微かに震える指先で画面をスワイプした。画一的な笑顔が、何列にも連なって下から上へと流れていく。画面の大部分を占領しながら蠢く。
彼女はそれらを舐めるように眺めながら、色気の籠った長息を吐いた。部屋全体に妖艶な空気が漂う。
彼女はその空気に毒されるかの如く呼吸を荒くした。
空気中に散りばめられた生々しい感情が、質量をもって彼女に迫り、圧死させようとしていた。
そんな気味合に犯されつつ、彼女は、また深い眠りに落ちていくのだった。
四月十七日
窓の外から小鳥のさえずりが聞こえてくる。清々しい朝だった。午前六時。香奈は優太の部屋にいた。全体的に青色で統一された部屋は、まるで窓の外に浮かぶ空の青そのものが、部屋内に充満して浸透しているようだ。部屋の片隅には、埃を被ったサッカーボールや未開封の仮面ライダー変身ベルトが物寂し気に転がっていて、そのどれもが、この部屋の主が男の子であるということを静かに主張していた。窓際に設けられた学習机には、学校の教材らしきものが放り出され、そのままになっている。開かれた教科書の表面には、薄い埃の膜が張っていた。そんな寂寥感の充満した空間の中で一人、香奈は放心するように立ち尽くしていた。憂いを帯びた目でただ一点を見つめている。彼女の見つめる先には、壁に沿って設けられた一つの棚があった。棚の高さは彼女の肩ほどまであり、横にも90cmほどの幅がある。この棚もまた、部屋の色と同様青い色をしていた。そのためか、棚自体は部屋の雰囲気によくなじんでいた。しかし、どことなく漂う違和感。それを異質な存在にしていたのは、おそらく中に飾られている各々のせいだろう。その棚一面には、バービー人形やクマのぬいぐるみ、ピンク色のソープフラワーなど、棚の色に反したかわいらしいものが所せましと並んでいた。そのせいか、青色が蔓延したこの空間の中で、一か所に集中した淡いピンク。そこだけポッカリと穴が開いているようだった。なんだかアンバランスな感じだ。彼女を見つめるぬいぐるみの目が光る。
その棚を見ていると香奈は、幼い頃の優太が目の前にいるような錯覚を覚えた。
『お母さん。見て!この子かわいいでしょ。』
喜色を浮かべた幼い優太が、香奈の元へ駆け寄ってくる。手にはあるものが握られていた。
それはクマのぬいぐるみだった。
『これね、お父さんに買ってもらったの!』
優太は両手で大事そうに抱えているそれを、香奈の顔の前に突き出した。
嬉しそうな彼の笑顔が、彼女の溝内あたりを殴る。香奈は表情を曇らせた。彼女は優太の目線の位置まで腰をかがめると、言い聞かせるようにして言う。
「そうね。かわいいね。……だけど、それ女の子のおもちゃだよ。男の子なんだから、そんなの持ってたら恥ずかしいよ。」
それから彼女はわざとらしく手を叩き、「そうだ!」と言った。
「そのぬいぐるみと、これ交換しない?」
そう言って彼女が後ろから取り出したのは、仮面ライダーの変身ベルトだった。
「お母さん、奮発してこんなの買っちゃった。男の子なんだからそんなのよりこっちのベルトの方がずっといいよ。」
彼女は優太を見つめる。その眼にはどこか懇願の色が混ざっていた。
『でも……』
そう言って優太がまごまごしていると、香奈は強引にぬいぐるみを彼から引きはがした。
『あぁ……。』
彼は哀切な声を漏らす。
そんな彼に彼女はベルトを渡す。優太は哀傷に顔を歪める。
彼は両目に溜めた涙が、恨めしそうにそれを見ていた。
気が付くと香奈の目の前には中学生くらいの優太が立っていた。
彼女はプログラムされた機械みたく、右手を彼の顔の前に突き出す。その手にはいつの間にかビニール袋が握られていた。中に何かが入っているようで、くちを縛った下の方が大きく膨らんでいた。
「ねぇ、これ何なの?なんで、男の子なのにこんなの持ってるのよ」
そう言って彼女は袋を揺らす。
カラカラという乾いた音がした。透明なその袋の中には、きらきらと光沢のある、種々雑多な何かが入っている。それはシルバーであったり、赤色だったりした。そして、それらの表面には掠れた文字で化粧品メーカーのロゴが刻まれていた。香奈が袋の中からシルバーの丸棒を一本摘まみ上げて見せる。棒の表面には宝石を模ったラインストーンたちが、ここぞとばかりにちりばめられていた。彼女はそのキャップを軽く引っ張る。すると、中から真紅の口紅が姿を現す。血で染まったような赤いルージュがあざ笑うかのようにこちらを覗いていた。口紅の容器の曲面に優太の顔が歪んで反射する。戦慄した彼の顔が異様に長く伸びていた。
だんまりとした優太を突き放すように香奈は言う。
「お母さんに隠れてこんなもの集めて……。ほんっとうに気持ち悪い。もうこれ全部捨てるから。」
そう言い放ち香奈は部屋から出ようとした。その時、彼女の袖が何かに引っ掛かった。香奈が振り向くと、そこには優太の手があった。白く細い手が、彼女の手首を必死につかんでいた。
『お願い……捨てないで。宝物なの……。」
優太の懇願するような目が彼女を覗く。
香奈はそんな彼を突き放すように睨みつける。そして、掴まれたその腕をさっさと振り払い、部屋から出て行ってしまった。
『待って……行かないで……。」
青色で統一された部屋の中、一人の少女の断末魔だけがむなしく響き渡った。
それから何年か経って優太はその家を出て行ってしまった。
青で統一されていた部屋は、いつの間にか千差万別さまざまな色が混濁してしまっていたようで、すっかり濁りきっていた。
空が刻々と色を朱色に染めてゆく。カスミは“あの時”と同じ警固公園のベンチに座り、目の前を取りすぎる男女を恨めしく眺めていた。彼女の瞳が暁の残照に照らされ、虚ろに光る。
「夢……なぜ私を裏切ったの」
彼女はひそかに独言した。
声は朱色の光とともに虚しく色褪せていった。
○月○日
カスミは気づいた時にはそこに存在していた。
辺りをぐるりと見渡す。まばらに人がいて、隅の方には追いやられた遊具があった。
「公園……」
彼女はぼそりと呟いた。
どうやら彼女がいる場所は公園の中だったようだ。
彼女は訳も分からずデクノボウのように立ち尽くす。
……私は誰だ。
彼女の中にふとそんな思いが奔騰した。
途端に言い知れぬ不安感が、重く重く曇天から圧し掛かる。
自分自身が得体のしれない何かみたく、性が知れない。謂れが知れない。そんな中で唯一、天界から差し伸べられた仏の手の如く無意識に自分を自覚させるものがあった。「カスミ」。彼女の名だ。特段誰かに教わったわけではない。
ただ自分の奥底に眠る何かが、その名を一心不乱に叫んでいたのだった。
そんな彼女は、気が付くといつも違う場所にいた。それは路地だったり電車内だったり、ひどいときには福岡から遠く離れた東京駅のホームに突っ立っていたこともあった。しかし、彼女自身には自分が移動した記憶はなかった。また、その現象が起こるのは決まって夜、時計の針が十時を指し示す頃だった。いつも決まってその時間に目覚めては、寸分ほどの世界を堪能する。その後強い眠気に襲われ、為す術なく意識が遠のき、気が付くとまた別の場所にいた。例の如く時計は十時を指し示していた。
毎日がその繰り返しだった。
自分が眠っている間にも活動を続けていたという自覚は彼女にはなかった。まるでゲームのキャラクタ―みたく、毎日同じ時間に世界に放り込まれては、所在なくあたりを巡回する日々だった。
しかし、カスミ自身はこのことについて何の疑問を持つこともなかった。彼女は、ただ傍観するようにその状況を受け入れていたのだった。
そんな生活が何日……いや、何回も続いて次第に彼女は自分の状況を傍観の傍らで理解し始めたようだ。
カスミがよく目を覚ます白い家が自分の家だということ。自分が世間一般の女性とは少し異なっているということ。そして、彼女には同棲している人がいるということ。
ある時彼女が目覚めるとそこは居酒屋の中だった。
彼女はカウンターでジョッキを片手に座っていた。
周りを見渡すと大勢の人が酒や料理を嗜みながら楽しそうに談笑している。ふと誰かに横から話しかけられた。彼女は反射的に振り向く。そこにはグレーの髪をした一人の男性がいた。男は楽しそうにカスミに話しかける。男の口調からすると初対面ではないことは確かだった。
しかし、彼女の方は彼のことを思い出すことが出来ず苦悶していた。そこで彼女は彼のことについて根ほり葉ほり訪ねていった。
最初は彼の方も困惑している様子だったが、次第に面白くなってきたのか彼女の質問に次々に応えていった。
そこで彼女はいろいろなことを知る。彼の名前が杉田 泰誠であること。泰誠と彼女は同じ高校に通っていたこと。そして同じ部活に入っていたということ。それでも彼女は思い出せなかった。彼女の中には彼と同じ学校に通っていた記憶は愚か、同部ので輝かしい青春を送っていたことさえも忘却してしまっていた。
ここまでくると彼はついに杞憂しだし、彼女の顔色を窺いつつ言った。
「お前だいぶ酔ってないか?大丈夫か?」
彼がカスミの顔を覗き込む。
泰誠の端正な顔が彼女の顔に接近した。
瞬間、仄かに琴線に触れるような感覚が彼女の胸を貫いた。
刹那のうちにカスミは泰誠に恋慕したのだった。
それからというもの、彼女は無き泰誠との思い出を渇望するようになった。
彼女は限られた一日の時間の中で、自分の身に起こっている奇妙な現象について手当たり次第に渉猟した。
言わずもがな書物などを入手することは困難を極めたため、彼女の研究材料は主に持ち合わせているスマートフォンだけだった。
その際、誰かに自分の病状が知れたらと臆し、履歴は必ず消すようにしていた。
それから幾分かの時を経たが、病の委細を究明することはできず、自身の身に宿る謎は深まるばかりだった。彼女は日々大いに悩み苦悶するとともに、しだいに自身の心中に諦念の心が芽生え始めていることを感じた。
そんなある日のこと、例のごとくスマートフォンのウェブブラウザアプリを開いたカスミは、半ば諦めの気持ちで画面を見つめる。
彼女が調べものを始めて、数分経った時、彼女の目に一つのウェブ広告が目に留まった。
「イマスタ……?」
それは近年若者を中心に流行しているSNSアプリ、『イマスタ』の広告だった。
カスミはその広告を見たとき、広告の大部分を飾っているキャッチフレーズに目を惹かれた。
『私らしさを発信する』
それがそのアプリのキャッチフレーズだった。
カスミは頭あの中で何度もそのフレーズを反芻する。そのフレーズは彼女の中にまるで根掛かりしたかの如く印象づいたようだった。
それから彼女がそのアプリをダウンロードしたのは、ものの数分後のことだった。彼女は脳神経に焼き付いた件のフレーズに操られる様にそれをダウロードした。
とは言え彼女は他人にこのアプリを見られることを気恥ずかしく感じたのか、スマートフォンを操作してすぐに通知をオフにし、アプリを非表示にしていた。
親指が絶え間なくスマートフォンをスワイプする。それに連れて投稿が下から上へと流れていく。尚も指は動きをやめない。
薄暗い部屋の中、ベットに横たわったスマートフォンの明かりだけが煌々と光る。
イマスタをダウンロードして早数日、カスミはすっかり件のアプリに耽溺していた。
また指が画面をスワイプする。一つの投稿にハートを押した。
あれから数日で彼女はイマスタの操作を完璧にマスターしたようで、今では意識がある状態の時はいつだってそれに惑溺していた。
もはや、当初の病のことなんかどうでもよくなっているようだった。
カスミのスマホで通知が鳴る。タスクバーが画面の上から姿を現した。
彼女はすかさずそれをタップして、通知の根元を探る。
タスクバーをタップして現れたもの、それはある人物の投稿だった。
@yume
アカウント名にはそう記されている。投稿には一枚の写真が載せられていた。
画面の中で笑う白皙の少女。手にはストロベリーのフラペチーノが握られている。赤いソース、分厚いホイップの上にちりばめられたチョコチップが鮮やかに光る。
写真を横にスワイプする。
今度は違うアングル、違うポーズを決めている彼女の写真が載っていた。
彼女は長い時間をかけて投稿を拝観し終えると、すぐさまハートを押す。ついでに保存を済ませると彼女は一度画面をスリープさせた。
真っ黒な画面に彼女の顔が反射して映る。
そこには怪しげにほくそ笑む白い歯が浮かんでいた。
@yumeは彼女の心の拠り所であり言わば推しのような存在となっていた。
カスミと彼女が出会ったのはイマスタを始めてすぐの頃。夜中の駅のホーム、電車の走り去る轟音を背にスマートフォンを眺めていた時のことだった。
その日もまた手持無沙汰で、投稿を上から下へと目で追って時間をつぶしていた。
そんな時ふと彼女の目に一つの投稿が目に留まったのだ。
画面越しに笑う白皙の少女。その黒々とした瞳にカスミは魅入られそうになった。
カスミは興味本位でそのアカウントを覗く。
そこには自分の追い求めていた理想の“女の子”。
刹那のうちに彼女は@yumeに魅了された。
さらにプロフィール欄には“福岡在住”の文字が記されている。彼女は強い親近感を覚えた。
それが@yumeとの初めての出会いだった。
それからカスミは、ことあるごとに彼女の投稿を追跡するようになった。
それから幾星霜の時が経った。
カスミは未だ@yumeの投稿を追跡していた。
彼女への執着のようなものは、日を追うごとにより色濃く、強く根付いていった。
そんなある日のこと、@yumeのアカウントにあるものが投下された。
カスミはその日も何の気なしにイマスタを眺めていた。
そこへ通知が来た。彼女は弩にでも弾かれたようにそれをタップする。
画面は@yumeのアカウントへ飛んだ。カスミは心を躍らせる。
そのままカスミは流れるように彼女の投稿を確認した。
そこでカスミは目を見張ることとなった。
その投稿に上がっていたのは普段のかわいらしい彼女ではなく、髪を短くしてボーイッシュな。一見して男子にしか見えないような、そんな彼女の姿だった。メイクもしてないようで肌もいつもより1トーン暗くみえた。しかし、美丈夫であることは確かだ。
カスミは激しい動悸押さえてキャプション欄へ目を落とした。
そこにはこんな文章が綴られていた。
『今日で私が女の子になってからちょうど二年!この際だから昔の写真を再投稿したよ。やっぱり今と比べると結構変わった?昔の私も割とイケメンでよかったな笑笑。冗談はさておき、みんな今まで応援してきてくれてありがとう。これからもよろしくね!』
カスミの鳥影を見るような表情が画面上の文字をなぞる。
カスミの中の彼女の理想像というのは一瞬のうちに崩れ去った。
彼女はひどく瞠目した。
しかしそれととともに、仄かに彼女に対して以前よりも強い興味や一種の憧れのようなものを感じるようになった。
それからまた数日後。
カスミの部屋の端に置かれたローテーブルの上には、@yumeの紹介していた化粧品がずらりと並んでいた。
そこにはプチプラのメイク用品に留まらず、一本何千円もする化粧水や口紅なども置いてあった。
つい先日、@yumeのリール動画を見ているときに化粧品紹介の動画が上がってきたようで、動画を見ているうちに無性に欲しくなり、衝動買いしてしまったようだ。
それで彼女は先日から化粧水などのスキンケアグッズを使っているのだが、以前よりも肌の調子が格段に上がっているように見えた。精悍な肌は、きめ細やかなまるでシルクのような肌へと変容している。
メイクも@yumeを真似して最近は毎日行っており、かなりこなれていた。そして、カスミは以前よりも執拗に彼女の動向を探る様になっていた。@yumeはカスミに取ってもはや生きる糧となり、彼女の心の支えとなっていた。
そんなある日のこと、彼女が目覚めるとそこには見慣れた景色が広がっていた。
彼女が目覚めた場所、それはあの日と同じ警固公園の中だった。
彼女が天を仰ぐと相変わらず空は黒く染まりきっており、夕焼けの残り香すらも感じられない。
カスミは所在なさげに手近なベンチに腰をかけ、しばらくの間目の前を通る通行人を眺めて惚けていた。カスミの真上にある街灯が彼女の頭めがけて光を照射している。
光はぼんやりと辺りを照らしていた。
十分ほど経った頃だろうか。前の方から仲のよさそうなカップルが歩いてきた。
彼女は最初、そのカップルのこともほかの通行人と同様にあまり気には留めていなかった。
彼らがちょうどカスミの目の前を通りすぎたとき、そのカップルの顔がカスミの目にはっきりと映り込んだ。
その時、彼女は時間の流れがスローモーションみたく遅くなったように感じた。
ぼんやりとした光に照らされ、彼らの顔の全貌が明らかになったとき、
彼女は絶句した。
自分の目を疑った。
にわかに信じ難いが、カスミの目の前を通り過ぎた人物、
その顔が@yumeに酷似していたのだ。
しかも追い打ちをかけるように、横を歩いていた彼氏と思わしき人物が、その女性のことを「ゆめ。」とはっきり呼んだのだった。
カスミは今自分の目の前で起きている事象に脳の処理が追い付かず、放心していた。
そんな中、割り込むようにカスミのスマートフォンで通知が鳴った。
彼女はハッとした。
カスミはすぐさま自分を落ち着かせようとスマートフォンを取り出し通知を開く。
すると画面はすぐに移行した。
一瞬暗くなった画面に再び明かりが灯ると、そこには@yumeのアカウントが映し出されていた。
カスミは息を飲んだ。
彼女はすぐさま画面を閉じようとしたが、そこで@yumeのアカウントに新しい投稿が追加されていることに気づいた。
カスミはどうも気掛かりでその投稿を確認してしまった。
彼女は刹那に後悔した。
そこに投稿されていたのは、警固公園をバックにした男女二人のツーショットだった。
その内一人は@yumeだとすぐに分かるが、もう一人の男の方はというと、顔がスタンプで隠れて見えなかった。
しかしそんなこと、もはや彼女にとってはどうでもよかった。
この投稿こそが先ほどのカップルが@yumeたち本人だと裏付ける何よりもの証拠となった。
彼女の中から先程のショックを大きく上回るような絶望が奔騰し、彼女を襲った。
カスミの頭の中がぐるぐると渦巻く。
それにつられて彼女の視界までもが歪み始めた。
胸中の怨嗟。
カスミはひどいめまいに悶えベンチに倒れ込んだ。
ぼんやりとした光が彼女を覆う。
その周りは黒。闇が永遠と広がっているようだった。
四月十八日
圭吾はけたたましく鳴り響く目覚ましの音で目を覚ます。まだ夢と現実の境目のような意識の中、彼は薄く目を開く。視界いっぱいに白い天井が映った。その片鱗に橙色の光を見つけ、根源を探す。窓の外に寛大な朝焼けが広がっていた。圭吾はその夕焼けを幾分か見つめると、むくりと起き上がった。圭吾はベットの上で胡坐をかき、改めて部屋の中を見回す。彼の隣にある妻、香奈のベットは相変わらずきれいに整頓されていた。彼はそのベットの一点を見つめじっとあることを考えていた。それは昨夜のことだった。圭吾は眉をひそめて記憶を呼び起こす。
しかしされど思い出すことができない。
昨日の帰宅途中からの記憶がないのだ。気がついたら部屋のベットの上で眠っていた。帰宅途中に酒でも飲んで酔っ払ってしまったのだろうか。圭吾は浮足立つ気持ちを押さえリビングへ歩を進める。リビングでは朝食を並べたテーブルの椅子に腰を掛け、テレビを見ている香奈がいた。彼女は圭吾が起きてきたのに気付くと、テレビから視線を外し、「おはよう」と言って圭吾を一瞥する。テレビからアナウンサーの声が聞こえる。どうやらニュースを見ていたようだ。彼は彼女に挨拶を返した。その後、食卓につくと朝食を食べ進めながら香奈に尋ねる。
「香奈、俺昨晩どこかおかしいところなかったか?」
香奈は首をかしげた。
「というと?」
「だから……、えっと……なんか様子が変だったとか。」
「あぁ、そういえば昨日圭吾くんすごく酔っていたみたいだったよ。」
「酔っていた……? ――あぁそういえば昨日、帰宅途中春樹から一杯行こうって誘われたんだよ。確か、安い場所があるとか言ってたけな……。」
「あぁ、じゃあそのせいじゃない?足取りが若干ふらついていたから。結構お酒飲んだの?」
「いや……、そんなに飲んでいないような気がするんだけどな……」
圭吾は腑に落ちないような顔をしながらも、これ以上考えても無駄だと悟ったのかその件について深く考えることはなかった。
香奈は圭吾と朝食を取り終えたあと、一人食器を片付けていた。
蛇口から流れ出る水の中で細かく白い水泡が躍る。水泡達は彼女の両手に当たるまでの刹那の時を嗜んでいるようだった。その後それらは心地よい音を立てながら食器に着いた泡をスルリと流し、排水口へ消えていくのだった。そして排水口の周りには水の勢いに流されまいとしがみ付く洗剤の泡たちが微かに残っていた。蛇口から出た水はどんどんとが黒い穴の中へ吸い込まれていく。それはまるでブラックホールのようだった。
突然香奈のすぐ近くでスマホの着信音が鳴った。彼女は手を伸ばしてスマホを引き寄せると画面を確認する。画面には、つい先程来たばかりの通知が表示されていた。それを見て彼女の表情が少し曇った。
「ゆうた……」
彼女が寂し気に呟いた。よく見ると彼女の視線はタスクバーではなく待ち受け写真に向けられていた。待ち受け写真には三歳くらいの男の子が映っていた。男の子がこちらに向かってにっこりと笑いピースをしている。
彼女の中で優太との出会い走馬灯のようにありありと思い出された瞬間だった。
香奈が優太と出会ったのは、まだ彼女が圭吾と出会う前、優太がニ歳くらいの時だった。彼は香奈の実子ではなかった。
彼女は当時アパートで独り暮らしをしており、生計を立てるためにバイトをいくつか掛け持ちして生活していた。そんなバイトの帰り道に必ずと言っていい程、毎回通る公園があった。そこは彼女のアパートから程遠くない距離にある公園なのだが、普段子供が遊んでいるところは見たことがなく、錆びた滑り台やブランコが寂し気に揺れる廃れた場所だった。
ある夏の日の昼過ぎ、香奈がいつものようにバイト先から帰宅途中、公園の前を通りかかった時、その公園の滑り台の下に何か動くものを見つけた。彼女は道路を挟んだ反対側にある公園の滑り台の下を遠目で覗き込む。するとやはり動くものがあった。
彼女は恐る恐るその滑り台の近くへと近づいて行った。
すると、そこには三歳児くらいの小さな男の子がうずくまっていた。
男の子はつぶらな瞳でこちら側を覗き込む。
その天使のような可愛らしさに彼女は悶えた。
香奈はきょろきょろと周りを見渡す。近くにこの子の親は居ないようだった。彼女は幾許か煩悶すると、やっとのことで意を決っし、その子を保護することにしたようだった。香奈はアパートへ連れ帰ろうとその子の手を引く。
途端につないだその手から全身に電流が走ったような錯覚を覚えた。
小さく柔らかいその手は彼女の手を微かに握り返しす。それだけで彼女は酩酊するような幸福感に惑溺し、微弱な官能的快楽までも覚えたのだった。その後彼女は幸福感に打ちひしがれながら、その子の手を引き、アパートまで連れ帰った。それからしばらくの間は彼女がその子供のことを保護して育てることにした。ところが、あいにく発語がまだだったようで、名前も何も分からない。彼女が尋ねても漆黒のつぶらな瞳でただこちらをじっと見つめるばかりだった。香奈は悩んだ末彼女自身の一存で決めることにした。
そうしてついた名前が優太だった。
それから時は過ぎ優太は三歳になった。相変わらず言葉を話すことは苦手なようで、まだ喃語しか発したことがなかった。それでも体の方は着々と成長し、去年よりも一回りも大きく見えた。
そんなある日のこと、香奈が優太と一緒に出掛けている最中のことだった。満員とまではいかないが人がたくさんいる電車の中、彼女らが立って電車に乗車していると、どこからか強い視線を感じた。香奈は恐る恐る視線を上げる。すると前に座る中年男性と目があった。視線に圧力を感じる。どうやらこの男が先ほどから香奈たちを注視していた犯人だったようだ。香奈は辟易する。これといった被害は受けていないものの不安になった彼女は場所を移動することにした。彼女らは電車が次の駅に停車するのを見計らい一度電車を電車から降り、再度別車両へと身を移した。
しかし、移動した別車両にもその男はいた。ドアのすぐ近くの手すりの部分によっかかり、またもや高圧的な目で彼女らのことを注視していた。まるで香奈たちが車両を移動することを分かっていて電車内から先回りしていたようだった。
彼女の背後で車両のドアの閉まる音が聞こえる。その乾いた音が電車内にむなしく響いた。電車内が静かなせいか閉まる音は無情に大きく聞こえる。それはまるでゲームオーバーを知らせる音のようだった。
万事休すだ。
ひとまず、彼女は優太を自分の後ろにやって隠すと突拍子もなく彼女は車両内を見渡す。そして、よしと頷くと大きく息を吸い叫んだ。
「すいません。誰か助けてください!痴漢です!」
彼女は叫んだ。
周囲の視線が一斉に彼女たちの方へ集まる。
彼女は続けざまに言った。
「この男が痴漢をしてきました。誰か捕まえてください!」
香奈が中年の男を指さす。
男は困惑と狼狽の色が混濁したような表情をし、あたふたしだした。
そのうち乗客の一人がこちら側に小走りでやって来た。
スーツを身にまとった筋肉質な肉体に、清潔感漂う七三分けの髪をした男だ。
男は「大丈夫ですか?」と心配そうな顔で香奈に尋ねた。
香奈は緊張感がほどけたような安堵の表情で頷いた。
男は依然として恐慌をきたしていた。
その後中年の男は勇敢な男の手によって警察へ明け渡されていった。
「先ほどはありがとうございました!」
香奈は深々とお辞儀を下げて言った。
静閑なホームの中、彼女の声が木霊する。
ホームで電車を待つ何人かの人々が一瞬こちらを振り返っては、また視線を戻した。
「いえいえ、僕はそんな大層なことはしていませんよ。」
勇敢な男は表情を緩め、ボリボリと頭を?きながら言った。
「いえいえ、そんなことありません。あなたがいなければ私たちはどうなっていた事やら……本当に感謝してます。何かお礼をさせてください。」
香奈が食い下がる。
「そんな、お礼だなんて……。本当に大丈夫ですから。お気をお使いになさらず。」
そう言って勇敢な男は微笑みを浮かべた。
「そうですか――。ではせめてお名前だけでも。」
男は照れたように頭を?きながら言った。
「松村 圭吾です。」
こうして香奈と圭吾は出会ったのだった。
燦々と日差しが照りつける道を奏太は小走りで進んで行く。
時折スマートフォンで時間を気にする素振りを見せながら。
そうして彼が向かった先は、背の高いビルが立ち並ぶ博多駅北口だった。
奏太は北口に到着すると辺りをきょろきょろと見渡した。その額には今まで走って来たせいか、小粒の雫が光っていた。
しばらくすると右往左往していた彼の視点が一点に止まった。
彼は右手を高く上げると軽く左右に振る。
間もなく奏太の元へ一人の人物がやって来た。
「奏太くん。ごめんね待った?」
そう言って彼の元へ歩み寄って来たのは、白いセーターを身に纏い上機嫌そうに顔を緩めたユカリだった。
「いえいえ、僕も今来たところですよ。」
奏太は先程までの疲れを感じさせない爽やかな笑顔で答える。
「そっか、じゃあよかった!」
彼女は奏太に微笑んだ。
気まずい沈黙が流れる。
奏太が切り出した。
「……本日は八時間プランのご予約ありがとうございます。それでは、今からプランを開始させていただきます。」
そいうとユカリは少し哀切に表情を曇らせる。
奏太は大きく息を吸うと、先ほどとは打って変わって顔いっぱいに笑顔を作った。
「じゃあ、今日は八時間しっかり楽しもう。“お母さん”」
「うん!」
“お母さん”そう言うと彼女は嬉しそうに顔を綻ばせた。
午後七時四十分になった。
ゴウンゴウンと音を立て走る列車に揺られながら、奏太はユカリと隣り合って座席に座っていた。窓の外では街頭やビルの光が転がる様に後ろへ流れていっていた。
彼はユカリとの“業務”を終え彼女を最寄りの駅まで送っている
最中だった。
「ホントいいのにー。わざわざ送ってくれなくて。」
そう言いつつも彼女の顔は嬉しさを明快に表現していた。
「いえいえ、そういうわけにはいきませんよ。“お母さん”を安全に送り届けるのは“息子”の使命なので。」
意気揚々と彼は言った。
この日奏太はユカリから支払い額よりもかなり多くお金をもらった。それですっかり上機嫌になった彼はサービスのつもりで“お母さん”呼びを続行していたのだった。
キンという鋭い音を立て、電車は駅に停車した。
彼女の最寄りは博多駅から一駅しか離れていないJR竹下駅だった。都心からのアクセスが良好なうえに近くにショッピングモールなどもあり住みやすそうな印象を受けた。
奏太は改札口を出るとユカリを近くのコンビニエンスストアまで見送った。
彼女を自宅まで送ってやりたい気持ちは山々だったようだが、事務所のルール上客の自宅を知ることは禁じられていたため、あえなく断念したようだった。
香奈はぼんやりと街灯が照らす道を歩きながら、名残り惜しそうに何度もこちらを振り返る。
着々と小さくなっていく彼女を奏太は、笑顔で耐えなく手を振りながら見送った。
彼はユカリの行く末を見届けると今まで振っていた手をダラリと気怠気に垂らし、すっと真顔に戻る。
そのままくるりと踵を返すと一直線に駅の方へと歩いて行く
――つもりだった。
駅まで戻ろうとする彼の目の前に一人の人物が立ちはだかったのだ。
その人物を見て奏太は目を丸くした。
「おぉ夢、奇遇だね。」
そこにはブランドもので全身を固めた夢がいた。
その出で立ちを見る限りパパ活の帰りということが容易に想像できた。
しかし、その表情はどこか曇り、翳りを帯びていた。
夢が訝し気に奏太に尋ねる。
「奏太今の人って……」
夢が言葉尻を濁したので奏太は「あぁー」と言い言葉の意味を汲み取ったように数回小さくうなずく。
「最近話してた、めっちゃ貢いでくれる定期の依頼主だよ。」
「え……、あの人が?」
夢の顔色がみるみるうちに青白くなっていく。
彼女の指先が震えていた。
「どうしたの?」
奏太は俯く夢の顔を心配そうに覗き込んだ。
途端に夢は顔をそむける。
そのまま彼女は逃げるようにその場から走り出した。
「えっ、待って夢!」
奏太は夢の手を掴もうと手を伸ばす。
しかし、手は彼女に触れることなく空を切った。
夢が脇目も降らずに走っていく、奏太を一人残して。
あの時と同じだった。
まだ未熟な彼が、消して許されない過ちをおかしたあの夜と。
奏太の中を何か嫌な予感が駆け巡る。
一瞬のうちに彼の脳裏にあの夜がフラッシュバックした。
闇夜に駆ける夢の背中が。
一人置いてけぼりを食らった子供のように、ただ茫然として、哀切な気持ちに浸るだけだったあの闇路が。
あの時夢を止めることができていれば……と、何度も呪った愚かな自分が。
気が付くと奏太は走り出していた。
前を走る夢を捕まえようと、息きれぎれになりながら走る。
いつの間にか彼らの周りからは人の気配が消え、通行人はおろか自動車すらも姿を消していた。
薄暗い世界の中、二人の両脇で等間隔に並ぶ街灯がぼんやりと辺りを照らす。
ひっそりとした世界の中、二人の荒い吐息とバタバタと不規則に地を弾く足音が木霊する。
近づいたり遠ざかったりする夢の背中が、不規則なリズムで上下左右に揺れる。
色白で細い彼女の腕が、「どうかもっと遠くに行きたい」と願うかの如く、揺れる体の横でめちゃくちゃに振られていた。
奏太はその手を捕まえたくて、必死に手を伸ばした。
それでも触れることさえできず、夜風に吹かれるように惨めにひらひらと漂うだけだった。
激しい動機が二人を襲う。
それでも二人は走り続けた。
嗟嘆の混じった淡い息を吐きながら。
まるで見えない何かと鬼ごっこでもするかのように。
走る。走る。走る。
奏太は未来永劫にこの世界が続くような気がした。
まばゆい色が世界を染める。
警固公園に着いた。
夢の足が止まっていた。
奏太も夢も肩で息をしていて、苦しそうにその場にへたり込む。
固い地面の感触と小石、あとは塵芥、砂。それらの感触が一度に奏太の背中を襲った。
疲労困憊。満身創痍。
気が付くと二人の周りには光が戻り、音が戻り、人々の影が世界を埋めた。
通行人の刺すような目線が彼らを貫く。
それでも彼らは気にしないように、もしくはそこまで意識が行き届かないのか、呆然と寝転がっていた。
背の高いビルが立ち並ぶ中心にこの公園はある。
寝転がって上を見上げると、ポッカリとそこだけ穴が開いたように濁った夜空が広がっていた。
それでもビルの燦然たる光が空を染めるおかげで、星羅雲布の夜空の皮を被っているようだった。。
あちらこちらから種種雑多な男、女の声、自動車、バイクの騒音が聞こえてくる。自動車の騒音に交じって、キャバクラの広告車両の音楽までもが耳をついた。
「……死ぬかと思った。」
隣で声が聞こえる。
奏太は声のする方へ頭を動かした。
そこにはすでに休息を終えて、息を整えた夢がしゃがみこんでいた。 奏太も体を起こす。
「……ていうか、死にたかった。」
平然とした口調だったが、そのことばの片鱗に何とも形容しがたい重みが感じられた。
「このまま走り続ければいつか力尽きて、そのうち息が出来なくなって死ねるかも……とか思ったりもした。」
「……消えたかった。一刻も早く。この世から。」
奏太は夢の顔を見る。
いろいろな光を受けて、表情がよく読みとれた。
彼女は、取り繕った真顔で遠くの方を眺めていた。
夢は一度だけ深呼吸をすると続けざまに言った。
「……あのね、実はさ……さっきの人、私のお母さんなんだよ。」
奏太は一瞬彼女の言ったことが理解できずに固まった。
そして事の重大さに気づいた時、彼は戦慄した。
「……さっきの人って、ユカリさんのこと?」
少し間が空いて彼女が答える。
「なにその名前。そんな偽名使ってまでママ活してたんだ。」
彼女は乾いた笑いをあげた。直接的な答えにはなっていないものの、これは同意の意を示すものに他ならなかった。
「嘘……」
「本当だよ。」
「見間違い……じゃなくて?」
奏太は半ば縋るような気持ちだった。
「違うよ。何なら証拠見せてあげてもいいけど。」
そう言って彼女は懐から一枚の写真を取り出した。
彼は夢からそれを受け取った。
写真の中では三人の人物が肩を寄せ合って幸せそうに表情を緩めていた。写真の中心には幼い頃の夢(ユウ)、彼の横に父親と思わしき人物の顔がある。
そして、その中の一点を彼女は指さす。
そこには彼らの隣に並び、幸せそうに笑うユカリの姿があった。
奏太は言葉を失った。
追い打ちをかけるように彼女が言う。
「これだよ。……これが私のお母さん。」
彼女の目から光が消えた。
奏太は羊の毛皮を被った狼に背後から噛みつかれたような錯覚を覚えた。
午後十二時四十分。
圭吾と春樹は署内のデスクで昼食をとっていた。
圭吾のデスクは窓側から隔たった部屋の中央付近にあり、その隣に春樹のデスクが位置していた。
「おい、圭吾。聞いてくれよ。」
隣で弁当を頬張る春樹が顔だけを圭吾の方へ向けて話しかける。
「うちの幸人のテストがこの前帰って来たんだけどよ、その結果があまりにも悪くて……」
幸人というのは春樹の一人息子の名だ。
春樹は頭を抱える素振りを見せた。
「はー、相変わらずだな。」
圭吾は明快に笑う。弁当箱から箸で白米のひとかけらを持ち上げ口へ運んだ。
「笑い事じゃねえんだよ。真剣に悩んでんだから。」
「悪い、悪い。で、どのくらいだったんだよ、そのテストの結果っていうのは。」
春樹は一瞬ためらうような素振りを見せると言った。
「学年で下から数えて五番目だぜ。」
「これはまた、えらい点数とったな。」
圭吾が明快に笑う。
「だから笑い事じゃねえんだって、もうほんとどうしようもねえよ。まったく、なんでこうなったんだか……」
「まあ、別にいいじゃねえか、またテストはあるんだしよ。」
あっけらかんと圭吾が言ったのが気に食わなかったのか春樹は眉を寄せた。
「まったく、他人事だからそんな呑気なこと言ってられるんだぞ。」
「まあな、しょせんは他人事だけどよ。」
圭吾は春樹をなだめるように言った。
「……そういえばなんでそんな点数を取ることになったのか原因を考えたりはしなかったのか?」
圭吾が続けざまに言った。
「考えたさ。あいつが言うには寝不足だったらしいけどな。」
「寝不足か。そりゃしょうがねえな。」
圭吾はまた豪快に笑った。
「だからしょうがなくねえんだって。まず、テストの日に寝不足になるのがいけねえんだって。」
「まあ、たしかになあ。でも、まあ俺だって寝不足でミスすることはしょっちゅうあるしなあ。」
圭吾はハッとした顔をして呟く。
「……寝不足といえば、俺、最近夜になるとやけに眠くてよぉ。」
「そりゃ夜なんだから当たり前だろ。」
春樹はきっぱりと言い張った。
圭吾はかぶりを振った。
「いや、そうじゃないんだよ、なんていうか、気を失うのに近いような感覚で、それを必死に耐えてるっていうか……説明が難しいな。」
「なんじゃそりゃ。じゃあなんだ、その耐えるのをやめたら気絶しちまうとでも言うのか? じゃあ、出先でその眠気とやらが襲ってきたらどうなるんだよ。……まさか、そのまま寝ちまうのか?」
圭吾は目を見開いて、首を大きく縦に振る。
「そうそう、そうなんだよ。耐えられなくなったら、意識がなくなっていって、それで気づいたら家のベットの上で朝を迎えてるんだよ。」
春樹が訝し気に圭吾を睨む。
「家のベット?まさか、その気を失ってい間に体が勝手に一人歩きして家まで帰り着いているとでもいうのか?」
「そうなんだよ。」
疲弊した顔で話す圭吾に春樹は噛みつく。
「はぁ?そんなファンタジーなことあるわけねえだろ。第一そんなことあったら嫁さんが気づいてるはずだろ。」
「いや、それがどこも変わりないって言ってるんだよ。」
「じゃあ、お前の思い違いなんじゃないのか?」
「いや、そんなはずないんだけどな……」
「いや、そんなことあるだろ。もしくは夢遊病か何かだな。まぁ、お前に限ってそんな病気かかるはずねぇけど。―――まぁ、なんだ、そんなに気になるようなら一度病院で検査でもしてみたらどうだ?」
多少は気掛かりになのか春樹は声色を変えて圭吾に提案する。
「そうだなぁ。まぁ、今度行ってみようと思うよ。」
対する圭吾は呑気に答えた。
それから彼が検査に行ったのは程なくしての頃だった。
彼自身、検査に行く気は毛頭なかったようなのだが、憂えた春樹がわざわざ病院を調べてくれたようで、行かざるを得ない状況になったようだ。
1時間にも及ぶ検査を終え、結果が即日出ないことを看護師に伝えられると、圭吾は口惜しそうに病院を後にした。
午後十時
いつものようにカスミは目を覚ます。
今日はベットの上だった。
彼女は少しだけ体を持ち上げ、起きようと試みる。
しかし、寸分もたたぬうちに、また崩れるようにベットに倒れ込んだ。カスミはあの警固公園の一件以来長らくこんな調子だった。
彼女はあの日以来生きている心地がしなかった。
あの時の@yumeの顔が浮かぶたびに、頭が割れるような頭痛に悩まされ、胃の奥から胃液が奔騰するような感覚が襲った。今にも溜飲してきそうな胸中の怒り 、悲しみ、悲憤慷慨 によって人形みたく操られているようだった。艱難辛苦が取りついた日常で、彼女は惰眠をむさぼる生活を繰り返していた。
カスミは手近にあったスマートフォンを取る。
イマスタを開く。
一番上にあった投稿が彼女の目に飛び込んできた。
@yumeの投稿だった。
彼女は画面を睨むように目を細めた。
インターネットの中の彼女は相変わらずきれいで、幸せそうに息をしていた。
そんな投稿を見るたびに、またカスミの中で何かが溢れ出した。
部屋の中が翳る。
アプリを閉じる気力さえなくなった彼女の右手は、スマホを横に放り投げ、陰湿さを十分に含んだ部屋の中の空気を?く。
カスミは深いため息を吐いた、まるで自分の中に溜まった沈鬱な気分までも一緒に吐き出しているようだった。
ため息で満たされた部屋の中はまるで深い海の底みたく、ただひたすらに暗く、息が詰まりそうだ。
未処理の怨嗟が浮かんだ海の底で彼女は再び眠りに落ちた。
ネットカフェの個室の一角、奏太は一人以前よりも広くなった部屋の中で呆然としていた。照明の点いていない部屋の中、パソコンのモニターから漏れる光だけが周りの状況を把握させる唯一の手立てだった。
奏太は壁にもたれ掛かり、曇りきった顔を俯かせて座り込んでいた。
奏太は今、深い苦境に陥っていた。
昨夜以来、夢が口を利いてくれなくなってしまったのだ。突然のことで彼自身も困惑していた。話しかけようと彼が近づいても、そそくさとどこかへ逃げて行ってしまう。彼は自分が避けれられていることを如実に感じた。その後すぐに夢はこの部屋を後にし、別の個室へと移ってしまった。
そのことが原因で彼は気が滅入っているようだった。
その日の正午、奏太の携帯に一本の連絡が入った。
事務所の田中からだった。
「こんにちは田原君。田中です。急なのですが、今夜vipのお客様が田原君を指名でプランをご予約されました。それに付随して、今晩は予定を空けていただくようよろしくお願いします。」
奏太は深いため息をついた。
vipの客は原則即時予約が可能となっている。そのため奏太達“従業員”は、たとえスケジュール的に都合が合わなくても、無理やり予定を変更しなければならないのだ。
奏太は重い腰を上げ支度を始める。
まだ予定時刻まで時間はごまんとあったが、手持無沙汰であったのだろう。
それから支度を終えた奏太は散歩へ出かけた。
理由は無論暇つぶしのためだった
ネットカフェを出た彼は警固公園の前まで差し掛かっていた。
そこで彼は公園内で時間をつぶすことにした。
あの日と同じように、ただ行き交う通行を眺めて物思いにふけるのだ。奏太は公園内のベンチに腰を掛けた。
そこで彼は目を見張ることになる。多くの人を隔てた向こう側に見覚えのある出で立ち。
そこには夢の姿があったのだ。
彼女は紺色のロングコートを翻しながらターミナル駅の方へと歩いて行っていた。どこか浮足立っている様子の彼女を目で追う。
奏太は幾何か悩んだ末に彼女の後を追うことにした。
彼女は五分程歩いた末に100円ショップに入っていった。
奏太もつられて中に入る。
夢は彼の存在に気づいていないようだった。
彼女は何か目的の物を探すかのように店内を右往左往している。ちょうど夢が奥の方の列の品薄な棚の前に差し掛かった時、
奏太は隙を見計らって棚越しに彼女の表情を視認した。
そこで彼は息を飲む。
そこにいたのは奏太の知っている夢ではなかった。
彼女は見るも無残なひどくやつれた顔をしていた。
目の下のクマの黒さが彼女の疲弊を物語っていた。さらには、目だけが爛々と怪しい光を放っており、奏太は本能的に身震いをする。
そんな彼の絶句に気づいたのか、気づいていないのか彼女はハッとした顔をして場所を移動する。
夢は足早に料理コーナーへ移動した。
どうやら彼女はまだ奏太の存在には気づいていないだった。
奏太はひとまず安堵する。
彼女の両側を隔てる棚の中には食器類やフライパン類、料理の便利グッツなどが所せましと並んでいた。夢はその中の一点を凝視している。
そこには種々雑多な包丁が整然と並べられていた。
奏太は思わずぎょっとする。
彼女は真剣な表情でそれを見つめていた。また、時折そのうちの一つを手に取ってみては、何かを深く考えるそぶりを見せた。その時彼女は決まって苦しそうに顔を歪め、下唇を強く噛むのだった。彼女の下唇にはうっすらと血が滲んでいた。
はたから見ると、やはり彼女の様子がおかしいのは明確だった。
商品の陳列をしている定員までもが、訝し気に彼女の様子を窺っている。
しかし彼女はそんなことお構いなしで遮二無二にそれらを吟味していた。
それから次に彼女がその場を動いたのは、入店後四十分を過ぎたあたりだった。
彼女はたくさん並んでいるうちの、一番オーソドックスな形の包丁を手に取ると、足早にレジへと向う。
その後、会計を済ませると、すぐさま店を後にした。
奏太も慌てて店を出る。
その後再び彼女は再びどこかへ向かって歩き出した。挙動不審な彼女の様子が、奏太の中の嫌な予感を急速に駆り立てた。
奏太はそんな胸騒ぎを抑えて、気づかれぬように細心の注意を払い尾行する。
夢の小刻みに震える背中が奏太の前を行く。
その背中を見て、意図せず彼の脳内に最悪の事態の情景が浮かんできた。
それは、夢が自分自身の手でその鋭利な刃先を柔らかな胸に突き立て、和肌を切り裂き自害するというものだった。
奏太はそれをかき消すようにかぶりを振る。
しかし、夢が来た道とは反対の方向に歩を進めるたびに、奏太のその疑念は容易く鮮明さを増していった。
奏太の目には、彼女が自分の人生を終える場を探し彷徨っているように映った。
彼はそんな最悪の情景が色濃く脳裏に投影される度に、この場から逃げ出したいという逃走本能のようなものに駆られた。
しかし、彼の中に眠る潜在的な何かがそれを許そうとしなかった。彼は半ば引きずられるように彼女の後を追う。
気が付くと見慣れた駅の前まで来ていた。
目の前に佇む入り口の看板には、ユカリの最寄りである「竹下駅」の名が刻まれていた。
彼の脳内にユカリの顔が浮かんできた。
その時、不意に奏太の中に先程とは別の疑念が浮かんできた。
それは空気ボンベに繋がれたバルーンのごとく、急速に膨らんでいった。
途端に奏太は戦慄する。
それは、彼自身も驚愕するような常軌を逸した内容だったからだ。
しかし、もし彼の想像通りに夢が行動しようとしているのなら、今までの彼女の挙動不審な行動のすべてに合点がいくのだ。
彼は自分の悪い妄想が、まるでその事象が起きる地点までぐんぐんと邁進するかの如く現実味を帯びていっているように感じ、憂える。そしてどうかその荒唐無稽な予感が杞憂となってくれることを切望した。
しかし、彼の意に反するように夢は不明朗な行動を繰り返す。
彼女は周辺を見渡すと、覚束ない足取りで駅前のビルの陰に身を潜めた。
奏太も夢にばれることを危惧して、彼女とは違うビルの物陰に身を潜めた。この場所は夢が潜むビルと向かい合った対角線上に位置しているため、彼女の行動一挙手一投足をはっきりと見渡すことができた。
ビルの陰に隠れている彼女は相変わらず浮足立っており、その様子はまるで何かに怯えているかのようにも見えた。心なしか指先が震えているようだった。
雑居ビルの黒々とした影が彼女の全身を覆う。
奏太が空を見上げるとすでに橙に染まっていた。
時刻は午後五時半だった。
平日の夕方と言えども、この日はやけに人通りが少なかった。
見渡せども奏太と夢を除く、人っ子一人の気配すら感じられなかった。
橙色に染まった空の下、突如として夢が体を震わせた。
心なしか顔も先ほどより強張っているように見えた。
奏太は目を細めて夢の動向を見据える。
彼女は上空から獲物を捉えたトンビのごとく鋭い目つきで何かを睨んでいた。
奏太は彼女の目線の先を追う。
彼女の目線は、二つのビルがそびえ建つ中央にある竹下駅の入り口に向けられていた。
そこには駅の改札口から出てくる一人の女性がいた。
奏太は必死に目を凝らす、しかし強い西日のせいで顔がよく視認できないようだった。
女性は駅の改札口を出るとそのまま真っ直ぐに歩いてくる。彼女の進行方向から向かって左側には夢の潜むビルがあった。
奏太は女性と夢をかたみがわりに見る。
女性が近づくにつれ夢は落ち着きをなくしていった。青い顔をして、苦渋に表情を歪めているその様は、まるで何かに脅迫されているかのようだった。
彼女の頬にまた一筋、汗が伝う。
一筋の汗は彼女の顎を伝い、橙の光を明快に乱反射させながら静かに落下した。
それを皮切りにしたかの如く、夢が懐からあるものを取り出した。
奏太は目を見張る。
そこにはギラりと橙色の光を反射する包丁が握られていた。
彼はまさかと思い、歩いてくる女性に目を向けた。
先ほどまで女性を包み込んでいた燦然たる西日はもうそこにはいなかった。ビルの陰に遮られていたのだ。
女性の顔を見た奏太は吃驚する。
そこにいたのはユカリだった。
悪い妄想が妄想ではなくなってしまった。
彼の中でなにかがガラガラと崩れ落ちる音がした。
ユカリは彼らの潜む二つのビルの間を通りすぎて行った。
それを皮切りにして、夢がビルの陰から身を乗り出す。
それに気づいた奏太も、気が付くと足を一歩前に出していた。
そして彼は走り出した。夢の潜むビルの方へ、猪突猛進する。
意識的に走り出したわけではなかった。ただ彼の中に眠る潜在的な何かがそうさせたのだ。
彼は走りながら横眼にユカリを見た。
彼女はこちらに気づく様子は一切なく、平然と道を歩いている。
奏太は少しばかり胸をなでおろした。彼の走るスピードが緩まる。
ところが、安堵したのも束の間、彼は絶句した。
向かいのビルから半狂乱になった夢が飛び出してきたのだ。
彼女の目線は一直線にユカリの方に向いている。
よく見るとその手には包丁が握られていた。
興奮した様子の夢が奏太の前を通り過ぎる。
その時、血走った目が一瞬こちらを向いた。
瞬間、彼女は驚愕した様子で奏太の顔を見る。
そして、立ち止まる。
彼女の口元が微かに動いた。
聞こえないほどの微弱な声だったが、確かに彼女は言っていた。
「なんで」と。
哀切に瞳を潤ませ奏太を見つめる。
奏太は何も言わずにただ辛気臭い顔で夢を見つめることしかできなかった。
そんな彼に夢は寂し気な笑みを浮かべる。再び彼女は走り出した。
しかし、そんな夢を止めるように奏太は彼女の前に飛び込んだ。
数秒後、奏太は腹部に燃えるような激しい痛みを感じた。
夢が顔面蒼白になって後ずさりをしている。
その時彼女の手にはすでに、包丁は握られていなかった。
「いっっったっ」
奏太は短い悲鳴を上げて腹部を抑える。
金属のような固い突起と生暖かくぬるぬるとした感触が彼の手に触れる。
彼は驚いて自分の右手を見る。
べっとりと真っ赤な血がこびりついていた。ところどころ赤黒く濁っているところもあった。
彼は驚愕して腹部に目をやる。真っ赤に染まったシャツから包丁の柄の部分が飛び出していた。
奏太は朦朧とする頭で事態の取集が追い付かず、呆然自失する。
喉の奥で嗚咽が鳴る。
途端に何かが溜飲してきた。
彼は口を拭う。
そこにも真っ赤な血。
彼は深紅に染まった両手を見る。そのうち、脳が思い起こしたかのように患部からじりじりと、寄波のように痛みが広がってきた。
瞬間、声を出しかねるほどの激痛が迸る。
奏太はその場で崩れ落ちるように倒れる。
そして、悲痛に顔を歪めた。充血した目は目玉が飛び出そうになる程大きく見開き、歯を食いしばった。瞳にはうっすらと涙が浮かび、歯の隙間からは小さく呻き声が漏れ出していた。
奏太の正面では夢が絶望に顔を委縮させている。震える唇で無暗に謝っていた。
「ごめんね……ごめんね……」と、何度も。
まるで呪文を唱えるかのように。
自分を戒めるように。
しかし、絶望に潤んだ彼女の瞳が奏太の姿を捉えることはなかった。
翳る二つの眼は、いつまでも下を向くばかりだった。
彼女の臆病な心では、この無惨で不可逆な現実を受け止めることは限りなく不可能なことに相違いなかった。
そんな彼女をよそに、奏太の息が上がりだす。
彼は苦しそうに顔を顰め、肩で息をしていた。
しかし息をするたびに、まるで喉に痰がへばり付いている時のようなガラガラという雑音がして、うまく呼吸ができていないようだった。
数秒も経たないうちにその息は詰まるようになり、彼は咳き込む。
奏太は苦痛に歪んだ目に諦念の色を醸し、ノイズ交じりの長息を吐いた。
彼は、眇ませた目で夢を見る。
そして、残された最後の力を振り絞るように無理やり笑って見せた。
痛々しいほどに。
その時、夢がまるで何かに顔を叩かれたようにハッとして、奏太の方を向く。
そこには、あの時と同じ笑顔の奏太がいた。
夢はたまらず駆け寄る。
すると、彼は声を絞り出すようにして言った。
「夢は悪く……ない……これ……は事故だ……。だから、君には……何の罪もない。」
奏太は苦しそうに一息吸うと、続けざまに言った。
「でも、もし……誰かに……見つかっ……たら、……確実に君……は罪を問われることになる。 だ…から、夢……僕を隠せ、……決して……見つからないように……」
夢が泣きそうな顔で何度も頷く。
それを見て奏太は満足そうに微笑んだ。
「それと夢……ありがとう……。僕は……君のことが………大好きだ…………」
奏太の手から力が抜けていく。
やがて彼は息を引き取った。
夢は改めて彼を見た。
そこには満面の笑みなのに頬には無数の涙が伝う、ちぐはぐな少年の姿があった。
夢は暗くなった夕焼けに背を向けて、大声で喚き、叫んだ。
先程降り出した遣らずの雨が止むことはなかった。
街灯が消えた深夜、一人の少女が少年の亡骸を背負い暗い夜道へ消えていった。
後日近くの廃火葬場で一人の遺体が見つかった。遺体は火葬炉の中に遺棄されていたらしい。無論、その後警察による調査が行われたようだが、詳細は分からなかったようだ。なぜならその遺体は、すでに何者かにより火葬され白骨化していたからだ。
被害者に関する手がかりは、立ち上る煙と一緒に塵となって消えてしまっていた。
一朝一夕に時は流れ、奏太の死から一か月ほど経った。
ここ何日か続いてる穏やかな晴天は今日も健在で、心地の良い暖かさが町を包んでいた。心なしかこの町で息をする人々の表情も晴れやかに見える。
そんな平穏な街で一人、その世界から隔離されたように陰鬱な表情を浮かべる者がいた。
夢だった。
彼女は、生気のない顔で真っ暗な部屋の天井を、放心状態で眺めていた。
時の流れが夢の罪悪感や魑魅魍魎な感情たちを払拭してくれるはずもなく、今でも彼女は抑鬱に虐げられていた。
奏太が没してからの約一カ月間、彼女は何日も眠れない夜を過ごし、食事をとることさえもままならない日々を過ごした。
そんな日常に嫌気がさし、「いっそこのまま死んでしまおう」と何度も自殺を試みた。何度も高所に立った。何度も縄を結んだ。何度も刃を突き立てた。
しかし、そのたびに奏太を刺した感触、光景がフラッシュバックして怖くなり、自殺することができなかったのだ。
そうやって思いとどまるたびに、また彼女は自己嫌悪し、後悔の海に浸る。
そんな悪循環に彼女は徐々に、しかし如実にズブズブと沈んでいくのだった。
そんなある日の夜、彼女は突拍子もなく急激な空腹に襲われた。
彼女は必死に堪えようとした、が無駄だった。
夢の意識とは反対に体はどこまでも食べ物を欲した。
居てもたってもいられなくなり彼女は部屋を飛び出した。
ずっと部屋の中に居たため気がつかなかったが、外はすっかり暗くなっていた。
しかし、彼女はそんなこと気にも留めていないようで、無心で近くのコンビニへ駆け込んだ。
そしてコンビニで大量に食物を買い、むさぼり続けた。
彼女の意識とは反対に体は必死に生きようとしていた。
さんざん暴飲暴食して一息つくと、今度は急激な虚しさに襲われた。
彼女はそれさえも堪えることができず、近くの公園へ行く。
人肌恋しさに久々ににイマスタへの投稿もした。
しかし、やはり何かが物足りないようだった。
彼女の中には孤立した虚しさだけが残った。
あたりが暗くなりだした午後十時。カスミは自宅の目の前で目を覚ます。
右手に微かな重みを感じ、そこへ目をやった。
右手にはスマホが握られいた。
その時不意に「今、あの女は何をしているんだろう」という思いに駆られた。
彼女は長らく開いていなかったイマスタのアプリをタップする。
アプリを開くと新着の通知が来ていた。
カスミは何気なくそれをタップするのだった。
画面が移行して、とある投稿が表示された。
投稿時間、三十秒前。
その表示が彼女の目に飛び込んでくる。
投稿者は@yumeだった。カスミの顔が上気する。彼女はとある風景の写真をアップしていた。
そこに写るものを見て彼女は目を見張る。
そこには見慣れた景色。警固公園のベンチが写っていた。
血走る目。たぎる血潮。
弾かれたように彼女は走り出した。
夜八時半。
夢は公園を後にして、ネットカフェへ帰っている最中だった。
彼女は見慣れない道を歩く。
気晴らしにいつもとは違う道から帰っていたのだ。
この通りは、夜と言えども人通りや車の通行量が多く賑わっている。
彼女はそんな喧騒に満ちた道を歩いていた。
しばらく歩いていると歩道橋に差し掛かった。
夢は歩道橋の錆びた階段を登っていく。
階段を登りきると、夢は錆びた歩道橋から身を乗り出し、下の景色を見下ろした。
そこには、自動車のヘッドライトとビルの明かりできらきらと輝く街の姿があった。
彼女はそんな表面だけの美しさの町を恨めしく思った。
風が吹いた。
何本かの髪が彼女の顔にかかる。
それを払うように彼女は頬に触れた。
その時手のひらに、小さな突起が三つ四つ触れた。
ほんのり赤く腫れたそれは、色白な彼女の顔の上で憎らしいほどに存在感を放っていた。
度重なるストレスと不規則な生活のせいで、彼女の肌な荒んでいた。
彼女は深いため息をつく。
また歩きだした。
目前に階段が見える。
それを下ろうとした。
その時だった、彼女は後ろで微かな気配を感じたのだった。
夢は咄嗟に振り返ろうとした。
しかし、彼女が振り返るよりも先に夢の体は宙を舞った。
瞬間天地が逆転する。
いままで遠くに感じていた死が、大きな口を開け眼下で待ち伏せているようだった。
夢の体は階段を転げ落ちていった。
固い地面に叩きつけられた彼女は低く小さな悲鳴を漏らす。
手足はめちゃくちゃな方向に曲がり、右手の肘から骨が飛び出していた。
落ちた衝撃で打ち付けた頭部からは真っ赤な血がドクドクと流れ出ていた。
彼女の体は小刻みに痙攣する
しかし意識はまだはっきりしていた。
夢は必死の思いで階段の上へ目線を向ける。
そして、彼女は見た、階段の上で不気味に白い歯を見せて笑う黒い影を。
その黒い影は一通りその光景を楽しそうに眺めると去っていった。
静寂が過ぎ去る。
多くの未練が彼女を襲った。
また、多くの疑問や疑惑といったものが頭を駆け巡った。
しかし、その中に微かな解放の光が見えたのを感じて、彼女はため息を一つ吐いた。
夢は朦朧としだした意識の中、端無く「走馬灯なんて見ないじゃないか」と静かに自嘲する。
そこにあったのは、残酷で無慈悲で無惨な現実だけだった。
ふと、目の前に誰かが立っているのが見えた。
彼女は目だけを動かしてその人の顔を捉える。
奏太だった。
奏太がこちらを見てほくそえんでいた。
遠くで人の声が聞こえる、彼女は静かに目を閉じた。
暗い空のもと少女の安らかな破顔が一つ孤独に転がっていた。
6月24日 圭吾と春樹は通報があった件の歩道橋へ来ていた。
作晩、一人の女性が歩道橋の階段の上から何者かに突き落とされ命を絶った。
発見者によると遺体の状況は悲惨なものだったらしい。
話を聞いたところ、熟練した圭吾でも思わず耳を覆いたくなるほどだった。
事件後、歩道橋は通行禁止の黄色いテープが張り巡らされ、女性の死亡した場所にはブルーシートが高々と張られていた。
圭吾たちはそんなブルーシートの合間を潜って中に入る。
案の定中には警察、鑑識が複数人いた。
彼らは軽く挨拶を交わしつつ現場検証に取り掛かった。
数時間後、現場検証を終えた二人は一度署に戻った。
「なあ、圭吾一つアンケートに答えくれないか?」
デスクに深々と腰を掛けた春樹が言った。
珍しく神妙な面持ちの彼に、圭吾は訝し気に答える
「アンケート?これまたなんでそんな急に?」
「なぁに、ただの暇つぶしさ。特に深い意味なんてものはねぇよ。」
そう言うと、春樹は冊子のようなものを一つ圭吾に手渡した。
圭吾はしげしげとそれを見つめて言った。
「これまた随分本格的だな。」
「まぁ、心理テストとでも思って気楽に解いてくれよ。」
「おぉ、分かった。」
そう言うと圭吾はアンケートを解き始めた。
三日後の週末、圭吾と妻の香奈が町のショッピングセンターで買い物をしていると春樹から着信があった。
事件のことで分かったことがあるので来て欲しいという旨の連絡だった。
「すまん、今妻と買い物をしていたんだ。だから、一旦妻を家に置いてから行く。ちょっと時間がかかると思うが大丈夫か?」
「いや、好都合だ。一緒に来てくれ。大至急だ。」
好都合という三文字が耳に引っ掛かったが、言う通り香奈を連れて署へ直行した。
署につくと入り口のところで春樹が待ち構えていた。
「おぉ、待ったぞ。とりあえず来てくれ。」
春樹の声から若干の緊張が感じられた。
「すまんな、スーツじゃなくて。なんせ誰かさんが”大至急”で来いと言うもんだからな。」
圭吾は大至急という三文字を強調し皮肉を込めていった。
「悪かったよ。今度何か奢るから」
圭吾はふんと鼻を鳴らした。
署に入ると取調室に入るように促された。なんせ、他に人がいると話しにくいとかの理由だった。
圭吾は香奈を取り調べ室の外のソファーに座らせて、部屋の中に入っていった。
部屋の中はやけにひんやりとしていた。
剥き出しのコンクリートの壁に鉄パイプ製の机と椅子が、より一層部屋内の雰囲気を醸し出していた。
圭吾は春樹に座るように促され、椅子に腰を掛ける。
机上に一枚の紙が置かれているのが目に入った。
圭吾がその紙に手を伸ばす。
しかし、春樹はそれを制するように紙の上にドンとノートパソコンを置いた。
圭吾の方に向けられた画面にはとある映像が映っていた。
暗くてよく見えないがどうやら例の歩道橋のようだ。
「これは先日事件があった歩道橋の防犯カメラの映像なんだが―――」
春樹は話を途中で区切り、席を立つ。そして圭吾の後ろに回ると、部屋の鍵を閉めた。
カチャリという単調な音が部屋の中に大きく響いた。
「なぜ鍵を閉める?」
「いや、別に深い意味はねえよ。」
そう言うと春樹は再び席に着いた。
そして、圭吾に画面を見るように促す。
圭吾は画面を注視した。
しばらく映像は誰もいない歩道橋を映し出していた。
見かねた春樹が映像を倍速にする。
ふと画面の右端から女性が歩いてきた。倍速されているので、すごい速さで足が動いている。
春樹は映像を一旦停止させると、倍速を戻し、また再生させる。
夜景を眺めていた一人の女性が、ちょうど歩き始めるところから映像は再開した。
女性はゆっくりとした足取りで階段の方に向かって歩いていく。
すると、画面の右端からフードを被った男性が速足で歩いてきた。
女性が全く気付く気配がないところを見ると、おそらく足音を抑えていたのだろう。
男性はどんどんと女性に近づいていく。
そして、女性が階段に差し掛かった時には、すでに真後ろまで迫っていた。
そこで、さすがに女性も気づいたのか後ろを振り向いた、瞬間だった。
男が女性の背中を思いっきり突き飛ばしたのだ。
女性は無惨にも階段から転げ落ちていった、体をめちゃくちゃな方向に捻じ曲げながら。
男は階段の上からしばらく下を眺めていた。まるで女性の様子を観察するように。
そして、女性の動きが止むと満足したように踵を返した。
しかし、男は二、三歩歩くとまた立ち止まった。そしていきなりおなかを抱えてその場に倒れた。そのとき、男の体は小刻みに震えていた。
圭吾は最初、男が何らかの病気によって身もだえしているのかと思った。
しかし、一連の動作が病的な何かによって即発されたものではないことはすぐに分かった。
なぜならその数秒後、男の口元に光が当たり原因があらわになったからである。
男は笑っていた。
ただの笑いではなく、爆笑だった。
男はやっとのことで体を起き上がらせると、また歩き出した。
その時、ふと男がフードを脱いだ。
そこで、春樹が動画を停止させる。
深刻な表情で圭吾の顔を見ていた。
圭吾は困惑しつつ画面に目線を戻す。
再び画面を見たとき、彼は戦慄した。
そこには、フードの隙間から満面に、狂気的な笑顔を浮かべる圭吾の姿があった。
春樹は眉を顰め言った。
「圭吾、俺の言うことに正直に答えてくれ。 犯行があった日お前は何をしていた。」
圭吾はいつも自分が容疑者に聞いているはずのその言葉に、やけに重みを感じた。
彼は思考を巡らせ必死に考える。
「その日は、普通に仕事をして、そのあと……そうだ、お前と飲みに行ったんだよ。」
「あぁ、そうだな。そのあと何をしていた?」
「お前と飲みに行って……それで……それで……」
不思議なことにいくら思考を巡らせても圭吾は、春樹と飲みに行った後の記憶を微塵も思い出すことができなかった。
「……だめだ、思い出せない……。俺が……やったのか?」
その時春樹は、微かに神妙な表情を浮かべた。
「本当に思い出せないのか?」
圭吾は必死の形相で春樹に乞う。
「あぁ、本当なんだ。頼む……信じてくれ。」
春樹は長いため息をついた。
そしてパソコンの下に置いてあった一枚の紙を取り出した。
春樹は紙を裏返した。
そこにはびっしりと長い文字の羅列があった。
そして文の最後に大きくとある文字が書かれていた。
陽生。
「なぁ、圭吾。この前お前アンケートを受けたよな。」
「あ、あぁ。受けたな。たしかお前にやれって言われて―――」
「あぁ、そうだ。あれ実はな……テストだったんだよ。解離性同一障害の。」
陽生。その文字の左側には解離性同一障害の文字が書き綴られていた。
「簡単に言えば、多重人格だったんだよ、お前は。」
圭吾は混乱する。
「そんな……」
混乱する圭吾をよそに尚も春樹は続ける。
「お前、前に俺に話したことあったろ。夜中になると突発的に眠気が襲ってきて意識を無くしちまうって。」
圭吾は「あぁ。」と一言言った。
「どうやらお前は、夜十時になると人格が入れ替わってしまうらしい。」
圭吾は身じろぎできず閉口してしまう。
春樹がパソコンの画面を操作しだした。
「実はな、お前のメールアドレスで登録されているSNSのアカウントを見つけたんだ。」
そう言うと春樹は操作を終えたパソコンの画面を圭吾に見せる。
ある人物のプロフィールが表示される。
その下の投稿を見て圭吾は驚愕した。
そこには女性ものの服を着て、メイクをしている、言わば女装をしている男の写真が数多く投稿されていた。
そして、そこに写る男の顔は紛れもなく圭吾本人だった。
圭吾は自分の脳内がぐるぐるとかき混ぜられ渦巻いているような錯覚を覚える。
春樹がひとりでに言った。
「このアカウント、投稿時間が全部十時から十二時までの間だけなんだよ。」
春樹が写真の右上にあるアイコンをタップする。
画面が元のプロフィールに戻った。
アイコンの横にはアカウント名が表示されていた。
アカウント名は『@kasumi』だった。
静まり返った取調室の中、突如として圭吾が笑い出した。
春樹は彼のその様子を冷静に見つめていた。
「ばれちゃったかー。」
明らかに圭吾の口調ではなかった。
彼――彼女は笑い続けた。狂ったように。
取調室の中には血の匂いを含有した愉快な笑い声が響いていた。
春樹は取調室から出ると、今度は香奈を連れて別の取調室へと入っていった。
「あの……なんで取り調べ室なんでしょうか?」
「いや、別にこれといった理由はありませんよ。」
「そうですか。それで先ほどおっしゃっていた話って何のことでしょうか?」
「あぁ、それですか。別段大した話じゃないですよ。気にしないでください。それより、奥さんこのニュースをご存じですか?」
そういうと彼は、またもパソコンを操作して香奈の方へ向けた。
一瞬訝し気な表情の香奈が画面に反射する。
パソコンの画面には何年も前の古いニュースの映像が映っていた。
「―――次のニュースです。昨日午後四時半過ぎ、福岡県内の公園で『目を離したすきに息子がいなくなった』と母親から110番通報がありました。警察によりますと、行方不明になっているのは福岡県南区に住む男の子『沢田 湊』くん三歳で、昼過ぎ頃から公園で遊んでいたのですが、母親が電話に出るため目を離した数分の間に姿が見えなくなったということです。湊ちゃんは身長およそ90センチのやせ型で灰色のパーカー、迷彩柄のズボン―――」
春樹が映像を止め、香奈に尋ねた。
「この事件に関して最近また捜査が開始されたのを知っていますか?」
「あぁ、確かAI捜索が導入されたとかなんとか……」
「そうです。よくご存じですね。」
「えぇ、まあニュースは割とよく見るほうなので。」
「あぁ、そうですか。ところで、お宅の息子さんも行方不明になっていましたよね、確か十六歳の時に。」
香奈はあからさまに顔を顰めた。
「えぇ、まぁそうですけど。……それ何か関係あります?なんの脈絡もないことを言うのやめていただけませんか。まさかそのAI捜索とやらでうちの息子が見つかったわけでもあるまいし。」
「―――えぇ。見つかりましたよ、お宅の息子さん。」
香奈の動きが一瞬止まる。
「え……」
次の瞬間、彼女は目を見開いて歓声を上げた。
「本当ですか?本当なんですか?本当にうちの息子が見つかったんですか?」
満面の笑みを浮かべる彼女は春樹の手を取って言った。
「えぇ。見つかりましたよ。」
すると彼女は今にも飛び跳ねそうな勢いで喜び、春樹に何度も礼を述べた。
「それで、あの子は今どこにいるんですか?」
香奈が目を輝かせながら尋ねる。
「あまり急かさないでくださいよ。僕にだっていろいろ踏まなければならない“手順”というものがあるんですよ。場所は後で必ず教えます。だから、その前にいくつか質問させてください。」
「質問?わかりました。」
春樹は改まったように香奈に向き直った。
「先ほど見せたニュースのことについてなんですが……。あなたですよね、湊くんを誘拐したの。」
香奈はあからさまに顔を顰める。
「はぁ?いきなり何を言って―――」
「それと、その誘拐した少年、その子こそが優太君ですよね。」
「はぁ?違いますよ。なんでそういうことになるんですか。
……確かに優太は私の実子ではないですよ。でも、だからと言って、私が湊くんを誘拐して尚且つ自分の子供にした根拠にはなりませんよね。」
「いや、我々もそんな短絡的な思想で決めつけたりはしませんよ。ちゃんと証拠があります。しっかりと映っていたんですよ、防犯カメラにね。」
「はぁ?防犯カメラ?それなら当時も調べられたんじゃないんですか?それでも、結局何もわからなかったようじゃありませんか。」
「えぇ、当時はね。なんせ画質が荒かったもんで。でも、先ほども僕、申し上げましたよね、近年ではAIによる操作が行われているって。」
「何が言いたいんですか?」
「だから、AIを駆使して当時の防犯カメラ映像の画質を上げることに成功したんですよ。そこにあなたの顔がはっきりと映っていたんです。」
そういうと春樹がとある映像を香奈に見せた。
そこにはとある公園が映っていた。
錆びたブランコが寂し気に揺れる廃れた公園。その端の方には色褪せた滑り台。その下に何かうごめくものがあった。
正体はすぐに分かった。
男の子だった。
滑り台の下でしゃがんだ幼い少年。
その少年のもとへ一人の人物が近づいてきた。
髪の長い女。
その女はゆっくりとした足取りで少年に近づくと、強引に手を引き、あっという間にその子を連れ去ってしまった。
一瞬の出来事だったので香奈は女の顔を確認し損なったようだった。
すると、見かねたように春樹が映像を巻き戻した。
今度は映像が停止された状態で巻き戻した。
ちょうど女の顔がこちらを向いている場面が映し出される。
女の顔がはっきりと視認できた。そこには香奈に似た女の姿があった。
しかし、顔は今の香奈よりも一回り程若く見えた。
春樹が何やらパソコンを操作してアプリを立ち上げた。
するとその映像に映る香奈の顔が拡大され、その横に香奈の証明写真が出現した。その後、数秒間「Loading」の文字が画面中央でぐるぐると回る。さらに数秒後、『一致率 99.99…』の表示が画面中央にでかでかと表示された。
「そんな……そんなはずはないわ。機械が間違っているのよ。」
突拍子もなく香奈が声を荒げた。
そんな彼女に春樹は冷ややかな目をして言い放った。
「この時代、機械が間違えることなんて有るはずがないんですよ。」
すると香奈は先ほどとは打って変わって大人しくなりむせび泣き始めた。
「いやだ………そんな……いやだ……いやだ………………」
震えた声が部屋の中に静かに響く。
「優太は……私の子供なの……私の……私が産んだの……ゆ、優太は……私のもの……優太に合わせてください……お願いします…………
―――違う、私はやっていない。優太は私の子なの。ねえ、返してよ。ねぇ、ねぇ返して」
彼女は情緒不安定な感情で脈絡のない文章をただ永遠と吐き出していた。その様子は、もはや幼子そのものだった。
春樹がため息交じりに言う。
「香奈さん、あなたはそう思い込んでいるだけなんですよ。あなたは妄想性障害なんです。思い出してください。家にも薬がたくさんあるはずですよ。現に今そのバッグの中にも薬が入っているはずですよ。」
そういうと彼女のバッグを指さす。そこには真っ赤なヘルプマークのぶら下がった茶色の手提げかばんがあった。
「それに―――」
春樹は一枚の紙を取り出して香奈に見せる。それは障害者手帳のうつしだった。指名:松村 香奈 等級:2級
彼女の中に情景がフラッシュバックした。荒んだ公園で出会った天使のような男の子。それに対する歪でドロドロとした醜い愛情。彼女はその感情に突き動かされるままに少年を誘拐した。そこにあったのはもはや愛情ではなく一種の異性としての禁足的な恋愛感情だった。
気づくと香奈は頭を抱え大声で号哭していた。
見かねた春樹は部屋を後にした。
デスクに戻った春樹は、机の上に乗っている一枚の紙に目を目を向ける。それは先日の歩道橋の事件での志望者リストだった。
死亡者:松村 夢
性別 :女
その他の情報:被害者は二十歳の女性。
過去に男性から女性への性転換有り。
性転換以前の氏名
【自称】松村 優太。
【本名】沢田 湊。
※バイト先では『松村 ユウ』という偽名を使用。
一通り書類に目を通した春樹は、虚空を見上げ深いため息を吐く。煮えた頭を冷やすためか、彼はデスクを後にすると屋上へ出た。彼のデスクの位置からはわからなかったが、今日は曇りのようだった。ポツリポツリと彼の腕に小さな水滴が当たる。いや、やはり雨だったようだ。しかし、曇天を見据える彼の目には、その小粒は映っていないようだった。ただその純粋な肌感覚のみがその存在を確認し、認識した。彼はまたため息をついた。ただ、今度のは先程のものとは少しばかり違った。その生暖かい吐息の中、仄かに色めいた何かが入り混じっていた。春樹は胸ポケットから四角い箱を取り出す。その中から、一本の煙草を取り出した。人差し指と中指で挟む。手で覆いながらライターで火をつけた。彼はそれを口に咥えると、めいいっぱい息を吸い込む。禊のつもりなのだろうか。激熱な煙が、淡いピンク色の肺の中に一気に流れ込んできた。春樹は激しくせき込む。それと同時に瞳が潤んだ。彼は呼吸を荒くする。上気した顔を冷ますためか、彼は眼下の景色に目を伏せる。閑静な住宅街が目の前の視界を覆った。彼はしばらくもの思いにふける。そんな中、ふと先ほどの歩道橋の防犯カメラの映像が頭をよぎった。女が階段を転げ落ち、無惨に絶命するシーンが何度もリピート再生される。めちゃくちゃに崩れる体。乱雑に飛び散る血。断末魔。
再生される度に春樹はまた、呼吸を荒くする。だんだんと頬が高揚してきているようにも見えた。春樹の瞳の奥が光る。
その射光する何かは、悔恨の意による悲嘆の炎なのか。はたまた、官能的な興奮による卑猥なLEDなのか。それは、彼すらもまだ知る余地はなかった。
