――現地調査を間近に控えたある平日の昼下がり。
研究室の隅で、僕は巨大な影に圧倒されていた。
「……見ろ。これが水位ロガーだ。」
岩淵さんが、無骨な手で銀色の筒を差し出した。彼の視線はロガーに注がれ、僕の方はちらりとも見ない。
「……設定は、サンプリング間隔10分。……変えるな。」
彼が機器を扱う手つきには、精密機器への奇妙な慈しみがあった。
「10分、ですね。わかりました。」
僕はメモを取る。岩淵さんのレクチャーは、マニュアルの朗読よりも短い。けれど、指示は明瞭だ。
僕らの傍らには、黒いケースが幾つも並んでいる。調査で使用する各種の測定器具を収めたものだ。昨晩、湧井は1週間の悪戦苦闘の末、遂に教授から調査計画へお墨付きを得た。段階は企画から実践へ移行し、今、僕は岩淵さんから機器の使用法を学んでいるのだ。
今朝がたの湧井薫の憔悴しきった姿を思い出し、思わず口元が緩む。彼女から渡された資料によれば、調査項目は以下の通りだ。
▼自動測定装置による常時モニタリング
・新旧源泉:湯温、湧水量、電導率(EC)
・噴霧域:日当たりの噴霧回数(噴霧域にカメラを設置)
▼月1回の採水・分析
・新旧源泉:水素イオン指数(pH)、塩化物イオン(Cl⁻)、硫酸イオン(SO₄²⁻)、
溶存ガス(CO₂・H₂S)
・旧源泉のみ:シリカ(SiO₂)、スケール(沈殿物)
・新源泉のみ:重炭酸イオン(HCO₃⁻)
▼第1回フィールドワークのみのサンプル回収
・ヘリウム同位体比(³He/⁴He)
これらが意味するところは、僕にはまだ完全には理解できない。だが、湧井と教授を信じ、現場での作業をやり遂げるつもりだ。……受動的な性格の僕には、「正解がある作業」を「淡々とこなす」方が向いている。これまでなら、それが全てだっただろう。だが今は、彼女と僕を隔てる理論と思考の格差を、観察と実践でカバーしようという決意が生じ始めていた。
それにしても、湧井の計画は大幅に縮小されたものの、追加された項目は岩淵さんの鶴の一声で決まったヘリウム同位体比のみだ。この事実に、僕は密かに感嘆していた。
彼女は譫言のように「みんな削られた…δ¹⁸Oも…δDも…」などと呟いていたが、むしろ基本設計の正しさを誇って良いのではないか。
驚いたことはもう一つある。研究室の隅に並べられた測定器具は、湧井が教授と先輩たちから愛の鞭を喰わされた翌日の午前中には既にそこにあった。岩淵さんの仕業に違いない。
「……山崎、聞いているか?」
僕は我に返りペンを持つ手に力を入れる。
岩淵さんは、湧出量変動の測定に用いるVノッチ堰を指先で弾いた。金属板がキーンと高い音を響かせる。
「……旧源泉は、マンホールを、開けて。……地下構造に、入る。……密閉空間だ。」
彼の声は、いつもよりさらに低い。
「……ガスが、溜まる。……硫化水素だ。……検知器が、鳴ったら。……すぐ、逃げろ。……二酸化炭素は下から来る。……あいつは、臭いがしない。」
僕はゴクリと生唾を飲み込んだ。温泉街を支える「心臓部」は、素人が想像するより、ずっと過酷な場所らしい。
「……給湯タンクから、溢れる水の。……排水溝を、探せ。……そこに、この堰を。咬ませる。……パテかゴム板ですき間を埋めろ。……ミリ単位の作業だ。」
「……水位が、上がるほど。……このV字の堰に流れ込む量は。……急激に増える。……その変化を。水位ロガーが捉える。」
岩淵さんは、類似施設の写真を見せてくれた。コンクリートの壁に囲まれた、湿った暗い空間。
「……壁に、ドリルで。穴を、開けるな。……温泉組合に、怒られるぞ。……既存の、ボルトを使って、ワイヤーで。ロガーを、吊るせ。」
「……触るな。……変えようとするな。……変わったかどうかを、記録するだけ。」
岩淵さんは次に、ECロガーを取り出した。その名の通り、EC(電気伝導率)を連続的に測定し、記録する道具だ。
「……ECは。……水中に溶け込んでいる、イオンの総量などに依存する。……ナトリウムや塩化物、カルシウム。他にも色々。……それらを、豊富に含む温泉水は。……真水に比べて圧倒的に高い値を示す。……乱暴に言えば。温泉の“濃さ”のバロメーターだ。」
だとすれば、旧源泉のECは今後低下していくのだろう。
「……旧源泉は。酸が強い。……テフロンは、最低限だ。……ネジは守れる。……だが、ケーブルは守れない。……ここ、自己融着テープで、巻け。……ケーブルを、本体に接続する手前で、輪を作れ。……ドリップループだ。……水は、重力に、勝てない。」
岩淵さんはケーブルを、本体の手前で一度下に垂らし、そのまま下向きに小さな輪を作る。
逆Ω――いや、重力に引きずられたΩだ。腐食物質を含む水分は、その最下点で地面へ滴り落ちる。
「……さもないと、一晩で。腐食して、黙る。……データが飛んだら、一か月が、消える。」
「……自然は、沈黙して。僕らを、試す。」
岩淵さんは初めて僕を真っ直ぐに見た。その目は、感情こそ読み取れないが、過酷なフィールドで戦ってきた者特有の鋭さがあった。
「……山崎。……湧井は。現場を、知らない。……お前が。データの、生命線だ。」
その一言は、僕の腹にずしりと響いた。
「……行け。……壊すなよ。」 岩淵さんはそう言い残すと、再び「研究室の主」として分厚い資料の山に沈んでいった。
研究室の隅で、僕は巨大な影に圧倒されていた。
「……見ろ。これが水位ロガーだ。」
岩淵さんが、無骨な手で銀色の筒を差し出した。彼の視線はロガーに注がれ、僕の方はちらりとも見ない。
「……設定は、サンプリング間隔10分。……変えるな。」
彼が機器を扱う手つきには、精密機器への奇妙な慈しみがあった。
「10分、ですね。わかりました。」
僕はメモを取る。岩淵さんのレクチャーは、マニュアルの朗読よりも短い。けれど、指示は明瞭だ。
僕らの傍らには、黒いケースが幾つも並んでいる。調査で使用する各種の測定器具を収めたものだ。昨晩、湧井は1週間の悪戦苦闘の末、遂に教授から調査計画へお墨付きを得た。段階は企画から実践へ移行し、今、僕は岩淵さんから機器の使用法を学んでいるのだ。
今朝がたの湧井薫の憔悴しきった姿を思い出し、思わず口元が緩む。彼女から渡された資料によれば、調査項目は以下の通りだ。
▼自動測定装置による常時モニタリング
・新旧源泉:湯温、湧水量、電導率(EC)
・噴霧域:日当たりの噴霧回数(噴霧域にカメラを設置)
▼月1回の採水・分析
・新旧源泉:水素イオン指数(pH)、塩化物イオン(Cl⁻)、硫酸イオン(SO₄²⁻)、
溶存ガス(CO₂・H₂S)
・旧源泉のみ:シリカ(SiO₂)、スケール(沈殿物)
・新源泉のみ:重炭酸イオン(HCO₃⁻)
▼第1回フィールドワークのみのサンプル回収
・ヘリウム同位体比(³He/⁴He)
これらが意味するところは、僕にはまだ完全には理解できない。だが、湧井と教授を信じ、現場での作業をやり遂げるつもりだ。……受動的な性格の僕には、「正解がある作業」を「淡々とこなす」方が向いている。これまでなら、それが全てだっただろう。だが今は、彼女と僕を隔てる理論と思考の格差を、観察と実践でカバーしようという決意が生じ始めていた。
それにしても、湧井の計画は大幅に縮小されたものの、追加された項目は岩淵さんの鶴の一声で決まったヘリウム同位体比のみだ。この事実に、僕は密かに感嘆していた。
彼女は譫言のように「みんな削られた…δ¹⁸Oも…δDも…」などと呟いていたが、むしろ基本設計の正しさを誇って良いのではないか。
驚いたことはもう一つある。研究室の隅に並べられた測定器具は、湧井が教授と先輩たちから愛の鞭を喰わされた翌日の午前中には既にそこにあった。岩淵さんの仕業に違いない。
「……山崎、聞いているか?」
僕は我に返りペンを持つ手に力を入れる。
岩淵さんは、湧出量変動の測定に用いるVノッチ堰を指先で弾いた。金属板がキーンと高い音を響かせる。
「……旧源泉は、マンホールを、開けて。……地下構造に、入る。……密閉空間だ。」
彼の声は、いつもよりさらに低い。
「……ガスが、溜まる。……硫化水素だ。……検知器が、鳴ったら。……すぐ、逃げろ。……二酸化炭素は下から来る。……あいつは、臭いがしない。」
僕はゴクリと生唾を飲み込んだ。温泉街を支える「心臓部」は、素人が想像するより、ずっと過酷な場所らしい。
「……給湯タンクから、溢れる水の。……排水溝を、探せ。……そこに、この堰を。咬ませる。……パテかゴム板ですき間を埋めろ。……ミリ単位の作業だ。」
「……水位が、上がるほど。……このV字の堰に流れ込む量は。……急激に増える。……その変化を。水位ロガーが捉える。」
岩淵さんは、類似施設の写真を見せてくれた。コンクリートの壁に囲まれた、湿った暗い空間。
「……壁に、ドリルで。穴を、開けるな。……温泉組合に、怒られるぞ。……既存の、ボルトを使って、ワイヤーで。ロガーを、吊るせ。」
「……触るな。……変えようとするな。……変わったかどうかを、記録するだけ。」
岩淵さんは次に、ECロガーを取り出した。その名の通り、EC(電気伝導率)を連続的に測定し、記録する道具だ。
「……ECは。……水中に溶け込んでいる、イオンの総量などに依存する。……ナトリウムや塩化物、カルシウム。他にも色々。……それらを、豊富に含む温泉水は。……真水に比べて圧倒的に高い値を示す。……乱暴に言えば。温泉の“濃さ”のバロメーターだ。」
だとすれば、旧源泉のECは今後低下していくのだろう。
「……旧源泉は。酸が強い。……テフロンは、最低限だ。……ネジは守れる。……だが、ケーブルは守れない。……ここ、自己融着テープで、巻け。……ケーブルを、本体に接続する手前で、輪を作れ。……ドリップループだ。……水は、重力に、勝てない。」
岩淵さんはケーブルを、本体の手前で一度下に垂らし、そのまま下向きに小さな輪を作る。
逆Ω――いや、重力に引きずられたΩだ。腐食物質を含む水分は、その最下点で地面へ滴り落ちる。
「……さもないと、一晩で。腐食して、黙る。……データが飛んだら、一か月が、消える。」
「……自然は、沈黙して。僕らを、試す。」
岩淵さんは初めて僕を真っ直ぐに見た。その目は、感情こそ読み取れないが、過酷なフィールドで戦ってきた者特有の鋭さがあった。
「……山崎。……湧井は。現場を、知らない。……お前が。データの、生命線だ。」
その一言は、僕の腹にずしりと響いた。
「……行け。……壊すなよ。」 岩淵さんはそう言い残すと、再び「研究室の主」として分厚い資料の山に沈んでいった。
