――翌日の午後。
僕と湧井は並んで教授室のドアの前に立った。
部屋に入ると、泉教授の傍らへ研究室に所属する二人の院生が座っているのが見える。岩淵さんと寒川さんだ。岩淵さんは博士課程に在籍し、泉先生も一目置く天才肌の男性だ。極端に口数が少なく、クマのような巨躯で研究設備の周りをノソノソ歩き回る姿は、「研究室の主」といった風格を漂わせている。寒川さんは修士課程にあり、物言いも身のこなしもクールな女性である。頭の回転の速さと説明力の高さは天性のものであり、学会報告においては「研究室の顔」として活躍している。
――つまり、状況は予想以上の大事へ発展したのだ。
僕は3人の表情を盗み見る。泉先生は僅かに笑みを浮かべ、岩淵さんはいつも通り無表情、寒川さんはややナーバスな面持ちをしている。泉教授は二人を湧井に紹介した後、彼女に語りかける。
「この計画を作ったのはあなただね。僅か数日で大したものだ。」
湧井は胸の前で手を組んで白い歯を覗かせる。「ありがとうございます。飯森山の地下で起きている変化を確実に捕捉し、仮説の妥当性を、実データで裏付けて見せます。」
それを聞いた教授は彼女を鋭い視線で見つめ、口調を改める。
「だが、幾つかの点で修正が不可欠だ。山崎君、君はどう思う?」
僕は少し考えてから話す。
「実践面から見て、難点が多いです。測定機器の数が多すぎて、運用にかかる工数がバカになりません。何より、月2回の現地調査は負担が多すぎます。メンバー二人で実行可能な範囲に収めるのがよいかと……」
教授は頷き、悪戯っぽい笑みを浮かべ湧井に問いかける。
「私が山崎君をあなたのサポート役に付けた理由の一端を察してもらえたかな?」
湧井は笑顔を崩さないが、僅かに声のトーンが硬くなった。
「調査のスペックを落とせば、問題の本質が曖昧になりかねません。泉質の劣化は、火山活動の衰微でなく、その正反対――つまり、再活性化に伴うセルフシーリングです。これを精緻にモデル化することで……」
「……やりすぎよ。」
冷ややかな声が、研究室の隅から響いた。寒川さんだ。彼女はキーボードを叩く手を止め、眼鏡の奥から湧井を射抜いた。
「湧井さん。あなたの理論に付き合わされるこちらの身にもなって。月2回のサンプルデータ分析なんて、誰がやると思ってるの? 私の時間は、あなたの趣味のためにあるんじゃないわ。」
「趣味じゃないわ、寒川さん。これは科学的な必然なんです。」
湧井の声は明るかったが、明らかに「戦闘モード」に移行している。
「データの解像度を上げれば、私の式が正しいことが誰の目にも明らかになります。」
寒川さんはふんと鼻で笑い、視線をモニターに戻した。
「解像度を上げるのと、無駄なデータを集めるのは別物。……あなた、本当は事実じゃなくて、自分の鏡が見たいだけでしょ?」
その言葉に、湧井の肩がぴくりと震えた。彼女は明らかに、何か「個人的なもの」を研究に投影している。案の定、即座に反撃に移る。
「解像度の確保は、工夫の問題でしょう。現象が起きているなら、測るべきです」
一瞬、火花が散った。
「“起きている”って、何を根拠に言ってるの?」
「トレンドです。十年分のデータが示しています。」
「それが今では、あなたの中で“起き続けると信じる変化”になっている。」
「違います。統計的に有意な――」
「統計は、過去の整合性しか保証しない。」
「…それなら、なおさら頻繁に測らなければ分からない筈です。」
「違うわ。”見逃した“と分かる設計にするの。」
二人の会話を遮り、岩淵さんがのんびりと呟く。
「測定機器を用いた透水性と地殻変動の計測……不要。温泉成分の Cl⁻ と SiO₂ の挙動だけで、地下の流路閉塞は十分に語れる。……替わりにヘリウム同位体比(³He/⁴He)を足せ。……一度でいい。」
岩淵さんはそれだけ言うと、再び資料に目を落とした。
低い、ぼそりとした声だった。でも、その一言には有無を言わせぬ重みがあった。
湧井は反論の言葉を探すように唇を噛む。
――泉教授が穏やかに割って入る。
「湧井さん、二人のアドバイスに従って、調査内容を削りなさい。現地調査は月1回、ヘリウム同位体比を1回測ろう。スペックとしてはこれで十分だ。」
彼女は目に見えて落胆し、肩を落とした。
「でも、教授! 連続的な変化を捉えるには頻度が必要です! セルフシーリングは徐々にゼロへ収束します!――その前に、『低侵襲操作』などの手を打つためにも……」
「連続的、ですか。」
教授が言葉を遮る。
「あなたは、現象が長期トレンドの延長線上で滑らかに収束するのを待ち構えていますね。だが、火山はそんなに聞き分けが良くないのです。『揺らぎ』を無視してはいけません。非連続的な変化は、あなたが瞬きをした瞬間に起きるでしょう。科学とは、あなたの頭の中を証明する道具ではありません。事実に向き合うことです。」
「揺らぎ……?」
湧井が困惑したように呟いた。彼女にとって、現象とは常に予測可能な「モデル」の内部にあるようだった。湧井は、自分自身を説得するように喋る。
「揺らぎとは、短周期のイレギュラーな変動ですよね……。そのような現象はノイズとして処理します。そして、長期トレンドとしての成分濃度や湯温等の低下を正確に抽出すれば、深部熱水の閉塞進行を、連続的変化として事前に予測できる筈です。」
しかし教授は、首を縦に振らなかった。
「……湧井さん」
教授は机の端を指で軽く叩いた。
「あなたは今、“起きること”を見に行こうとしているのではなく、“自分が考えた過程が正しいこと”を証明しに行こうとしています。」
彼女は、言葉を失った。
「揺らぎ、というものは、」
教授は続ける。
「連続変化に対するノイズではありません。平均して消していいものでもないのです。それ自体が、現象の顔を変える瞬間、といえば分かってもらえますか。」
湧井は反射的に言い返した。
「もし先生が仰るような根本的な転換が起きるのだとしたら、それを見届けるために、観測頻度を――」
「違います。」
教授の声は低かったが、はっきりしていた。
「見逃すことを前提に設計して下さい。だからこそ、長期トレンドへ還元できない変化だけが、浮き上がる。」
湧井は唇を噛んだ。聡明な彼女のことだ。理解できないわけではないのだろう。だが、許容できないのだ。
――連続的に測れば、すべてはモデル化できる。
――それによって、事前に適切な対策を打つ。
その信念が彼女を支えていたのだろう。議論の詳細が理解できない僕にも、それ位は推察できた。
「……分かりました。」
不服を隠しきれないまま湧井はそう答え、何か言いかけて、結局言葉を飲み込んだ。教授は彼女の瞳を見据えて念を押す。
「この調査を鉄道旅行に例えるならば、列車に乗るのは目的地へ移動するためではありません。車窓の風景を楽しむためです。」
僕は、孤軍奮闘する湧井をただ見守るしか出来なかった。
――彼女に任せておけば何とかなる。
そう思っていた自分を、初めて少し恥ずかしいと感じた。
それを見透かしたかのように、教授は僕に声をかける。
「山崎君は単なる測定係ではありません。湧井さんへのサポートをお願いします。今の彼女に欠けたものを補えるのは、あなたなのです。」
「山崎さん、あなたの意見を素直に聞かなくてごめんなさい。月1回になるけど、”揺らぎ”を押さえられるように工夫しますね。」
湧井はすぐに明るい調子を取り戻して僕に言った。でも、その拳は強く握りしめられたままだった。
僕はつい「うん、まだ少し時間もあるし、頑張ろう」と、いつものように受動的な笑顔を返してしまう。だが心の中では、恐れを抱いていた。彼女の「理論の鎧」は、現実を前にして、近い将来、跡形もなく壊れてしまうのではないか。湧井はそれに耐えられるだろうか。
その時、僕はまだ知らなかった。
教授と先輩たちが「理論への拘り」を強引に削り取った結果生じた「余白」こそが、彼女を救うことを。
僕と湧井は並んで教授室のドアの前に立った。
部屋に入ると、泉教授の傍らへ研究室に所属する二人の院生が座っているのが見える。岩淵さんと寒川さんだ。岩淵さんは博士課程に在籍し、泉先生も一目置く天才肌の男性だ。極端に口数が少なく、クマのような巨躯で研究設備の周りをノソノソ歩き回る姿は、「研究室の主」といった風格を漂わせている。寒川さんは修士課程にあり、物言いも身のこなしもクールな女性である。頭の回転の速さと説明力の高さは天性のものであり、学会報告においては「研究室の顔」として活躍している。
――つまり、状況は予想以上の大事へ発展したのだ。
僕は3人の表情を盗み見る。泉先生は僅かに笑みを浮かべ、岩淵さんはいつも通り無表情、寒川さんはややナーバスな面持ちをしている。泉教授は二人を湧井に紹介した後、彼女に語りかける。
「この計画を作ったのはあなただね。僅か数日で大したものだ。」
湧井は胸の前で手を組んで白い歯を覗かせる。「ありがとうございます。飯森山の地下で起きている変化を確実に捕捉し、仮説の妥当性を、実データで裏付けて見せます。」
それを聞いた教授は彼女を鋭い視線で見つめ、口調を改める。
「だが、幾つかの点で修正が不可欠だ。山崎君、君はどう思う?」
僕は少し考えてから話す。
「実践面から見て、難点が多いです。測定機器の数が多すぎて、運用にかかる工数がバカになりません。何より、月2回の現地調査は負担が多すぎます。メンバー二人で実行可能な範囲に収めるのがよいかと……」
教授は頷き、悪戯っぽい笑みを浮かべ湧井に問いかける。
「私が山崎君をあなたのサポート役に付けた理由の一端を察してもらえたかな?」
湧井は笑顔を崩さないが、僅かに声のトーンが硬くなった。
「調査のスペックを落とせば、問題の本質が曖昧になりかねません。泉質の劣化は、火山活動の衰微でなく、その正反対――つまり、再活性化に伴うセルフシーリングです。これを精緻にモデル化することで……」
「……やりすぎよ。」
冷ややかな声が、研究室の隅から響いた。寒川さんだ。彼女はキーボードを叩く手を止め、眼鏡の奥から湧井を射抜いた。
「湧井さん。あなたの理論に付き合わされるこちらの身にもなって。月2回のサンプルデータ分析なんて、誰がやると思ってるの? 私の時間は、あなたの趣味のためにあるんじゃないわ。」
「趣味じゃないわ、寒川さん。これは科学的な必然なんです。」
湧井の声は明るかったが、明らかに「戦闘モード」に移行している。
「データの解像度を上げれば、私の式が正しいことが誰の目にも明らかになります。」
寒川さんはふんと鼻で笑い、視線をモニターに戻した。
「解像度を上げるのと、無駄なデータを集めるのは別物。……あなた、本当は事実じゃなくて、自分の鏡が見たいだけでしょ?」
その言葉に、湧井の肩がぴくりと震えた。彼女は明らかに、何か「個人的なもの」を研究に投影している。案の定、即座に反撃に移る。
「解像度の確保は、工夫の問題でしょう。現象が起きているなら、測るべきです」
一瞬、火花が散った。
「“起きている”って、何を根拠に言ってるの?」
「トレンドです。十年分のデータが示しています。」
「それが今では、あなたの中で“起き続けると信じる変化”になっている。」
「違います。統計的に有意な――」
「統計は、過去の整合性しか保証しない。」
「…それなら、なおさら頻繁に測らなければ分からない筈です。」
「違うわ。”見逃した“と分かる設計にするの。」
二人の会話を遮り、岩淵さんがのんびりと呟く。
「測定機器を用いた透水性と地殻変動の計測……不要。温泉成分の Cl⁻ と SiO₂ の挙動だけで、地下の流路閉塞は十分に語れる。……替わりにヘリウム同位体比(³He/⁴He)を足せ。……一度でいい。」
岩淵さんはそれだけ言うと、再び資料に目を落とした。
低い、ぼそりとした声だった。でも、その一言には有無を言わせぬ重みがあった。
湧井は反論の言葉を探すように唇を噛む。
――泉教授が穏やかに割って入る。
「湧井さん、二人のアドバイスに従って、調査内容を削りなさい。現地調査は月1回、ヘリウム同位体比を1回測ろう。スペックとしてはこれで十分だ。」
彼女は目に見えて落胆し、肩を落とした。
「でも、教授! 連続的な変化を捉えるには頻度が必要です! セルフシーリングは徐々にゼロへ収束します!――その前に、『低侵襲操作』などの手を打つためにも……」
「連続的、ですか。」
教授が言葉を遮る。
「あなたは、現象が長期トレンドの延長線上で滑らかに収束するのを待ち構えていますね。だが、火山はそんなに聞き分けが良くないのです。『揺らぎ』を無視してはいけません。非連続的な変化は、あなたが瞬きをした瞬間に起きるでしょう。科学とは、あなたの頭の中を証明する道具ではありません。事実に向き合うことです。」
「揺らぎ……?」
湧井が困惑したように呟いた。彼女にとって、現象とは常に予測可能な「モデル」の内部にあるようだった。湧井は、自分自身を説得するように喋る。
「揺らぎとは、短周期のイレギュラーな変動ですよね……。そのような現象はノイズとして処理します。そして、長期トレンドとしての成分濃度や湯温等の低下を正確に抽出すれば、深部熱水の閉塞進行を、連続的変化として事前に予測できる筈です。」
しかし教授は、首を縦に振らなかった。
「……湧井さん」
教授は机の端を指で軽く叩いた。
「あなたは今、“起きること”を見に行こうとしているのではなく、“自分が考えた過程が正しいこと”を証明しに行こうとしています。」
彼女は、言葉を失った。
「揺らぎ、というものは、」
教授は続ける。
「連続変化に対するノイズではありません。平均して消していいものでもないのです。それ自体が、現象の顔を変える瞬間、といえば分かってもらえますか。」
湧井は反射的に言い返した。
「もし先生が仰るような根本的な転換が起きるのだとしたら、それを見届けるために、観測頻度を――」
「違います。」
教授の声は低かったが、はっきりしていた。
「見逃すことを前提に設計して下さい。だからこそ、長期トレンドへ還元できない変化だけが、浮き上がる。」
湧井は唇を噛んだ。聡明な彼女のことだ。理解できないわけではないのだろう。だが、許容できないのだ。
――連続的に測れば、すべてはモデル化できる。
――それによって、事前に適切な対策を打つ。
その信念が彼女を支えていたのだろう。議論の詳細が理解できない僕にも、それ位は推察できた。
「……分かりました。」
不服を隠しきれないまま湧井はそう答え、何か言いかけて、結局言葉を飲み込んだ。教授は彼女の瞳を見据えて念を押す。
「この調査を鉄道旅行に例えるならば、列車に乗るのは目的地へ移動するためではありません。車窓の風景を楽しむためです。」
僕は、孤軍奮闘する湧井をただ見守るしか出来なかった。
――彼女に任せておけば何とかなる。
そう思っていた自分を、初めて少し恥ずかしいと感じた。
それを見透かしたかのように、教授は僕に声をかける。
「山崎君は単なる測定係ではありません。湧井さんへのサポートをお願いします。今の彼女に欠けたものを補えるのは、あなたなのです。」
「山崎さん、あなたの意見を素直に聞かなくてごめんなさい。月1回になるけど、”揺らぎ”を押さえられるように工夫しますね。」
湧井はすぐに明るい調子を取り戻して僕に言った。でも、その拳は強く握りしめられたままだった。
僕はつい「うん、まだ少し時間もあるし、頑張ろう」と、いつものように受動的な笑顔を返してしまう。だが心の中では、恐れを抱いていた。彼女の「理論の鎧」は、現実を前にして、近い将来、跡形もなく壊れてしまうのではないか。湧井はそれに耐えられるだろうか。
その時、僕はまだ知らなかった。
教授と先輩たちが「理論への拘り」を強引に削り取った結果生じた「余白」こそが、彼女を救うことを。
