時計が間もなく午後1時を指そうとする頃、僕はカフェテリアの窓際に座っていた。
昼休みの終わりが迫り、潮が引くように学生たちが去っていく。建物から吐き出された人波は、異なる方向へ向かう三つの流れとなって丘を下り、キャンパスの各所へ散っていく。これらの内、舗装が施された正規のルートは一本だけで、残り二つは欲望の小道と言われる自然発生的な近道だ。カフェテリアは、見晴らしの良い小山の頂点に立地するので、このような現象が発生するのだ。その光景を眺めているうちに、脳裏に閃くものがあった。一昨日、湧井は泉先生の質問に答える中で、飯森山の山中に新しい温泉が生じたと話した筈だ。
「……そうか、そういうことか。」
謎は、あっけないほど簡単に解けてしまった。早く話したいのに、彼女はなかなか現れない。時計は午後1時30分を指す。……さては寝坊しているな。スマホを取り出そうとしたとき、キャンパスと外部の住宅地を隔てる鉄柵をよじ登る人影が目に入る。キャンパスは外周の大きさに対して出入り口の数が少ないため、時々あのような不届き者が現れる。……大抵は男子学生だが。水色のブラウスにベージュの台形スカートを纏った侵入者の背格好と髪型には、確かに見覚えがあった。彼女は柵からひらりと飛び降りると躊躇なくデザイア・パスを駆けあがる。僕は思わず首を振った。
「お待たせして、ごめんなさい!寝過ごしてしまいました!」
閑散としたカフェテリアに湧井の声が響き、鞄を胸に抱えたまま、ぺこぺこと何度も頭を下げる。まばらに残った人々の視線が彼女と僕に集中している気がして、何とか落ち着かせる。
「仕方ないよ、睡眠不足が続いてたんでしょ?それより、温泉が変化した謎が僕にも解けたよ。」
「本当ですか!」
湧井は表情を一変させ、目を輝かせる。悄気たり笑ったり、忙しい奴だ。
僕は彼女がカウンターで注文を済ませるのを待ち、説明を始める。
「飯森山の火山活動再開を大前提とする。地震記録を見るかぎり、同山周辺で震度3を超える火山性の地震は記録されていないが、おそらく地下では微弱な地震が繰り返し発生している。これが深部熱水と火山ガスの流路に影響を与えた。」
湧井は身を乗り出して聞き入っている。
「つまり地震の結果、新たな断層や亀裂が生じ、それがバイパスになったんだ。山中に突如出現した温泉が、その証拠だ。」
彼女は満面の笑みで額に手を当てた。
「あちゃー、そっちへ転がりましたか。」少しだけ舌を出し、すぐに続ける。「でも、多分、かなり良い線は行ってますよ。」
「え、間違ってるの?」
「現段階で間違いとは断言できません。ただ、新しい流路に逃げたなら、十年単位でじわじわ変化が続くのは少し妙です。それに――」
ブラックコーヒーを一口含み、言葉を選ぶ。
「新しい温泉のお湯が、火山性の深部熱水だとは考えにくいんです。」
「どうして?」
「泉先生の質問にお答えしたように、森林事務所の観察では、新しい源泉は無色・無臭です。既存の源泉は硫黄臭があって、白濁している。私は、起源そのものが違う水だと思っています。」
「つまり、新しく湧いたお湯は、旧来の温泉とは別物で、火山の深部熱水が流路を変えた直接の証拠ではない、と。」
湧井は、こくりと頷いた。
「はい。私は、そう考えています。」
「でも、全く別の温泉がすぐ近くにあるなんて、すごい偶然じゃない?」
彼女は真剣な顔で答える。
「確かにそうですが、可能性はあり、実例も存在します。――私は、既存の温泉の変化と、新しい温泉の出現には、何か関係があると想像しています。」
湧井の説明で、却って謎が増えてしまった。今や、分からないことが三つもある。
①旧来の温泉の深部熱水はどこに行ったのか。
②新しい温泉のお湯はどこから来るのか。
③新旧二つの温泉の動きはどう結びつくのか。
――僕の考えを見透かしたのか、彼女は熱を帯びた声で話す。
「フィールドワークを行うことで、全体像を明らかに出来ると思います。企画は私に任せて下さい。しっかり作り込みましたから。」
縮こまる僕の前で、湧井は腕を組んで微かにドヤ顔を浮かべている。疑問は山積だが、一つだけ確信を持って言える。彼女を敢えてカフェテリアに呼び出した自分の判断は実に正しかった。こんな有様を研究室で晒したなら、先輩たちから半永久的にネタにされ、弄られるだろう。
「ところで、昨夜は山崎さんも遅くまで起きてたんですね。何をなさっていたんですか?」
「ああ、ちょっと映画を見ていてね。」どういう訳か、僕は嘘をついてしまう。
「へえ、どんな映画ですか?」
少し考えて、彼女が絶対に興味を持たなそうなタイトルを口にする。
「メガ・シャークvsグレート・タイタニックって言うんだけど…」
湧井は顔をほころばせる。
「B級映画の傑作ですよね!北極の氷山の中から巨大な古代サメが蘇り、世界最大の鉄製巨船と対決する……グレート・タイタニックのラムアタックをメガ・シャークがレーザー光線で迎え撃つシーンが大好きです。一応サメなのにレーザー光線を口から吐くって……生命体とは何なのか、深く考えさせられますよね……。」
風向きが非常に怪しいので、僕は方向転換を図る。
「それで、本題だけど、フィールドワークの企画はどんな感じ?」
彼女は鞄の中からノートを何冊も取り出す。「はい、ご説明します。」
湧井が胸を張って語った内容は、僕の予想を遥かに上回る怪物じみた大計画だった。新旧の源泉それぞれに自動測定装置を多数設置して、変化を常時追跡すると共に、月2回現地を訪問して2つの源泉のサンプルを採取・分析する。しかも、これを少なくとも半年以上繰り返すというのだ。
タイタニック号のようなこの企画は、理論的には正しいのだろうが、果たして実践面で成立するだろうか。僕の直感は、赤信号を伝えていた。誇大妄想とまでは言わないが、予想外の僅かな外的ショック――例えば氷山で船体を擦ってしまうなど――で大惨事を引き起こすだろう。なにより、泉先生の指示は「とりあえず現場を見てこい」といったニュアンスだったはずだ。それが半年以上に渡る綿密な計画に飛躍しているのは、明らかに湧井の独走、いや暴走である。
しばし考え、僕は口を開く。
「湧井さん、いろいろ考えてくれてありがとう。ただ、僕ら二人が中心となって実行するには、ちょっと荷が重いんじゃないかな。もう少し内容を絞り込もう。」
だが、彼女はきっぱり首を横に振る。「これが理論的正確性を担保しうる最低ラインです。妥協の余地はありません。」
それからの数時間、僕らは互いに説得を試み、遂に一つの結論に辿り着いた。つまり、「交渉は暗礁に乗り上げた」という認識で一致したのである。
「湧井さん、この件はすぐ泉先生に相談しよう。フィールドワークの計画を、メールで先生に送ってもらって良い?」
彼女は素直に頷く。思わず二人で苦笑を交わす。全く、先が思いやられる出だしである。
その夜、教授から早速返信があった。指示は簡潔かつ明瞭だった。
――両名とも、明日私の部屋へ来るように。
昼休みの終わりが迫り、潮が引くように学生たちが去っていく。建物から吐き出された人波は、異なる方向へ向かう三つの流れとなって丘を下り、キャンパスの各所へ散っていく。これらの内、舗装が施された正規のルートは一本だけで、残り二つは欲望の小道と言われる自然発生的な近道だ。カフェテリアは、見晴らしの良い小山の頂点に立地するので、このような現象が発生するのだ。その光景を眺めているうちに、脳裏に閃くものがあった。一昨日、湧井は泉先生の質問に答える中で、飯森山の山中に新しい温泉が生じたと話した筈だ。
「……そうか、そういうことか。」
謎は、あっけないほど簡単に解けてしまった。早く話したいのに、彼女はなかなか現れない。時計は午後1時30分を指す。……さては寝坊しているな。スマホを取り出そうとしたとき、キャンパスと外部の住宅地を隔てる鉄柵をよじ登る人影が目に入る。キャンパスは外周の大きさに対して出入り口の数が少ないため、時々あのような不届き者が現れる。……大抵は男子学生だが。水色のブラウスにベージュの台形スカートを纏った侵入者の背格好と髪型には、確かに見覚えがあった。彼女は柵からひらりと飛び降りると躊躇なくデザイア・パスを駆けあがる。僕は思わず首を振った。
「お待たせして、ごめんなさい!寝過ごしてしまいました!」
閑散としたカフェテリアに湧井の声が響き、鞄を胸に抱えたまま、ぺこぺこと何度も頭を下げる。まばらに残った人々の視線が彼女と僕に集中している気がして、何とか落ち着かせる。
「仕方ないよ、睡眠不足が続いてたんでしょ?それより、温泉が変化した謎が僕にも解けたよ。」
「本当ですか!」
湧井は表情を一変させ、目を輝かせる。悄気たり笑ったり、忙しい奴だ。
僕は彼女がカウンターで注文を済ませるのを待ち、説明を始める。
「飯森山の火山活動再開を大前提とする。地震記録を見るかぎり、同山周辺で震度3を超える火山性の地震は記録されていないが、おそらく地下では微弱な地震が繰り返し発生している。これが深部熱水と火山ガスの流路に影響を与えた。」
湧井は身を乗り出して聞き入っている。
「つまり地震の結果、新たな断層や亀裂が生じ、それがバイパスになったんだ。山中に突如出現した温泉が、その証拠だ。」
彼女は満面の笑みで額に手を当てた。
「あちゃー、そっちへ転がりましたか。」少しだけ舌を出し、すぐに続ける。「でも、多分、かなり良い線は行ってますよ。」
「え、間違ってるの?」
「現段階で間違いとは断言できません。ただ、新しい流路に逃げたなら、十年単位でじわじわ変化が続くのは少し妙です。それに――」
ブラックコーヒーを一口含み、言葉を選ぶ。
「新しい温泉のお湯が、火山性の深部熱水だとは考えにくいんです。」
「どうして?」
「泉先生の質問にお答えしたように、森林事務所の観察では、新しい源泉は無色・無臭です。既存の源泉は硫黄臭があって、白濁している。私は、起源そのものが違う水だと思っています。」
「つまり、新しく湧いたお湯は、旧来の温泉とは別物で、火山の深部熱水が流路を変えた直接の証拠ではない、と。」
湧井は、こくりと頷いた。
「はい。私は、そう考えています。」
「でも、全く別の温泉がすぐ近くにあるなんて、すごい偶然じゃない?」
彼女は真剣な顔で答える。
「確かにそうですが、可能性はあり、実例も存在します。――私は、既存の温泉の変化と、新しい温泉の出現には、何か関係があると想像しています。」
湧井の説明で、却って謎が増えてしまった。今や、分からないことが三つもある。
①旧来の温泉の深部熱水はどこに行ったのか。
②新しい温泉のお湯はどこから来るのか。
③新旧二つの温泉の動きはどう結びつくのか。
――僕の考えを見透かしたのか、彼女は熱を帯びた声で話す。
「フィールドワークを行うことで、全体像を明らかに出来ると思います。企画は私に任せて下さい。しっかり作り込みましたから。」
縮こまる僕の前で、湧井は腕を組んで微かにドヤ顔を浮かべている。疑問は山積だが、一つだけ確信を持って言える。彼女を敢えてカフェテリアに呼び出した自分の判断は実に正しかった。こんな有様を研究室で晒したなら、先輩たちから半永久的にネタにされ、弄られるだろう。
「ところで、昨夜は山崎さんも遅くまで起きてたんですね。何をなさっていたんですか?」
「ああ、ちょっと映画を見ていてね。」どういう訳か、僕は嘘をついてしまう。
「へえ、どんな映画ですか?」
少し考えて、彼女が絶対に興味を持たなそうなタイトルを口にする。
「メガ・シャークvsグレート・タイタニックって言うんだけど…」
湧井は顔をほころばせる。
「B級映画の傑作ですよね!北極の氷山の中から巨大な古代サメが蘇り、世界最大の鉄製巨船と対決する……グレート・タイタニックのラムアタックをメガ・シャークがレーザー光線で迎え撃つシーンが大好きです。一応サメなのにレーザー光線を口から吐くって……生命体とは何なのか、深く考えさせられますよね……。」
風向きが非常に怪しいので、僕は方向転換を図る。
「それで、本題だけど、フィールドワークの企画はどんな感じ?」
彼女は鞄の中からノートを何冊も取り出す。「はい、ご説明します。」
湧井が胸を張って語った内容は、僕の予想を遥かに上回る怪物じみた大計画だった。新旧の源泉それぞれに自動測定装置を多数設置して、変化を常時追跡すると共に、月2回現地を訪問して2つの源泉のサンプルを採取・分析する。しかも、これを少なくとも半年以上繰り返すというのだ。
タイタニック号のようなこの企画は、理論的には正しいのだろうが、果たして実践面で成立するだろうか。僕の直感は、赤信号を伝えていた。誇大妄想とまでは言わないが、予想外の僅かな外的ショック――例えば氷山で船体を擦ってしまうなど――で大惨事を引き起こすだろう。なにより、泉先生の指示は「とりあえず現場を見てこい」といったニュアンスだったはずだ。それが半年以上に渡る綿密な計画に飛躍しているのは、明らかに湧井の独走、いや暴走である。
しばし考え、僕は口を開く。
「湧井さん、いろいろ考えてくれてありがとう。ただ、僕ら二人が中心となって実行するには、ちょっと荷が重いんじゃないかな。もう少し内容を絞り込もう。」
だが、彼女はきっぱり首を横に振る。「これが理論的正確性を担保しうる最低ラインです。妥協の余地はありません。」
それからの数時間、僕らは互いに説得を試み、遂に一つの結論に辿り着いた。つまり、「交渉は暗礁に乗り上げた」という認識で一致したのである。
「湧井さん、この件はすぐ泉先生に相談しよう。フィールドワークの計画を、メールで先生に送ってもらって良い?」
彼女は素直に頷く。思わず二人で苦笑を交わす。全く、先が思いやられる出だしである。
その夜、教授から早速返信があった。指示は簡潔かつ明瞭だった。
――両名とも、明日私の部屋へ来るように。
