――ラーメンは一種の完全食である。
炭水化物の塊を脂質豊かなスープが温かく包み、チャーシューや卵などのたんぱく源、それに微量ながら野菜まで付随する。丼一つで完結し、食べ終えるまで10分もかからない。人類の叡智と呼ぶべきこの料理は、学食で常時提供されており、列に並ぶ時間も短くて済む。そんなわけで、僕はテーブル上で湯気を放つ豚骨ラーメンを前に、湧井薫を待っていた。
……遅い。麺が伸びてしまうではないか。先に食べ始めようかと真剣に考え始めた頃、漸くトレーを手にした彼女の姿が目に入った。ネイビーのセーターにグレーのAラインスカートを纏い、周囲をきょろきょろ見回している。僕が軽く手を振ると、笑顔を浮かべて小走りにやってくる。
「ごめんなさい、お待たせしちゃいましたか?」席に着くなり、彼女は軽く頭を下げる。トレーの上には、味噌汁の他は小鉢だけが幾つも並び、折詰弁当さながらだ。通りで時間がかかる訳だ。
「面白いことするね」軽い皮肉を込めてそう言うと、湧井は朗らかな表情で答える。
「いろいろ目移りしちゃって。ほらこれ、タケノコですよ。こっちは菜の花。私、春の味覚が好きなんです。一口食べませんか?」
僕が遠慮すると微かに残念そうな表情を浮かべた後、「あっ、豚骨ラーメン!美味しそうですね。」
「学食のラーメンは日替わりなんだよ。火曜日は豚骨が多いかな。」僕が説明すると、「今度挑戦してみますね。」と白い歯を覗かせる。
温泉の話をするときの、何かに駆り立てられるような一意専心ぶりはなりを潜めている。素の彼女は、大らかな性格なのだろう。
「高校時代の湧井さんってどんな感じだったの?」
僕が尋ねると、彼女はきょとんとした表情で、
「つい最近の話ですから、今と大して変わりませんよ。」
「じゃあ、……温泉と火山の研究に孤独な情熱を燃やしていたんだ。」僕がそう言うと、湧井は質問の趣旨を察したようだ。
「普通にクラスに溶け込んで、友達と楽しく過ごしましたよ。――あっ、信用してませんね?」
苦笑する僕を見て、スカートのポケットからスマホを取り出す。
「この写真は卒業式後に有志が集まった打ち上げ、こっちは皆でテーマパークに行ったとき。夕方の教室で特に意味なく撮ったものもありますね……。」
多くの写真で彼女は古風なジャンパースカートの制服を身につけ、屈託なく笑っている。
僕は思わず首を捻る。「じゃあ、その二面性はどこから来るの?」
湧井は少し考えるように視線を宙に泳がせ、箸を置いた。
「二面性、と言われるとちょっと辛いですが……誰しも他人には伏せておきたい部分があると思います。」
「今は随分あからさまな気もするけど……」
「大学へ入って初めて出来ることがありますから。」一瞬だけ、彼女の声の調子が変わる。「山崎さんにフィールドワークへ連れて行って頂くのも、その一つです。それから、……残された時間が少なくて、気持ちに余裕がなくなっているのかも。」
――何のための時間?
僕は、その言葉の続きを待った。だが、彼女はそれ以上答えない。代わりに、湯気の立つ味噌汁の椀を両手で包み込み、少しだけ笑った。
「いつか、お話し出来ると思います。」
「分かった、気長に待ってるよ。」僕がそう答えると、彼女はそっと視線を落とし、小さな声で感謝を口にした。
学食を出て湧井と別れ、僕は再び図書館に戻った。
いったん温泉のことは脇に置き、彼女が強調していた「火山活動の再開」について考えを巡らせる。
飯森山は、活火山が列をなすいわゆる「火山フロント」に位置している。その地下深く――およそ深度100キロ前後――では、南海トラフにおいてユーラシアプレートの下へ沈み込んだフィリピン海プレートが、高温・高圧の環境にさらされている。
沈み込むプレートからは、水や二酸化炭素、硫黄成分などを含む「超臨界流体」が放出され、それらが上部マントルへ供給される。結果としてマントルの融点が下がり、フラックス融解が誘発される。こうして生成されたマグマが、火山活動の源となる。
乱暴に言えば――地の奥底の過酷な条件下で、マグマが常時供給されている、ということだ。
――場所柄を考えれば、飯森山が再び活動的になる可能性自体は、決して突飛な話ではない。
だが、火山活動が活発化すれば、
①通常はマグマ由来の硫黄成分の供給が増える。
②またその一部が化学的プロセスを経て硫酸が生成されるから、泉水は酸性化し、pHは低下する。
③熱供給が増えれば、湯温だって上がるだろう。
しかし、観測されている現実は、そのどれとも正反対だ。
――硫黄や硫酸を多く含むはずの深部熱水は、どこへ消えた?
しばらく考えた末、僕は思考を脇へ追いやった。椅子にもたれ、背中を反らして肩と首を大きく回す。凝り固まっていた筋肉が、じわりとほどけていく感覚を味わう。
「……まあ、湧井が分かっているなら、当面はそれでいいか。」
スマホを取り出し、彼女へメッセージを送った。
「そっちの進捗はどう?明日の打合せは出来そう?」
図書館を出ると、東南東の空に明るい月が昇っている。閉店間際のスーパーへすべり込み、3割引きの弁当を確保した。アパートで侘しい夕食を済ませ、シャワーを浴びても湧井からの返信は無い。「既読無視かよ。」僕は呟きながらスマホをベッドの上に放り投げ、鞄から図書館でコピーした論文の束を引っ張り出す。結局、日付が変わっても彼女はノーリアクションだった。
夜明け前、枕元の微かな着信音に気づき、体を起こす。まだ眠りが浅かったようだ。スクリーンが放つ人工的な光を手掛かりに、スマホを拾い上げる。湧井からの返信だ。
「第1回のフィールドワーク、調査項目の絞り込みが終わりました。明日の事前打合せ、宜しくお願いします」
僕は早速メッセージを送った。
「遅くまでお疲れさま。『今日』の打合せ、午前早くが良い?それとも一眠りして午後にする?」
すぐに回答が来る。
「朝早くに起こしてしまってごめんなさい。少し寝たいので午後1時はいかがでしょうか」
少し考えてから文字を打つ。
「了解。僕もこれから寝るところだった。じゃあ、午後1時に大学のカフェテリアで」
炭水化物の塊を脂質豊かなスープが温かく包み、チャーシューや卵などのたんぱく源、それに微量ながら野菜まで付随する。丼一つで完結し、食べ終えるまで10分もかからない。人類の叡智と呼ぶべきこの料理は、学食で常時提供されており、列に並ぶ時間も短くて済む。そんなわけで、僕はテーブル上で湯気を放つ豚骨ラーメンを前に、湧井薫を待っていた。
……遅い。麺が伸びてしまうではないか。先に食べ始めようかと真剣に考え始めた頃、漸くトレーを手にした彼女の姿が目に入った。ネイビーのセーターにグレーのAラインスカートを纏い、周囲をきょろきょろ見回している。僕が軽く手を振ると、笑顔を浮かべて小走りにやってくる。
「ごめんなさい、お待たせしちゃいましたか?」席に着くなり、彼女は軽く頭を下げる。トレーの上には、味噌汁の他は小鉢だけが幾つも並び、折詰弁当さながらだ。通りで時間がかかる訳だ。
「面白いことするね」軽い皮肉を込めてそう言うと、湧井は朗らかな表情で答える。
「いろいろ目移りしちゃって。ほらこれ、タケノコですよ。こっちは菜の花。私、春の味覚が好きなんです。一口食べませんか?」
僕が遠慮すると微かに残念そうな表情を浮かべた後、「あっ、豚骨ラーメン!美味しそうですね。」
「学食のラーメンは日替わりなんだよ。火曜日は豚骨が多いかな。」僕が説明すると、「今度挑戦してみますね。」と白い歯を覗かせる。
温泉の話をするときの、何かに駆り立てられるような一意専心ぶりはなりを潜めている。素の彼女は、大らかな性格なのだろう。
「高校時代の湧井さんってどんな感じだったの?」
僕が尋ねると、彼女はきょとんとした表情で、
「つい最近の話ですから、今と大して変わりませんよ。」
「じゃあ、……温泉と火山の研究に孤独な情熱を燃やしていたんだ。」僕がそう言うと、湧井は質問の趣旨を察したようだ。
「普通にクラスに溶け込んで、友達と楽しく過ごしましたよ。――あっ、信用してませんね?」
苦笑する僕を見て、スカートのポケットからスマホを取り出す。
「この写真は卒業式後に有志が集まった打ち上げ、こっちは皆でテーマパークに行ったとき。夕方の教室で特に意味なく撮ったものもありますね……。」
多くの写真で彼女は古風なジャンパースカートの制服を身につけ、屈託なく笑っている。
僕は思わず首を捻る。「じゃあ、その二面性はどこから来るの?」
湧井は少し考えるように視線を宙に泳がせ、箸を置いた。
「二面性、と言われるとちょっと辛いですが……誰しも他人には伏せておきたい部分があると思います。」
「今は随分あからさまな気もするけど……」
「大学へ入って初めて出来ることがありますから。」一瞬だけ、彼女の声の調子が変わる。「山崎さんにフィールドワークへ連れて行って頂くのも、その一つです。それから、……残された時間が少なくて、気持ちに余裕がなくなっているのかも。」
――何のための時間?
僕は、その言葉の続きを待った。だが、彼女はそれ以上答えない。代わりに、湯気の立つ味噌汁の椀を両手で包み込み、少しだけ笑った。
「いつか、お話し出来ると思います。」
「分かった、気長に待ってるよ。」僕がそう答えると、彼女はそっと視線を落とし、小さな声で感謝を口にした。
学食を出て湧井と別れ、僕は再び図書館に戻った。
いったん温泉のことは脇に置き、彼女が強調していた「火山活動の再開」について考えを巡らせる。
飯森山は、活火山が列をなすいわゆる「火山フロント」に位置している。その地下深く――およそ深度100キロ前後――では、南海トラフにおいてユーラシアプレートの下へ沈み込んだフィリピン海プレートが、高温・高圧の環境にさらされている。
沈み込むプレートからは、水や二酸化炭素、硫黄成分などを含む「超臨界流体」が放出され、それらが上部マントルへ供給される。結果としてマントルの融点が下がり、フラックス融解が誘発される。こうして生成されたマグマが、火山活動の源となる。
乱暴に言えば――地の奥底の過酷な条件下で、マグマが常時供給されている、ということだ。
――場所柄を考えれば、飯森山が再び活動的になる可能性自体は、決して突飛な話ではない。
だが、火山活動が活発化すれば、
①通常はマグマ由来の硫黄成分の供給が増える。
②またその一部が化学的プロセスを経て硫酸が生成されるから、泉水は酸性化し、pHは低下する。
③熱供給が増えれば、湯温だって上がるだろう。
しかし、観測されている現実は、そのどれとも正反対だ。
――硫黄や硫酸を多く含むはずの深部熱水は、どこへ消えた?
しばらく考えた末、僕は思考を脇へ追いやった。椅子にもたれ、背中を反らして肩と首を大きく回す。凝り固まっていた筋肉が、じわりとほどけていく感覚を味わう。
「……まあ、湧井が分かっているなら、当面はそれでいいか。」
スマホを取り出し、彼女へメッセージを送った。
「そっちの進捗はどう?明日の打合せは出来そう?」
図書館を出ると、東南東の空に明るい月が昇っている。閉店間際のスーパーへすべり込み、3割引きの弁当を確保した。アパートで侘しい夕食を済ませ、シャワーを浴びても湧井からの返信は無い。「既読無視かよ。」僕は呟きながらスマホをベッドの上に放り投げ、鞄から図書館でコピーした論文の束を引っ張り出す。結局、日付が変わっても彼女はノーリアクションだった。
夜明け前、枕元の微かな着信音に気づき、体を起こす。まだ眠りが浅かったようだ。スクリーンが放つ人工的な光を手掛かりに、スマホを拾い上げる。湧井からの返信だ。
「第1回のフィールドワーク、調査項目の絞り込みが終わりました。明日の事前打合せ、宜しくお願いします」
僕は早速メッセージを送った。
「遅くまでお疲れさま。『今日』の打合せ、午前早くが良い?それとも一眠りして午後にする?」
すぐに回答が来る。
「朝早くに起こしてしまってごめんなさい。少し寝たいので午後1時はいかがでしょうか」
少し考えてから文字を打つ。
「了解。僕もこれから寝るところだった。じゃあ、午後1時に大学のカフェテリアで」
