――理事会との激闘は終わり、その後は一転して和やかな会食となった。
そして今、僕らは再び新源泉を訪れている。
暴力的なまでの咆哮は、嘘のように鎮まっている。九月末のガレ場は、もう「人を拒む」つもりはないようだった。
かつて白く焼け、骨のように立ち尽くしていた低木の周囲には、新しい芽が点々と顔を出している。完全な再生にはほど遠いが、死の匂いは消え、山は静かに呼吸していた。斜面を撫でる風は冷たく、遠くの稜線には、わずかに色づいた木々が秋の輪郭を描いている。
「……はあ、極楽。」
湧井が、湯の中から言った。声はいつもより少し柔らかく、肩の力を抜いて岩に身を預けている。ガレ場の窪地に溜まった新源泉の湯。六月、彼女が半ば衝動的に「入浴」した、あの天然の湯舟だ。今は縁も広がり、透明な湯が静かに満ちている。僕らは水着姿で、並んで肩まで浸かっていた。
「……本当に、落ち着きましたね。」
湧井は両腕を上げて大きく伸びをした。その拍子に、湯面が揺れて、彼女の腕が僕の肩に触れる。濡れて透き通った白い肌が夕日に輝き、熱を持った素肌の感触が、温泉の温かさとは別に、はっきりと伝わってくる。
「ガス濃度も問題なし。風向きも安定。今日は完璧な“観光日和”だね。」
僕が言うと、
「学会発表みたいな言い方しないでください。」
湧井が悪戯ぽく笑い、わざと近くからお湯をパシャリと僕にかけた。僕が仕返しをすると、彼女は楽しそうに笑いながら、濡れて顔に張り付いた前髪を指先でかき上げる。
湯温は相変わらず高めだが、九月の空気がちょうどいい。肌を包む熱と、頬を撫でる冷気。その境界が心地よい。
「……とにかく、一段落ですね。」
彼女が湯面を指でなぞりながら言った。
「今が、ハッピーエンドで終わったら――って言ってた、あの約束を果たす時、ですよね。」
来たな、と思った。僕が頷くと、湧井は少しだけ姿勢を正した。湯の中でそっと膝が触れる。彼女の顔に浮かぶのは、理学学生の表情ではなく、温泉街に育った一人の人間のそれだ。
「私、何年も前に……重い病気になっちゃって。」
語り口は淡々としていた。
「治療のために、家族で東京に移りました。私を大病院に入院させるため、父は会社員になり、母はパートに出て。……旅館は、治療費に変わりました。」
秋の風が、水面にさざ波を立てる。
「両親にとって、慣れない都会での生活は、きつかった筈です。狭い部屋、満員電車、病院と仕事の往復。」
湧井は、少し困ったように笑った。
「全部、私のせいだって思ってました。私が病気にならなければ、両親は、あの街で、あの湯気の中で、生きていられたのにって。」
沈黙が落ちる前に、彼女は続けた。
「だからせめて、温泉街だけは守りたかった。……父と母の人生を捻じ曲げた私にできる、唯一の償い。そう思っていたんです。最後は呪いみたいになってたかもしれない。」
ちらりと、こちらを見る。
「山崎さんがいてくれたから、できました。救われたんです、ほんとに。」
「……それ、感謝されるとこ?」
僕は肩まで沈みながら言った。
「半分以上、君が引っ張ってたよ。」
「半分は、です。」
湧井はきっぱり言い切る。そのあと、少しだけ視線を逸らし、湯の中で足先を揺らした。
「残り半分は、絶対山崎さん。」
一拍置いて、彼女が首を傾げた。
「……で、次は私の番ですよね?」
「うん。――どうして、あんなに受動的だったのか、だよね?」
僕は湯の中で足を伸ばし、思わず天を仰いだ。空は高く、澄み渡っていた。
「……長くなるけど?」
「新源泉は長湯に最適なんです。」
確かに。
「……僕の両親、教育熱心なんてレベルじゃなかったんだ。ピアノにサッカー、塾のハシゴ。」
「忙しそう。」
「というか、息苦しかった。彼らが見ていたのは僕じゃなくて、『自分たちが欲しかった理想の息子』っていうホログラムだった。」
湧井が、真剣な顔で聞いている。
「で、初めて反抗したのが、一番期待されてた中学受験。」
僕は苦笑した。
「白紙回答。見事に落第。」
「……大胆ですね。」
「結果はもっと大胆だったよ。母はヒステリー、父は母を責めて。あっという間に、理想の家庭は崩壊。」
湯面に、ぽこりと泡が弾ける。
「それ以来、学んだんだ。“自分を抑えていれば、世界は静かだ”って。」
僕は湧井を見る。
「でも、君が全部背負って立ってるのを見て……それじゃ駄目だって思った。山だって、黙って衰えるより、噴き出した方がいい時がある。」
「山崎さんが自分を山に例えるの、初めて聞きました。」
湧井はくすくすと笑いながら、ごく自然に僕の腕に肘を乗せ、自分の顎をちょこんと乗せた。 彼女の髪から滴るお湯が、僕の腕を温かく伝っていく。
「私たち、ぱっと見は対照的かもしれない。一方は背負いすぎ、一方は逃げすぎ。でも、きっと根は似ている。どちらも、ずっと自分を固めたまま、圧を逃がせずにいた。……マントルの熱水でも浴びないと、その殻を破れなかったのかも。」
彼女の吐息が、湯気の中に溶けた。
二人の視線の先で、新源泉が力強く湧き上がる。かつての禍々しさは影を潜め、脈動する透明な湯は、確かな熱を伝えてくる。
それは、旧源泉を殺した存在でも、街を救う奇跡でもない。ただ、旧源泉の窮地に応えて、分厚い岩盤を貫き、共に“今”を生きようとしている。
秋の気配が、山を静かに包み込んでいた。遠くで鳥の声が響き、ガレ場を抜ける風が心地よい。
不完全な僕らと、不完全な二つの源泉。けれど、それらが混ざり合った瞬間にだけ生まれる「本当の体温」が、きっと、この先にある。
その温もりは、遠く困難な道のりを乗り越えるエネルギーになるだろう。
僕はそのことを確信し、隣に寄り添う彼女の、少しだけ速い鼓動を感じていた。
【了】
そして今、僕らは再び新源泉を訪れている。
暴力的なまでの咆哮は、嘘のように鎮まっている。九月末のガレ場は、もう「人を拒む」つもりはないようだった。
かつて白く焼け、骨のように立ち尽くしていた低木の周囲には、新しい芽が点々と顔を出している。完全な再生にはほど遠いが、死の匂いは消え、山は静かに呼吸していた。斜面を撫でる風は冷たく、遠くの稜線には、わずかに色づいた木々が秋の輪郭を描いている。
「……はあ、極楽。」
湧井が、湯の中から言った。声はいつもより少し柔らかく、肩の力を抜いて岩に身を預けている。ガレ場の窪地に溜まった新源泉の湯。六月、彼女が半ば衝動的に「入浴」した、あの天然の湯舟だ。今は縁も広がり、透明な湯が静かに満ちている。僕らは水着姿で、並んで肩まで浸かっていた。
「……本当に、落ち着きましたね。」
湧井は両腕を上げて大きく伸びをした。その拍子に、湯面が揺れて、彼女の腕が僕の肩に触れる。濡れて透き通った白い肌が夕日に輝き、熱を持った素肌の感触が、温泉の温かさとは別に、はっきりと伝わってくる。
「ガス濃度も問題なし。風向きも安定。今日は完璧な“観光日和”だね。」
僕が言うと、
「学会発表みたいな言い方しないでください。」
湧井が悪戯ぽく笑い、わざと近くからお湯をパシャリと僕にかけた。僕が仕返しをすると、彼女は楽しそうに笑いながら、濡れて顔に張り付いた前髪を指先でかき上げる。
湯温は相変わらず高めだが、九月の空気がちょうどいい。肌を包む熱と、頬を撫でる冷気。その境界が心地よい。
「……とにかく、一段落ですね。」
彼女が湯面を指でなぞりながら言った。
「今が、ハッピーエンドで終わったら――って言ってた、あの約束を果たす時、ですよね。」
来たな、と思った。僕が頷くと、湧井は少しだけ姿勢を正した。湯の中でそっと膝が触れる。彼女の顔に浮かぶのは、理学学生の表情ではなく、温泉街に育った一人の人間のそれだ。
「私、何年も前に……重い病気になっちゃって。」
語り口は淡々としていた。
「治療のために、家族で東京に移りました。私を大病院に入院させるため、父は会社員になり、母はパートに出て。……旅館は、治療費に変わりました。」
秋の風が、水面にさざ波を立てる。
「両親にとって、慣れない都会での生活は、きつかった筈です。狭い部屋、満員電車、病院と仕事の往復。」
湧井は、少し困ったように笑った。
「全部、私のせいだって思ってました。私が病気にならなければ、両親は、あの街で、あの湯気の中で、生きていられたのにって。」
沈黙が落ちる前に、彼女は続けた。
「だからせめて、温泉街だけは守りたかった。……父と母の人生を捻じ曲げた私にできる、唯一の償い。そう思っていたんです。最後は呪いみたいになってたかもしれない。」
ちらりと、こちらを見る。
「山崎さんがいてくれたから、できました。救われたんです、ほんとに。」
「……それ、感謝されるとこ?」
僕は肩まで沈みながら言った。
「半分以上、君が引っ張ってたよ。」
「半分は、です。」
湧井はきっぱり言い切る。そのあと、少しだけ視線を逸らし、湯の中で足先を揺らした。
「残り半分は、絶対山崎さん。」
一拍置いて、彼女が首を傾げた。
「……で、次は私の番ですよね?」
「うん。――どうして、あんなに受動的だったのか、だよね?」
僕は湯の中で足を伸ばし、思わず天を仰いだ。空は高く、澄み渡っていた。
「……長くなるけど?」
「新源泉は長湯に最適なんです。」
確かに。
「……僕の両親、教育熱心なんてレベルじゃなかったんだ。ピアノにサッカー、塾のハシゴ。」
「忙しそう。」
「というか、息苦しかった。彼らが見ていたのは僕じゃなくて、『自分たちが欲しかった理想の息子』っていうホログラムだった。」
湧井が、真剣な顔で聞いている。
「で、初めて反抗したのが、一番期待されてた中学受験。」
僕は苦笑した。
「白紙回答。見事に落第。」
「……大胆ですね。」
「結果はもっと大胆だったよ。母はヒステリー、父は母を責めて。あっという間に、理想の家庭は崩壊。」
湯面に、ぽこりと泡が弾ける。
「それ以来、学んだんだ。“自分を抑えていれば、世界は静かだ”って。」
僕は湧井を見る。
「でも、君が全部背負って立ってるのを見て……それじゃ駄目だって思った。山だって、黙って衰えるより、噴き出した方がいい時がある。」
「山崎さんが自分を山に例えるの、初めて聞きました。」
湧井はくすくすと笑いながら、ごく自然に僕の腕に肘を乗せ、自分の顎をちょこんと乗せた。 彼女の髪から滴るお湯が、僕の腕を温かく伝っていく。
「私たち、ぱっと見は対照的かもしれない。一方は背負いすぎ、一方は逃げすぎ。でも、きっと根は似ている。どちらも、ずっと自分を固めたまま、圧を逃がせずにいた。……マントルの熱水でも浴びないと、その殻を破れなかったのかも。」
彼女の吐息が、湯気の中に溶けた。
二人の視線の先で、新源泉が力強く湧き上がる。かつての禍々しさは影を潜め、脈動する透明な湯は、確かな熱を伝えてくる。
それは、旧源泉を殺した存在でも、街を救う奇跡でもない。ただ、旧源泉の窮地に応えて、分厚い岩盤を貫き、共に“今”を生きようとしている。
秋の気配が、山を静かに包み込んでいた。遠くで鳥の声が響き、ガレ場を抜ける風が心地よい。
不完全な僕らと、不完全な二つの源泉。けれど、それらが混ざり合った瞬間にだけ生まれる「本当の体温」が、きっと、この先にある。
その温もりは、遠く困難な道のりを乗り越えるエネルギーになるだろう。
僕はそのことを確信し、隣に寄り添う彼女の、少しだけ速い鼓動を感じていた。
【了】
