フヴェルゲルミルの黄昏 ―天然理系女子と温泉調査―

――9月末の或る日。
僕と湧井は泉教授と岩淵さん、寒川さんに伴われて飯森山温泉組合の事務所を訪れた。

年内に予定されるボーリング調査の一時中止を提案するためだ。抜けるような青空に、午前中の澄んだ光が宿っている。
……愈々最終決戦だ。僕は一呼吸置くと湧井と視線を交わす。それから、古ぼけた事務所のドアをノックした。

理事会室に案内される。使い古された応接セットが並ぶその部屋は、重苦しい空気が停滞していた。
長机の向こう側に、理事が六人。中央に理事長、その右隣に副理事長。いずれも長年この町の温泉を見てきた顔だ。
対するこちら側は五人。泉教授を中央に、湧井と僕、院生の岩淵さんと寒川さんが並ぶ。
――視線が、痛い。
ボーリング調査の一時中止。その一言だけで、大学側はすでに「邪魔者」扱いされている。誰もそれを口には出さないが、山の興亡を背負う男たちの表情が雄弁に語っていた。

「……まず、現状の分析結果からご説明します。」
僕が立ち上がり、プロジェクターのスイッチを入れる。映し出されたのは、飯森山の地下構造を示す地質断面図だ。
「まず、旧源泉で起きている変化についてです。湯温低下と成分の希釈。これは、山が冷えたからではありません。むしろ逆です。」
数名の理事が、疑わしげな表情で眉を寄せる。

「結論から言えば、原因は沈み込みプレートに伴う地下の応力変化にあります。マントルで生成されるマグマが一部流路を変えて上昇し、飯森山の地下に流入しました。そして、全ての事象の引き金となった。」
理事長は腕を組みながら聞いている。副理事長はメモを取るでもなく、ただこちらを見ている。
「このマグマによって旧源泉は炙られ、その熱でシリカなどの成分が湯に溶け込みました。しかし、地下から湧き出る途中で湯が冷え、圧力も下がると、それらは再び結晶に戻る。そして、温泉の通り道――岩盤の割れ目を内側から塞いでしまったのです。結果、浅層の地下水が取り残され、湧出量は減りつつ、温度が下がり、成分も薄まった。」

「マントルがどうの、プレートがどうのは、正直どうでもいい。」
理事の一人がぼそりと呟く。
「大事なのは、どうやって山を元気にするかだ。」
場の空気がさらに固くなる。別の理事がとりなすように声を上げる。
「学生さん、あんたの説明では、熱いお湯も、硫黄も、山の深いところに閉じ込められている。こう聞こえるんだが、合ってるかな?」
当然想定される質問だった。慎重に答える。
「飯森山の地下は、熱を失ったわけではありません。むしろ、全体としては“回復”しています。」

理事たちの間に、さざ波のような私語が広がる。
「回復、だと?」
「じゃあ――」
「掘れば、また熱い湯が出るんじゃないか?」
「そうだよ。パイプが詰まったなら、新しいパイプを通せばいい。ボーリングの必要性が証明されたようなもんだ。」
副理事長が、確信を得た表情で理事長へ目配せする。
――来ると思った。
ここで反論すれば、説明は止まる。「それほど単純ではない」と言いたい気持ちを、僕は飲み込んだ。ここで正論をぶつけても、彼らの「掘れば解決する」という信仰は崩せない。
「……その可能性については、後ほど触れます。」
そう言って、いったん受け流す。まずは、今日の議題を前に進めなければならない。

「次に、新源泉の活用について説明します。」
湧井が凛とした声で、僕と交代した。彼女は自分なりに新源泉と折り合いをつけようと、敢えてこの役を引き受けたのだ。手にした資料の角は、何度も読み返したせいか、少し擦り切れている。一瞬、理事たちの視線が彼女に集まる。彼女は小さく息を吸い、はっきりと前を見据えた。
「新源泉は、旧源泉とは別の経路で、地下深部から直接立ち上がった熱水です。岩石に染み込んでいた太古の海水を起源とし、希少な有効成分を含みます。突然現れたように見えますが、地下では長い時間をかけて準備されていました。」

「その“突然”が信用できないんだよ。」
理事の一人が言う。
「山の斜面で木が枯れただろう。あんなもの、毒があるに決まってる。」
「気味が悪い。」
「いつ消えてもおかしくない。」
言葉が、次々に投げつけられる。湧井は、逃げなかった。
「樹木が枯れた原因は、高温の湯気と二酸化炭素、局所的な土壌変化です。人体への毒性試験は、大学の精密分析装置――ICP-MSを使って行いました。重金属や有害ガスは、検出されていません。」
「本当か?」
「はい。ヒ素や水銀といった有害物質は不検出です。」

副理事長が眉をひそめる。
「だが、あの温泉は、急に出てきたんだろう。急に消える可能性は?」
「ゼロではありません。」
湧井は正直に言った。
「しかし、湧出量は安定しています。温度も、成分も、です。地下深くからの強いエネルギーに支えられているためです。そして、7月半ばの急激な変化以降、新源泉を支える圧力は一層強固となりました。」
別方向から声が飛ぶ。
「太古の海水なんて、得体が知れないもの、生理的に受け付けんよ。」
「お気持ちは分かります。ただ、日本の有名な温泉地――例えば有馬や十津川にも、同じ起源を持つお湯は実在します。それは汚れではなく、地球が何万年もかけて濾過した『結晶』です。」
彼女は一歩も引かず、一つ一つの怒声に対して、誠実すぎるほどの科学的データを差し出していく。理事長が、低い声で尋ねた。
「で、大学としては、その新しい湯をどうしろと言うんだ?」
湧井は一瞬、僕の方を見た。それから、再び理事会を見据える。
「旧源泉と、新源泉を――地上で混合するのが、現時点で最も合理的だと考えています」

ざわっ、と空気が揺れた。
「混ぜる?」
「そんなことして、大丈夫なのか?」
「前例はあるのか?」
再び、疑問と不安が沸騰する。湧井は一つひとつ、丁寧に答えていく。
「温度、成分、pH。三つの点で、両者は互いの弱点を補えます。新源泉は熱量と一部の成分に優れ、旧源泉は硫黄を含む“飯森らしさ”を持っている」
彼女の声は、震えていない。その毅然とした態度に、腕を組み、ふんぞり返っていた理事たちの姿勢が、ほんの少しだけ前のめりに変わった。
理事長が、ゆっくりと顎を引いて頷く。

「……具体案をお持ちなら、聞かせて頂けますかな。ただし、机上の空論でないことを祈りますが。」