フヴェルゲルミルの黄昏 ―天然理系女子と温泉調査―

――理学部棟の解析室。

精密分析装置ICP-MSが吐き出した最終レポートを手に、寒川さんが戻って来た。足取りは重く、表情はいつになく冴えない。
「……9月の全データが出たわよ。厳しいわね。」
机に置かれたのは、新旧源泉の採水分析結果だ。そこには、残酷な現実が並んでいた。

まずは旧源泉。データを目で追うごとに、胸の奥が冷えていく。かつての名湯の面影はどこにもなかった。
pH、塩化物、硫酸。どれも、もう主張しない数字だ。
「……ひどいな。硫黄こそ11.8mg/Lで踏みとどまっているけど、主要なイオンと塩類は、ずいぶん薄まってる。ナトリウムも、カルシウムも……ほとんど無いな。」
湧井が、僕の肩へ無意識に片手の掌を添え、ノートを覗き込んできた。その直後、触れていることを意識したのか、指先がわずかに強張る。だが、離れなかった。
「ええ。ミネラルとしての厚みは、正直かなり痩せてます。」
「メタケイ酸は79mg/L……。これはどうなの?保湿や角質除去の効能があるんだっけ?」
「はい。ただ、『美肌の湯』を喧伝するには100 mg/L欲しいです。」
「つまり旧源泉の現状は、『硫黄の匂いがして、幾らか美肌効果のある、ぬるい地下水』だ。」

彼女は、小さなため息を漏らす。
「硫黄は残ったけど、かつての“押し出し”はありません。」
寒川さんが補足する。
「浸透圧も低い、典型的な低張性ね。おそらく、湯あたりは相当軽いはず。身体に残らないわ。」
「つまり旧源泉は――」
「効かないわけじゃないけど、お金と時間をかけて入浴に訪れる価値はないです。」
湧井の言葉は容赦がないが、正確だった。

「新源泉も、単体では決定打に欠けますね。」
湧井が隣で、もう一枚のレポートを指差した。
「メタケイ酸は180。ここは『美肌の湯』として推せるのですが…。」
「他には?」
「リチウム、メタホウ酸、ストロンチウムが出てはいます。」
「それぞれどんな効能なの?」
彼女の口調はどこか単調だ。
「リチウムは鎮静やリラックス、メタホウ酸は殺菌、ストロンチウムは神経系の安定です。どれも素材としては良いけれど、全体的に中途半端なんです。」

彼女は大げさにため息をつく。
「新源泉、あれほどイキってた割に、大したことないですね。」
寒川さんが肩をすくめる。
「悪くはないお湯だと思うわ。でも、効果がバラけて、器用貧乏。おまけに、硫黄がほぼゼロなこともあって、香りも色もない。」
「なるほど、パンチが足りませんね。」
僕は椅子にもたれた。
――旧源泉は、成分が足りない。
――新源泉は、個性が足りない。

寒川さんがぽつりと言う。
「旧源泉は、アイデンティティの硫黄を残せたけれど、低体温すぎて加温にかかる燃費で赤字でしょうね。逆に新源泉は、このままだとpHが中性すぎて個性が死んでいる。正直、今のバラバラなデータじゃ、ボーリングで旧源泉の『もっと深いところ』を掘り直そうとする組合の勢いは止められないわね」

解析室に、重苦しい沈黙が流れた。
ふと、僕は旧源泉の推移表の一点に目が留まった。
「……ねえ、湧井さん。一点だけ不思議なところがある。全硫黄は全盛期の15%程度まで激減したのに、メタケイ酸だけは79mg/Lでしぶとく残ってる。これって、おかしくない?」
彼女は僕の問いに、瞬きもせず答えた。
「ケイ酸はどれだけ速く流れるかに支配されます。深部からの熱水供給が減っても、流路が細くなって滞留時間が長くなったから、岩盤から成分を溶かし込む時間が増えた。……彼女、ボロボロになりながらも、地下で必死に岩石から成分を掻き集めて、その79という数字を守り抜いたのです。」

その言葉を聞いた瞬間、脳内で何かが火花を散らした。旧源泉は「死」を受け入れたのではなく、生き残るために「芯」を研ぎ澄ませていたんだ。
「……湧井さん。次に進もう。いよいよ混合シミュレーションだ。」
「ええ、もちろん。」
彼女の瞳に、再び鋭い知性の光が宿った。
「個別でダメなら、単純に混ぜてもお互いの長所が薄まるだけで、解決になりません。旧源泉が死守した硫黄のアイデンティティと、新源泉が持つマントルの熱量。これらをぶつけ合って、化学反応の限界を引き出す。……黄金比を導き出しましょう。」

――不完全な二つを、どう組み合わせるか。ここからが、本当の勝負だ。

「…となるとだ。」僕はため息をつく。「新源泉にもう一度行かないとダメだな。」
湧井も力なく笑う。「……『新常態』の下での、湧出量の絶対値を把握するために、ですね。」

旧源泉の湧出量は、自動測定器の相対値を実測補正し、既に絶対量への変換を終えている。5月から8月にかけて、旧源泉の湧出量は5%以上低下した。約750ℓ/分あった湧出量は、現在は約710ℓ/分程度へ落ち込んでいる筈だ。
一方、新源泉は同期間に40%上昇しているが……絶対量が分からない。現在の新源泉の湧出量が30ℓ/分なのか、はたまた300ℓ/分なのか分からなければ、新旧源泉を混合する「黄金比」を突き止めたところで机上の空論だ。

2日後。僕とAは重たい200ℓタンクを背負い、喘ぎながらガレ場を超え、新源泉に向かった。6月に湧井が「入浴」したあの窪みの湯溜まり。そこから溢れ出す熱水を、即席のサイフォンで慎重にタンクへと導く。ゴボゴボという音と共に、マントル直結の熱水がタンクを満たしていく。
「……満タン。ちょうど80秒です。」
彼女がストップウォッチを止め、荒い息を整えながら告げた。これを五回。数値のバラツキは最小限だ。
「新源泉の湧出量、約150 ℓ/分。地下深くから絞り出されたにしては、なかなかの勢いですね。」

二日間のロスと引き換えに、僕たちは飯森山の「最新の血流量」を掴み取った。新源泉 150 L/分。旧源泉 710 L/分。比率は約 1:4.7。
「……湧井さん。もしシミュレーション上の『黄金比』がこれより新源泉側に寄ったら、新源泉が足りなくなる。逆に旧源泉側に寄ったら、新源泉を捨てることになる。」
「はい。この 『1:4.7』という制約の中での、最大幸福 を探す。それが私たちの最後の計算になりますね。」