フヴェルゲルミルの黄昏 ―天然理系女子と温泉調査―

――前途に希望を見出し、束の間の休息を楽しんでいたある昼下がり。
嵐の前の静けさを破る一通のメッセージが僕のスマホを震わせた。

件名:【至急】お風呂の準備お願いします(41℃)
「すごい入浴剤ができた!有馬の『金泉』を理論限界まで再現しました!過労でボロボロになった山崎さんの自律神経を、科学の力で癒します!」

……嫌な予感しかしない。でも、断る隙を与えず湧井は僕のアパートにやってきた。

ピンポーン、チャイムが鳴り、ノックの音が響く。
「こんにちは。早かったですか?」
「……早いというか、怖い。」
ドアを開けると、そこには白衣の湧井が、ジップロックに詰められた「泥水のような色の液体」を掲げて立っていた。肩には大きめのトートバックを下げている。
「……湧井さん。それ、一歩間違えたら不審物だよ。」
僕は敢えて「不審者」という言葉は使わなかった。
「失礼な事言わないで下さい。これは緻密な計算と正確な混合作業の結晶です。……折角なんだから、夏休みらしいことしたいじゃないですか。早速ですけど、お風呂、お借りしますね。」

僕は苦笑しながら湧井をユニットバスへ案内する。彼女は換気扇を回すと、手際よく白衣を脱ぎ、タオル掛けに下げる。その下は、薄手のノースリーブのカットソーだった。鎖骨に添ってじわりと汗が浮き、デコルテの健康的な瑞々しさを強調している。
「今からここに有馬の湯を召喚します。ベースは市販の入浴剤、『有馬の湯』。」
湧井は真顔で言う。
「何が優秀かというと、色が似ているんですね。」
「……研究者の褒め方って、そこから始まるんだ。」
「そして、有馬の本質は『濃い塩分』と『圧倒的な鉄分』なんです!特徴がはっきりしているから、再現しやすい…という訳で、足りない溶存物質、私が全部足しておきますね。」

彼女はトートバッグから、ずっしりと重いポリ袋を取り出した。
「まず、Cl(塩素イオン)を稼ぐために塩化ナトリウム。これで塩分濃度を高めます。……本物の金泉には及びませんが。」
バサバサと豪快に塩が投入される。家庭用の浴槽には明らかに過剰な量だ。
「次に、メインディッシュの鉄分です。」
湧井は一瞬だけ試験紙を湯に浸し、満足そうに頷いた。次いでジップロックに入った赤褐色の液体――硫酸第一鉄の濃縮溶液を少しずつ注ぎ込む。無色透明だった湯が、徐々に禍々しいほどに濃い赤茶色に染め上げられていく。
「見てください山崎さん。このチンダル現象に近い色の広がり……美しくないですか?」
「……芸術的というよりは、事件現場に見えるけど」

「仕上げに、酸化を防ぐアスコルビン酸と……これ。中和用の重曹です。」
重曹を振り入れた瞬間、お湯の表面がジュワァァァ……!と激しく沸き立った。
「……何が起きてるの?」
「鉄イオンと炭酸水素イオンの反応、それに急激な溶解熱ですね。およそ入浴剤らしからぬ重低音ですが、モル計算は完璧です。理学部生としての知見を総動員しました。」
「研究室の試薬まで使って何してるの……。」
作業を終えた彼女が立ち上がり、額の汗を手の甲で拭った。上気した頬と、湿気でわずかに肌に張り付いたカットソーが、計算外の「艶やかさ」を滲ませる。

湯船には、スマホで調べた有馬の金泉によく似た、しかしどこか禍々しいほどにギラついた赤褐色の湯が湛えられている。
「有馬っぽい。完璧じゃないけど」
「完璧じゃないのが大事なんです。だって本当は“再現”じゃなくて“近似”だから。」
湧井は楽しそうに言う。

「……これ、浴槽のパッキン死なない? あと僕の肌も」
「大丈夫です、浸透圧の計算も抜かりありません!山崎さん、この数か月の調査で肩も腰もバキバキでしょ?さあ、入ってみて下さい!夏休みの余興と、個人的趣味も兼ねてます。」
彼女の瞳には、実験を成功させた子供のような純粋な光が宿っている。
「三つ目が一番強そうだな。」

結局、押し切られる形で僕は入浴した。……悔しいことに、湯ざわりは最高だった。尋常じゃない塩分濃度が体を浮き上がらせ、一瞬で芯から熱くなる。鉄の匂いが鼻を突き、まるで本物の有馬の湯に浸かっているような錯覚に陥る。

「どう? 山崎さん。」 脱衣所の向こうから、湧井がワクワクした声で問いかけてくる。
「……すごいよ。これ、本物の温泉みたいだ。数か月分の疲れ、全部忘れられそう……。」
「でしょ!でも、原価計算したら一回分で五千円超えました…。あと、試薬の在庫管理表に『温泉研究用』って書いたら教授に怒られるから、内密にお願いします!」

湯船に浸かりながら、僕は思った。彼女は、僕を「ねぎらう」ために、わざわざ研究室で有馬温泉の成分表を引っ張り出し、塩分濃度を計算し、重い試薬を抱えてやってきた。本人は「夏休みの余興です」なんて笑っているけれど。

「……湧井さん、ありがとう。」
「いいんです。山崎さん…9月の分析結果が出たら、次はいよいよ……」
「はいはい、今日は温泉だけ。混合比の話は禁止だよ。」
「……ですよね!そうだ、山崎さん、上がる時に湯船のお湯流さないで下さい。次は私が入りたいので。」
「……え? あ、……マジ?」
一瞬、思考がフリーズした。一人暮らしの狭いユニットバスで、その申し出はさすがに刺激が強すぎる。

「当然です。自分で試さないと評価できませんから。あと、冷えたビールの準備お願いします。」
「……わかった。キンキンにしておくよ。」
彼女にとっては、これも「実証実験」の一環なのだろう。そう自分に言い聞かせながら、僕は濃い赤茶色のお湯に深く体を沈めた。

――湯けむりの中で、僕たちは数日後に迫る「真実」の到着を、今だけは楽しげな冗談とともに忘れていた。