翌日、僕は全ての講義をすっ飛ばし、朝から図書館に籠っていた。
湧井へ協力する以上、知見の格差を少しでも縮める必要がある。さもなくば、いつまでも下請けの立場に甘んじざるを得ない。なにより、一晩を経てみると、妙な温泉少女が持ち込んだ珍案件は、それなりに魅力的であるように思えたのだ。
図書館の3階、電動書架が並ぶ薄暗い一角に、僕の特等席がある。古ぼけた机と椅子が無造作に置かれたその空間は、常に人気が無く、古い書籍の甘い香りが漂っている。一人きりで思索に耽るには最適な環境だ。
温泉地質学や水地質学の書籍を乱雑に積み上げ、片っ端から飛ばし読みしていく。なるほど、温泉というものは、場合によっては敏感にその性質を変えるようだ。泉水は、地中から様々な成分と熱エネルギーを受け取っている。従って、地震や火山活動、長期的な地殻変動の影響で水の流路が変われば、成分濃度や温度は劇的に変化し得るし、実例も報告されている。或いは、降水量や河川の水量が変化すれば、これも泉水の質を左右する。
――「地」と「水」、この二大要素が温泉の性質を決定づける、と僕は考えることにした。
その場合、真っ先に思いつくのは「水」の変化だ。飯森山温泉では、全硫黄や主要イオン等の濃度が一律に7割も減少した。これは、真水に近い浅層の地下水が増加して、様々な成分と熱量を供給する深部熱水を希釈した可能性を示しているのではないか。
ただ、㏗が3から4.36へ大きく変化したことと整合するだろうか?とにかく試算してみる。
「……ダメだ。」
硫黄や主要イオンの濃度を7割減らすには、当然湧出量も約3倍強になる。これは湯温が45度から21.5度まで下がった事実と一致する。一方で、その程度の水量の増加では㏗が4を超えることは無さそうだ。
つまり、火山の地下から深部熱水を供給するメカニズムに変化があったと考える方が自然だ。何より、計算上は湧出量が急増するのが気に懸かる。そんな話は、湧井の説明には無かった筈だ。
では、「地」の要素はどうだろう。昨日、僕自身が指摘したが、火山の衰えと共にマグマの熱量が減少して、様々な成分や熱量の供給も落ち込んだ、というシナリオだ。
火山性の深部熱水が温度・供給量ともに低下したと考えると…
「おっ、行けそうじゃないか?」
この場合の試算では、主要成分の濃度、湯温の変化は整合性を保つことができる。㏗も、副次的な効果を組み込めば何とかなりそうだ。
湧井が地団駄踏んで悔しがる様子が目に浮かぶ。ふふん、何が「全くの、間違いです!」だ。思わず頬が緩む。
やっぱり、火山が冷えて温泉がただの泉になっただけのことだ。ならば、現地調査など不要だ。どうやら、無為で怠惰な最高のゴールデンウィークを奪還出来そうだ。
――山崎さん、こんな所で何やってるんですか?
耳元で不意に声がした。驚いて顔を上げると、当の湧井が身を乗り出し、僕の手元を覗き込んでいる。彼女の顔は僕の右肩のすぐ上にある。古書の匂いとは異質な甘い香りが鼻腔をくすぐる。
「湧井さん、ちょっと近くない?」
だが彼女は答えない。その視線は机上のシートに記された計算式を猛烈な勢いで追っている。
「山崎さん……凄いですね……たった半日でここまで辿り着くなんて……」
それから積み重なった書籍の山をしげしげと眺め、
「それに、こんなに色々調べて下さるなんて!」
僕は曖昧に頷く。今まさに連休を怠惰に過ごす誘惑に駆られていたところだ、と答える勇気はない。
「湧井さん、結局『火山活動の鎮静化』という僕の当初シナリオで説明付きそうだよ。」
うーん、それはどうでしょう?彼女は人差し指を頬に当てる。
「泉先生には内緒ですよ?」
耳元で囁くと、湧井は一層身を乗り出してペンと紙を手に取り、熱量の計算式を書き込んでいく。この時はじめて、僕は彼女が左利きであることに気が付いた。時折、僕の右ひじに胸が当たる感触が走る。その度に背筋がぞくりとするが、湧井は気にする素振りも見せない。
「山崎さん、見てください。これほどのスケールで深部熱水が供給量と温度を減じたとすると……火山全体の熱量は80パーセント近く失われた可能性が高いです。」
彼女は紙をぐいと僕の方へ押し戻し、計算結果をペン先で指し示す。胸が一層強く押し付けられる。僕の肘の神経は、彼女の下着が比較的固く、その下の柔らかい物体は相応の質量を有することをはっきり伝えていた。

「数千年間目立った活動の無い火山が、微弱ながら熱を保ち続けていたのに、僅か10年で8割を失うなんて、計算上考えづらく、実例も乏しいと思うのです。いかがですか?」
僕は深く頷いた。
「なんというか……本当にありがとう。」
「いえ、良いんです。話を聞いてもらえて嬉しかったです。高校の友達とはあんまりこういう会話はしなかったので…。」
そりゃそうだろう。
「それで、どの位の期間で火山が熱を失っていくかですが……仮に高さ150メートルの巨大な餡まんがあると仮定しますね。」
彼女は巨大な餡まんの絵を紙の上に嬉々として描いている。
「内部の餡を350度に加熱した場合、常温に戻るまで約5000年かかります。このプロセスのいかなる時期においても、10年で熱量の8割を失う可能性は極めて低いです。飯森山の地下における熱量の変動も、似たようなイメージでしょう。」
なるほど、巨大な餡まんが、ねえ……僕は背筋を傾けて湧井と距離をとった。
「はい。でも、山崎さんはゴールの直前にいます。深部熱水の減少により、飯森山温泉で発生した現象は概ね説明できます。あとはその原因です。」
そうか……おおむね説明できるのか……僕が呟く間に、興奮した彼女は一層前のめりになる。
僕は体を引きつつ、麻痺した思考力を総動員して言葉を探す。「例えば、浅層の真水が増えて、深部熱水が減ったとか?」
湧井はムッとした顔をする。
「人の話聞いてました?深部熱水に集中してください。浅層の水をファクターとして過大評価する場合の最大の不整合は、湧水量、つまり温泉の水量が、現実には僅かに減少していることです。昨日の夜、湧水量のデータも送りましたよね?」
僕の体は、コンクリート壁と彼女の肢体によって左右から圧迫を受けている。
「送られたファイルは500以上、合計で10ギガもあったじゃないか!一晩で全部見るなんて不可能だよ!」
正午を告げるチャイムが遠くから微かに響いてくる。僕は軽く息を吐いた。
「湧井さん、昼休みだ。一時休戦にしよう。」
彼女は軽く目を閉じ、額に手を当てる。「ごめんなさい、つい熱くなってしまって……私の悪い癖なんです。」
「気にしないで。おかげで、凄く理解が進んだ。僕は学食へ行くけど、湧井さんも来る?」
「はい、ご一緒させて下さい!」彼女は素直に頷き、いそいそと僕の後をついてくる。
女子校育ちの女性は、一般的には男性とのコミュニケーションが苦手だとイメージされがちだ。しかし一部には、男性を男性として意識しないが故に、却って距離感が近いタイプがいるという。ソースはストリーミングサイトのショート動画だ。顕著な実例を目の当たりにした僕は、ネットの海の深遠さに改めて感銘を受けていた。
湧井へ協力する以上、知見の格差を少しでも縮める必要がある。さもなくば、いつまでも下請けの立場に甘んじざるを得ない。なにより、一晩を経てみると、妙な温泉少女が持ち込んだ珍案件は、それなりに魅力的であるように思えたのだ。
図書館の3階、電動書架が並ぶ薄暗い一角に、僕の特等席がある。古ぼけた机と椅子が無造作に置かれたその空間は、常に人気が無く、古い書籍の甘い香りが漂っている。一人きりで思索に耽るには最適な環境だ。
温泉地質学や水地質学の書籍を乱雑に積み上げ、片っ端から飛ばし読みしていく。なるほど、温泉というものは、場合によっては敏感にその性質を変えるようだ。泉水は、地中から様々な成分と熱エネルギーを受け取っている。従って、地震や火山活動、長期的な地殻変動の影響で水の流路が変われば、成分濃度や温度は劇的に変化し得るし、実例も報告されている。或いは、降水量や河川の水量が変化すれば、これも泉水の質を左右する。
――「地」と「水」、この二大要素が温泉の性質を決定づける、と僕は考えることにした。
その場合、真っ先に思いつくのは「水」の変化だ。飯森山温泉では、全硫黄や主要イオン等の濃度が一律に7割も減少した。これは、真水に近い浅層の地下水が増加して、様々な成分と熱量を供給する深部熱水を希釈した可能性を示しているのではないか。
ただ、㏗が3から4.36へ大きく変化したことと整合するだろうか?とにかく試算してみる。
「……ダメだ。」
硫黄や主要イオンの濃度を7割減らすには、当然湧出量も約3倍強になる。これは湯温が45度から21.5度まで下がった事実と一致する。一方で、その程度の水量の増加では㏗が4を超えることは無さそうだ。
つまり、火山の地下から深部熱水を供給するメカニズムに変化があったと考える方が自然だ。何より、計算上は湧出量が急増するのが気に懸かる。そんな話は、湧井の説明には無かった筈だ。
では、「地」の要素はどうだろう。昨日、僕自身が指摘したが、火山の衰えと共にマグマの熱量が減少して、様々な成分や熱量の供給も落ち込んだ、というシナリオだ。
火山性の深部熱水が温度・供給量ともに低下したと考えると…
「おっ、行けそうじゃないか?」
この場合の試算では、主要成分の濃度、湯温の変化は整合性を保つことができる。㏗も、副次的な効果を組み込めば何とかなりそうだ。
湧井が地団駄踏んで悔しがる様子が目に浮かぶ。ふふん、何が「全くの、間違いです!」だ。思わず頬が緩む。
やっぱり、火山が冷えて温泉がただの泉になっただけのことだ。ならば、現地調査など不要だ。どうやら、無為で怠惰な最高のゴールデンウィークを奪還出来そうだ。
――山崎さん、こんな所で何やってるんですか?
耳元で不意に声がした。驚いて顔を上げると、当の湧井が身を乗り出し、僕の手元を覗き込んでいる。彼女の顔は僕の右肩のすぐ上にある。古書の匂いとは異質な甘い香りが鼻腔をくすぐる。
「湧井さん、ちょっと近くない?」
だが彼女は答えない。その視線は机上のシートに記された計算式を猛烈な勢いで追っている。
「山崎さん……凄いですね……たった半日でここまで辿り着くなんて……」
それから積み重なった書籍の山をしげしげと眺め、
「それに、こんなに色々調べて下さるなんて!」
僕は曖昧に頷く。今まさに連休を怠惰に過ごす誘惑に駆られていたところだ、と答える勇気はない。
「湧井さん、結局『火山活動の鎮静化』という僕の当初シナリオで説明付きそうだよ。」
うーん、それはどうでしょう?彼女は人差し指を頬に当てる。
「泉先生には内緒ですよ?」
耳元で囁くと、湧井は一層身を乗り出してペンと紙を手に取り、熱量の計算式を書き込んでいく。この時はじめて、僕は彼女が左利きであることに気が付いた。時折、僕の右ひじに胸が当たる感触が走る。その度に背筋がぞくりとするが、湧井は気にする素振りも見せない。
「山崎さん、見てください。これほどのスケールで深部熱水が供給量と温度を減じたとすると……火山全体の熱量は80パーセント近く失われた可能性が高いです。」
彼女は紙をぐいと僕の方へ押し戻し、計算結果をペン先で指し示す。胸が一層強く押し付けられる。僕の肘の神経は、彼女の下着が比較的固く、その下の柔らかい物体は相応の質量を有することをはっきり伝えていた。

「数千年間目立った活動の無い火山が、微弱ながら熱を保ち続けていたのに、僅か10年で8割を失うなんて、計算上考えづらく、実例も乏しいと思うのです。いかがですか?」
僕は深く頷いた。
「なんというか……本当にありがとう。」
「いえ、良いんです。話を聞いてもらえて嬉しかったです。高校の友達とはあんまりこういう会話はしなかったので…。」
そりゃそうだろう。
「それで、どの位の期間で火山が熱を失っていくかですが……仮に高さ150メートルの巨大な餡まんがあると仮定しますね。」
彼女は巨大な餡まんの絵を紙の上に嬉々として描いている。
「内部の餡を350度に加熱した場合、常温に戻るまで約5000年かかります。このプロセスのいかなる時期においても、10年で熱量の8割を失う可能性は極めて低いです。飯森山の地下における熱量の変動も、似たようなイメージでしょう。」
なるほど、巨大な餡まんが、ねえ……僕は背筋を傾けて湧井と距離をとった。
「はい。でも、山崎さんはゴールの直前にいます。深部熱水の減少により、飯森山温泉で発生した現象は概ね説明できます。あとはその原因です。」
そうか……おおむね説明できるのか……僕が呟く間に、興奮した彼女は一層前のめりになる。
僕は体を引きつつ、麻痺した思考力を総動員して言葉を探す。「例えば、浅層の真水が増えて、深部熱水が減ったとか?」
湧井はムッとした顔をする。
「人の話聞いてました?深部熱水に集中してください。浅層の水をファクターとして過大評価する場合の最大の不整合は、湧水量、つまり温泉の水量が、現実には僅かに減少していることです。昨日の夜、湧水量のデータも送りましたよね?」
僕の体は、コンクリート壁と彼女の肢体によって左右から圧迫を受けている。
「送られたファイルは500以上、合計で10ギガもあったじゃないか!一晩で全部見るなんて不可能だよ!」
正午を告げるチャイムが遠くから微かに響いてくる。僕は軽く息を吐いた。
「湧井さん、昼休みだ。一時休戦にしよう。」
彼女は軽く目を閉じ、額に手を当てる。「ごめんなさい、つい熱くなってしまって……私の悪い癖なんです。」
「気にしないで。おかげで、凄く理解が進んだ。僕は学食へ行くけど、湧井さんも来る?」
「はい、ご一緒させて下さい!」彼女は素直に頷き、いそいそと僕の後をついてくる。
女子校育ちの女性は、一般的には男性とのコミュニケーションが苦手だとイメージされがちだ。しかし一部には、男性を男性として意識しないが故に、却って距離感が近いタイプがいるという。ソースはストリーミングサイトのショート動画だ。顕著な実例を目の当たりにした僕は、ネットの海の深遠さに改めて感銘を受けていた。
