「あー終わった!…これで数日間は待機ですね、山崎さん。」
ログを確認した翌々日の午後。理学部棟から少し離れた、静かな喫茶店。
湧井と僕は、久しぶりにパソコンのブルーライトから解放され、柔らかな斜陽を浴びていた。
彼女は、アイスカフェオレとチーズケーキを前に、椅子に深く沈んでいる。僕はその様子を眺めながら、アメリカンコーヒーに手を伸ばす。
「……信じられますか? ついさっきまで、半狂乱で計算を繰り返していたのが嘘みたい。」
湧井が、遠い目をして呟いた。
「そう言うなよ。寒川さんが朝一番にCl⁻(塩化物イオン)の測定結果を回してくれたおかげで、さっそく旧源泉にどのくらい深部熱水が残っているか暴けたんだから。」
僕が窘めると、湧井はクスリと笑う。
「岩淵さんの指導、容赦なかったですね。…Cl⁻は保存的。…計算しろ。よし、…次!」
「そもそも、“半日で深部熱水と浅層水の混合比を全部片付ける”って、人類史に残る無茶だからね。」
僕の言葉に、湧井は頷きながら、
「それにしても、「深部熱水」と「マントル起源の熱水」って、第三者にはややこしいですよね。温泉組合への説明では注意しないと。」
「うん、「深部熱水」は旧源泉の熱と成分の源で、地面に染み込んだ雨水が、地下数キロでマグマに温められたもの。一方、「マントル起源の熱水」は新源泉の湯そのもので、地下100キロに引き込まれたプレートから絞り出された太古の海水だ。深さも起源も全然違う…けど、伝わりにくいよなあ。」
二人、同時に苦笑する。
湧井はテーブルに置いたメモ帳を指でトントン叩いた。
「でも、驚きました。……こんなに綺麗に数字が繋がるとは。」
「うん。10年前は深部熱水10%、のこり90%が浅層水。あの頃は、旧源泉、普通に“火山性”だった。」
「湯温45℃、Clも高めで……元気すぎましたね。まさに名湯でした。」
湧井は寂しげに微笑む。
「だけど、新源泉の脈動が始まった今年2月には、流路の閉塞で深部熱水は約6%まで減衰していました。」
彼女はフォークでケーキを一口。僕が後を続ける。
「そして、新源泉へ圧力が抜けた直後の、8月……ついに4%を切った。今朝寒川さんが回してくれたデータを組み込むと、9月は3.8%だったな。」
「今朝の寒川さん、岩淵さんのスパルタぶりを見て、測定結果だけ置いて去っていったの、忍者みたいでしたね。」
湧井は「3.8%」と記された数字を、しみじみと眺めた。
「10%から4%以下へ。温度も19.4度。昔と比べてずいぶん薄くなりました。でも、生きてる。なんて健気で、しぶといのかしら。十年かけて、ちゃんと引き際を覚えたのね。」
「『引き際』って。山を擬人化して愛でるの、湧井さんくらいだよ。」
「でも、山崎さんだって4%って数字が出たとき、モニターを拝んでましたよね?」
「……見られてた?」
僕らは顔を見合わせ、どちらからともなく吹き出した。
「……さて」
彼女が背筋を伸ばし、窓の外を見上げた。
「旧源泉が『4%の熱水』を守り抜いたことは分かりました。あとは、軽井さんと重森さんが新旧源泉から持ち帰った採水サンプルの分析を待つだけですね。」
「でも結果が出るまで、数日かかる。」
僕は伸びをした。
「久しぶりだな。“何も決めなくていい午後”」
湧井は、カフェオレを一口飲んで言った。
「束の間の夏休みですね。じゃあ今日は、旧源泉のために乾杯です」
「何に?」
「……3.8%に」
僕は吹き出した。
「渋すぎるだろ」
つっこみと共に、喫茶店に穏やかな笑い声が溶けていった。
ログを確認した翌々日の午後。理学部棟から少し離れた、静かな喫茶店。
湧井と僕は、久しぶりにパソコンのブルーライトから解放され、柔らかな斜陽を浴びていた。
彼女は、アイスカフェオレとチーズケーキを前に、椅子に深く沈んでいる。僕はその様子を眺めながら、アメリカンコーヒーに手を伸ばす。
「……信じられますか? ついさっきまで、半狂乱で計算を繰り返していたのが嘘みたい。」
湧井が、遠い目をして呟いた。
「そう言うなよ。寒川さんが朝一番にCl⁻(塩化物イオン)の測定結果を回してくれたおかげで、さっそく旧源泉にどのくらい深部熱水が残っているか暴けたんだから。」
僕が窘めると、湧井はクスリと笑う。
「岩淵さんの指導、容赦なかったですね。…Cl⁻は保存的。…計算しろ。よし、…次!」
「そもそも、“半日で深部熱水と浅層水の混合比を全部片付ける”って、人類史に残る無茶だからね。」
僕の言葉に、湧井は頷きながら、
「それにしても、「深部熱水」と「マントル起源の熱水」って、第三者にはややこしいですよね。温泉組合への説明では注意しないと。」
「うん、「深部熱水」は旧源泉の熱と成分の源で、地面に染み込んだ雨水が、地下数キロでマグマに温められたもの。一方、「マントル起源の熱水」は新源泉の湯そのもので、地下100キロに引き込まれたプレートから絞り出された太古の海水だ。深さも起源も全然違う…けど、伝わりにくいよなあ。」
二人、同時に苦笑する。
湧井はテーブルに置いたメモ帳を指でトントン叩いた。
「でも、驚きました。……こんなに綺麗に数字が繋がるとは。」
「うん。10年前は深部熱水10%、のこり90%が浅層水。あの頃は、旧源泉、普通に“火山性”だった。」
「湯温45℃、Clも高めで……元気すぎましたね。まさに名湯でした。」
湧井は寂しげに微笑む。
「だけど、新源泉の脈動が始まった今年2月には、流路の閉塞で深部熱水は約6%まで減衰していました。」
彼女はフォークでケーキを一口。僕が後を続ける。
「そして、新源泉へ圧力が抜けた直後の、8月……ついに4%を切った。今朝寒川さんが回してくれたデータを組み込むと、9月は3.8%だったな。」
「今朝の寒川さん、岩淵さんのスパルタぶりを見て、測定結果だけ置いて去っていったの、忍者みたいでしたね。」
湧井は「3.8%」と記された数字を、しみじみと眺めた。
「10%から4%以下へ。温度も19.4度。昔と比べてずいぶん薄くなりました。でも、生きてる。なんて健気で、しぶといのかしら。十年かけて、ちゃんと引き際を覚えたのね。」
「『引き際』って。山を擬人化して愛でるの、湧井さんくらいだよ。」
「でも、山崎さんだって4%って数字が出たとき、モニターを拝んでましたよね?」
「……見られてた?」
僕らは顔を見合わせ、どちらからともなく吹き出した。
「……さて」
彼女が背筋を伸ばし、窓の外を見上げた。
「旧源泉が『4%の熱水』を守り抜いたことは分かりました。あとは、軽井さんと重森さんが新旧源泉から持ち帰った採水サンプルの分析を待つだけですね。」
「でも結果が出るまで、数日かかる。」
僕は伸びをした。
「久しぶりだな。“何も決めなくていい午後”」
湧井は、カフェオレを一口飲んで言った。
「束の間の夏休みですね。じゃあ今日は、旧源泉のために乾杯です」
「何に?」
「……3.8%に」
僕は吹き出した。
「渋すぎるだろ」
つっこみと共に、喫茶店に穏やかな笑い声が溶けていった。
