――9月初旬。
理学部の研究室は、独特の静寂に包まれていた。
山を降りた軽井と重森は、泥のついた登山靴のまま、湧井と僕の背後に立っていた。成果物だけを置いて引き上げた前回とは違い、黙ってモニターを覗き込む。二人の顔には深い疲労が刻まれていたが、その瞳は、今まさに吸い上げられるデータに注がれていた。
「8月分……読み込みます。」
湧井がキーボードに指を置く。僕は隣で別の画面を開いた。分析の焦点は、熱源の安定を示す湯温と、成分密度を示すEC(電気伝導度)だ。軽井と重森も、自分たちが泥にまみれて守り抜いたログの結果を、祈るような目で見つめている。
「湧井さんは湯温を頼む。僕はECを確認する。ついでに湧水量も。」
短いやり取り。余分な言葉はなかった。モニターに8月のグラフが描画され始める。
最初に沈黙が落ちた。
「8月第1週……ダメ、まだ落ちてる」
湧井の声が震えた。 7月下旬に20.0℃だった湯温は、19.7、19.4……そして19.1℃まで、まるで崖を転げ落ちるように体温を失っていく。僕の画面でも、ECが410から一気に400を割り込み、398µS/cmへと落ちていく。
「湧水量も90から88.0まで低下……。これ、止まらないのか?」
軽井が掠れた声で呟く。室内の空気は凍りついた。重森は無意識に拳を握り、湧井は視線を外さずに画面を睨んでいた。このままグラフが低下を続け、旧源泉が「止めを刺される」光景を誰もが予感した、その時だった。
8月10日を過ぎたあたりで、グラフの「動き」が不自然なほどピタリと止まった。
「……あ!」
湧井が声を漏らす。19.1℃まで落ち込んだ湯温が、そこから反転するようにわずかに上昇し、19.3〜19.6℃の範囲で微細に振動しながら横ばいになったのだ。次は僕が声を挙げる番だった。
「ECも反転した! 402……405……。407µS/cm付近で安定!」
それから暫く、僕らは静まり返ったまま、8月末まで続く「平坦な線」を見守り続けた。
「第3週、第4週……僅かに上下しつつ横ばいだ!新しい平衡状態に入ったぞ!」
第1週の絶望的な下降があったからこそ、その後の完璧なまでの安定は、旧源泉が自ら焼き固めた流路に密かな抜け道を残し、新しい循環系に適応した「勝利」の証に見えた。
「……よかった……っ!!」
湧井が叫び、机を叩いた。その目からは、堪えていた涙が溢れ出していた。次の瞬間、湧井は何も言わず僕を見た。互いに頷くだけで、十分だった。
「生き残った……!19.5度。これが彼女の選んだ、新しい体温なのね。細い、細い流路を、自分自身の力で守りきったんだわ!」
苦戦を続けた数か月、7月15日の断絶。それらを乗り越えた歩みが、一気に報われたようだった。僕は深く、長く、溜め込んでいた安堵の息を漏らした。
「……再配分が完了したんだ。第1週の急落は、余剰な圧力を新源泉へ明け渡すための『脱皮』だったんだ。そして今、彼女は安全弁としての新しい常態に到達した……」
湯温とEC、湧出量のログを重ねると、三つの線は、弱々しく、しかし同じリズムで並んでいた。
後ろで見ていた軽井が、ふっと肩の力を抜いて笑った。
「……マジで、心臓に悪いわ。どうなるかと思った。」
「……私たちが運んだあのSDカードに、この『答え』が入ってたのね。」
重森もまた、かつての冷笑的な表情を捨て、確かな充実感を湛えた顔で頷いた。
「湧井さん、山崎。お疲れ。……俺ら、もう限界。今日は帰って泥のように眠るよ。……いい結果で、本当によかった」
軽井がそう言って手を振ると、重森も静かに後に続いた。研究室を出る二人の背中は、以前よりもずっと頼もしく見えた。
自分たちが苦心して持ち帰った「数字」が、飯森山の未来を繋ぎ止めたのだという誇りが、その歩調に現れていた。
2人が去った後、僕と湧井は新源泉のログも確認した。やはりというべきか、大きな変動はない。彼女は複雑な表情を浮かべるが、僕はある種の頼もしさを感じ始めていた。
――あとはこの若い躍動が、毒物を持たず、有益な成分を豊富に含むことを祈るばかりだ。
理学部の研究室は、独特の静寂に包まれていた。
山を降りた軽井と重森は、泥のついた登山靴のまま、湧井と僕の背後に立っていた。成果物だけを置いて引き上げた前回とは違い、黙ってモニターを覗き込む。二人の顔には深い疲労が刻まれていたが、その瞳は、今まさに吸い上げられるデータに注がれていた。
「8月分……読み込みます。」
湧井がキーボードに指を置く。僕は隣で別の画面を開いた。分析の焦点は、熱源の安定を示す湯温と、成分密度を示すEC(電気伝導度)だ。軽井と重森も、自分たちが泥にまみれて守り抜いたログの結果を、祈るような目で見つめている。
「湧井さんは湯温を頼む。僕はECを確認する。ついでに湧水量も。」
短いやり取り。余分な言葉はなかった。モニターに8月のグラフが描画され始める。
最初に沈黙が落ちた。
「8月第1週……ダメ、まだ落ちてる」
湧井の声が震えた。 7月下旬に20.0℃だった湯温は、19.7、19.4……そして19.1℃まで、まるで崖を転げ落ちるように体温を失っていく。僕の画面でも、ECが410から一気に400を割り込み、398µS/cmへと落ちていく。
「湧水量も90から88.0まで低下……。これ、止まらないのか?」
軽井が掠れた声で呟く。室内の空気は凍りついた。重森は無意識に拳を握り、湧井は視線を外さずに画面を睨んでいた。このままグラフが低下を続け、旧源泉が「止めを刺される」光景を誰もが予感した、その時だった。
8月10日を過ぎたあたりで、グラフの「動き」が不自然なほどピタリと止まった。
「……あ!」
湧井が声を漏らす。19.1℃まで落ち込んだ湯温が、そこから反転するようにわずかに上昇し、19.3〜19.6℃の範囲で微細に振動しながら横ばいになったのだ。次は僕が声を挙げる番だった。
「ECも反転した! 402……405……。407µS/cm付近で安定!」
それから暫く、僕らは静まり返ったまま、8月末まで続く「平坦な線」を見守り続けた。
「第3週、第4週……僅かに上下しつつ横ばいだ!新しい平衡状態に入ったぞ!」
第1週の絶望的な下降があったからこそ、その後の完璧なまでの安定は、旧源泉が自ら焼き固めた流路に密かな抜け道を残し、新しい循環系に適応した「勝利」の証に見えた。
「……よかった……っ!!」
湧井が叫び、机を叩いた。その目からは、堪えていた涙が溢れ出していた。次の瞬間、湧井は何も言わず僕を見た。互いに頷くだけで、十分だった。
「生き残った……!19.5度。これが彼女の選んだ、新しい体温なのね。細い、細い流路を、自分自身の力で守りきったんだわ!」
苦戦を続けた数か月、7月15日の断絶。それらを乗り越えた歩みが、一気に報われたようだった。僕は深く、長く、溜め込んでいた安堵の息を漏らした。
「……再配分が完了したんだ。第1週の急落は、余剰な圧力を新源泉へ明け渡すための『脱皮』だったんだ。そして今、彼女は安全弁としての新しい常態に到達した……」
湯温とEC、湧出量のログを重ねると、三つの線は、弱々しく、しかし同じリズムで並んでいた。
後ろで見ていた軽井が、ふっと肩の力を抜いて笑った。
「……マジで、心臓に悪いわ。どうなるかと思った。」
「……私たちが運んだあのSDカードに、この『答え』が入ってたのね。」
重森もまた、かつての冷笑的な表情を捨て、確かな充実感を湛えた顔で頷いた。
「湧井さん、山崎。お疲れ。……俺ら、もう限界。今日は帰って泥のように眠るよ。……いい結果で、本当によかった」
軽井がそう言って手を振ると、重森も静かに後に続いた。研究室を出る二人の背中は、以前よりもずっと頼もしく見えた。
自分たちが苦心して持ち帰った「数字」が、飯森山の未来を繋ぎ止めたのだという誇りが、その歩調に現れていた。
2人が去った後、僕と湧井は新源泉のログも確認した。やはりというべきか、大きな変動はない。彼女は複雑な表情を浮かべるが、僕はある種の頼もしさを感じ始めていた。
――あとはこの若い躍動が、毒物を持たず、有益な成分を豊富に含むことを祈るばかりだ。
