フヴェルゲルミルの黄昏 ―天然理系女子と温泉調査―

――8月も愈々終わりに近づいたその日。
理学部棟の会議室には、既に全員が揃っていた。

机の中央に泉教授。その両脇には岩淵さんと寒川さん。僕と湧井は彼らに向かい合って座る。軽井と重森も机の端に控えている。室内の空気には静かな緊張があった。

「じゃあ、聞こうか」
穏やかに微笑する泉教授の一言で、僕は立ち上がる。
「――結論から言えば、これは沈み込みプレートから始まる壮大な物語でした。」
スクリーンに地質断面図と、複雑なマントルの深部流体モデルが映し出される。口火を切った僕の声は、自分でも驚くほど落ち着き、自信に溢れていた。

「急激なマグマ供給や噴火ではありません。南海トラフからのプレート沈み込みに伴い、地下100キロで生成されるマグマの一部が流路を変え、飯森山のマグマだまり近傍へ流入したことが全てのトリガーです。」
傍らで腕を組んでいた岩淵さんが、深く、噛みしめるように頷く。
「結果、旧源泉は加熱され、溶出したシリカ等によって長期間に渡る、緩慢な閉塞が進行しました。」

僕はここで一度言葉を切った。
「続いて、新源泉について説明します」
画面に新源泉のヘリウム同位体比、8.2を大きく映す。
「旧源泉の閉塞が進んだため、マントルから供給される高温・高圧の流体は行き場を失いました。そして、新たな流路が形成され、マグマ系に蓄えられていたマントル起源の水分とガスが噴出しました。新源泉の高いヘリウム同位体比は、このことを示唆しています。」

続いて湧井が前に出た。画面は、化学分析データと時間変化のグラフに切り替わる。
「この新源泉の形成過程が、旧源泉に二度の急激な閉塞をもたらしました。5月前後と、7月15日の断絶です。」
彼女は、7月15日の「決壊」を示すグラフにポインターを合わせる。
「今年1月に誕生した新源泉は、旧源泉に代わる『新しいバイパス』でした。5月前後と7月の二度にわたり、旧源泉側でシリカの急激な析出が起きたのは、段階的に新源泉へ圧力が逃げたためです。私は最初、この欠損するシリカの意味が分からず苦戦しましたが……山崎さんのモデルによって、これが交代劇の代償だったと理解しました。」

寒川さんが、穏やかな声で口を挟む。
「原因が特定できない中で、シリカ析出に注目したのは正解だったわね。あなたの粘り強い分析があったからこそ、ここまで辿り着けたのよ。」
湧井は一瞬、照れたように微苦笑する。
「根本原因が見えない状況で、現場でも、データ上でも大きく動いていたのがシリカでした。析出量の増減が、流路の圧力変動と段階的閉塞を最も忠実に反映していたので……正直、遠回りでした。」
「それでも諦めなかった。そこが評価点よ。」

寒川さんの言葉に、湧井は小さく頷いた。そして、最後のスライドを示す。
「重要なのは、ここからです。7月15日の断絶以降、旧源泉は完全に停止したわけではありません。」
グラフの末端、低いながらも安定した線。
「7月末から、噴霧の頻度と温度が、低水準で安定しています。湯温とECの下落も収束の兆しを見せました。新源泉だけでなく、旧源泉もまた、再配分された形での新しい常態に入った可能性があります。その場合、旧源泉は余剰圧力を逃がす『安全弁』として機能するものと思われます。」

報告が一段落すると、部屋を支配していた緊張感がわずかに緩んだ。泉教授は組んでいた手を解き、微笑を絶やさず眼鏡の奥の鋭い光を僕たちに向けた。
「見事な分析です。湧井さんも山崎君も、役割を越えて考えているのが分かりました。」

それから、僕に視線を向ける。
「現象は分かりました。それで、次に君はどうしたいですか?」
僕は一拍も置かずに答える。
「新旧源泉を地上で混合する“ハイブリッド温泉”が、現時点で最も現実的です。新源泉の生命力と、旧源泉の歴史ある個性を融合させます。」
はっきりとした声だった。
「それによって泉質向上と供給安定の両立を狙える。だから、温泉組合が計画している採掘調査は中止すべきです。感情論ではなく、この山が選んだ『新しい常態』という客観的事実で説得します。」
泉教授は満足げに頷く。
「私も全く同感です。ただし、一つだけ。――人は、データやロジックに無条件で従うとは限らない。どうか、このことを忘れないで下さい。」

今度は湧井に向き直る。
「湧井さん。論理は良く出来たが、そのためにどんな調査が必要だと思う?」
「現場の『今』を、つぶさに観察することです。」
彼女は淀みなく答えた。
「具体的には、9月のフィールドワークが焦点になります。二点あります。」
指を折りながら説明する。
「第一に、旧源泉の安定確認。基本手順は従来と同じで、湯温・EC・湧水量の動向をモニタリングします。また追加項目として、硫黄や主要イオンなど有効成分濃度を測定します。これにより、温泉として、どの位の体力を残しているのか、把握します。」
「第二に、新源泉の安全性と効能の確認です。通常の調査には含まれない項目も測定します。毒性成分の有無に加え、メタケイ酸、メタホウ酸、リチウム、ストロンチウムといった深部由来の有効成分の定量を。これらが人害のない範囲で豊かであることを証明できれば、組合の心は動くはずです。」

その瞬間、軽井と重森の表情が引き締まった。自分たちが担う役割の重さを、はっきり理解した顔だった。9月の山入りの意味が、彼らの中で単なる代行から「未来を背負うミッション」へと変わったのだ。

泉教授はその様子を横目でちらりと確認すると、湧井を優しく見つめた。
「良い判断です。今となってはあなた自身が一番身に染みているでしょうが、――望んだデータがそのまま出て来るとは限らない。粘り強く取り組みましょう。」

岩淵さんが口を開く。
「……旧源泉が、安定するなら。……湧水量と熱量に占める、深部熱水と浅層地下水の比率が変わる。……あとで、アドバイスする。」
寒川さんも助け舟を出す。
「新旧源泉の採水分析は、追加項目含めて私がやるわ。結果を最速で渡してあげる。」

泉教授は全員を見渡し、力強く会議を締めくくった。
「よし。9月末に、温泉組合との会合を設定します。それまでに、この山の新しい歴史を描くための回答を、皆で用意しようじゃありませんか。」

――今や、全員が次に進むべき場所を、同じ方向に見出していた。