――研究室のブラインド越しに差し込む朝日が眩しい。
湧井は一晩中、カメラログと向き合っていたようだった。その瞳には疲労の色よりも、パズルの最後のピースを嵌め終えた科学者のような、鋭く澄んだ光があった。
彼女はノートPCを僕の方に向け、噴霧地点を映した静止画を何枚かスクロールさせた。
「……見て下さい。これが6月初旬、これが7月上旬。で、これが――7月末。」
僕は黙って画面を追う。噴霧の濃さと広がりは7月上旬が最も顕著だ。その変化は、言葉よりも雄弁だった。
「6月から7月半ばにかけて、噴霧の頻度は、ほぼ一貫して上がってます。7月は月平均だと1日に3回だけど……実際には、月の前半が異常でした。」
湧井はグラフを表示する。噴霧活動頻度の折れ線は、7月上旬で鋭く跳ね上がり、月半ばから急降下していた。
僕はふと思い出す。軽井と重森がフィールドを代行したは、まさに7月の初めだったはずだ。
「続いて、カメラの赤外線サーモグラフィの解析です。」
湧井さんが画面上のグラフを指し示す。
「6月から7月中旬にかけて、窪地の噴霧は、急激に温度を上昇させました。特に7月初旬……軽井さんたちが代行してくれた時期は、噴霧も地表の温度もピークに近づいています。正直、あの場所でログを回収するのは、本来なら不可能に近いほど危険だったはずです。……彼ら、さらりとデータを置いていきましたけど、相当な無理をしてくれたんだわ。感謝しなきゃ。」
彼女は一度深く目を閉じる。彼らの働きが無ければ、僕たちは5月から7月半ばまでの噴霧の変化を「線」で捉えることは出来なかっただろう。僕は小さく息を吐いた。
「……で、決壊の日は?」
湧井は、7月15日のログを拡大した。
「決定的な手掛かりが見つかりました。15日の夜間、まず噴霧の温度がスッと下がっています。……見て。湧水量のログが崖を転げ落ちる数時間前です。熱水に比べて粘性の低いガスは、気相特有の応答速度で、地底の圧力変化を真っ先に感知した。新源泉が「主役」の座を奪った瞬間、旧源泉のガスは真っ先に『圧力の喪失』を感知して動きを止めていた。……山崎さんの予感通り、『ガスが先に動いた』んです。」
湧井は言葉を続ける。
「で、15日以降。噴霧も温度も、急速に下がる。7月末には……この水準で安定してる。」
彼女はグラフの最後尾の平坦な線を指さす。
「確かに低い数値です。……でも、ゼロじゃない。『ガスが先に動く』性質を考えると、これは、死ではなく、アポトーシスに近い“自己再編成”……或いは『形態変化』かもしれません。「主役」から、「余剰圧力を逃がす安全弁」としての役割にシフトした……。例え低水準でも、ガスが安定しているなら、8月以降の旧源泉は、弱々しくとも『新しい常態』で現状を維持する可能性がある。彼女(旧源泉)は、私たちが思うよりしたたかなんだわ。」
僕はしばらく黙ってから、ゆっくり頷いた。
「7月15日の断絶は――終わりじゃなくて、再配分だね。」
「はい。新源泉が“主経路”になった。でも、旧源泉は……完全には切れてない。」
僕は、湧井の言葉を一つひとつ噛み締めた。
「……希望が見えてきたね。「決壊」断絶のメカニズム、現在の新旧両源泉が『共存的な安定』に入った可能性。……泉教授に、話そうか。」
「ええ。8月末に取っていただいた教授の時間……そこで、“もう掘らなくてもいい理由”を提示します。」
湧井は力強く頷いた。
そのとき、僕のポケットでスマホが短く震えた。画面を見ると、送り主は軽井だった。
(……あいつから? なんで彼女じゃなくて、僕に……)
どうせ「夏休みが終わる前に湧井さんを誘って海に行くぞ」とかいう、軽薄な下心丸出しの誘いだろうと予測しながら、トーク画面を開いた。
だが、そこに並んでいたのは、予想を裏切るそっけない二行だった。
『調査は進んでいるか。9月のフィールド、必要なら替わる。』
「……軽井からだ。」
僕は画面を湧井さんに見せた。
「9月のフィールドワーク、自分たちが替わると。……僕たちが今、調査結果の取りまとめと、温泉組合の採掘計画を阻止するための準備に忙殺されているのを、分かっているんだ。」
湧井は少し意外そうな顔をしたが、すぐに柔らかな笑みを浮かべた。
「……彼なりの、エールですね。甘えさせてもらいましょう。今は一分一秒でも、理論武装のための時間が必要だわ」
「そうだな。軽井に頼もう。らしくないけど、7月の英雄だ。」
僕は短い承諾の返信を打ち込んだ。
――窓の外の入道雲は、いつの間にか秋の気配を孕んだ高い雲へと姿を変えようとしていた。
湧井は一晩中、カメラログと向き合っていたようだった。その瞳には疲労の色よりも、パズルの最後のピースを嵌め終えた科学者のような、鋭く澄んだ光があった。
彼女はノートPCを僕の方に向け、噴霧地点を映した静止画を何枚かスクロールさせた。
「……見て下さい。これが6月初旬、これが7月上旬。で、これが――7月末。」
僕は黙って画面を追う。噴霧の濃さと広がりは7月上旬が最も顕著だ。その変化は、言葉よりも雄弁だった。
「6月から7月半ばにかけて、噴霧の頻度は、ほぼ一貫して上がってます。7月は月平均だと1日に3回だけど……実際には、月の前半が異常でした。」
湧井はグラフを表示する。噴霧活動頻度の折れ線は、7月上旬で鋭く跳ね上がり、月半ばから急降下していた。
僕はふと思い出す。軽井と重森がフィールドを代行したは、まさに7月の初めだったはずだ。
「続いて、カメラの赤外線サーモグラフィの解析です。」
湧井さんが画面上のグラフを指し示す。
「6月から7月中旬にかけて、窪地の噴霧は、急激に温度を上昇させました。特に7月初旬……軽井さんたちが代行してくれた時期は、噴霧も地表の温度もピークに近づいています。正直、あの場所でログを回収するのは、本来なら不可能に近いほど危険だったはずです。……彼ら、さらりとデータを置いていきましたけど、相当な無理をしてくれたんだわ。感謝しなきゃ。」
彼女は一度深く目を閉じる。彼らの働きが無ければ、僕たちは5月から7月半ばまでの噴霧の変化を「線」で捉えることは出来なかっただろう。僕は小さく息を吐いた。
「……で、決壊の日は?」
湧井は、7月15日のログを拡大した。
「決定的な手掛かりが見つかりました。15日の夜間、まず噴霧の温度がスッと下がっています。……見て。湧水量のログが崖を転げ落ちる数時間前です。熱水に比べて粘性の低いガスは、気相特有の応答速度で、地底の圧力変化を真っ先に感知した。新源泉が「主役」の座を奪った瞬間、旧源泉のガスは真っ先に『圧力の喪失』を感知して動きを止めていた。……山崎さんの予感通り、『ガスが先に動いた』んです。」
湧井は言葉を続ける。
「で、15日以降。噴霧も温度も、急速に下がる。7月末には……この水準で安定してる。」
彼女はグラフの最後尾の平坦な線を指さす。
「確かに低い数値です。……でも、ゼロじゃない。『ガスが先に動く』性質を考えると、これは、死ではなく、アポトーシスに近い“自己再編成”……或いは『形態変化』かもしれません。「主役」から、「余剰圧力を逃がす安全弁」としての役割にシフトした……。例え低水準でも、ガスが安定しているなら、8月以降の旧源泉は、弱々しくとも『新しい常態』で現状を維持する可能性がある。彼女(旧源泉)は、私たちが思うよりしたたかなんだわ。」
僕はしばらく黙ってから、ゆっくり頷いた。
「7月15日の断絶は――終わりじゃなくて、再配分だね。」
「はい。新源泉が“主経路”になった。でも、旧源泉は……完全には切れてない。」
僕は、湧井の言葉を一つひとつ噛み締めた。
「……希望が見えてきたね。「決壊」断絶のメカニズム、現在の新旧両源泉が『共存的な安定』に入った可能性。……泉教授に、話そうか。」
「ええ。8月末に取っていただいた教授の時間……そこで、“もう掘らなくてもいい理由”を提示します。」
湧井は力強く頷いた。
そのとき、僕のポケットでスマホが短く震えた。画面を見ると、送り主は軽井だった。
(……あいつから? なんで彼女じゃなくて、僕に……)
どうせ「夏休みが終わる前に湧井さんを誘って海に行くぞ」とかいう、軽薄な下心丸出しの誘いだろうと予測しながら、トーク画面を開いた。
だが、そこに並んでいたのは、予想を裏切るそっけない二行だった。
『調査は進んでいるか。9月のフィールド、必要なら替わる。』
「……軽井からだ。」
僕は画面を湧井さんに見せた。
「9月のフィールドワーク、自分たちが替わると。……僕たちが今、調査結果の取りまとめと、温泉組合の採掘計画を阻止するための準備に忙殺されているのを、分かっているんだ。」
湧井は少し意外そうな顔をしたが、すぐに柔らかな笑みを浮かべた。
「……彼なりの、エールですね。甘えさせてもらいましょう。今は一分一秒でも、理論武装のための時間が必要だわ」
「そうだな。軽井に頼もう。らしくないけど、7月の英雄だ。」
僕は短い承諾の返信を打ち込んだ。
――窓の外の入道雲は、いつの間にか秋の気配を孕んだ高い雲へと姿を変えようとしていた。
