――理学部棟の一階、奥まった一角にある自販機コーナーは、蛍光灯の低いハム音が響く殺風景な空間である。
それでも、差し込む夕日と古い床材の匂いが、研究室の緊張感を少しだけ和らげてくれる。
湧井は、無言で自販機の前に立った。迷う様子もなくボタンに手を伸ばす――はずだった指が、一瞬、宙で止まる。ブラックコーヒー。いつもの選択肢。その隣に、カフェオレ。わずかな沈黙のあと、彼女の指はカフェオレのボタンを押していた。
缶が落ちる音が、やけに大きく響いた。
「……珍しいね。」
僕は、冗談めかして言う。自分の手元にも、同じカフェオレの缶。
「……今日は、そんな気分なんです。」
彼女はプルタブを引き、立ち上る甘い香りを吸い込む。これまで湧井が頑なに守ってきた「純粋なブラック」の領域に、少しだけ別の何かが混ざり合う。
「たまには、こういうのも悪くないかなって。」
それだけだった。僕らは並んで、壁際の簡易ベンチに腰を下ろす。
「湧井さん。旧源泉に、あそこまで深く自分自身を投影していたのは……あの温泉街が、君の故郷だからじゃない?」
僕の言葉に、彼女は缶を両手で包んだまま、少しだけ視線を落とした。
「……気づいていたんですね。」
しばしの沈黙の後、微笑を浮かべる。
「……そう、あそこは私の生まれた場所です。子どもの頃から、湯気を見て育った。」
「やっぱり。データに触れる君の指先が、ただの観測者を越えていたから。でも、それだけじゃない。もっと深い事情があるはずだ。」
湧井は、否定も肯定もせず、ただ静かに頷く。
「……はい。でも、それを今ここで話すと、たぶん空気が重くなる。」
カフェオレを一口含んで缶を持ち替え、彼女は軽く息をついた。
「全部がちゃんと、ハッピーエンドになってから話します。その時で、いい?」
僕は微笑んだ。
「ああ。待ってる。」
少し間を置いて、今度は湧井が僕を真っすぐ見つめる。その瞳には、先刻までの絶望の影は薄れ、鋭い洞察力が戻っていた。
「じゃあ次は、私の番。山崎さん、新源泉がマントル起源だって……本当は前から気づいてましたね?」
その問いに、僕は驚かなかった。代わりに、ゆっくりと頷く。
「うん。“可能性が高い”ことは、はっきり分かってた。」
彼女の瞳が揺れる。言葉には出さないが、その想いははっきり伝わった。
――なのに、どうしてずっと受動的な『助手』のままでいたの?
缶を見つめたまま、僕は言葉を続ける。
「確信を持って言うのが怖かった。もしそれが本当なら、僕は“見ていただけ”じゃ済まなくなる。判断して、責任を引き受ける側に回らないといけないから。」
湧井は黙って聞いている。
「……ずっと、受動的な立場にいる方が楽だったんだ。間違えても、誰かのせいにできるから。」
僕は顔を上げ、彼女を見る。
「でも、湧井さんが真正面から向き合う姿を見て……山が必死に生きようとしている姿を見て、僕も勇気をもらった。」
短い沈黙。
「ありがとう。」
その一言は、研究の成果に向けられたものではなかった。湧井は、少しだけ困ったように笑う。
「どうしてそんな生き方をしてきたのか、聞いてもいいですか?」
問いは静かだった。僕は、一瞬だけ言葉を探し――そして、彼女と同じ答えを返す。
「それを今ここで話すと、たぶん空気が重くなる。全部がハッピーエンドになってから、話すよ。」
湧井は目を見開き、次の瞬間、吹き出した。
「……ずるい。」
「お互い様だよ。」
僕らは、ほとんど同時に言った。缶の底が軽くなる。自販機の機械音が、遠くで鳴っている。
「じゃあ約束。」
彼女が小指を差し出す。
「ハッピーエンドに、する。」
その古風な仕草に、微苦笑を浮かべながら僕は自分の小指を絡めた。
「うん。必ず」
地下で起きている「交代劇」を、絶望ではなく希望の物語へと書き換える。
――その意志が、薄暗い自販機コーナーの片隅で密かに、しかし強く結ばれた。

「……山崎さん」
湧井が、僕の目の隈をそっと覗き込むように言った。
「マントルからの脈動、あの複雑な計算……昨夜から一睡もしていないですよね。」
「ばれたか。」
「今日は帰って、ちゃんと休んで下さい。判断力を落としたまま、次に進んだら意味がないですから。」
彼女は立ち上がる。その手には、中身が残ったカフェオレが大事そうに握られている。
「私は、噴霧を捉えたカメラ映像をもう一度見ます。……一人で大丈夫。」
僕も立ち上がり、軽く頭を下げた。
「お願いします。じゃあ、また明日。」
理学部棟の廊下で、二人は別れる。僕は出口へ、湧井は研究室へ。
カフェオレの甘さが、まだ口の中に残っている。湧井はそれを意識しないふりをして、歩き出した。山は、まだ答えを隠している。
でも――少なくとも、もう一人で向き合う必要はない。
そう思えたことが、この短い休憩の、いちばん大きな成果だった。
それでも、差し込む夕日と古い床材の匂いが、研究室の緊張感を少しだけ和らげてくれる。
湧井は、無言で自販機の前に立った。迷う様子もなくボタンに手を伸ばす――はずだった指が、一瞬、宙で止まる。ブラックコーヒー。いつもの選択肢。その隣に、カフェオレ。わずかな沈黙のあと、彼女の指はカフェオレのボタンを押していた。
缶が落ちる音が、やけに大きく響いた。
「……珍しいね。」
僕は、冗談めかして言う。自分の手元にも、同じカフェオレの缶。
「……今日は、そんな気分なんです。」
彼女はプルタブを引き、立ち上る甘い香りを吸い込む。これまで湧井が頑なに守ってきた「純粋なブラック」の領域に、少しだけ別の何かが混ざり合う。
「たまには、こういうのも悪くないかなって。」
それだけだった。僕らは並んで、壁際の簡易ベンチに腰を下ろす。
「湧井さん。旧源泉に、あそこまで深く自分自身を投影していたのは……あの温泉街が、君の故郷だからじゃない?」
僕の言葉に、彼女は缶を両手で包んだまま、少しだけ視線を落とした。
「……気づいていたんですね。」
しばしの沈黙の後、微笑を浮かべる。
「……そう、あそこは私の生まれた場所です。子どもの頃から、湯気を見て育った。」
「やっぱり。データに触れる君の指先が、ただの観測者を越えていたから。でも、それだけじゃない。もっと深い事情があるはずだ。」
湧井は、否定も肯定もせず、ただ静かに頷く。
「……はい。でも、それを今ここで話すと、たぶん空気が重くなる。」
カフェオレを一口含んで缶を持ち替え、彼女は軽く息をついた。
「全部がちゃんと、ハッピーエンドになってから話します。その時で、いい?」
僕は微笑んだ。
「ああ。待ってる。」
少し間を置いて、今度は湧井が僕を真っすぐ見つめる。その瞳には、先刻までの絶望の影は薄れ、鋭い洞察力が戻っていた。
「じゃあ次は、私の番。山崎さん、新源泉がマントル起源だって……本当は前から気づいてましたね?」
その問いに、僕は驚かなかった。代わりに、ゆっくりと頷く。
「うん。“可能性が高い”ことは、はっきり分かってた。」
彼女の瞳が揺れる。言葉には出さないが、その想いははっきり伝わった。
――なのに、どうしてずっと受動的な『助手』のままでいたの?
缶を見つめたまま、僕は言葉を続ける。
「確信を持って言うのが怖かった。もしそれが本当なら、僕は“見ていただけ”じゃ済まなくなる。判断して、責任を引き受ける側に回らないといけないから。」
湧井は黙って聞いている。
「……ずっと、受動的な立場にいる方が楽だったんだ。間違えても、誰かのせいにできるから。」
僕は顔を上げ、彼女を見る。
「でも、湧井さんが真正面から向き合う姿を見て……山が必死に生きようとしている姿を見て、僕も勇気をもらった。」
短い沈黙。
「ありがとう。」
その一言は、研究の成果に向けられたものではなかった。湧井は、少しだけ困ったように笑う。
「どうしてそんな生き方をしてきたのか、聞いてもいいですか?」
問いは静かだった。僕は、一瞬だけ言葉を探し――そして、彼女と同じ答えを返す。
「それを今ここで話すと、たぶん空気が重くなる。全部がハッピーエンドになってから、話すよ。」
湧井は目を見開き、次の瞬間、吹き出した。
「……ずるい。」
「お互い様だよ。」
僕らは、ほとんど同時に言った。缶の底が軽くなる。自販機の機械音が、遠くで鳴っている。
「じゃあ約束。」
彼女が小指を差し出す。
「ハッピーエンドに、する。」
その古風な仕草に、微苦笑を浮かべながら僕は自分の小指を絡めた。
「うん。必ず」
地下で起きている「交代劇」を、絶望ではなく希望の物語へと書き換える。
――その意志が、薄暗い自販機コーナーの片隅で密かに、しかし強く結ばれた。

「……山崎さん」
湧井が、僕の目の隈をそっと覗き込むように言った。
「マントルからの脈動、あの複雑な計算……昨夜から一睡もしていないですよね。」
「ばれたか。」
「今日は帰って、ちゃんと休んで下さい。判断力を落としたまま、次に進んだら意味がないですから。」
彼女は立ち上がる。その手には、中身が残ったカフェオレが大事そうに握られている。
「私は、噴霧を捉えたカメラ映像をもう一度見ます。……一人で大丈夫。」
僕も立ち上がり、軽く頭を下げた。
「お願いします。じゃあ、また明日。」
理学部棟の廊下で、二人は別れる。僕は出口へ、湧井は研究室へ。
カフェオレの甘さが、まだ口の中に残っている。湧井はそれを意識しないふりをして、歩き出した。山は、まだ答えを隠している。
でも――少なくとも、もう一人で向き合う必要はない。
そう思えたことが、この短い休憩の、いちばん大きな成果だった。
