――その日の午後。
研究室の空気は、エアコンの冷気で乾燥しきっていた。湧井は虚ろな眼差しでPCを見つめたまま、黙り込んでいる。
彼女にとって旧源泉は単なる観測対象ではなく、おそらく自分自身の分身、あるいはそれ以上のものだった。その「決壊」を自ら観測してしまったショックは、僕の想像を絶する。
「……湧井さん。あれから、少し考えてみたんだ。」
僕は独り言のように切り出した。彼女を慰める言葉は持たないが、「数字」という道標がある。
僕はサブモニターに、マントル起源であることを示す『ヘリウム同位体比(³He/⁴He)』のデータを大きく映し出した。
「新源泉のヘリウム同位体比は、最終値で8.2。明らかにマントル由来だ。遥か昔、海底の岩盤が吸収した海水が、プレートの沈み込みと共に地中深くに引き摺りこまれ、高温と高圧で絞り出されたものなんだ。つまり、この現象の源は、地下5キロ前後にある飯森山の火山性マグマだまりなんかじゃない。プレートの先だ。」
湧井は一度、視線を落とした。
――旧源泉を失う瀬戸際で、なぜ今、そんな遠大な話を?
そう言いたげに、唇がわずかに強張る。僕は微かに躊躇った。今、真実を話せば、彼女から逃げ場を奪うかもしれない。それでも、彼女を救うのは「共感」でも「励まし」でもなく、「理解」だけだ。
「いいかい、僕たちがずっと見てきたのは、一つの壮大な『椅子取りゲーム』だったんだ。」
僕はホワイトボードに、赤ペンで右下がりの線を引いた。
「君が見抜いた通り、十年前から、この山の下でマグマが少しずつ元気になり始めた。……より正確には……南海トラフに沿って沈み込んだフィリピン海プレートが、かつての海水やガスからなる『超臨界流体』を放出、上部マントルで岩石の融点を下げ、マグマ生成を促進した。これが地下100キロから上昇し、飯森山のマグマだまり近傍に流入したんだ。旧源泉は、その熱と圧力を受けシリカを溶かし込み、閉塞していった。」
低い声で、湧井が呟く。
「プレート運動が、十年に渡る緩慢な閉塞の動因……」
「そうだ。流路が狭まるにつれ、飯森山の地下では出口を失った圧力と熱の蓄積が一層進んでいく。最終的にマグマに炙られた熱水はパンパンに膨れ上がり、とうとう旧源泉が吸収できる閾値を超えた。」
右下がりの赤線の終端付近に、これと交差する青い線を引く。まっすぐ真上に向け、突き抜けるように。
「こうして、行き場を失った高温・高圧の流体が岩盤を突き破った。マグマ系に蓄えられていたマントル起源の水分とガスが、ここから噴き出す。今年1月の新源泉の誕生だ。以後、山全体の『圧力の逃げ道』が不可逆的にシフトし始める。新源泉が巨大なバイパスへ成長し、閉塞が進んでいた旧源泉に取って替わっていくんだ。」
「……新旧の源泉は、「圧力」を巡って戦っていたんですね……」
一瞬、湧井は目を見開き、やがて悲痛な表情を浮かべる。旧源泉は、過酷な生存闘争の果てに破れた。彼女の理性は、すぐに結論を悟った。悟ってしまったこと自体が、痛みだった。それでも、彼女は思考を止めなかった。
「新源泉が抜け道となって、旧源泉の圧力が下がり始めたんだわ。だから、高温・高圧のお湯が限界まで抱え込んでいたシリカが爆発的に析出した……。それが、5月に見た、あの異様な『針状のスケール』の正体……。」
彼女の口調には、思考に縋って自らを保とうとするような、切実な響きがあった。
僕は大画面に、電子顕微鏡で寒川さんが撮影した鋭いシリカの結晶を映す。
「皮肉にも、それが7月の致命的な閉塞の準備段階となった。旧源泉の5月のシリカ濃度は90mg/L。湧井さんの予測を5.5㎎/Lも下回った。急激に析出したシリカが地中に取り残された証左だ。流路は一層の目詰まりを起こし、抵抗が増大する。結果、新源泉の誕生により一度は下がったはずの圧力が、再び蓄積し始め、7月初めにはパンパンの与圧状態になった。こうして、新源泉へ決定的にシフトする条件が揃う。」
湧井は眉を顰めつつ、頷く。
「……5月から7月初旬にかけて、シリカ濃度が上がり続ける一方、湯温と湧出量は一見安定しました。深部が限界まで圧力を高め、石を抱え込む代わりに、熱水の供給を維持した……。そこまでは分かっていたけれど。……旧源泉は深く傷つきながら、新源泉に負けまいと、人知れず最後の力を振り絞っていたんだわ。」
彼女はそっと涙を拭う。
僕は、画面上に二つの源泉の湧水量を示すグラフを重ねて表示した。一方が落ち、他方が跳ねる。パズルのピースが噛み合うように、7月半ばの「あの日」を分岐点として。
「そして7月15日。新源泉から噴き出すお湯とガスが急増し、一気に圧力が抜ける。その結果、旧源泉の流路は与圧状態から解放され、飲み込んでいたシリカを一気に吐き出した。」
7月初旬と8月初旬のデータを画面の片隅に表示する。旧源泉のシリカは93㎎/Lから62㎎/Lまで激減。深部熱水の供給量を示す目安となる塩素イオンも83㎎/Lから75㎎/Lまで低下している。「減った」シリカは、途中の壁に張り付き、旧源泉を塞いでしまったのだ。
湧井の声が、呻くように漏れた。
「深部から血の気が引いて、今はただ、薄まった熱水が細々と這い出しているだけ……」
僕はグラフから目を離さずに補足する。
「一方、新源泉はマントル起源の孤立した水系だ。湧出量が4割近く増えたとはいえ、絶対量は限られる。現に、湧井さんが入浴した「天然の湯舟」を大きく広げた程度でしかない。温泉街全体を支えるには、到底足りない。」
彼女の顔は蒼白になる。理解は、彼女に逃げ場を与えなかった。
「……温泉街は、拠り所を失ったのね。――なんて、救いの無い結末……。」
湧井は深く息を吐いてから、はっきりと口にした。
「……あんなもの、生まれてこなければ良かったのに……」
新源泉のデータに、彼女はそれ以上、視線を向けなかった。
僕は彼女の瞳を真っ直ぐに見据えた。
――でもね、湧井さん。どんなに異質に見えても、この二つは地下深くで、一つの『熱の脈動』を共有している双子なんだ。
――プレートの先、マントルの活動という一つのトリガーが、ある流路には『生』を与え、ある流路を『瀕死』に追い込んだ。湧井さん、君がモデル化した10年に渡る旧源泉衰退のメカニズムは、間違いじゃなかった。それは、この新源泉という新しい命が産声を上げるための、長い長い『受胎』のプロセスだったんだ。
――そして、君が直近のシリカや熱水の挙動を分析してくれたからこそ、僕は深部流体モデルを用いて、新しい『常態』への移行と確立を把握できた。
――湧井さんに導かれて、僕は最後の鍵を見つけた。二人でここまで来たんだ。
彼女は立ち上がり、僕が重ねたグラフにそっと触れた。
「……今更、それが、なんだというの……旧源泉も、温泉街も予め淘汰される運命にあった……あまりに理不尽だわ。」
俯いて、唇を噛む。
「新源泉が圧力を外に逃がす役目を引き受け、旧源泉は自分を焼き固めて、静かに幕を引いた。因果関係が明らかになった以上、奇跡の余地はありません。私たちに出来るのは、事実を理解し、受け止めることだけ……。」
「湧井さん、それは違う。」
僕はきっぱり首を振った。
「旧源泉は、まだ死んじゃいない。命を削って、新源泉に主役を譲ったんだ。片や新源泉は、湧出量が圧倒的に少ない。だからこそ、僕たちは双子をもう一度、地表で混ぜ合わせる方法を考えるべきだ。……観測と分析に徹して、研究を終わらせるのじゃなく。事実の先にある未来を引き寄せるんだ。」
「双子を……混ぜ合わせる……」 湧井はその言葉を、確かめるように口にした。昼下がりの静寂の中で、僕が提示した新しい可能性が、湧井の瞳に再び理学学生としての光を宿し始めていた。
「……ありがとう、山崎さん。」
彼女の顔に、諦念とは別の、深い「理解」の表情が浮かんだ。
「私、足元ばかり見ていたのかもしれない……。」
――この瞬間、僕は単なる「手足」であることを止めた。初めて湧井薫という「頭脳」と手を携え、新しい山の可能性を描き出した。
研究室に差し込む真夏の陽光が、二人の手元のデータを、静かに、しかし力強く照らし出していた。
研究室の空気は、エアコンの冷気で乾燥しきっていた。湧井は虚ろな眼差しでPCを見つめたまま、黙り込んでいる。
彼女にとって旧源泉は単なる観測対象ではなく、おそらく自分自身の分身、あるいはそれ以上のものだった。その「決壊」を自ら観測してしまったショックは、僕の想像を絶する。
「……湧井さん。あれから、少し考えてみたんだ。」
僕は独り言のように切り出した。彼女を慰める言葉は持たないが、「数字」という道標がある。
僕はサブモニターに、マントル起源であることを示す『ヘリウム同位体比(³He/⁴He)』のデータを大きく映し出した。
「新源泉のヘリウム同位体比は、最終値で8.2。明らかにマントル由来だ。遥か昔、海底の岩盤が吸収した海水が、プレートの沈み込みと共に地中深くに引き摺りこまれ、高温と高圧で絞り出されたものなんだ。つまり、この現象の源は、地下5キロ前後にある飯森山の火山性マグマだまりなんかじゃない。プレートの先だ。」
湧井は一度、視線を落とした。
――旧源泉を失う瀬戸際で、なぜ今、そんな遠大な話を?
そう言いたげに、唇がわずかに強張る。僕は微かに躊躇った。今、真実を話せば、彼女から逃げ場を奪うかもしれない。それでも、彼女を救うのは「共感」でも「励まし」でもなく、「理解」だけだ。
「いいかい、僕たちがずっと見てきたのは、一つの壮大な『椅子取りゲーム』だったんだ。」
僕はホワイトボードに、赤ペンで右下がりの線を引いた。
「君が見抜いた通り、十年前から、この山の下でマグマが少しずつ元気になり始めた。……より正確には……南海トラフに沿って沈み込んだフィリピン海プレートが、かつての海水やガスからなる『超臨界流体』を放出、上部マントルで岩石の融点を下げ、マグマ生成を促進した。これが地下100キロから上昇し、飯森山のマグマだまり近傍に流入したんだ。旧源泉は、その熱と圧力を受けシリカを溶かし込み、閉塞していった。」
低い声で、湧井が呟く。
「プレート運動が、十年に渡る緩慢な閉塞の動因……」
「そうだ。流路が狭まるにつれ、飯森山の地下では出口を失った圧力と熱の蓄積が一層進んでいく。最終的にマグマに炙られた熱水はパンパンに膨れ上がり、とうとう旧源泉が吸収できる閾値を超えた。」
右下がりの赤線の終端付近に、これと交差する青い線を引く。まっすぐ真上に向け、突き抜けるように。
「こうして、行き場を失った高温・高圧の流体が岩盤を突き破った。マグマ系に蓄えられていたマントル起源の水分とガスが、ここから噴き出す。今年1月の新源泉の誕生だ。以後、山全体の『圧力の逃げ道』が不可逆的にシフトし始める。新源泉が巨大なバイパスへ成長し、閉塞が進んでいた旧源泉に取って替わっていくんだ。」
「……新旧の源泉は、「圧力」を巡って戦っていたんですね……」
一瞬、湧井は目を見開き、やがて悲痛な表情を浮かべる。旧源泉は、過酷な生存闘争の果てに破れた。彼女の理性は、すぐに結論を悟った。悟ってしまったこと自体が、痛みだった。それでも、彼女は思考を止めなかった。
「新源泉が抜け道となって、旧源泉の圧力が下がり始めたんだわ。だから、高温・高圧のお湯が限界まで抱え込んでいたシリカが爆発的に析出した……。それが、5月に見た、あの異様な『針状のスケール』の正体……。」
彼女の口調には、思考に縋って自らを保とうとするような、切実な響きがあった。
僕は大画面に、電子顕微鏡で寒川さんが撮影した鋭いシリカの結晶を映す。
「皮肉にも、それが7月の致命的な閉塞の準備段階となった。旧源泉の5月のシリカ濃度は90mg/L。湧井さんの予測を5.5㎎/Lも下回った。急激に析出したシリカが地中に取り残された証左だ。流路は一層の目詰まりを起こし、抵抗が増大する。結果、新源泉の誕生により一度は下がったはずの圧力が、再び蓄積し始め、7月初めにはパンパンの与圧状態になった。こうして、新源泉へ決定的にシフトする条件が揃う。」
湧井は眉を顰めつつ、頷く。
「……5月から7月初旬にかけて、シリカ濃度が上がり続ける一方、湯温と湧出量は一見安定しました。深部が限界まで圧力を高め、石を抱え込む代わりに、熱水の供給を維持した……。そこまでは分かっていたけれど。……旧源泉は深く傷つきながら、新源泉に負けまいと、人知れず最後の力を振り絞っていたんだわ。」
彼女はそっと涙を拭う。
僕は、画面上に二つの源泉の湧水量を示すグラフを重ねて表示した。一方が落ち、他方が跳ねる。パズルのピースが噛み合うように、7月半ばの「あの日」を分岐点として。
「そして7月15日。新源泉から噴き出すお湯とガスが急増し、一気に圧力が抜ける。その結果、旧源泉の流路は与圧状態から解放され、飲み込んでいたシリカを一気に吐き出した。」
7月初旬と8月初旬のデータを画面の片隅に表示する。旧源泉のシリカは93㎎/Lから62㎎/Lまで激減。深部熱水の供給量を示す目安となる塩素イオンも83㎎/Lから75㎎/Lまで低下している。「減った」シリカは、途中の壁に張り付き、旧源泉を塞いでしまったのだ。
湧井の声が、呻くように漏れた。
「深部から血の気が引いて、今はただ、薄まった熱水が細々と這い出しているだけ……」
僕はグラフから目を離さずに補足する。
「一方、新源泉はマントル起源の孤立した水系だ。湧出量が4割近く増えたとはいえ、絶対量は限られる。現に、湧井さんが入浴した「天然の湯舟」を大きく広げた程度でしかない。温泉街全体を支えるには、到底足りない。」
彼女の顔は蒼白になる。理解は、彼女に逃げ場を与えなかった。
「……温泉街は、拠り所を失ったのね。――なんて、救いの無い結末……。」
湧井は深く息を吐いてから、はっきりと口にした。
「……あんなもの、生まれてこなければ良かったのに……」
新源泉のデータに、彼女はそれ以上、視線を向けなかった。
僕は彼女の瞳を真っ直ぐに見据えた。
――でもね、湧井さん。どんなに異質に見えても、この二つは地下深くで、一つの『熱の脈動』を共有している双子なんだ。
――プレートの先、マントルの活動という一つのトリガーが、ある流路には『生』を与え、ある流路を『瀕死』に追い込んだ。湧井さん、君がモデル化した10年に渡る旧源泉衰退のメカニズムは、間違いじゃなかった。それは、この新源泉という新しい命が産声を上げるための、長い長い『受胎』のプロセスだったんだ。
――そして、君が直近のシリカや熱水の挙動を分析してくれたからこそ、僕は深部流体モデルを用いて、新しい『常態』への移行と確立を把握できた。
――湧井さんに導かれて、僕は最後の鍵を見つけた。二人でここまで来たんだ。
彼女は立ち上がり、僕が重ねたグラフにそっと触れた。
「……今更、それが、なんだというの……旧源泉も、温泉街も予め淘汰される運命にあった……あまりに理不尽だわ。」
俯いて、唇を噛む。
「新源泉が圧力を外に逃がす役目を引き受け、旧源泉は自分を焼き固めて、静かに幕を引いた。因果関係が明らかになった以上、奇跡の余地はありません。私たちに出来るのは、事実を理解し、受け止めることだけ……。」
「湧井さん、それは違う。」
僕はきっぱり首を振った。
「旧源泉は、まだ死んじゃいない。命を削って、新源泉に主役を譲ったんだ。片や新源泉は、湧出量が圧倒的に少ない。だからこそ、僕たちは双子をもう一度、地表で混ぜ合わせる方法を考えるべきだ。……観測と分析に徹して、研究を終わらせるのじゃなく。事実の先にある未来を引き寄せるんだ。」
「双子を……混ぜ合わせる……」 湧井はその言葉を、確かめるように口にした。昼下がりの静寂の中で、僕が提示した新しい可能性が、湧井の瞳に再び理学学生としての光を宿し始めていた。
「……ありがとう、山崎さん。」
彼女の顔に、諦念とは別の、深い「理解」の表情が浮かんだ。
「私、足元ばかり見ていたのかもしれない……。」
――この瞬間、僕は単なる「手足」であることを止めた。初めて湧井薫という「頭脳」と手を携え、新しい山の可能性を描き出した。
研究室に差し込む真夏の陽光が、二人の手元のデータを、静かに、しかし力強く照らし出していた。
