――8月後半。
事態は静かに転回する。
僕の専門は、地球の内奥――コアやマントルの分析――で、温泉の変化や火山活動との関連は、率直に言って湧井薫の領域だ。だから、旧源泉がどうなろうと、僕は「外野」でいられる筈だった。でも、彼女と共に苦闘した4か月間が、その壁を壊しつつあった。
「……山崎、いるか?」
ノソリと入って来たのは岩淵さんだった。いつも無表情な彼が、微かに口角を上げている。用件が何か、僕は瞬時に察した。
「……ヘリウム同位体比(³He/⁴He)、最終値がでた。……お前なら。見て分かる……。」
プリントアウトされた数値を見た瞬間、背中に冷たいものが走った。
“8.2”
5月の暫定値(8以上)から更に上がっている。この地域で、まず出ない数字だ。飯森山の浅いマグマだまりでは説明がつかない。やはり――深い。
「ありがとうございます、岩淵さん。漸く、覚悟が出来ました。」
彼はそれ以上、何も言わなかった。
端末を立ち上げ、黙ってデータベースにアクセスする。
まず開いたのは、湧井が執念で情報を集め、作成した十年間の旧源泉の衰退モデル。僕たちの旅の出発点だ。
次に、5月から8月にかけて回収し続けた、血の滲むようなデータの群れ。研究室の皆に支えられながら、湧井と二人、泥にまみれになった。彼女が分析した画面の隅々に、あの人の癖が残っている。小数点以下の桁数。凡例の色。注記の入れ方。「迷ったら、後で疑える余地を残す」――湧井が、何度も口にしていた言葉が耳に残っている。
そして、気象庁の火山ガス公開データ、大学の契約サーバに眠るプレート沈み込み帯の深部流体モデル。
――何度目だ、これを見るのは。
だが、今日は違う。理由は分かっている。ひとりで見ているはずの画面なのに、頭の中には、もう一人の視線が隣にある。その瞳は、常に僕より一歩も二歩も先を見ていた。
そのおかげで、僕は計測屋に徹することが出来た。何か月もの間、現場で吸い込んだ硫黄臭。マンホールの底で聞いた、あの“静かすぎる”音。新源泉の咆哮と、揺るぎない湧出。Vノッチ堰の縁で、ミリ単位に神経をすり減らした指先の感覚が、数字の裏側に吸い付いていく。
データを一つずつ、並べなおし、つなぎ合わせる。何度も失敗し、何度も元に戻す。その度に条件を修正し、再計算する。深夜、研究室で一人、格闘を続ける。
瞼の裏に、マンホール脇に腹這いでライトを構え、黙って僕を照らしてくれた湧井の姿が鮮やかに蘇る。
――僕は、温泉屋じゃない。
――でも、もう「知らない」とは言えない。
彼女が作り上げた旧源泉の長期衰退モデルの延長上に、フィールドワークの数値を接続する。湧井が分析したシリカ、湯温、塩化物イオンの挙動が、「新しい主人」の輪郭を仄めかす。そのアウトラインへ、ヘリウム同位体比を手掛かりに、僕が得意とする“マントルの呼吸”の記録――沈み込み帯深部での流体放出イベントのデータ――を、そっと重ねる。
今の僕にとっては、どれも親しみ深いものだ。
そして、全てが重なった瞬間、画面の中で、静かに像が結び直された。思わず、目を見開く。
「……すべては、初めから『仕組まれていた』のか……。」
独り言が、誰もいない研究室に落ちる。7月半ば、あの不連続点は――圧力系全体の再編だった。もし、旧源泉の閉塞が「水道管の目詰まり」なら、物理的・化学的な除去で回復する。だが、「地球という巨大な熱機関の排出システム」の仕様変更だとしたら、話は別だ。新源泉が突き抜けたその瞬間に、旧源泉側の『湯を推し出す力』そのものが失われたのだ。僕は、湧井がずっと描いてきた「10年スケールの衰退モデル」を目を細めて見つめる。
――彼女は、間違っていなかった。
――ただ、彼女一人では見えない“深さ”があった。
――それは、二人でようやく届く場所だった。
窓の外が、わずかに白み始める。解析結果をまとめながら、僕は初めて迷った。この話を、湧井薫にするべきか。彼女は、今、旧源泉の「決壊」と真正面から向き合っている。慰めには、ならない。むしろ、残酷な真実だ。
それでも――
理解できる人間にしか、渡せない事実がある。データをUSBに落とす。
「……優しさじゃ、救えないな」
そう呟いて、僕は部屋の灯りを落とした。
事態は静かに転回する。
僕の専門は、地球の内奥――コアやマントルの分析――で、温泉の変化や火山活動との関連は、率直に言って湧井薫の領域だ。だから、旧源泉がどうなろうと、僕は「外野」でいられる筈だった。でも、彼女と共に苦闘した4か月間が、その壁を壊しつつあった。
「……山崎、いるか?」
ノソリと入って来たのは岩淵さんだった。いつも無表情な彼が、微かに口角を上げている。用件が何か、僕は瞬時に察した。
「……ヘリウム同位体比(³He/⁴He)、最終値がでた。……お前なら。見て分かる……。」
プリントアウトされた数値を見た瞬間、背中に冷たいものが走った。
“8.2”
5月の暫定値(8以上)から更に上がっている。この地域で、まず出ない数字だ。飯森山の浅いマグマだまりでは説明がつかない。やはり――深い。
「ありがとうございます、岩淵さん。漸く、覚悟が出来ました。」
彼はそれ以上、何も言わなかった。
端末を立ち上げ、黙ってデータベースにアクセスする。
まず開いたのは、湧井が執念で情報を集め、作成した十年間の旧源泉の衰退モデル。僕たちの旅の出発点だ。
次に、5月から8月にかけて回収し続けた、血の滲むようなデータの群れ。研究室の皆に支えられながら、湧井と二人、泥にまみれになった。彼女が分析した画面の隅々に、あの人の癖が残っている。小数点以下の桁数。凡例の色。注記の入れ方。「迷ったら、後で疑える余地を残す」――湧井が、何度も口にしていた言葉が耳に残っている。
そして、気象庁の火山ガス公開データ、大学の契約サーバに眠るプレート沈み込み帯の深部流体モデル。
――何度目だ、これを見るのは。
だが、今日は違う。理由は分かっている。ひとりで見ているはずの画面なのに、頭の中には、もう一人の視線が隣にある。その瞳は、常に僕より一歩も二歩も先を見ていた。
そのおかげで、僕は計測屋に徹することが出来た。何か月もの間、現場で吸い込んだ硫黄臭。マンホールの底で聞いた、あの“静かすぎる”音。新源泉の咆哮と、揺るぎない湧出。Vノッチ堰の縁で、ミリ単位に神経をすり減らした指先の感覚が、数字の裏側に吸い付いていく。
データを一つずつ、並べなおし、つなぎ合わせる。何度も失敗し、何度も元に戻す。その度に条件を修正し、再計算する。深夜、研究室で一人、格闘を続ける。
瞼の裏に、マンホール脇に腹這いでライトを構え、黙って僕を照らしてくれた湧井の姿が鮮やかに蘇る。
――僕は、温泉屋じゃない。
――でも、もう「知らない」とは言えない。
彼女が作り上げた旧源泉の長期衰退モデルの延長上に、フィールドワークの数値を接続する。湧井が分析したシリカ、湯温、塩化物イオンの挙動が、「新しい主人」の輪郭を仄めかす。そのアウトラインへ、ヘリウム同位体比を手掛かりに、僕が得意とする“マントルの呼吸”の記録――沈み込み帯深部での流体放出イベントのデータ――を、そっと重ねる。
今の僕にとっては、どれも親しみ深いものだ。
そして、全てが重なった瞬間、画面の中で、静かに像が結び直された。思わず、目を見開く。
「……すべては、初めから『仕組まれていた』のか……。」
独り言が、誰もいない研究室に落ちる。7月半ば、あの不連続点は――圧力系全体の再編だった。もし、旧源泉の閉塞が「水道管の目詰まり」なら、物理的・化学的な除去で回復する。だが、「地球という巨大な熱機関の排出システム」の仕様変更だとしたら、話は別だ。新源泉が突き抜けたその瞬間に、旧源泉側の『湯を推し出す力』そのものが失われたのだ。僕は、湧井がずっと描いてきた「10年スケールの衰退モデル」を目を細めて見つめる。
――彼女は、間違っていなかった。
――ただ、彼女一人では見えない“深さ”があった。
――それは、二人でようやく届く場所だった。
窓の外が、わずかに白み始める。解析結果をまとめながら、僕は初めて迷った。この話を、湧井薫にするべきか。彼女は、今、旧源泉の「決壊」と真正面から向き合っている。慰めには、ならない。むしろ、残酷な真実だ。
それでも――
理解できる人間にしか、渡せない事実がある。データをUSBに落とす。
「……優しさじゃ、救えないな」
そう呟いて、僕は部屋の灯りを落とした。
