――月も半ばに入って、理学部棟の空気は少しだけ緩んだ。
夏休みで人は減り、廊下の足音もまばらだ。その分、部屋の中では機械音がやけに大きく聞こえた。
机の上には、旧源泉のスケールを電子顕微鏡で拡大した写真が広げられている。湧井と僕は、ほとんど言葉を交わさずに、それを見比べていた。五月、六月、七月。
「……やっぱりか。」
思わず、声が漏れた。八月のサンプルも、予想を裏切らなかった。裏切らなさすぎた。
「五月の時点で、もう鋭かったですからね。」
彼女が静かに言う。針のような突起。空隙を埋めるような沈着。層を成さない、不均一な形。
「再確認、ですね。」
それ以上でも、それ以下でもない。“新しい悪さ”はない。ただ、最悪の形が、ずっと続いていたことが確定しただけだ。
通常、十年単位でゆっくり積もるシリカは、木の年輪のように滑らかな層を作る。だが、画面の中のシリカは、獲物を狙う牙のように鋭く尖っている。一瞬で、流路の内側をトゲだらけにした――その痕跡だ。
“戻す”という発想そのものが、もはや成立しない。打撃を受けた湧井は、額を押さえて蹲ってしまう。僕は彼女に代わって、マウスを握りしめた。計測屋としてデータを集めるだけの段階は、もう終わった。自分で考え、この山の構造を暴かなければならない。
そのとき、ドアが軽く叩かれた。
「はいはい、夏休みなのに呼び出された分析係ですよー。」
寒川さんだった。白衣のまま、紙束をひらひらさせている。
「八月フィールドの採水、全部出たわよ。pH、塩化物イオン(Cl⁻)、硫酸イオン(SO₄²⁻)、シリカ(SiO₂)、重炭酸イオン(HCO₃⁻)。」
机に置かれたデータは、容赦なかった。旧源泉は、さらに希釈されている。新源泉は、相変わらず落ち着いている。
「世間の女子大生は海でデート、私は暗い部屋でpHメーターの校正。人生の収支決算、いつか誰かに請求してやりたいわ。」
笑顔で皮肉を言いながらも、寒川さんの目は「早く解析しろ」と僕たちを急かしていた。彼女は知っているのだ。この数字が持つ、決定的な重みを。
「……ありがとうございます。」
湧井さんは、震える手でそのシートを受け取った。
「応援してるわよ。」
一瞬、真面目な目になった。それだけ言って、寒川さんは部屋を出ていった。空気が、また静かになる。
ここからは、僕の番だ。湧井は、少し疲れたように椅子にもたれている。半袖シャツの袖口を指先で摘み、無意識に皺を伸ばしていた。
「新旧源泉、並べるよ。」
了承を待たずに、画面を操作する。七月上旬と下旬。旧と新。同じスケールで、横に。
最初に目に飛び込んできたのは、湧水量のグラフだった。旧源泉は、はっきりと落ちている。新源泉は、その同じ期間に、跳ね上がっている。
「旧源泉の湧水量が、七月半ばで5%近く減った。その直後に、新源泉は35%も増えてる。」
まるでジグソーパズルの凹凸が、音を立てて噛み合うような――あまりに完璧で残酷な一致。
「……同じ週、同じタイミングだ。誤差なんかじゃない。」
淡々と告げたつもりの言葉が、静かな研究室に重く落ちる。
他の項目も順に確認する。新源泉は、湯温も、主要な化学組成も、驚くほど安定したままだ。ただ一つ、湧水量だけが増えている。
「やはり、水そのものは混ざっていない。新源泉の塩化物イオン(Cl⁻)の値が変わっていないことが、それを証明している。」
塩化物イオンは、いわば水の「指紋」だ。どれだけ揺すっても、熱しても、勝手に増えたり減ったりしない。だからこそ、混ざったかどうかが一目で分かる。
「それに、もし水が直接混ざっているなら、新源泉の、その他の成分も大きく変動するはずだ。でも、あいつは涼しい顔をしている。」
画面に、新源泉のEC――電気伝導率(この場合、成分濃度の大まかなバロメーターとして使われている)の推移を映す。ロガー設置以来、その値は1100µS/cm前後を、ほぼ一直線に保っている。
「ECも動いてない。つまり、成分の濃さも同じ。……量だけが、増えてる。」
「変わらないまま、強くなってる……。」
湧井の呟きは、どこか痛みを堪えるような響きを含んでいた。
「だから多分――」
僕は言葉を選びながら続ける。
「山という一つの巨大な器が、一方を見限り、もう一方を救い上げたんだ。旧源泉を押し上げていた何かが弱まり、その分が、新源泉に回った……そんな感じだ。」
断定はしない。正確なメカニズムも、まだ分からない。
湧井は、画面を見つめたまま、動かなかった。やがて、ぽつりと呟いた。
「やっぱり、隣で生きてるのは、偶然じゃなかったんですね。」
しばらくして、言葉を紡ぐ。
「あれを、生むために……私の源泉は命を削られた。」
今や、彼女の声色には、はっきりと悲しみの色が滲んでいた。
彼女の視線は、新源泉の重炭酸イオン――HCO₃⁻の推移に移る。四か月間、その値は微動だにしていない。
「……ここも、安定し過ぎてる。」
重炭酸イオンは、地下の深いところから供給される“呼吸”の痕跡だ。それが揺れていないということは、新源泉の心臓が安定して力強く脈打っていることを意味する。
「新しくて強いものが、古くて弱いものに取って替わった。」
湧井は、わずかに視線を落とした。
「……科学は残酷ですね。データが揃えば揃うほど、逃げ道がなくなる。『まだ何かできるかもしれない』って、言えなくなる。」
それは、理学学生としての敗北であり、同時に、自分が何年も向き合ってきた“源泉”の喪失でもあった。
「二つの源泉の運命。それを繋ぐ「仕組み」が必ず存在する筈です。……それが、私のモデルには、決定的に欠けていた。」
彼女の理解が、遂に感情と正面からぶつかった瞬間だった。
僕は、グラフを閉じなかった。重なったままにしておいた。この並びは、ただの結果じゃない。
――原因が、どこか深いところで共有されている
――お湯は繋がっていなくても、地下の『バランス』は一つなんだ。
最終的な解明の入口に、僕たちは立っている。フィールドワークのルーティンとしては、八月の分析作業は、ここで終わる。
でも、思考は終わらない。新しい段階が、もう始まっている。
夏休みで人は減り、廊下の足音もまばらだ。その分、部屋の中では機械音がやけに大きく聞こえた。
机の上には、旧源泉のスケールを電子顕微鏡で拡大した写真が広げられている。湧井と僕は、ほとんど言葉を交わさずに、それを見比べていた。五月、六月、七月。
「……やっぱりか。」
思わず、声が漏れた。八月のサンプルも、予想を裏切らなかった。裏切らなさすぎた。
「五月の時点で、もう鋭かったですからね。」
彼女が静かに言う。針のような突起。空隙を埋めるような沈着。層を成さない、不均一な形。
「再確認、ですね。」
それ以上でも、それ以下でもない。“新しい悪さ”はない。ただ、最悪の形が、ずっと続いていたことが確定しただけだ。
通常、十年単位でゆっくり積もるシリカは、木の年輪のように滑らかな層を作る。だが、画面の中のシリカは、獲物を狙う牙のように鋭く尖っている。一瞬で、流路の内側をトゲだらけにした――その痕跡だ。
“戻す”という発想そのものが、もはや成立しない。打撃を受けた湧井は、額を押さえて蹲ってしまう。僕は彼女に代わって、マウスを握りしめた。計測屋としてデータを集めるだけの段階は、もう終わった。自分で考え、この山の構造を暴かなければならない。
そのとき、ドアが軽く叩かれた。
「はいはい、夏休みなのに呼び出された分析係ですよー。」
寒川さんだった。白衣のまま、紙束をひらひらさせている。
「八月フィールドの採水、全部出たわよ。pH、塩化物イオン(Cl⁻)、硫酸イオン(SO₄²⁻)、シリカ(SiO₂)、重炭酸イオン(HCO₃⁻)。」
机に置かれたデータは、容赦なかった。旧源泉は、さらに希釈されている。新源泉は、相変わらず落ち着いている。
「世間の女子大生は海でデート、私は暗い部屋でpHメーターの校正。人生の収支決算、いつか誰かに請求してやりたいわ。」
笑顔で皮肉を言いながらも、寒川さんの目は「早く解析しろ」と僕たちを急かしていた。彼女は知っているのだ。この数字が持つ、決定的な重みを。
「……ありがとうございます。」
湧井さんは、震える手でそのシートを受け取った。
「応援してるわよ。」
一瞬、真面目な目になった。それだけ言って、寒川さんは部屋を出ていった。空気が、また静かになる。
ここからは、僕の番だ。湧井は、少し疲れたように椅子にもたれている。半袖シャツの袖口を指先で摘み、無意識に皺を伸ばしていた。
「新旧源泉、並べるよ。」
了承を待たずに、画面を操作する。七月上旬と下旬。旧と新。同じスケールで、横に。
最初に目に飛び込んできたのは、湧水量のグラフだった。旧源泉は、はっきりと落ちている。新源泉は、その同じ期間に、跳ね上がっている。
「旧源泉の湧水量が、七月半ばで5%近く減った。その直後に、新源泉は35%も増えてる。」
まるでジグソーパズルの凹凸が、音を立てて噛み合うような――あまりに完璧で残酷な一致。
「……同じ週、同じタイミングだ。誤差なんかじゃない。」
淡々と告げたつもりの言葉が、静かな研究室に重く落ちる。
他の項目も順に確認する。新源泉は、湯温も、主要な化学組成も、驚くほど安定したままだ。ただ一つ、湧水量だけが増えている。
「やはり、水そのものは混ざっていない。新源泉の塩化物イオン(Cl⁻)の値が変わっていないことが、それを証明している。」
塩化物イオンは、いわば水の「指紋」だ。どれだけ揺すっても、熱しても、勝手に増えたり減ったりしない。だからこそ、混ざったかどうかが一目で分かる。
「それに、もし水が直接混ざっているなら、新源泉の、その他の成分も大きく変動するはずだ。でも、あいつは涼しい顔をしている。」
画面に、新源泉のEC――電気伝導率(この場合、成分濃度の大まかなバロメーターとして使われている)の推移を映す。ロガー設置以来、その値は1100µS/cm前後を、ほぼ一直線に保っている。
「ECも動いてない。つまり、成分の濃さも同じ。……量だけが、増えてる。」
「変わらないまま、強くなってる……。」
湧井の呟きは、どこか痛みを堪えるような響きを含んでいた。
「だから多分――」
僕は言葉を選びながら続ける。
「山という一つの巨大な器が、一方を見限り、もう一方を救い上げたんだ。旧源泉を押し上げていた何かが弱まり、その分が、新源泉に回った……そんな感じだ。」
断定はしない。正確なメカニズムも、まだ分からない。
湧井は、画面を見つめたまま、動かなかった。やがて、ぽつりと呟いた。
「やっぱり、隣で生きてるのは、偶然じゃなかったんですね。」
しばらくして、言葉を紡ぐ。
「あれを、生むために……私の源泉は命を削られた。」
今や、彼女の声色には、はっきりと悲しみの色が滲んでいた。
彼女の視線は、新源泉の重炭酸イオン――HCO₃⁻の推移に移る。四か月間、その値は微動だにしていない。
「……ここも、安定し過ぎてる。」
重炭酸イオンは、地下の深いところから供給される“呼吸”の痕跡だ。それが揺れていないということは、新源泉の心臓が安定して力強く脈打っていることを意味する。
「新しくて強いものが、古くて弱いものに取って替わった。」
湧井は、わずかに視線を落とした。
「……科学は残酷ですね。データが揃えば揃うほど、逃げ道がなくなる。『まだ何かできるかもしれない』って、言えなくなる。」
それは、理学学生としての敗北であり、同時に、自分が何年も向き合ってきた“源泉”の喪失でもあった。
「二つの源泉の運命。それを繋ぐ「仕組み」が必ず存在する筈です。……それが、私のモデルには、決定的に欠けていた。」
彼女の理解が、遂に感情と正面からぶつかった瞬間だった。
僕は、グラフを閉じなかった。重なったままにしておいた。この並びは、ただの結果じゃない。
――原因が、どこか深いところで共有されている
――お湯は繋がっていなくても、地下の『バランス』は一つなんだ。
最終的な解明の入口に、僕たちは立っている。フィールドワークのルーティンとしては、八月の分析作業は、ここで終わる。
でも、思考は終わらない。新しい段階が、もう始まっている。
