フヴェルゲルミルの黄昏 ―天然理系女子と温泉調査―

――8月のフィールドワークから戻った翌日。
僕たちは深夜の研究室で、持ちかえった自動観測器のデータと向き合っていた。

ログは、黙っていても吐き出され続ける。自動観測器というのはそういうものだ。人間の感情など関わりなく、ただ時系列に数値を刻んでいく。

僕はスクリーンをスクロールしながら、生データを眺めていた。日付も区切らず、7月1日から31日までを、そのまま一本の線として。
温度、EC、湧出量。
グラフは上下に振動しながら緩やかに下っていく――はずだった。だが、途中で視線が釘付けになる。

「……これは何だ?!」
7月15日。正確には、14日から16日にかけて、殆ど垂直に線が折れ曲がっている。
前後の傾きは変わっていない。だが、その間の僅かな期間で数値が落ち込んでいる。まるで緩やかな坂の途中に、目には見えない絶壁が潜んでいたかのようだ。僕は椅子を少し引いた。
「湧井さん、7月……これ、平均で見る前に、ログそのまま見た方がいい。」
彼女は、すでに別のウィンドウでデータを開いていたが、言われてこちらに身体を寄せた。予期していたみたいな素早さだった。
「……揺らぎ、ですか?」
「うん、ここ。15日前後。ストンと落ちてる。減り具合が大きくなったんじゃなくて、切り替わってる感じだ。」

湧井は何も言わず、マウスを取った。グラフを拡大し、画面を睨む。視線が、微かに揺れる。
「……切って、見ましょうか。」
淡々とした声だった。感情は、まだ表に出ていない。
「7月上旬と下旬。全体平均、いったん忘れます。」
僕はうなずき、集計条件を切り替えた。前半は7月1日〜14日、後半は7月16日〜31日。
数字が、並ぶ。
「……湧水量が出た。上旬は93.1。でも下旬は90.2。……3パー以上の減少だな。」
僕が言うと、彼女は短く返した。
「一ヶ月じゃなく、半月で、ですね」
「次に温度。21.2度から20.0度。1度以上落ちてる。EC(電気伝導率、この場合は温泉の有効成分濃度の大まかなバロメーター)も445から410へ……。35も!?」
湧井の表情が凍り付く。
「……落ちすぎ。」
独り言のような声だった。

「熱水成分が、抜けてる。ただ減ったんじゃない。性格が変わってる。」
彼女は、画面を見たまま言った。
「深部熱水が大きく遮断されて……浅層の地下水に近づいてる。」
一拍置いて、続ける。
「山から、血の気が引いてる。」
その言い方が、僕の胸に残った。比喩なのに、あまりに正確だった。

僕は、無意識に話題を少しずらした。
「そういえば、噴霧帯のカメラログ、フィールドの時に全部回収できてた。欠損もない。」
湧井は、わずかにうなずいた。
「……ありがとう。それは、後で必ず見ますね。」
声は落ち着いている。けれど、僕には分かった。理性で立っているだけだ。

彼女は再びデータに視線をもどし、ゆっくりと、そしてはっきりと言った。
「これは、ただの減退じゃないです。」
僕は黙って聞く。
「6月から7月初旬に、高温と高圧でたくさん石を溶かして……そのあと、一気に吐き出した。」
画面を指しながら。
「セルフシーリングだけど、量じゃない。相が変わった」

僕は、その言葉の重さを、まだ完全には理解していなかった。だが、一つだけ確かなことがある。
四か月前のあの春の日、泉教授の部屋の扉を叩いた時、彼女は「10年間緩やかに続くセルフシーリング」という自分のモデルに確信を抱いていた。もし湧井の見立てが正しければ、注水による人工的加圧や、化学薬品の投入によって沈殿物を除去し得る。それにより流路を確保すれば、――まさに「道が開ける」はずだった。
でも、この「断崖」が突き付けたのは、地下のシステムそのものが、何らかの形で根底から切り替わったという非情な現実だ。再生の希望は、無残に打ち砕かれた。

しばらく沈黙が落ちる。湧井が、掠れた声でぽつりと言った。
「……私は、分かってた。」
僕は、何も言わなかった。
「5月の時点で。過去10年の変化とは、違うって。」
モニターの光が、彼女の横顔を照らしている。
「それでも……“完全な破綻”だけは、先送りにしてた。……私情で目を曇らせていた。」

僕は、彼女の震える睫毛を見ながら思った。
――この人は、知らなかったから壊れたんじゃない。分かっていたから、今、壊れ始めている。
ログは、まだ流れ続けている。機械は、素知らぬ顔で5月のデータに戻り、淡々と過去の履歴を吐き出していた。もう、僕たちが望む数字なんて、どこにもありはしないというのに。

窓の外では、真夏の生ぬるい夜風が吹き抜けていた。