フヴェルゲルミルの黄昏 ―天然理系女子と温泉調査―

「あの…」僕は手を挙げる。
――話が見えないんですが。

泉先生がため息をつく。どこまで理解できましたか?
「湧井さんと現地調査に行くってとこだけです。」
教授がやれやれといった表情で首を振る脇で、湧井が申し訳なさそうな顔をする。
「ごめんなさい、山崎さんにも分かるように説明しますね。」
「にも、とは何だよ」という言葉を辛うじて飲み込み、右手を広げ、彼女を制止する。
「いや、大丈夫。あとで復習しておくから」
別に上級生としてのプライドを気にした訳じゃない。ただ、湧井に自由に喋らせたら、どれだけ時間を喰われるか分からない。

「山崎君、その意気です。」泉先生が顎を撫でながらニヤニヤする。「飯森山で進行しているメカニズムについて、湧井さんに教えてもらってはいけません。自分で考えなさい。これは指導教官としての指示です。」
どうしてですか?彼女は不思議そうに聞く。
「彼はね、割と頭が良いんですよ。ただ、幾らか使い方が偏っているので、少々の荒療治が必要でしてね。」
そうなんですか…小さく呟く湧井の表情は「可哀そうな山崎さん…」とでも言いたげだ。この小娘に研究室の序列というものを分からせる必要がある。
「現地へ行くこと自体は構わないのですが…僕も受講や研究、昼寝などで忙しいので、当面はちょっと……日程は僕が検討します。」

「ゴールデンウィークはどうですか?少なくとも山崎君はアパートでゴロゴロしてるだけでしょう。」
泉先生はこともなげに言う。この学者には、人の心というものがないのだろうか。自室で一日中ゲームをし、ドラマや映画を一気見することが、どれほど知性と教養を磨き、魂のステージを高めるか知らないに違いない。哀れな旧時代の遺物と言う他ない。
その点……湧井はかろうじて現代人であるはずだ。今、この瞬間も、彼女はポケットから取り出したスマホを無造作にいじっている。いいぞ湧井、時代は常に若人のものだ!
「ゴールデンウィーク……天気予報だと快晴みたいですね!……旅館もまだ空室があるし……良いかもしれませんね!」
僕はがっくり肩を落とす。どおりで、メソポタミアの遺跡から「最近の若者は駄目だ」と刻まれた土器片が出土する訳だ。
「行きます、行かせて頂きます……あと二週間余りだから、急いで準備しないとですね。湧井さん、調査項目を具体的に絞り込んでくれる?機材の準備と、現地での作業は僕がリードするから。あとで連絡先を交換しよう。」
了解です、彼女は顔をほころばせる。

――ちょっと待ってください。
教授の眼鏡が冷たく光る。「湧井さん、私は二つ質問があると言いましたよ。」

彼女は体を固くする。失礼しました、もう一つはなんでしょうか。
「あなたのデータは温泉の定期成分分析を主たるソースにしていますね?」
泉先生の指摘に湧井の顔がかすかに曇る。
「ええ、そうです。法律上の義務では最長10年に一度ですが、泉質の変化が激しいため、飯森山温泉組合はほぼ毎年実施しています。ですので、時系列的な追跡が可能で……私のような部外者でも、行政に情報開示を求めれば、データを入手できますし……」
彼女の饒舌は先刻までの熱に浮かされたような様子から打って変り、どこかぎこちなく、弁解するかのような調子がある。
「情報公開請求ですか……あなたが使った最新のデータは今年の春先のものですが、役所の仕事にしては随分と素早いですね?」
彼女は息をのみ、膝の上で組んだ指先が微かに震える。
「そ、そうですね。県庁も事態を重く見ているのかもしれません。」
「それから、バブル期の事業拡大検討に伴う調査を根拠に、深部熱水は地下3キロの深さから来る、と言いましたね?あなたは民間組織の調査結果をどこから入手したのですか?」
「えーっと、どうだったかな……」

湧井の狼狽ぶりを見て、教授は口角を上げ、声色を和らげる。
「まあ、良いでしょう。では、来週のこの時間に、三人で現地調査の最終確認をします。山崎君はもちろん、湧井さんも何かあったらいつでも私を訪ねて下さいね。それじゃ、今日はここまでです。」

教授室を出ると、湧井は胸に手を当て、小さく息を吐いた。
空の光が微かに朱を帯び、キャンパスの木立は影をほぼ真東に伸ばしている。
理学棟の廊下を歩きながら、彼女は呟く。
「もうすぐ夕方ですね、なんだか、あっという間でした。」
「最後に先生から詰められてたけど、大丈夫?」
えへへ、と湧井は苦笑いして、
「泉教授には全部お見通しだったみたいです。多分、私がファイルを見せた時から。でも、救いの手を差し伸べてくれた。希望の光が見えてきました。」
鋭い洞察力と、楽観的な気性の持ち主のようだ。
「そうだ、今のうちに連絡先を交換しよう」
僕たちはスマホを取り出す。幾つかのSNSを連携させ、電話番号を登録した。男性比率が圧倒的な理学部の学生にとっては、例え相手が奇矯な少女であろうと、幾らか胸がときめく瞬間である。

「明後日にまた会おう。それまで、僕は少しでも追いつけるよう勉強しておくから、湧井さんは具体的な調査項目を絞り込んでもらえる?特に、どの場所のどういうデータが欲しいか。例えば、源泉の取水口で湯温を測りたいとか、そういうのを纏めておいて欲しい。」
彼女は真剣な表情でメモを取る。
「そしたら一緒にフィールドワーク当日の行動計画を考えよう。機材の準備と、現地での測定作業は僕がメインでやるから、安心して。そのかわり、アウトプットされるデータの解釈は、湧井さんが主役だ。」
つまり、理論を彼女が、実践を僕が担う訳だ。湧井は直ちに理解し、瞳を輝かせて首を縦に振る。
「私には現地調査の経験も、測定機器を操作するノウハウもありません。仮説の正しさを証明するために、山崎さんの正確なデータが必要です。」
リノリウム張りの階段を二人で下ると、理学棟の玄関口は、もう目前にある。
「じゃ、そういうことで。また明後日会おう」
はい、それではまた。湧井は笑顔を作って会釈する。彼女の背中を見送りながら、僕は認めざるを得なかった。

――黙っていれば、美人であると。