フヴェルゲルミルの黄昏 ―天然理系女子と温泉調査―

――ガレ場に出た瞬間、僕らは足を止めた。

立ち止まったというより、立ち尽くした、というべきか。「喉を焼くような、重く乾いた空気の塊」が吹き付ける。直感的に、ここが人の場所ではないと感じる。

「……何だ、この音。」
耳を刺すのは、ジェット機が離陸するような、キィィィィという高い風切り音。炭酸水を開けたときのような、鋭く乾いた刺激が突き抜ける。音の源は、湧出口のすぐ脇、岩盤に走った細い亀裂だった。そこからは湯も煙も見えない。ただ、猛烈な圧力で噴き出す「透明なガス」が密度差で空気を揺らし、景色を歪ませている。深部から突き上げてきた膨大な二酸化炭素が、割れ目を押し広げながら凄まじい勢いで噴出しているのだ。
周囲の光景は凄惨だった。二ヶ月前までまばらに生えていた低木は、立ち枯れる暇すら与えられず、高濃度ガスと熱害に一気に晒され細胞が壊死し、骨のように白く脱色し、カサカサに乾ききっている。その中心では、新源泉が生き生きと脈動し、以前よりずっと太い奔流となって暴れている。熱水は跳ね、迸り、窪みの湯溜まり――6月に湧井が「入浴」した場所だ――に押し寄せ、「天然の湯舟」の面積を遥かに大きく成長させていた。その縁から、溢れた湯が斜面に広がっていく。

僕は言葉を挟まず、先に計器を下ろした。ガス。温度。風向。順番を決めているわけでもないのに、体は動いた。後ろを振り返り、彼女が少し離れた位置にいるのを確認してから、測定点を一つ、外側にずらす。
「……山崎さん、下がって。これ、だめです。」
湧井が、自分の首元をかきむしるように押さえた。
「熱くないのに、苦しい……。肺が拒絶してる。ただの活性じゃありません。山が内側から、自分の重みで耐えきれなくなった『何か』を、力任せに放出している……。」
彼女の直感は、計装屋である僕よりも早く、この場所の「異常さ」を捉えていた。
「湧井さん、君はそこに。」
それだけ言って、手で制止の合図を出した。彼女は一瞬だけ逡巡し、それ以上前に出なかった。

僕は防護マスクの紐をきつく締め、機材を抱えて湧出口へと足を踏み入れた。透明な咆哮が鼓膜を震わせるなか、淡々とログを取る。水温は約45度。湧水量は、Vノッチの目盛りで以前の1.4倍。視線は数字に落ちているが、意識は周囲全体をなぞっていた。斜面の下草は、緑を失い、白く、灰のように伏している。生きていた痕跡だけが、逆にくっきりと残っていた。

――旧源泉で失われたエネルギーが、ここに、形を変えて出てきた…?

確信めいた予感が生じる。だが、新源泉の湧出量は、大幅に増えたとはいえ「天然の湯舟」を一つ満たす程度だ。衰退した旧源泉に替わり温泉街を丸ごと支えるには、到底足りない。
――これは、相当厳しい状況だぞ。
僕は暗澹たる想いに捉われた。

湧井は、新源泉を正面から見ていなかった。視界の端に、常に入っている。だが、焦点を合わせない。
旧源泉が静かに弱っていく様子は、もう何年も見てきた。閉塞によって深部熱水の供給が絞られ、浅層の地下水による希釈が進み、湯温や有効成分の濃度が下がる――それは「老衰」ではあったが、破壊ではなかった。
だが、これは違う。衰え行く隣人から容赦なく生命力を奪い、それを誇るかのように死と熱を撒き散らすこの存在は、合理でも、代替でも、必要悪でもない。そう理解しようとする思考の手前で、何かが引っかかる。
――なぜ、あなたは生まれたの?
言葉にすれば幼稚で、非科学的で、意味を成さない問い。だが、胸の奥では、その問いだけが濁って沈殿していく。
湧井薫にとって、目の前の噴出は粗暴な傲慢であり、再生には見えなかった。

山崎が一つ、計器を持ち替える音がした。その現実的な小さな動作だけが、彼女を完全な拒絶から引き戻す。
湧井は深く息を吸い、吐く。視線を上げないまま、データシートを握り直した。理解は、静かに始まっている。

だが、許容と和解への流路は――まだ、どこにもなかった。