旧源泉の取水場を離れて、しばらくは二人とも口を開かなかった。
山道に入ると、舗装の継ぎ目を越えるたび、車体が小さく跳ねる。その振動だけが、現実に戻るための合図みたいだった。
ハンドルを握りながら、僕はバックミラーを一度だけ見た。湧井薫は助手席で、シートに深く身を沈め、窓の外を見ている。いつもの、考え込むときの姿勢だ。だから最初は、何も気づかなかった。
カーブを一つ抜けたとき、視界の端にただならぬ気配を感じた。湧井薫が、タブレットを抱えたまま、激しく震えていた。指先だけじゃない。膝も、肩も、薄いブラウス越しにわかるほど、ガタガタと音を立てそうな勢いで揺らいでいる。
――ああ。
僕は、前を見たまま理解した。
――彼女は今、一人なんだ。
嗚咽は漏らさない。漏らさないように、必死に抑えている。さっきまで、彼女は踏みとどまっていた。温泉組合の古井戸さんの前で。旧源泉の惨状の前で。
――だが、今の彼女には、もう、守るものが無い。
「……ごめんなさい。」
湧井が、突然そう言った。誰に向けたか分からない、小さな囁きだった。
「……間違えた。私、間違えたわ。」
絞り出すような声だった。何を、とは言わなかった。
その先は、言葉にならなかった。代わりに、喉の奥で詰まった音が、短く漏れる。彼女はタブレットに顔を埋めるようにして、そのまま丸まってしまった。
湧井は泣いているというより、崩れていた。
失言への後悔だけではない。理論家として、彼女は「見て」しまったのだ。地下で凄まじい勢いで成長したあの「トゲのような結晶」が、彼女が愛した旧源泉への「死の宣告」であろうことを。そして、自分が苦心して築いた「予測」という武器が、山の巨大な暴威の前で、いかに無力な玩具に過ぎなかったかを。湧井自身を形作っていたものが、音も立てずに崩れ落ちていく。いつも凛として、僕を「計装屋」として導いてくれた彼女は、もうそこにはいなかった。
――失ったんだ。故郷も、源泉も、自分自身の言葉でさえも。
僕は、何も言わなかった。慰める言葉を探さなかった。アクセルを緩めることもしなかった。ただ、車を走らせた。
彼女が、今、必要としているのは、同情でも、慰めでもない。「一人になれる時間」だけだと、分かっていたから。
数分の後、湧井は顔を上げた。荒くなった呼吸を整え、袖で目元を拭い、無理に自分を律するようにシートベルトを締め直す。その横顔は、まだ震えていたけれど、逃げることを拒む理学学生の強さが、かろうじて彼女を支えていた。
「……新源泉、行きましょう。」
