フヴェルゲルミルの黄昏 ―天然理系女子と温泉調査―

――飯森山の旧源泉の取水場。
コンクリートの冷たい壁に囲まれたその場所は、かつては滾々と溢れる水の音が響く、温泉地の心臓部だった。しかし、今、僕たち二人が目にしているのは、変わり果てた「臨終の床」の光景だ。

マンホールの蓋が重い音を立てて開くと、下から吹き上がるはずの湿った空気が無い。替わりに、焦げたような匂いが這い登る。乾いた空洞が、ぽっかりと口を開けている。
湧井は一瞬、地下に目を落とし、反射的に僕の袖を掴んだ。
「山崎さん、気をつけて。……無理はしないで下さい。」
「分かってる。……行ってきます。」
僕は、梯子に足を掛けた。金属がきしむ音が、やけに大きく反響する。懐中電灯で内部を照らす湧井の姿が、みるみる遠ざかっていく。光は、僕の足元を外さなかった。
「……何かあったら、すぐ声を出してください。」
上から落ちてきた声は、語尾が強張っている。
――音が、返りすぎる。
一段、また一段。かつてなら、降りる途中で水音が耳にまとわりついたはずだった。低く唸るような流れの音、壁を舐める水の気配、足元に立ちこめる湿気。それが、ない。

底に降り立った瞬間、僕は無意識に息を止めていた。静かすぎる。自分の呼吸音が、他人のもののように遠く聞こえる。
懐中電灯の円が、取水タンクの縁をなぞる。かつて溢れ続ける湯に磨かれ、黒く艶を帯びていたはずの斜面は、ところどころが鈍い灰色に退色していた。湿り気を失った部分には、乾いた粉を吹いたようなスケール(沈殿物)が薄く張り付き、水流に削られて丸みを帯びていた角が、不自然なほど鋭く浮き出て見える。
「……湧井さん、これ、ひどいな。」
僕の声が、狭い空間に跳ね返った。以前は水槽の縁から常時溢れ出していたオーバーフローは、今では数本の筋に分解されて斜面を下っている。それでも流れは完全には途切れず、続く平面部で膜のように薄く広がり、排水溝へと導かれ――そこでどうにか、ECロガーの電極先端が水没する水位を保っていた。
Vノッチ堰を白く叩いていた5月の勢いは、全く失われている。
「……湯量が、酷く減ってる。Vノッチの目盛り、5月のときより……4、いや5ミリ下。計測は生きてる。誤差じゃない。湧出量そのものが、旅館への供給ラインを維持できる限界に近づいてるんだ。」

僕の心は、まるで鉛を流し込まれたかのように、ずっしり重くなる。特に弱々しい一本の流れに、僕の視線が吸い寄せられる。糸のように細く、断続的に揺れながら、「まだ完全には止まっていない」ことだけを、かろうじて主張している水。僕は手袋越しに指先で受け止めた。
――生温かい。
「温度……下がってるな。」
皮膚が覚えている。六月に触れたときの、じわりとした熱がない。
――量じゃない。
――温度でもない。
これは、系そのものが呼吸を浅くし、息を止めかけている静けさだ。思わず、感情的な言葉を口走る。
「……湧井さん、地下で深部熱水の供給が大幅に絞られてる。これ、もう『温泉』じゃない。ただの地下水だ。」
しゃがみ込んで簡易pH計をVノッチ堰に沈める。表示が揺れ、やがて落ち着く。
「……4.55」
声が震えた。
「上がりすぎだ……」
低温化と同時に、酸性が後退している。
――深部熱水が、激減している。
低温で、相対的に中性寄りの浅層水が、系を“埋めている”。

湧井がライトの光を横に振る。
そこには、異様な光景が広がっていた。壁を伝う白濁した析出物が、細かな突起となって林立している。まるで逆向きに成長した鍾乳石のように、鋭い。
「スケールが……トゲみたいに急成長してる。これまでよりずっと鋭い。かつてないフラッシュ現象……一気に減圧された痕跡だ。吐き出されて、冷えて、そこで沈着してる。まるで鍾乳洞みたいに、新しいシリカが沈着してる……。」
僕は黙って、その壁を見つめた。完全に死んだわけではない。だが、最早かつての系ではない。

おそらく――転相点だ。

僕がマンホールを這い上がると、湧井がすぐ横に来て、何も言わずに、僕の肩口に付いた汚れを指先で払った。

傍らには、温泉組合事務員の古井戸さんが、苦虫を噛み潰したような顔で立っていた。
「……学生さん、どうかな、何か分かりそうかい?」
彼女は僕の泥だらけの手と、タブレットに記録された凄惨なスケールの写真に視線を走らせ、唇を噛んだ。
「……現在、詳細を分析中です。」
湧井は言葉を探しながら、丁寧に、しかし婉曲に話す。それは、表面的なデータの羅列というべき内容だった。
「専門用語が多くて、正直よく分からないが……」
古井戸さんの言葉には、街の死活問題に向き合う男の、逃げ場のない焦燥がこもっていた。
「やっぱり、まだ何も分からない、ということだな?」
「……メカニズムは、未解明です。」
その言葉が、場を冷やした。彼女は、ほんの一瞬だけ目を伏せる。

彼は、深く息を吸うと、意を決したように切り出した。
「そうか……実は役所の週一の緊急調査で、な。」
低い声で続ける。
「七月の半ばに、湧出量も、湯温も、硫黄の匂いも、全部落ちた。何か、大きな変動があったんだ。もう待てない。スーパー銭湯の会社もな、とうとう、こんな湯に金は出せないと言ってきた。」
湧井が顔を上げる。感情が先に立っている。
「だから、早ければ、秋に――大規模掘削を前提に、ボーリング調査をやる。役所の許可も取ってあるんだ。」
「それだけはやめて下さい!」
彼女は、反射的に古井戸さんの腕を掴もうとした。
「やめてくれ? 街の連中を見てみろ。湯が出なきゃ、この街は終わりなんだよ。」
湧井の顔には、自分の発言の迂闊さに対する後悔の色が浮かんだ。

古井戸さんは彼女の手を振り払い、真っ直ぐにその目を見た。
「なあ、教えてくれ。何が起きてる?隠さずに言ってくれ。」
一拍の沈黙。湧井は小さく息を吸い、僕の方へ半歩だけ近づいた。
「……この源泉では、急速な『セルフシーリング』が進行しています。深部熱水の通り道が、自ら生み出した石によって、閉塞しようとしているんです。そのため、低温で真水に近い浅層水が大部分となり……」
言った瞬間、彼女ははっとした。また、口にしてはいけない言葉を使った。

古井戸さんの顔が――たちまち明るくなる。
「……シーリング? 詰まってるだけか。だったら、掘り返せばいい。新しいドリルでその『栓』をぶち抜けば、源泉はまた生き返るんだな?」
僕たち二人は、言葉を失い、沈黙した。旧源泉には、何らかの不可逆な、そして決定的な変化が発生した可能性が高い。あまりにも急激に閉塞した旧源泉の流路の奥に、なにが残されているのか。それを語る言葉を、僕も、湧井も、持ち合わせてはいなかった。