フヴェルゲルミルの黄昏 ―天然理系女子と温泉調査―

――8月のフィールドワーク当日の朝。

アスファルトは湿った熱を孕み、立ちのぼる空気はどこまでも生ぬるい。空は白く濁って低く、八月特有の力強さは微塵もなかった。

研究室の前で湧井が車に乗り込むと、ドアが少し強く閉まった。その「バン」という短い衝撃が、出発の合図のように響いた。
エンジンをかける。しばらく、二人とも黙っていた。
ラジオはつけなかった。いつもの並び、いつもの道。なのに、車内だけが別の空間みたいだった。
運転席に座る僕の指先は、ハンドルを叩くように、落ち着かないリズムを刻んでいる。助手席の湧井も、膝の上に置いたバインダーをじっと見つめたまま、殆ど顔を上げない。
山に向かうにつれて、道路脇の緑が濃くなる。
「……早く着きそうですね。」
彼女が、思いついたように言った。声は抑えているのに、わずかに上ずっている。
「そうだね。」
僕は前を見たまま答える。返事が届いたかを確かめるように、ほんの一瞬だけ彼女の方を意識した。それで会話は終わった。言葉が続かなかった。

山影が、フロントガラスの下からせり上がってくる。飯森山の山頂付近には、夏の盛りだというのに、どこか灰色に濁った薄雲がべったりと張り付いている。麓の温泉街を通り過ぎるとき、いつもなら威勢よく立ち上っているはずの共同湯の湯煙が、まるで力尽きたように低く地面を這っているのが目に入る。
「……何か、静かすぎる。街も、山も。」
僕がそう言う前から、湧井は同じ方向を見つめていた。
「……そうですね。耳の奥が少し、ツンとする感じがします。気圧のせいでしょうか。」
湧井が窓を少しだけ開けると、流れ込んできたのは真夏の緑を揺らす風ではなく、乾燥した石灰のような匂いだった。硫黄の力強い刺激臭は、ひどく薄らいでいる。

旧源泉の取水口に近づくと、ガードレールの脇で緑を誇っていたシダ類が茶色く縮れ、カサカサと乾いた音を立てていた。薄汚れた黄色に覆われていた岩肌の隙間には、生気を失った白い粉が、死に化粧のように分厚くこびり付いている。
「山崎さん。」
「うん。」
「……今日は、ログの回収を急ぎましょう。何となく……あまり長く、あそこにいてはいけない気がします。」
理屈ではなく、感覚で言っているのが分かる。再び沈黙が車内を支配する。アクセルを踏み込む僕の足に、力がこもる。エンジンは唸りを上げるが、回転数だけが空虚に上がる。

――ただ、地底から伝わってくる微細な震動のようなものが、タイヤを通じて座席に伝わってくるのを感じていた。