――7月上旬、研究室。
軽井と重森が飯森山から持ち帰った成果物が、テーブルの上に並んだ。
電子データと、採水サンプル、最低限のメモ。 受け渡しは淡々としていて、声も普段と変わらない。彼らは平然と「特に問題ありませんでした」と報告を終え、研究室を出ていく。
扉が閉まったあと、寒川さんが一瞬、解析台の前で立ち止まった。
「……思った以上に、仕事は丁寧ね。」
それが、彼女の言葉だった。褒め言葉とも、確認ともつかない言い方。だが、僕は二人の間に漂う、妙に張り詰めた空気に気づいていた。
「……あいつら、喧嘩でもしたかな。軽井のやつ、湧井さんの前なのに一度も調子に乗らなかったし、重森さんは……目が据わってた。」
「2日間のフィールドで、疲れてるんじゃないですか?」
湧井は、もうパソコンを立ち上げている。続いて、ブラックの缶コーヒーの栓を開ける。
「じゃあ、早速取り掛かりましょう。今月も、目玉はシリカです。」
その声は明るい。明るすぎるくらいだ。
「7月のシリカ、出ました。」
深夜の研究室。白衣をパリッと着こなした湧井はイオンクロマトグラフの前に立ち、最後にサンプルラインを切り替えると、画面に立ち上がったピークを一瞥した。確認するように積分範囲を指でなぞり、プリントアウトを掴む。そのまま、白衣を翻して寒川さんのもとへ駆け寄る。
二人の距離は、いつの間にか自然に近づいていた。
「5月、実測90.0。6月、92.0。7月、93.0……」
寒川さんがタブレットの数字を淡々と読み上げる。
「あなたの7月の予測は94.5だったわね。……差はたった1.5mg/L。予測に、ずいぶん近づいてきたじゃない。」
一瞬、間を置いて、試すように付け足す。
「少しは……状況が落ち着いてきた、と見ていいのかしら?」
「うーん……」
湧井が、椅子の上でくるりと回った。その勢いで、白衣の裾がふわりと広がる。
「いいえ。逆です、寒川さん。これ、一番怖いパターンです。」
彼女は迷いなく立ち上がり、ホワイトボードに激しくペンを走らせる。
・5月乖離:5.5 mg/L(予測 95.5 - 実測 90.0)
・6月乖離:3.0 mg/L(予測 95.0 - 実測 92.0)
・7月乖離:1.5 mg/L(予測 94.5 - 実測 93.0)
「乖離が縮まっているのは、シリカが供給されなくなったからじゃありません。流路が狭まったせいで地下の『与圧』が限界まで高まり、本来なら石になるはずのシリカを、無理やりお湯の中にねじ込んでいるんです。」
湧井の指先がホワイトボードを叩く。
「93.0mg/L……。今の旧源泉は、抱えきれないほどの火薬を詰め込んだ爆弾……正確には、逃がし弁を失った圧力容器です。湧水量も湯温も落ちないのは、この異常な『押し出す力』が無理やり帳尻を合わせているからに過ぎません。」
寒川さんは、すぐには返事をしなかった。彼女は湧井の書いた数値をもう一度眺め、静かに口を開く。
「……つまり、この『1.5 mg/L』という僅かな差は、均衡を回復した証拠じゃない。ダムが決壊する寸前で、水位だけがかろうじて拮抗している――そういう状態だと?」
「はい。」湧井は即答した。
「もし何かの拍子にこの圧力が抜けたら……溶け込んでいたシリカが一斉に牙を剥きます。」
――その通りよ。
寒川さんは深く頷くと、即座に計算機を叩く。
「旧源泉の湧水量を、山崎君の補正データから毎分750 Lとすると…。予測値と実測値の差は5月で5.5mg/L。つまり、毎分4,125 mg。ひと月に換算すると……約180kg。」
彼女は眉をひそめる。
「6月と7月の差分も足すと、320㎏。コンビニのガラスドア5枚分に相当する体積と重量の石英等が、地下の流路にこびりついたってことになるわね。」
「想像以上に深刻な状況です。」
湧井は、さらっと言ったが、その指先が少し震えている。寒川さんも額をおさえる。
「貴方が言うように、シリカの析出量が減っているように“見える”のは、流路の閉塞で圧が逃げていない証拠。過飽和のまま、無理やり押し上げている。……一番、壊れやすい状態ね。」
湧井はタブレット上に自分の予測曲線を呼び出す。
「……ねえ寒川さん。」
「なに?」
「私のモデル、何かが足りない。それが分かっていながら、前に進めてない。」
――その言い方は、はっきりと弱気だった。
その横で、僕は独り、2か月分の噴霧のビデオログの画像解析を進めていた。
湧井と寒川さんが「消失したシリカ」について議論を交わす中、画面を数コマずつ送り、窪地の岩肌に目を凝らす。
僕の作業は単純だ。自動検出では拾えない、“気配”の変化を人の目で探すこと。
――白い霧が出たか、出ていないか。
それだけじゃない。立ち上がりの速さ。消え際の粘り。輪郭の“エッジ”。
――このフレーム、ほんの一瞬だけ、白が濃い。
メモを打つ。
「5/27 03:14:22 濃度↑? 持続短」
確証はない。でも、違和感は残る。霧が、岩の割れ目から“にじむ”ように出ている。噴き出す、ではない。押し出される、でもない。
――滲出。
そんな言葉が浮かぶ。画面の中。霧が、ほんの一瞬、鋭い輪郭を持つ。
「……」
軽井と重森が持ち帰った6月の画像を確認した後、僕は、巻き戻して、同じフレームを再生する。
「……5月の後半から、霧の“質”が変わってます。6月分を目にして、確信が持てました。」
寒川さんと湧井に声をかける。
「立ち上がりが速くなってます。それに、消え方も……急だ。まるで、圧を抜いた瞬間に、一気に膨張して、すぐ消える。」
気づけば、湧井が僕の横に椅子を寄せ、同じ画面を覗き込んでいた。
「……今の言い方、すごく分かりやすいです。」
彼女が、画像から目を離さずに言い、ノートに何かを書き込む。
「……フラッシュ的。それ、シリカの結晶とも重なりますね。」
寒川さんが、頷いた。
特に印象に残ったのは5月31日、早朝の画像だ。岩肌に沿って伸びる、細くて白い影。まるで、逃げ道を探す指のようだ。
「……湧井さん。」
僕は、再生を止めずに言った。
「この噴霧、まだ“現象”じゃない。」
「ええ」
彼女は、僕の方を見ずに即答した。
「兆候です。シリカが増えて、流路が狭まって……その狭い隙間を、二酸化炭素(CO₂)や硫化水素(H₂S)などのガスが擦り抜けようとしている。」
寒川さんが続ける。
「湧水量や湯温、EC(電気伝導率、この場合は成分濃度の大まかなバロメーター)は『見せかけの安定』を保ってる。でも、映像には滲む。」
三人の視線が、同じ一点に重なっていく。湧井の予測曲線を辛うじてなぞりながら、闇へと消えていく実測値のグラフ。
間もなく僕たちは思い知らされる。この儚い“安定”そのものが、最後の前兆だったことを。
――まさにその瞬間、地下数キロの暗闇では、巨大なエネルギーが岩盤を噛み砕き、決定的な『揺らぎ』が生じていたのだ。
軽井と重森が飯森山から持ち帰った成果物が、テーブルの上に並んだ。
電子データと、採水サンプル、最低限のメモ。 受け渡しは淡々としていて、声も普段と変わらない。彼らは平然と「特に問題ありませんでした」と報告を終え、研究室を出ていく。
扉が閉まったあと、寒川さんが一瞬、解析台の前で立ち止まった。
「……思った以上に、仕事は丁寧ね。」
それが、彼女の言葉だった。褒め言葉とも、確認ともつかない言い方。だが、僕は二人の間に漂う、妙に張り詰めた空気に気づいていた。
「……あいつら、喧嘩でもしたかな。軽井のやつ、湧井さんの前なのに一度も調子に乗らなかったし、重森さんは……目が据わってた。」
「2日間のフィールドで、疲れてるんじゃないですか?」
湧井は、もうパソコンを立ち上げている。続いて、ブラックの缶コーヒーの栓を開ける。
「じゃあ、早速取り掛かりましょう。今月も、目玉はシリカです。」
その声は明るい。明るすぎるくらいだ。
「7月のシリカ、出ました。」
深夜の研究室。白衣をパリッと着こなした湧井はイオンクロマトグラフの前に立ち、最後にサンプルラインを切り替えると、画面に立ち上がったピークを一瞥した。確認するように積分範囲を指でなぞり、プリントアウトを掴む。そのまま、白衣を翻して寒川さんのもとへ駆け寄る。
二人の距離は、いつの間にか自然に近づいていた。
「5月、実測90.0。6月、92.0。7月、93.0……」
寒川さんがタブレットの数字を淡々と読み上げる。
「あなたの7月の予測は94.5だったわね。……差はたった1.5mg/L。予測に、ずいぶん近づいてきたじゃない。」
一瞬、間を置いて、試すように付け足す。
「少しは……状況が落ち着いてきた、と見ていいのかしら?」
「うーん……」
湧井が、椅子の上でくるりと回った。その勢いで、白衣の裾がふわりと広がる。
「いいえ。逆です、寒川さん。これ、一番怖いパターンです。」
彼女は迷いなく立ち上がり、ホワイトボードに激しくペンを走らせる。
・5月乖離:5.5 mg/L(予測 95.5 - 実測 90.0)
・6月乖離:3.0 mg/L(予測 95.0 - 実測 92.0)
・7月乖離:1.5 mg/L(予測 94.5 - 実測 93.0)
「乖離が縮まっているのは、シリカが供給されなくなったからじゃありません。流路が狭まったせいで地下の『与圧』が限界まで高まり、本来なら石になるはずのシリカを、無理やりお湯の中にねじ込んでいるんです。」
湧井の指先がホワイトボードを叩く。
「93.0mg/L……。今の旧源泉は、抱えきれないほどの火薬を詰め込んだ爆弾……正確には、逃がし弁を失った圧力容器です。湧水量も湯温も落ちないのは、この異常な『押し出す力』が無理やり帳尻を合わせているからに過ぎません。」
寒川さんは、すぐには返事をしなかった。彼女は湧井の書いた数値をもう一度眺め、静かに口を開く。
「……つまり、この『1.5 mg/L』という僅かな差は、均衡を回復した証拠じゃない。ダムが決壊する寸前で、水位だけがかろうじて拮抗している――そういう状態だと?」
「はい。」湧井は即答した。
「もし何かの拍子にこの圧力が抜けたら……溶け込んでいたシリカが一斉に牙を剥きます。」
――その通りよ。
寒川さんは深く頷くと、即座に計算機を叩く。
「旧源泉の湧水量を、山崎君の補正データから毎分750 Lとすると…。予測値と実測値の差は5月で5.5mg/L。つまり、毎分4,125 mg。ひと月に換算すると……約180kg。」
彼女は眉をひそめる。
「6月と7月の差分も足すと、320㎏。コンビニのガラスドア5枚分に相当する体積と重量の石英等が、地下の流路にこびりついたってことになるわね。」
「想像以上に深刻な状況です。」
湧井は、さらっと言ったが、その指先が少し震えている。寒川さんも額をおさえる。
「貴方が言うように、シリカの析出量が減っているように“見える”のは、流路の閉塞で圧が逃げていない証拠。過飽和のまま、無理やり押し上げている。……一番、壊れやすい状態ね。」
湧井はタブレット上に自分の予測曲線を呼び出す。
「……ねえ寒川さん。」
「なに?」
「私のモデル、何かが足りない。それが分かっていながら、前に進めてない。」
――その言い方は、はっきりと弱気だった。
その横で、僕は独り、2か月分の噴霧のビデオログの画像解析を進めていた。
湧井と寒川さんが「消失したシリカ」について議論を交わす中、画面を数コマずつ送り、窪地の岩肌に目を凝らす。
僕の作業は単純だ。自動検出では拾えない、“気配”の変化を人の目で探すこと。
――白い霧が出たか、出ていないか。
それだけじゃない。立ち上がりの速さ。消え際の粘り。輪郭の“エッジ”。
――このフレーム、ほんの一瞬だけ、白が濃い。
メモを打つ。
「5/27 03:14:22 濃度↑? 持続短」
確証はない。でも、違和感は残る。霧が、岩の割れ目から“にじむ”ように出ている。噴き出す、ではない。押し出される、でもない。
――滲出。
そんな言葉が浮かぶ。画面の中。霧が、ほんの一瞬、鋭い輪郭を持つ。
「……」
軽井と重森が持ち帰った6月の画像を確認した後、僕は、巻き戻して、同じフレームを再生する。
「……5月の後半から、霧の“質”が変わってます。6月分を目にして、確信が持てました。」
寒川さんと湧井に声をかける。
「立ち上がりが速くなってます。それに、消え方も……急だ。まるで、圧を抜いた瞬間に、一気に膨張して、すぐ消える。」
気づけば、湧井が僕の横に椅子を寄せ、同じ画面を覗き込んでいた。
「……今の言い方、すごく分かりやすいです。」
彼女が、画像から目を離さずに言い、ノートに何かを書き込む。
「……フラッシュ的。それ、シリカの結晶とも重なりますね。」
寒川さんが、頷いた。
特に印象に残ったのは5月31日、早朝の画像だ。岩肌に沿って伸びる、細くて白い影。まるで、逃げ道を探す指のようだ。
「……湧井さん。」
僕は、再生を止めずに言った。
「この噴霧、まだ“現象”じゃない。」
「ええ」
彼女は、僕の方を見ずに即答した。
「兆候です。シリカが増えて、流路が狭まって……その狭い隙間を、二酸化炭素(CO₂)や硫化水素(H₂S)などのガスが擦り抜けようとしている。」
寒川さんが続ける。
「湧水量や湯温、EC(電気伝導率、この場合は成分濃度の大まかなバロメーター)は『見せかけの安定』を保ってる。でも、映像には滲む。」
三人の視線が、同じ一点に重なっていく。湧井の予測曲線を辛うじてなぞりながら、闇へと消えていく実測値のグラフ。
間もなく僕たちは思い知らされる。この儚い“安定”そのものが、最後の前兆だったことを。
――まさにその瞬間、地下数キロの暗闇では、巨大なエネルギーが岩盤を噛み砕き、決定的な『揺らぎ』が生じていたのだ。
