――翌朝、午前8時。
まんじりともせず朝を迎えた重森は、思い乱れるまま噴霧地へ向かった。彼女の歪んだ思考は、昨夜の軽井の拒絶を「自分による完璧な管理の綻び」と解釈し、焦燥感は高まる一方だった。
旧源泉の噴霧地周辺は、朝の光を受けても、どこか息苦しかった。岩に囲まれた窪地は、夜のあいだに溜め込んだ空気をそのまま抱え込み、湿気と匂いが層になって滞留している。
「……CO2のベースラインを測る。濃度計を貸せ。」
軽井がマニュアル通りに手を伸ばす。だが、指先が触れ合うことすら恐れた重森は、反射的に濃度計を遠ざけてしまった。
「……私がやるわ。あんたはそこで、装備の確認でもしてて。」
重森は、本来軽井が担うべき「安全確認」の役割を、自己の存在を主張するかのように奪い取った。しかし、不眠による判断力の低下が、決定的なミスを招く。彼女は濃度計の電源を入れたものの、校正(ゼロ点調整)が終わるのを待たず、数値を読み飛ばして「異常なし」と判断してしまったのだ。
「大丈夫よ。」
軽井は一瞬だけ重森を見る。それから、何も言わずに窪地の先にある岩棚へ設置されたカメラへ向け斜面を下って行った。だが、窪地の底には昨夜からの無風で、致死レベルに近いCO2が淀んでいた。
「……っ、う、あ……」
声にならない音。手が岩に伸び、空を掴む。そのまま数歩進んだところで、膝がガクリと折れた。抱えていたケースが岩に当たり、鈍い音を立てる。軽井は肺を焼かれるような感覚に襲われ、声も出せずにその場に崩れ落ちた。
「軽井君!?」
後ろにいた重森は、自分の持っている濃度計が、今さらになって狂ったように警報音を上げていることに気づき、血の気が引いた。
――私だ。
――私が、確認しなかった。
自分の注意不足が、軽井を「死」の淵へ追いやったのだ。
彼女は我に返り、即座に動いた。息を止め、窪地へ飛び込む。軽井の襟元を掴み、全体重をかけて引きずり出す。
「はぁ、はぁ……死ぬかと思った……っ!」
彼は地面を掻きむしり、ようやく酸素を取り込む。傍らで震えながら「ごめんなさい、私が……」と縋り付こうとする重森を、彼は静かに静止した。
「……大丈夫だ。」
良かった……喉から出かけた言葉を、彼女は飲み込んだ。軽井が刺すような視線で自分を見ている。
「……マニュアル、見てなかったのか。」
その声に、重森の「真面目な優等生」としてのプライドは完全に砕け散った。自分が守り、導いてやるべきだと思っていた「未熟な男」から、己の稚拙な私情とミスを指摘された。その事実が、彼女のアイデンティティを根底から覆した。
「……このことは、湧井さんたちには言わない。」
ようやく呼吸を整えた軽井が、冷たく言い放った。
「え……? でも、あなたの体調も……」
「報告すれば、調査は止まる。湧井さんも、山崎も、責任を問われる。」
彼は淡々と言った。
「俺が倒れたって事実だけが独り歩きする。原因がどうであれな。
……そうなったら、一番苦しむのは、お前だろ。」
彼はふらつく足取りで立ち上がると、今度は震える手で濃度計を握り直し、マニュアルを地面に広げた。
「……いいか、今度は俺が校正する。お前はそこで、濃度計の数値を五秒ごとに復唱しろ。変化があったらすぐ叫べ。……頼んだぞ!」
軽井は伸縮式のプローブ(センサー)を最大まで伸ばし、地面を這わせるように突き出した。一歩、また一歩。数分前まで自分が昏倒していた「死の領域」を避けるべく、彼は窪地の縁に沿って進む。
重森は、タブレットの画面を血走った目で見つめ、祈るように声を絞り出した。 「……4500……5200……。まだ、大丈夫。」
画面上の数値が、軽井の一歩に合わせて跳ね上がる。
「……6800ppm。……8000を超えた! 止まって、軽井君、そこから先はマニュアルのイエローゾーンよ!」
「……分かった、あと少しだ!」
彼は、警報音が鳴り始めた濃度計のプローブを左手で保持し、カメラににじり寄る。窪地の縁は斜度を増し、足を踏み出すごとに小石が崩れ落ちる。
――転げ落ちたら、マジでヤバいな。
「……9000ppm! 軽井君、戻って! お願い、戻って!」
重森の悲鳴のような復唱が響く中、彼は岩棚の縁に手をかけ、一気に体を突き出した。 「……2,000ppm!」
谷風が軽井の肺に新しい酸素を送り込む。右手だけでカメラのハウジングに手を伸ばす。SDカードを抜き取り、ポケットにねじ込む。
「……重森、今から引き返す!……濃度計、しっかり見ててくれ!」
彼は再び危険地域を通り抜けると、崩れるように彼女の元へ這い戻ってきた。
「ハハハ、二度とやりたくねえな。」
こうして、カメラのログは無事に回収され、データは断絶を免れた。表面的には、「いつも通り」で「当たり前」の成果だ。
軽井は何事もなかったように、調査終了の連絡を入れる。帰りの車中、重森はずっと黙っていた。
夜。布団に入っても、重森は眠れなかった。目を閉じると、記憶が蘇る。膝をついた軽井の背中。
そして、自分の一言。――「大丈夫」
あれがなければ。確認していれば。しかし、それは単なるケアレスミスなどでは決してない。自分の中の、救いようのない歪みと未熟さが、軽井を死に近づけた。
彼以外の誰も知らない。責める者もいない。記録にも、報告書にも残らない。
けれど重森は、忘れない。
真面目であることを誇っていた自分が、一番大事なところで、判断を誤ったこと。
そして、その結果を、軽井が黙って引き受けたこと。
――私は、もう、元の場所には戻れない。
暗闇の中で、重森はその思いだけを噛みしめていた。
まんじりともせず朝を迎えた重森は、思い乱れるまま噴霧地へ向かった。彼女の歪んだ思考は、昨夜の軽井の拒絶を「自分による完璧な管理の綻び」と解釈し、焦燥感は高まる一方だった。
旧源泉の噴霧地周辺は、朝の光を受けても、どこか息苦しかった。岩に囲まれた窪地は、夜のあいだに溜め込んだ空気をそのまま抱え込み、湿気と匂いが層になって滞留している。
「……CO2のベースラインを測る。濃度計を貸せ。」
軽井がマニュアル通りに手を伸ばす。だが、指先が触れ合うことすら恐れた重森は、反射的に濃度計を遠ざけてしまった。
「……私がやるわ。あんたはそこで、装備の確認でもしてて。」
重森は、本来軽井が担うべき「安全確認」の役割を、自己の存在を主張するかのように奪い取った。しかし、不眠による判断力の低下が、決定的なミスを招く。彼女は濃度計の電源を入れたものの、校正(ゼロ点調整)が終わるのを待たず、数値を読み飛ばして「異常なし」と判断してしまったのだ。
「大丈夫よ。」
軽井は一瞬だけ重森を見る。それから、何も言わずに窪地の先にある岩棚へ設置されたカメラへ向け斜面を下って行った。だが、窪地の底には昨夜からの無風で、致死レベルに近いCO2が淀んでいた。
「……っ、う、あ……」
声にならない音。手が岩に伸び、空を掴む。そのまま数歩進んだところで、膝がガクリと折れた。抱えていたケースが岩に当たり、鈍い音を立てる。軽井は肺を焼かれるような感覚に襲われ、声も出せずにその場に崩れ落ちた。
「軽井君!?」
後ろにいた重森は、自分の持っている濃度計が、今さらになって狂ったように警報音を上げていることに気づき、血の気が引いた。
――私だ。
――私が、確認しなかった。
自分の注意不足が、軽井を「死」の淵へ追いやったのだ。
彼女は我に返り、即座に動いた。息を止め、窪地へ飛び込む。軽井の襟元を掴み、全体重をかけて引きずり出す。
「はぁ、はぁ……死ぬかと思った……っ!」
彼は地面を掻きむしり、ようやく酸素を取り込む。傍らで震えながら「ごめんなさい、私が……」と縋り付こうとする重森を、彼は静かに静止した。
「……大丈夫だ。」
良かった……喉から出かけた言葉を、彼女は飲み込んだ。軽井が刺すような視線で自分を見ている。
「……マニュアル、見てなかったのか。」
その声に、重森の「真面目な優等生」としてのプライドは完全に砕け散った。自分が守り、導いてやるべきだと思っていた「未熟な男」から、己の稚拙な私情とミスを指摘された。その事実が、彼女のアイデンティティを根底から覆した。
「……このことは、湧井さんたちには言わない。」
ようやく呼吸を整えた軽井が、冷たく言い放った。
「え……? でも、あなたの体調も……」
「報告すれば、調査は止まる。湧井さんも、山崎も、責任を問われる。」
彼は淡々と言った。
「俺が倒れたって事実だけが独り歩きする。原因がどうであれな。
……そうなったら、一番苦しむのは、お前だろ。」
彼はふらつく足取りで立ち上がると、今度は震える手で濃度計を握り直し、マニュアルを地面に広げた。
「……いいか、今度は俺が校正する。お前はそこで、濃度計の数値を五秒ごとに復唱しろ。変化があったらすぐ叫べ。……頼んだぞ!」
軽井は伸縮式のプローブ(センサー)を最大まで伸ばし、地面を這わせるように突き出した。一歩、また一歩。数分前まで自分が昏倒していた「死の領域」を避けるべく、彼は窪地の縁に沿って進む。
重森は、タブレットの画面を血走った目で見つめ、祈るように声を絞り出した。 「……4500……5200……。まだ、大丈夫。」
画面上の数値が、軽井の一歩に合わせて跳ね上がる。
「……6800ppm。……8000を超えた! 止まって、軽井君、そこから先はマニュアルのイエローゾーンよ!」
「……分かった、あと少しだ!」
彼は、警報音が鳴り始めた濃度計のプローブを左手で保持し、カメラににじり寄る。窪地の縁は斜度を増し、足を踏み出すごとに小石が崩れ落ちる。
――転げ落ちたら、マジでヤバいな。
「……9000ppm! 軽井君、戻って! お願い、戻って!」
重森の悲鳴のような復唱が響く中、彼は岩棚の縁に手をかけ、一気に体を突き出した。 「……2,000ppm!」
谷風が軽井の肺に新しい酸素を送り込む。右手だけでカメラのハウジングに手を伸ばす。SDカードを抜き取り、ポケットにねじ込む。
「……重森、今から引き返す!……濃度計、しっかり見ててくれ!」
彼は再び危険地域を通り抜けると、崩れるように彼女の元へ這い戻ってきた。
「ハハハ、二度とやりたくねえな。」
こうして、カメラのログは無事に回収され、データは断絶を免れた。表面的には、「いつも通り」で「当たり前」の成果だ。
軽井は何事もなかったように、調査終了の連絡を入れる。帰りの車中、重森はずっと黙っていた。
夜。布団に入っても、重森は眠れなかった。目を閉じると、記憶が蘇る。膝をついた軽井の背中。
そして、自分の一言。――「大丈夫」
あれがなければ。確認していれば。しかし、それは単なるケアレスミスなどでは決してない。自分の中の、救いようのない歪みと未熟さが、軽井を死に近づけた。
彼以外の誰も知らない。責める者もいない。記録にも、報告書にも残らない。
けれど重森は、忘れない。
真面目であることを誇っていた自分が、一番大事なところで、判断を誤ったこと。
そして、その結果を、軽井が黙って引き受けたこと。
――私は、もう、元の場所には戻れない。
暗闇の中で、重森はその思いだけを噛みしめていた。
