――梅雨空が低く垂れ込める7月初旬。
初日の調査を終えた軽井と重森は、温泉街の片隅にある古びた旅館に身を寄せていた。寂れた温泉旅館の夜は、静まり返っていた。
軽井の部屋の座卓の上には、回収したばかりのSDカードと、源泉で採水したポリエチレン瓶が整然と並んでいる。
「……ま、初日にしては完璧だろ。マニュアル通り、ECロガーの清掃も済ませたし、サンプルに泡も入ってない。これなら湧井さんにも喜んでもらえるっしょ。」
軽井は、満足げに鼻歌を歌いながらスポーツドリンクを口に運ぶ。
彼の部屋の前で、重森は一瞬だけためらい、それからノックもせずに襖を開けた。手には、コンビニ袋に入った缶チューハイを提げている。
「軽井君、飲んでる? 混ぜてよ。」
浴衣姿の重森は、はだけそうになる裾をわざとらしく押さえながら部屋に入り、軽井の傍らにしどけなく横座りした。彼は胡坐をかいたまま、そそくさと座卓の上のパソコンを閉じる。傍らにある飲み物が、アルコールではないことを重森は目ざとく見て取った。
「軽井君、体調でも悪いの?ちょっとぐらい、付き合ってよ。」
彼は無言で頷き、差し出された一本を手に取る。今日一日の作業は、驚くほどスムーズに終わっていた。採水、センサー確認。どこにもトラブルはない。
「重森さん、新源泉のラベル貼り、サンキュ。おかげで早く終わったわ。明日、残りのカメラログを回収すれば任務完了だな。」
軽井の言葉は不自然に明るい。
「……結局さ、今日の作業、拍子抜けだったな。」
そう言って軽く笑う。
「旧源泉も、新源泉も、異常なし。湧井さんたちが騒ぐほどのこと、今のところは何も起きてない。」
「……そうね。」
重森は缶に口を付けながら、視線を畳に落とす。対照的に、彼女の表情は冷え切っていた。
(……結局、私はあの女のために、軽井君と一緒に働かされているだけじゃない)
軽井の関心が、目の前にいる自分ではなく、研究室に残っている湧井に向いているという事実。それが毒のように回る。胸の中にはどす黒い不快感が、澱となって溜まっていく。
「まあ、これで初日の義務は果たしたって感じだ。」
重森の眉がわずかに動いた。
「……あなた、満足そうね。」
「そりゃあな。頼まれた仕事、きっちり終わらせたんだから。」
軽井は悪びれもせず言う。その満足感は、任務完了の達成感というより、誰かの期待に応えたという悦びに満ちていた。その「誰か」が誰であるか、あまりにも明白だった。
「ねえ。」
重森は、重森は、半分も空けていない缶を畳に置く。
「せっかく温泉旅館に泊まってるんだし……混浴の露天、行かない?」
彼女にとっては、これ以上ない「覚悟」を込めた誘いだった。自分をさらけ出すことで、軽井の視線を強引に自分の方へ引き戻そうとしたのだ。
「湧井さんと山崎君も、調査として一緒に入ったんでしょ?なら、私たちも…」
彼は一瞬目を逸らし、それから笑った。
「ああ、それなら……もう行った。」
「……は?」
「一人で入ってきたよ。飯森の湯、思ったより良かったよ! 湧井さんが『シリカが肌に張り付く』って言ってた意味、分かった気がする。やっぱり彼女の言うことは面白いよな。お前も今のうちに行っとけよ、空いてるし。」
軽薄な調子。悪気があるのか、ないのか、判別できない残酷な声音。重森の中で、何かが音を立てて爆ぜた。彼女の指が、缶チューハイのアルミをギリリと軋ませる。 無自覚なのか、それとも「眼中にない」という意図的な拒絶なのか。
――軽井の言葉は、重森が差し出した精一杯のカードを、ゴミ箱に放り込んだのだ。
「……そう。」
次の瞬間、彼女は渾身の力で軽井を押し倒し、覆いかぶさっていた。重なり合った二人の重みで、古い畳が鈍い音を立てて軋む。
「な、何だよ……。」
彼の胸倉を掴み、重森は吐き捨てるように、絞り出すように言う。
「……馬鹿で、無神経で、ゲスで。それでも……私は、あなたが好きなの。」
「ちょっと、落ち着けよ。」
起き上がろうとした軽井の胸元を、重森が強引に突き飛ばす。不意を突かれた彼は再び倒れ込む。その上に馬乗りになった重森の瞳は、これまでに見たこともないほど激しく、暗く燃えていた。
「あんたみたいなどうしようもない男、私がいないと何もできないくせに……!なんであんな女ばっかり見てるの? 私からあんたを奪うあの女が、どうしても許せない……!」
それは告白というにはあまりに暴力的で、歪んだ庇護欲と独占欲が混ざり合った叫びだった。湧井が軽井に振り向くことは無いと、重森自身が誰より理解している。ただ自分に従順で、自分の手の届く範囲で「ダメな男」であった軽井が、彼女を触媒として自分の知らない場所へ歩き始めた。それが重森には耐えがたい屈辱であり、恐怖だったのだ。
「私が守ってきたのに。何も考えず、何も背負わずにいられたあなたを……」
一瞬、軽井は目を見開く。
「お前、俺のことを、そんな風に思っていたのか……」
自嘲のつもりか、口角が微かに上がっているが、表情は引きつっている。
「私を見なさいよ!あなたが必要なもの全部、私があげるんだから……」
重森は軽井の浴衣を強引に割り開き、顕わになった鎖骨に、噛み付くようにぎこちなく唇を重ねる。剥き出しになった男の肌に、繰り返しキスの痕跡を残す。軽井は両手を広げ、視線を天井に逃がしたまま、身じろぎもしない。その目に、普段の彼には決して見出すことのできない強い光が宿っていることに、重森は気づかなかった。
「フン、あなたみたいな人が、いつまで無関心なフリを続けられるかしら……」
彼女の手は迷うことなく、軽井の身体へと伸びていく。指先に伝わる確かな熱量に、重森は征服感の混じった艶やかな声を挙げた。
「ほら、見なさいよ。あなたって最低。……でも、誰よりも大好き。」
軽井は、重森の腕を掴み、淡々とした動作でそれを自身から引き剥がした。
「……やめろよ。――そういうの、見ててきつい。」
彼の声からは、いつもの軽薄さが跡形も無く消えている。あまりに平坦で、感情の乗らないその響きは、怒声よりも残酷に重森の心を切り裂く。重森は、突き放された姿勢のまま、はだけた浴衣を直すことも忘れて呆然と畳に座り込んだ。狂おしいほどの情念も、剥き出しの肌も、軽井の心を動かすことは無かった。重森の指先が屈辱で小刻みに震える。
深い沈黙が、重苦しく二人の間に横たわる。しばらくして、軽井が諭すように言う。
「明日、早いんだ。カメラ画像回収のミスは許されない。」
立ち上がり、照明を落とす。
「もう、寝ようぜ。」
重森は、自分の部屋に戻り、暗闇の中で激しい動悸を抑えていた。一睡もできない。天井を見つめながら、心臓の鼓動と、耳鳴りだけを数え続ける。
――このまま終われるはずがない。
屈辱と、焦燥と、軽井への愛憎が、彼女の神経を逆なでし続ける。地下ではシリカの血栓が限界を迎え、過熱したガスが最後の「叫び」を上げようとしていることも知らずに、二人の関係は深い亀裂を抱えたまま、運命の2日目へと突入しようとしていた。
初日の調査を終えた軽井と重森は、温泉街の片隅にある古びた旅館に身を寄せていた。寂れた温泉旅館の夜は、静まり返っていた。
軽井の部屋の座卓の上には、回収したばかりのSDカードと、源泉で採水したポリエチレン瓶が整然と並んでいる。
「……ま、初日にしては完璧だろ。マニュアル通り、ECロガーの清掃も済ませたし、サンプルに泡も入ってない。これなら湧井さんにも喜んでもらえるっしょ。」
軽井は、満足げに鼻歌を歌いながらスポーツドリンクを口に運ぶ。
彼の部屋の前で、重森は一瞬だけためらい、それからノックもせずに襖を開けた。手には、コンビニ袋に入った缶チューハイを提げている。
「軽井君、飲んでる? 混ぜてよ。」
浴衣姿の重森は、はだけそうになる裾をわざとらしく押さえながら部屋に入り、軽井の傍らにしどけなく横座りした。彼は胡坐をかいたまま、そそくさと座卓の上のパソコンを閉じる。傍らにある飲み物が、アルコールではないことを重森は目ざとく見て取った。
「軽井君、体調でも悪いの?ちょっとぐらい、付き合ってよ。」
彼は無言で頷き、差し出された一本を手に取る。今日一日の作業は、驚くほどスムーズに終わっていた。採水、センサー確認。どこにもトラブルはない。
「重森さん、新源泉のラベル貼り、サンキュ。おかげで早く終わったわ。明日、残りのカメラログを回収すれば任務完了だな。」
軽井の言葉は不自然に明るい。
「……結局さ、今日の作業、拍子抜けだったな。」
そう言って軽く笑う。
「旧源泉も、新源泉も、異常なし。湧井さんたちが騒ぐほどのこと、今のところは何も起きてない。」
「……そうね。」
重森は缶に口を付けながら、視線を畳に落とす。対照的に、彼女の表情は冷え切っていた。
(……結局、私はあの女のために、軽井君と一緒に働かされているだけじゃない)
軽井の関心が、目の前にいる自分ではなく、研究室に残っている湧井に向いているという事実。それが毒のように回る。胸の中にはどす黒い不快感が、澱となって溜まっていく。
「まあ、これで初日の義務は果たしたって感じだ。」
重森の眉がわずかに動いた。
「……あなた、満足そうね。」
「そりゃあな。頼まれた仕事、きっちり終わらせたんだから。」
軽井は悪びれもせず言う。その満足感は、任務完了の達成感というより、誰かの期待に応えたという悦びに満ちていた。その「誰か」が誰であるか、あまりにも明白だった。
「ねえ。」
重森は、重森は、半分も空けていない缶を畳に置く。
「せっかく温泉旅館に泊まってるんだし……混浴の露天、行かない?」
彼女にとっては、これ以上ない「覚悟」を込めた誘いだった。自分をさらけ出すことで、軽井の視線を強引に自分の方へ引き戻そうとしたのだ。
「湧井さんと山崎君も、調査として一緒に入ったんでしょ?なら、私たちも…」
彼は一瞬目を逸らし、それから笑った。
「ああ、それなら……もう行った。」
「……は?」
「一人で入ってきたよ。飯森の湯、思ったより良かったよ! 湧井さんが『シリカが肌に張り付く』って言ってた意味、分かった気がする。やっぱり彼女の言うことは面白いよな。お前も今のうちに行っとけよ、空いてるし。」
軽薄な調子。悪気があるのか、ないのか、判別できない残酷な声音。重森の中で、何かが音を立てて爆ぜた。彼女の指が、缶チューハイのアルミをギリリと軋ませる。 無自覚なのか、それとも「眼中にない」という意図的な拒絶なのか。
――軽井の言葉は、重森が差し出した精一杯のカードを、ゴミ箱に放り込んだのだ。
「……そう。」
次の瞬間、彼女は渾身の力で軽井を押し倒し、覆いかぶさっていた。重なり合った二人の重みで、古い畳が鈍い音を立てて軋む。
「な、何だよ……。」
彼の胸倉を掴み、重森は吐き捨てるように、絞り出すように言う。
「……馬鹿で、無神経で、ゲスで。それでも……私は、あなたが好きなの。」
「ちょっと、落ち着けよ。」
起き上がろうとした軽井の胸元を、重森が強引に突き飛ばす。不意を突かれた彼は再び倒れ込む。その上に馬乗りになった重森の瞳は、これまでに見たこともないほど激しく、暗く燃えていた。
「あんたみたいなどうしようもない男、私がいないと何もできないくせに……!なんであんな女ばっかり見てるの? 私からあんたを奪うあの女が、どうしても許せない……!」
それは告白というにはあまりに暴力的で、歪んだ庇護欲と独占欲が混ざり合った叫びだった。湧井が軽井に振り向くことは無いと、重森自身が誰より理解している。ただ自分に従順で、自分の手の届く範囲で「ダメな男」であった軽井が、彼女を触媒として自分の知らない場所へ歩き始めた。それが重森には耐えがたい屈辱であり、恐怖だったのだ。
「私が守ってきたのに。何も考えず、何も背負わずにいられたあなたを……」
一瞬、軽井は目を見開く。
「お前、俺のことを、そんな風に思っていたのか……」
自嘲のつもりか、口角が微かに上がっているが、表情は引きつっている。
「私を見なさいよ!あなたが必要なもの全部、私があげるんだから……」
重森は軽井の浴衣を強引に割り開き、顕わになった鎖骨に、噛み付くようにぎこちなく唇を重ねる。剥き出しになった男の肌に、繰り返しキスの痕跡を残す。軽井は両手を広げ、視線を天井に逃がしたまま、身じろぎもしない。その目に、普段の彼には決して見出すことのできない強い光が宿っていることに、重森は気づかなかった。
「フン、あなたみたいな人が、いつまで無関心なフリを続けられるかしら……」
彼女の手は迷うことなく、軽井の身体へと伸びていく。指先に伝わる確かな熱量に、重森は征服感の混じった艶やかな声を挙げた。
「ほら、見なさいよ。あなたって最低。……でも、誰よりも大好き。」
軽井は、重森の腕を掴み、淡々とした動作でそれを自身から引き剥がした。
「……やめろよ。――そういうの、見ててきつい。」
彼の声からは、いつもの軽薄さが跡形も無く消えている。あまりに平坦で、感情の乗らないその響きは、怒声よりも残酷に重森の心を切り裂く。重森は、突き放された姿勢のまま、はだけた浴衣を直すことも忘れて呆然と畳に座り込んだ。狂おしいほどの情念も、剥き出しの肌も、軽井の心を動かすことは無かった。重森の指先が屈辱で小刻みに震える。
深い沈黙が、重苦しく二人の間に横たわる。しばらくして、軽井が諭すように言う。
「明日、早いんだ。カメラ画像回収のミスは許されない。」
立ち上がり、照明を落とす。
「もう、寝ようぜ。」
重森は、自分の部屋に戻り、暗闇の中で激しい動悸を抑えていた。一睡もできない。天井を見つめながら、心臓の鼓動と、耳鳴りだけを数え続ける。
――このまま終われるはずがない。
屈辱と、焦燥と、軽井への愛憎が、彼女の神経を逆なでし続ける。地下ではシリカの血栓が限界を迎え、過熱したガスが最後の「叫び」を上げようとしていることも知らずに、二人の関係は深い亀裂を抱えたまま、運命の2日目へと突入しようとしていた。
