フヴェルゲルミルの黄昏 ―天然理系女子と温泉調査―

――次いで、僕らは新源泉のデータを見る。

旧源泉に比し、こちらはデータの変動が少ない。高い恒常性を予感させる。地表の論理ではない。各数値も旧源泉とは全く異なり、独立した系統であると推測される。

【高濃度の重炭酸(HCO₃⁻)】
5月・6月共に450 mg/L超。これは多量の二酸化炭素が溶け込んでいることを示し、地下深くが供給源であると推測される。旧源泉がこれだけ喘いでいるのに、隣のあいつは平然と、地球の内奥の心音を刻み続けている……。
「……湧井さん。この重炭酸といい、ヘリウム比といい……ちょっと、浅い場所の水の数字じゃない。旧源泉の深部熱水とは比べ物にならない、地の底から上ってきてる。」
そう口にしたとき、僕は少し心の中の閊えがとれたように感じた。彼女は、僕の言葉を一言も漏らすまいとするように、わずかに身体を寄せた。その瞳が、まっすぐに僕を射抜いた。彼女はノートの白紙のページに、大きく「CO2」と書き、その下に「超臨界状態?」と疑問符を添えた。
「私もそう思います。……新源泉は、旧源泉とは直接には“競合”してない。少なくとも、お湯の流路は“繋がっていない”……“もっと下”から来るはずです。……でも、私には両者が全くの無関係には思えないのです。新源泉は、旧源泉が老いるのを待っていたかのように現れたでしょう。飯森山が火山として活力を取り戻しつつある兆候の一つだとしたら……。」

最後は噴霧だ。僕は、回収した5月分のビデオログを早送りしながら、湧井に告げた。
「5月のログを見ると、旧源泉周辺の噴霧の頻度はまだ低い……5日に1回程度だ。でも、最後の方の映像、少しだけガスが白く濃くなってる気がする。」
画面を覗き込む彼女の肩が、いつの間にか僕のすぐ横まで寄っている。
「6月のフィールドワークで僕たちが見たあの窪地……数字には出ない『予感』があるんだ。」
一瞬、彼女がこちらを見る。問い返すでもなく、確かめるように。
「大きな変化があるなら、ガスが先に動く……ということですね。」
その言い方は、予測というより、僕の考えをなぞる確認に近かった。

「うん。噴霧そのものはまだ見なかった。でも、亀裂の周りのシリカの付き方が、5月よりも『厚い』だけじゃなく、『新しくて鋭い』。それに、地面に耳を当てた時の振動……単に水が流れている音じゃない。5月にはなかった。あれは、目詰まりした流路をガスが高速で通り抜けようとしている、摩擦音じゃないかな。」
湧井の声が微かに震える。
「……それは流路内でお湯が沸騰し、蒸気がシリカのトゲの間を高速ですり抜ける『地鳴り』かもしれません。
一拍おいて、そっと呟く。
「地下の圧力が、出口を求めて暴れている……。」

彼女は、寒川さんが先月撮影した「鋭いシリカの結晶」の写真をペン先で叩いた。その仕草が、どこか悔しそうだ。
「過飽和な熱水がその隙間で急激に減圧(フラッシュ)され、あの鋭いトゲをさらに成長させている。……完全な悪循環です。」
言い切ったあと、彼女はふっと息を吐く。僕には確信があった。まだ見ぬ「6月分」のログが回収される頃、噴霧の頻度は跳ね上がっているはずだ、と。

6月のデータ処理を終えた翌日から、僕と湧井は7月の代行調査に向けたマニュアル作成に没頭した。軽井と重森という「素人以上、プロ未満」の二人が、事故なく、かつ正確なデータを持ち帰るために。
項目1:自動測定器からのログ回収
項目2:新旧源泉での採水手順
項目3:噴霧地(窪地)への進入禁止ラインの明確化、CO2濃度計の警報設定値

僕は祈るような気持ちで、最後の一文を赤文字で書き加えた。――現場で異常に直面したら、直ちに機材を捨てて撤退すること。
「……これで、誰がやっても同じ結果が出るはずだ。」

夜中の研究室で、湧井とハイタッチをする。パチン、と乾いた音が響いたあと、彼女の手はすぐには離れず、僕の掌を一度だけ、強く握り返した。僕は、最後に厚さ30ページに及ぶファイルを閉じ、表紙に『7月飯森山定期調査実施要領』と書き込んだ。