フヴェルゲルミルの黄昏 ―天然理系女子と温泉調査―

フィールドワークを終えると、僕と湧井は休む暇もなく研究室に籠る。
新旧の源泉から持ち帰った情報を分析するのだ。

――深夜。
採水サンプルを寒川さんが解析する間、湧井は、その少し後ろの席で、ノートパソコンと紙のノートを広げていた。画面には、僕の知らない数式とグラフがいくつも並び、余白には鉛筆で書き殴ったような矢印とメモが走っている。
――彼女は、データを「待って」いるのではない。
出てくる数値を、自分が作った旧源泉のモデルへ当てにいっているのだ。
ふと、湧井が僕の方を振り返り、無意識にといった様子で手招きする。
「山崎さん、ちょっと……こっちに来てください」
彼女の声は、興奮を押し殺したように上気していた。僕が言われるままに椅子を寄せると、湧井は自身のノートパソコンの方へと僕を誘う。狭いデスクで、僕たちの肩が触れ合うほどに近くなる。

「見てください。アメダスの気圧データを使って、湧水量のログから気圧の影響をキャンセルした……いわば『気圧一定の下での仮想湧出量』を算出しました。……驚きました。実際の湧出量の生データと、この仮想グラフがほとんど完全に一致しているんです。」
二本の線が重なり合い、一つの太い線となってほぼ真横に伸びている。湧井は昂揚を共有しようとするように、僕の顔を覗き込んだ。至近距離で見つめる彼女の瞳には、液晶の光が星のように反射している。
「……一致してるってことは、気圧の変化を受けていないってことか?」
「その通りです。普通、湧出量は大気圧の変動に敏感に反応して上下します。でも、この源泉は気圧という外部の重石が変化しても、お構いなしに一定の勢いで湧き出し続けている。」
「……つまり、深部熱水が“押している”。」
「はい。」
湧井は僕の言葉に、我が意を得たりと深く首を振った。
「地下の湧出圧力が圧倒的すぎて、大気圧の影響が実質的に『ゼロ』になっているんです。バロメトリック効率が、検出限界以下です。私の想定を超えています。」

一方、僕はといえば、連日、一人で旧源泉の湧水量と格闘していた。
正直に言えば、気が重かった。
湧井薫が集めてくれた過去10年間の湧水量データは、定期成分分析をソースとする。飯森山温泉組合が公表してきた、信頼できる数字だ。泉質悪化を受け、彼らは法律上の義務以上の頻度――最長10年に1回行えば良いところを、実際にはほぼ毎年――で調査を続けてきた。
だからこそ、この「過去」と、僕たちの「これから」を、同じグラフの上に載せたかった。
――だが、それが簡単じゃない。
僕が地下の取水場に設置したのは、Vノッチ堰を使ってオーバーフロー(余剰水)の「一部分」を捉え、湧水量の「相対的な増減」を記録するものだ。「絶対値」としては全湧出量の一部しか捉えていない。
センサーの「1」が、実際には何リットルなのか。その換算係数がなければ、過去の絶対値データとは繋がらない。

そこで、脳裏に閃くものがあった。飯森温泉組合は大規模な採掘を検討している。だとすれば事前調査が進んでいる筈だ。泉教授を介して町役場へ確認すると、4月から緊急現況調査を始めたという。湧出量についても、週1回、配湯を止めた深夜に役場の職員が昔ながらの目盛り読みで湧出量を直接測っているそうだ。
……これだ。
入手した数値をベースに5月の連続ログに補正をかけ、10年間のグラフの末端に、最新の点を打ち込む。相関係数は0.88。実地データとしては、十分すぎる。
「湧井さん。過去データと接続できたよ。」

湧水量のデータと、寒川さんの解析結果を一表にまとめ、旧源泉における5月と6月の変動を湧井と共に確認する。

【シリカ(SiO₂)の析出】
彼女が真っ先に指摘したのが、ここだった。
「……シリカを見て下さい。」
僕が表を広げるや否や、湧井は迷いなくその一角を指差す。

「先月よりは差が縮まっています。でも、6月の予測値95㎎/Lに対して、実測値は92㎎/L。まだ3㎎/Lの乖離が残っています。」
もし「水から消えたシリカ」がすべて流路を塞ぐ“石”に変わっているなら、閉塞の速度は湧井の計算をはるかに超えるだろう。
一方で、その乖離は5月の5.5㎎/Lから3㎎/Lへ、絶対値ではほぼ半減している。
――好転しているのではないか。
そんな考えが僕の頭に浮かんだ瞬間を捉えたように、彼女は小さく首を振った。
「濃度が上がったのは、流路の閉塞が“ダム”の役割を果たして、源流側の圧力を高めたからです。“高血圧”が進んで、本来なら途中で析出して失われるはずのシリカが、より多く水に取り込まれたまま、地表まで押し上げられている。」
つまり――
水中に残っているシリカが増えたこと自体が、圧力上昇の証拠というわけだ。

「一方で、こちらを見て下さい。」
今度は湧出量の行を示す。指先が資料の上を滑り、僕の手に一瞬重なりそうになって止まった。その距離を、彼女はまるで意識していない。声のトーンをわずかに落とし、話を続ける。
「湧出量は、予測値と実測値が完全に一致しています。閉塞が進んでいるのに、量は落ちていない。これは、旧源泉の圧力上昇によって、無理に熱水を押し上げているからです。」
その声には、かすかな震えが混じっていた。
「詰まりながら、なお流そうとしている。……危ない兆候です。」

【硫酸イオン(SO₄²⁻の乖離)】
実測値と予測値のズレは小さい。だが、無視できない。
シリカの挙動が示すように、流路は閉塞し、地下では異常な高圧が生じている。それでも旧源泉は、深部熱水を無理に押し上げることで、量だけは維持している。
にもかかわらず――
硫酸イオン(SO₄²⁻)だけが、わずかに、しかし一貫して予測値を下回っている。
「……水そのものは、ちゃんと来ている。」
湧井は表をなぞりながら、静かに言った。途中で一度、僕の方に視線を投げ、理解を確かめるように頷く。
「でも、硫酸は“作られていない”。」
硫酸イオンは、最初から水に溶けている成分ではない。深部から上がってくる硫黄ガスが、地下のどこかで酸化されて、はじめて水に取り込まれる。つまりこれは、深部熱水の「量」の問題ではなく、「途中で起きている化学反応」の問題だ。

「流路が詰まると、水は圧力で通せても……ガスや、反応する余地は、先に失われます。」
高圧によって、深部熱水の供給量自体は変わっていない。だがその一方で、地下で行われていた“硫黄を硫酸に変えるプロセス”だけが、静かに壊れ始めている。
「pHが少し高くなっているのは、その影響です。」
湧井はペン先を止め、ほとんど独り言のような声で、しかし僕にだけ届く距離で言った。
「硫酸の供給が減って、深部熱水が……わずかずつ、中性に寄り始めているんです。」

【湯温と塩化物イオン(Cl⁻)】
「湧出量に加えて、湯温と塩化物イオン(Cl⁻)も、まだ踏ん張ってるね。」
僕の言葉に、彼女は頷いた。
「……熱量とCl⁻は、深部から直接供給されますから。」
僕は、一呼吸置いて続ける。
「つまり――『パイプは狭くなったのに、地下の強い圧力が、深部熱水を無理やり押し通している』。旧源泉は今、流路が細くなった分だけ、地下に圧を溜め込み始めている、そういうことだね。」
湧井の瞳が、暗く輝いた。
「……いわば、“異常高圧の前段階”です。」
彼女は、ふっと短く息を吐く。
「山崎さん、接続してくれて分かりました。体中に血栓ができて、血圧が上がって……それでも循環量だけは保たれている。これが、今の『偽りの安定』の正体です。」

一拍置いて、低く言い切った。
「……遠からず、限界が来ます。」