――ど、どういうことですか?
思わず声が上ずる。
――ちょっと急すぎて理解が追い付きません。
「湧井さんの大胆な仮説に説得力を与えるには、最低でも数か月間の現地調査が必須です。でも先月まで女子高生だった彼女には荷が重い。……そこで山崎君の出番です。昨年度の体験入室で発揮した現場での実践力と協調性を私は買っていますよ。一方で君には、研究に芯を持たせる姿勢を彼女から学んで欲しい。つまり君達は互いの欠けた部分を補い合える関係にある訳です。」
コーヒーを啜りながら楽し気に語る先生に対し、僕は反論を試みる。
「しかし、僕には僕の研究がありますし……湧井さんの調査内容も知らずに、無責任に引き受ける訳には行きません。」
「おや、ついさっき既存の研究に幅広く目を通す、と言ったのは誰でしたっけ?君の手に余る出来事が生じれば、私がサポートをします。でも、そうですね、まずは湧井さん自身に最初から説明してもらいましょうか。」
彼女に目を遣ると、マグカップを固く握りしめたまま、瞳を潤ませ先生を見つめている。
「泉教授、過分なお心遣い、感謝の言葉もございません。」
それから、ゆっくりとこちらを向き、僕と視線を合わせて小さく頷く。
「山崎さんのご理解を得られるよう、私、最善を尽くします。」
――思わず天を仰ぐと、2メートルほど上方で蛍光灯が鈍く光っていた。
こうなっては止むを得ない。流れに身を任せよう。彼女に視線を戻し、苦い液体を飲み干す。
「分かりました。僕に出来ることは何でもしますよ。湧井さん、改めて宜しくね。」
はい、ありがとうございます!彼女はぱっと目を輝かせ、胸の前で手を合わせる。
「えーっと、不束者ですが、末永く宜しくお願いします。」
僕が苦笑しながら右手を差し出すと、湧井は両手で握りしめてきた。
それから彼女は簡単に自己紹介をした。関東の出身で、有名な女子高を卒業したという。湧井のエキセントリックさは女子校気質にも一因がありそうだが、おそらくそれだけでは無い。変わり者の下級生が持ち込んだ「研究」とやらよりも、そちらの方に僕は好奇心をそそられる。
マグカップを口元で傾けると、背筋を伸ばし、湧井薫は説明を始めた。
「分析対象は、隣接するA県の山岳地帯に位置する飯森山温泉です。名前の通り飯森山の山麓にあり、温泉街の標高は400m前後です。同山は標高1500メートルの成層火山で、緩やかな円錐に近い形状をしています。分類上は活火山で、火山フロントにも隣接しますが、過去数千年間にわたり噴火の記録・痕跡が無く、現在では行政や専門機関による常続的なモニタリングは行われていません。」
彼女は机上に地図を広げ、温泉街の位置を指先で示す。僕たちの大学がある大都市圏から車で二時間程度の距離だ。山岳地帯に入ってしばらく行った所にある。
「飯森山は顕著な火山活動こそ見られませんが、地中のマグマ溜まりは依然熱を保っており、地上から浸透した雨水などを地下3.5キロの深度で加熱していると考えられます。この深部熱水は300度を超える高温となり、断層や亀裂を流路として上昇します。そして、深度400メートルの浅層で低温の水脈と混合し、湯温や成分濃度を下げて湧出しています。ソースは、バブル期に温泉事業拡大が検討された際の調査による推定ですが。」
立て板に水のような湧井の解説を遮り、僕はおずおずと聞く。
つまり、日帰り可能なところに中くらいの火山があって、長いこと噴火はしてないけど、マグマの熱は残っている。これによって地下深くに浸透した雨水なんかが温められ、表層の冷たい地下水と混じりながら温泉として湧いている、と理解してよい?
「仰る通りです。」彼女は髪をかき上げながら答え、はにかんだように付け加える。
「ごめんなさい、緊張するとつい早口で堅苦しい喋り方になっちゃって。」
そして、幾分和らいだ声で説明を再開した。
「続いて温泉の性質ですが、以前は硫黄分が非常に豊富に含まれていました。10年前のデータでは、全硫黄量でお湯1㎏あたり70㎎をマークしています。」
ああ、あのゆで卵がいたんだ様な臭いのもとだね。お湯が白く濁ったり、少し黄色がかって見えたりするんだっけ?
「ええ、硫黄は血行を良くして肩こりや冷え性を改善したり、美肌効果もあると言われています。色については、10年前は濃い乳白色でした。当時は㏗3という強い酸性環境のもとで、硫黄由来の微粒子が生成・コロイド化してチンダル現象が起き、白く見えたんですね。これだけ酸性が強いと長湯には向きませんが、そのぶん殺菌効果があり、皮膚疾患を緩和します。」
彼女の話を殆ど聞き流し、要点と思えるところだけを衝く。つまり10年の間で大きな変化があったと?
「そうです。ここからが本題ですが、定期成分分析の結果を比較すると、この10年で全硫黄量は70㎎/㎏から20㎎/㎏へ急落、同時に㏗は3から4.36へと中性化が進んでいます。湯温も45度から21.5度へと低下し、湯色も薄くなりました。詳しい数値はこのシートに整理したんですけど…」

僕は湧井の隣に立って手書きのメモを眺める。相当の情報量で、言葉で説明したのはごく一部でしかないのは一瞥して明らかだ。
「よく調べたね。でも、得られる結果はシンプルだ。要は、硫黄の濃度、酸性度、水色、温度など様々な面で、温泉としての魅力や特色が大きく損なわれてしまった。そうだね?」
そうなんです。急激な変化に対して打つ手が無く、温泉街全体が疲弊しています。湧井は悲し気に首を振った。
「それは気の毒だね。ただ、――科学的には何の疑問もないと思うな。数千年も噴火が無ければ、マグマの熱量は相当低下しているから、湯温が下がるのは当然だよ。また、硫黄濃度と酸性度を高める物質は、主に火山由来のガスに含まれる硫化水素や二酸化硫黄だけど、どちらもマグマの硫黄分から供給される。結局、火山が老いたから、温泉がただの泉になりつつある。それだけのことなんじゃない?」
「えー」湧井は胸の下で腕を組み、眉尻を下げる。あからさまな落胆の様子を前に、僕は自分の大人げなさを少しだけ恥じた。
「ごめん、先回りして種明かししちゃったかな?」
彼女は大きく首を振り、断言する。「全くの、間違いです!」
「山崎さんも温泉街の人たちと同じことを言うんですね。でも、いいですか。温泉の変化は、飯森山が火山として緩やかに活動を再開した兆候なんです。だからこそ、生き残る道がある筈なんです!」
「そんなバカな話、あるわけないだろ!」
僕は思わず気色ばむ。
「現象は単純じゃないか。お湯がぬるくなって、マグマ由来の硫黄や酸性物質の供給も減った。そのどこが火山活動の再開なの?湧井さんの話は、最近になって泉先生の白髪が増えたのを、若返りの兆しとか言ってるのと同じだよ!」
「山崎君、指導教官の私に向かって、今の例えはちょっとひどくないかな?」
教授は僕にニッコリ笑いかける。傍らでは湧井が、興味深げな様子で呟く。
「その場合、泉先生が噴火したら、私の仮説が補強されますね……。」
先生はため息をつく。湧井さん、あなたも大概ですよ。よし、じゃあ私から二点質問しましょう。
「分かりました。お答えします。」
彼女はたちまち真剣な表情に戻り、瞳の奥が鋭く光る。
教授は人差し指で眼鏡を押し上げ、口火を切った。
「あなたは、泉質変化の主因を、飯森山の火山活動再開に伴う深部熱水・火山ガス系の水理学的閉塞であると考えていますね?」
湧井は深く頷く。――はい、そうです。
「スロースリップなどの地殻変動による閉塞である可能性をどう考えますか?これが最初の質問です。」
彼女は一層目を輝かせる。はい、親和性が乏しいと思います。近隣の他の温泉地では、類似する現象は観測されていません。つまり、影響が広域に及ぶ地殻変動ではなく、飯森山単体の現象である可能性が示唆されます。
「でも、それだけでは弱い」
湧井は一歩も引かない。まだあります。硫黄濃度・㏗・湯温などの動きを見ると、初期の4年間に急激な変化が測定され、その後は勢いを落とすものの、合計10年以に渡ってプロセスが継続しています。地殻変動であれば、もっと短時間で収束するかと。
「そうです。聞くだけ野暮でしたか。火山活動再開の兆候については?」
飯森山山林事務所へ問い合わせました。何年も前から複数地点で霧がよく目撃されています。また、今年1月に山中で無色・無臭のお湯が急に湧き出したのが確認されました。直近の数週間で量が増えているとか。
「無色・無臭の新たな源泉…霧の目撃…」泉先生はゆっくりと繰り返す。「なるほど、それは予想外でした。早期の調査が必要ですね。大まかな現状だけでも確認しないと。」
教授はカレンダーを素早く一瞥し、「申し訳ないが、私の直近の予定は埋まっています。二人で行って頂けますか。」
思わず声が上ずる。
――ちょっと急すぎて理解が追い付きません。
「湧井さんの大胆な仮説に説得力を与えるには、最低でも数か月間の現地調査が必須です。でも先月まで女子高生だった彼女には荷が重い。……そこで山崎君の出番です。昨年度の体験入室で発揮した現場での実践力と協調性を私は買っていますよ。一方で君には、研究に芯を持たせる姿勢を彼女から学んで欲しい。つまり君達は互いの欠けた部分を補い合える関係にある訳です。」
コーヒーを啜りながら楽し気に語る先生に対し、僕は反論を試みる。
「しかし、僕には僕の研究がありますし……湧井さんの調査内容も知らずに、無責任に引き受ける訳には行きません。」
「おや、ついさっき既存の研究に幅広く目を通す、と言ったのは誰でしたっけ?君の手に余る出来事が生じれば、私がサポートをします。でも、そうですね、まずは湧井さん自身に最初から説明してもらいましょうか。」
彼女に目を遣ると、マグカップを固く握りしめたまま、瞳を潤ませ先生を見つめている。
「泉教授、過分なお心遣い、感謝の言葉もございません。」
それから、ゆっくりとこちらを向き、僕と視線を合わせて小さく頷く。
「山崎さんのご理解を得られるよう、私、最善を尽くします。」
――思わず天を仰ぐと、2メートルほど上方で蛍光灯が鈍く光っていた。
こうなっては止むを得ない。流れに身を任せよう。彼女に視線を戻し、苦い液体を飲み干す。
「分かりました。僕に出来ることは何でもしますよ。湧井さん、改めて宜しくね。」
はい、ありがとうございます!彼女はぱっと目を輝かせ、胸の前で手を合わせる。
「えーっと、不束者ですが、末永く宜しくお願いします。」
僕が苦笑しながら右手を差し出すと、湧井は両手で握りしめてきた。
それから彼女は簡単に自己紹介をした。関東の出身で、有名な女子高を卒業したという。湧井のエキセントリックさは女子校気質にも一因がありそうだが、おそらくそれだけでは無い。変わり者の下級生が持ち込んだ「研究」とやらよりも、そちらの方に僕は好奇心をそそられる。
マグカップを口元で傾けると、背筋を伸ばし、湧井薫は説明を始めた。
「分析対象は、隣接するA県の山岳地帯に位置する飯森山温泉です。名前の通り飯森山の山麓にあり、温泉街の標高は400m前後です。同山は標高1500メートルの成層火山で、緩やかな円錐に近い形状をしています。分類上は活火山で、火山フロントにも隣接しますが、過去数千年間にわたり噴火の記録・痕跡が無く、現在では行政や専門機関による常続的なモニタリングは行われていません。」
彼女は机上に地図を広げ、温泉街の位置を指先で示す。僕たちの大学がある大都市圏から車で二時間程度の距離だ。山岳地帯に入ってしばらく行った所にある。
「飯森山は顕著な火山活動こそ見られませんが、地中のマグマ溜まりは依然熱を保っており、地上から浸透した雨水などを地下3.5キロの深度で加熱していると考えられます。この深部熱水は300度を超える高温となり、断層や亀裂を流路として上昇します。そして、深度400メートルの浅層で低温の水脈と混合し、湯温や成分濃度を下げて湧出しています。ソースは、バブル期に温泉事業拡大が検討された際の調査による推定ですが。」
立て板に水のような湧井の解説を遮り、僕はおずおずと聞く。
つまり、日帰り可能なところに中くらいの火山があって、長いこと噴火はしてないけど、マグマの熱は残っている。これによって地下深くに浸透した雨水なんかが温められ、表層の冷たい地下水と混じりながら温泉として湧いている、と理解してよい?
「仰る通りです。」彼女は髪をかき上げながら答え、はにかんだように付け加える。
「ごめんなさい、緊張するとつい早口で堅苦しい喋り方になっちゃって。」
そして、幾分和らいだ声で説明を再開した。
「続いて温泉の性質ですが、以前は硫黄分が非常に豊富に含まれていました。10年前のデータでは、全硫黄量でお湯1㎏あたり70㎎をマークしています。」
ああ、あのゆで卵がいたんだ様な臭いのもとだね。お湯が白く濁ったり、少し黄色がかって見えたりするんだっけ?
「ええ、硫黄は血行を良くして肩こりや冷え性を改善したり、美肌効果もあると言われています。色については、10年前は濃い乳白色でした。当時は㏗3という強い酸性環境のもとで、硫黄由来の微粒子が生成・コロイド化してチンダル現象が起き、白く見えたんですね。これだけ酸性が強いと長湯には向きませんが、そのぶん殺菌効果があり、皮膚疾患を緩和します。」
彼女の話を殆ど聞き流し、要点と思えるところだけを衝く。つまり10年の間で大きな変化があったと?
「そうです。ここからが本題ですが、定期成分分析の結果を比較すると、この10年で全硫黄量は70㎎/㎏から20㎎/㎏へ急落、同時に㏗は3から4.36へと中性化が進んでいます。湯温も45度から21.5度へと低下し、湯色も薄くなりました。詳しい数値はこのシートに整理したんですけど…」

僕は湧井の隣に立って手書きのメモを眺める。相当の情報量で、言葉で説明したのはごく一部でしかないのは一瞥して明らかだ。
「よく調べたね。でも、得られる結果はシンプルだ。要は、硫黄の濃度、酸性度、水色、温度など様々な面で、温泉としての魅力や特色が大きく損なわれてしまった。そうだね?」
そうなんです。急激な変化に対して打つ手が無く、温泉街全体が疲弊しています。湧井は悲し気に首を振った。
「それは気の毒だね。ただ、――科学的には何の疑問もないと思うな。数千年も噴火が無ければ、マグマの熱量は相当低下しているから、湯温が下がるのは当然だよ。また、硫黄濃度と酸性度を高める物質は、主に火山由来のガスに含まれる硫化水素や二酸化硫黄だけど、どちらもマグマの硫黄分から供給される。結局、火山が老いたから、温泉がただの泉になりつつある。それだけのことなんじゃない?」
「えー」湧井は胸の下で腕を組み、眉尻を下げる。あからさまな落胆の様子を前に、僕は自分の大人げなさを少しだけ恥じた。
「ごめん、先回りして種明かししちゃったかな?」
彼女は大きく首を振り、断言する。「全くの、間違いです!」
「山崎さんも温泉街の人たちと同じことを言うんですね。でも、いいですか。温泉の変化は、飯森山が火山として緩やかに活動を再開した兆候なんです。だからこそ、生き残る道がある筈なんです!」
「そんなバカな話、あるわけないだろ!」
僕は思わず気色ばむ。
「現象は単純じゃないか。お湯がぬるくなって、マグマ由来の硫黄や酸性物質の供給も減った。そのどこが火山活動の再開なの?湧井さんの話は、最近になって泉先生の白髪が増えたのを、若返りの兆しとか言ってるのと同じだよ!」
「山崎君、指導教官の私に向かって、今の例えはちょっとひどくないかな?」
教授は僕にニッコリ笑いかける。傍らでは湧井が、興味深げな様子で呟く。
「その場合、泉先生が噴火したら、私の仮説が補強されますね……。」
先生はため息をつく。湧井さん、あなたも大概ですよ。よし、じゃあ私から二点質問しましょう。
「分かりました。お答えします。」
彼女はたちまち真剣な表情に戻り、瞳の奥が鋭く光る。
教授は人差し指で眼鏡を押し上げ、口火を切った。
「あなたは、泉質変化の主因を、飯森山の火山活動再開に伴う深部熱水・火山ガス系の水理学的閉塞であると考えていますね?」
湧井は深く頷く。――はい、そうです。
「スロースリップなどの地殻変動による閉塞である可能性をどう考えますか?これが最初の質問です。」
彼女は一層目を輝かせる。はい、親和性が乏しいと思います。近隣の他の温泉地では、類似する現象は観測されていません。つまり、影響が広域に及ぶ地殻変動ではなく、飯森山単体の現象である可能性が示唆されます。
「でも、それだけでは弱い」
湧井は一歩も引かない。まだあります。硫黄濃度・㏗・湯温などの動きを見ると、初期の4年間に急激な変化が測定され、その後は勢いを落とすものの、合計10年以に渡ってプロセスが継続しています。地殻変動であれば、もっと短時間で収束するかと。
「そうです。聞くだけ野暮でしたか。火山活動再開の兆候については?」
飯森山山林事務所へ問い合わせました。何年も前から複数地点で霧がよく目撃されています。また、今年1月に山中で無色・無臭のお湯が急に湧き出したのが確認されました。直近の数週間で量が増えているとか。
「無色・無臭の新たな源泉…霧の目撃…」泉先生はゆっくりと繰り返す。「なるほど、それは予想外でした。早期の調査が必要ですね。大まかな現状だけでも確認しないと。」
教授はカレンダーを素早く一瞥し、「申し訳ないが、私の直近の予定は埋まっています。二人で行って頂けますか。」
