林道前の駐車場で車を降りると、僕たちは徒歩で新源泉への道を辿る。
樹林帯を抜けた瞬間、視界が一気にほどけた。初夏の陽光が、僕たちの視界を鮮やかに塗り替える。
ガレ場の向こうには、抜けるような青空。重なり合う稜線はやわらかな曲線を描き、遠くまで続いていた。風が通り抜けるたび、乾いた岩と草の匂いが混じり合う。
旧源泉と同じ山とは、にわかには信じがたいほど、開放的な光景だった。
「……すごい。ここは、こんなに自由なんだ。」
湧井の声に、ようやく色が戻る。彼女は両手を腰に当て、深く息を吸い込んだ。この半日で初めて見せる、肩の力が抜けた姿だった。
「そうだね。あの取水場とは、空気の重さが違う。」
旧源泉の取水場で感じた、あの湿って澱んだ閉塞感。それが、ここにはない。岩の割れ目から勢いよく溢れ出す新源泉は、音も、匂いも、どこか“若い”。
僕は彼女に補助してもらいながら、新源泉のログ回収を始めた。
「ECロガー、回収。……湧水量の水位データも完璧だ。こっちは何のトラブルないよ。新源泉は、ただひたすらに自分の出番を楽しんでいるみたいだ。」
「ええ。酸性も弱いですし、沈殿物もほとんど出ない。装置に優しいお湯です」
新源泉の水は澄んでいて、装置の金属部にも嫌な変色は見られない。ログの吸い上げも、あっけないほど順調だった。
「……よし。欠損なし。」
「お疲れさまです。」
その一言で、胸の奥に溜まっていた緊張が、ふっと緩んだ。旧源泉で悲壮な現実を目にした直後だったからだろう。“新しく湧きあがるエネルギー”に、心を救われた思いがする。
作業を終え、機材を片付える。風が吹き抜け、ガレ場の向こうで雲がゆっくり流れていく。湧井薫は、しばらく無言で空を見上げていたが、やがて大きく伸びをした。
「あー! 終わったー!」
そう言うと、少し照れたような、ぎこちない手つきで登山靴の紐を解き始めた。
「え?」
僕が声を上げる間もなく、彼女は素足になり、上着を取り去り――
「ちょ、ちょっと待って、湧井さん?」
「ん?」
振り返った彼女の表情は、驚くほど無邪気だった。
「……何してるの?」
「何って……」
そう言いながら、湧井はシャツのボタンを外す。日に焼けていない肩が、強い光にさらされる。
「山崎さん、言いましたよね? 現状を『体験』しなきゃって。」
驚く僕を余所に、彼女はタンクトップをさらりと脱ぎ捨てた。その下から現れたのは――
「……水着?」
「はい。フィールドワーク用です。」
湧井薫は悪戯っぽく笑っていた。衣服の下には、機能的なスポーツ水着を着込んでいたのだ。無駄のないカッティングがしなやかな脚のラインを際立たせ、肌にぴったりと吸い付く素材が、胸元の曲線をダイレクトに伝えている。
あまりに迷いのないその潔さに、かえって僕の視線は行き場を失い、泳いだ。健康的な機能美だ――そう言い聞かせても、跳ね上がった鼓動までは制御できなかった。
「ほら、5月に言ったじゃないですか。“新源泉、気持ちよさそうだ”って。」
記憶が、一気に繋がる。あの何気ない一言。
――冗談だと思っていた。
彼女は何の躊躇もなく、ガレ場の窪地に溜まった、透明度の高い新源泉の湯溜まりに足を滑り込ませた。
「……あ」
水に触れた瞬間、彼女の表情が変わる。驚きと、納得が同時に浮かんだ顔だった。
「5月のときは足湯だけだったけど……やっぱり、全身で感じないと分からないですね。」
そのまま、ゆっくりと腰を下ろす。湯面が揺れ、淡い湯気が陽光に溶けていく。
「……ふう。これは、いい湯です」
心底、気持ちよさそうな声だった。僕は、完全に言葉を失っていた。
「刺激がない。pHが中性寄りだから、肌に引っかかりが全然ない。でも、薄いわけじゃない……」
「……」
「この“重さ”。旧源泉とは違う。深いところから、迷いなく押し上げられてる感じがする。」
彼女は肩まで湯に浸かり、空を見上げる。
「温度も、45度あるのに当たりが柔らかい。塩化物と炭酸水素が、ちゃんとクッションになってる……長く浸かれるお湯ですね」
それは、感想というより“診断”だった。だが、語り口は不思議と柔らかく、湯に身を委ねていることが伝わってくる。
僕は岩場に腰を下ろし、湧井の横顔を見る。風に揺れる髪、湯気に縁取られた輪郭。研究に没頭しているときとは違う、素の彼女がそこにいた。
「……本当に、入るんだね。」
「?だって、源泉ですよ?」
理屈としては、間違っていない。だが、その無邪気さが、かえって反応に困るのだ。
「……ここ、生きてますね」
湧井が、ぽつりと、そう言った。その言葉に、胸の奥が少しだけ軽くなるのを感じた。確かに、ここには“活力”がある。流れ、温度、匂い――どれもが、前向きだ。
彼女の言葉は、単なる気休めではない。科学的な直観に裏打ちされた実感だ。それが温泉街の自滅的な衝動に怯えていた僕の心に、わずかな慰めを与えてくれる。
「……湧井さん」
「はい?」
「せめて……人が来ないか、確認してからにしよう」
彼女は一瞬きょとんとし、すぐに笑った。
「大丈夫です。こんな所へ来るのは、私たちだけですから」
その笑顔に、思わずため息が漏れる。
旧源泉で見た、あの絶望的な現実。それを、完全に消せるわけではない。
それでも――
新源泉の湯に浸かる湧井を見ていると、ほんの少しだけ、「まだ間に合うかもしれない」と思えてしまう自分がいた。
樹林帯を抜けた瞬間、視界が一気にほどけた。初夏の陽光が、僕たちの視界を鮮やかに塗り替える。
ガレ場の向こうには、抜けるような青空。重なり合う稜線はやわらかな曲線を描き、遠くまで続いていた。風が通り抜けるたび、乾いた岩と草の匂いが混じり合う。
旧源泉と同じ山とは、にわかには信じがたいほど、開放的な光景だった。
「……すごい。ここは、こんなに自由なんだ。」
湧井の声に、ようやく色が戻る。彼女は両手を腰に当て、深く息を吸い込んだ。この半日で初めて見せる、肩の力が抜けた姿だった。
「そうだね。あの取水場とは、空気の重さが違う。」
旧源泉の取水場で感じた、あの湿って澱んだ閉塞感。それが、ここにはない。岩の割れ目から勢いよく溢れ出す新源泉は、音も、匂いも、どこか“若い”。
僕は彼女に補助してもらいながら、新源泉のログ回収を始めた。
「ECロガー、回収。……湧水量の水位データも完璧だ。こっちは何のトラブルないよ。新源泉は、ただひたすらに自分の出番を楽しんでいるみたいだ。」
「ええ。酸性も弱いですし、沈殿物もほとんど出ない。装置に優しいお湯です」
新源泉の水は澄んでいて、装置の金属部にも嫌な変色は見られない。ログの吸い上げも、あっけないほど順調だった。
「……よし。欠損なし。」
「お疲れさまです。」
その一言で、胸の奥に溜まっていた緊張が、ふっと緩んだ。旧源泉で悲壮な現実を目にした直後だったからだろう。“新しく湧きあがるエネルギー”に、心を救われた思いがする。
作業を終え、機材を片付える。風が吹き抜け、ガレ場の向こうで雲がゆっくり流れていく。湧井薫は、しばらく無言で空を見上げていたが、やがて大きく伸びをした。
「あー! 終わったー!」
そう言うと、少し照れたような、ぎこちない手つきで登山靴の紐を解き始めた。
「え?」
僕が声を上げる間もなく、彼女は素足になり、上着を取り去り――
「ちょ、ちょっと待って、湧井さん?」
「ん?」
振り返った彼女の表情は、驚くほど無邪気だった。
「……何してるの?」
「何って……」
そう言いながら、湧井はシャツのボタンを外す。日に焼けていない肩が、強い光にさらされる。
「山崎さん、言いましたよね? 現状を『体験』しなきゃって。」
驚く僕を余所に、彼女はタンクトップをさらりと脱ぎ捨てた。その下から現れたのは――
「……水着?」
「はい。フィールドワーク用です。」
湧井薫は悪戯っぽく笑っていた。衣服の下には、機能的なスポーツ水着を着込んでいたのだ。無駄のないカッティングがしなやかな脚のラインを際立たせ、肌にぴったりと吸い付く素材が、胸元の曲線をダイレクトに伝えている。
あまりに迷いのないその潔さに、かえって僕の視線は行き場を失い、泳いだ。健康的な機能美だ――そう言い聞かせても、跳ね上がった鼓動までは制御できなかった。
「ほら、5月に言ったじゃないですか。“新源泉、気持ちよさそうだ”って。」
記憶が、一気に繋がる。あの何気ない一言。
――冗談だと思っていた。
彼女は何の躊躇もなく、ガレ場の窪地に溜まった、透明度の高い新源泉の湯溜まりに足を滑り込ませた。
「……あ」
水に触れた瞬間、彼女の表情が変わる。驚きと、納得が同時に浮かんだ顔だった。
「5月のときは足湯だけだったけど……やっぱり、全身で感じないと分からないですね。」
そのまま、ゆっくりと腰を下ろす。湯面が揺れ、淡い湯気が陽光に溶けていく。
「……ふう。これは、いい湯です」
心底、気持ちよさそうな声だった。僕は、完全に言葉を失っていた。
「刺激がない。pHが中性寄りだから、肌に引っかかりが全然ない。でも、薄いわけじゃない……」
「……」
「この“重さ”。旧源泉とは違う。深いところから、迷いなく押し上げられてる感じがする。」
彼女は肩まで湯に浸かり、空を見上げる。
「温度も、45度あるのに当たりが柔らかい。塩化物と炭酸水素が、ちゃんとクッションになってる……長く浸かれるお湯ですね」
それは、感想というより“診断”だった。だが、語り口は不思議と柔らかく、湯に身を委ねていることが伝わってくる。
僕は岩場に腰を下ろし、湧井の横顔を見る。風に揺れる髪、湯気に縁取られた輪郭。研究に没頭しているときとは違う、素の彼女がそこにいた。
「……本当に、入るんだね。」
「?だって、源泉ですよ?」
理屈としては、間違っていない。だが、その無邪気さが、かえって反応に困るのだ。
「……ここ、生きてますね」
湧井が、ぽつりと、そう言った。その言葉に、胸の奥が少しだけ軽くなるのを感じた。確かに、ここには“活力”がある。流れ、温度、匂い――どれもが、前向きだ。
彼女の言葉は、単なる気休めではない。科学的な直観に裏打ちされた実感だ。それが温泉街の自滅的な衝動に怯えていた僕の心に、わずかな慰めを与えてくれる。
「……湧井さん」
「はい?」
「せめて……人が来ないか、確認してからにしよう」
彼女は一瞬きょとんとし、すぐに笑った。
「大丈夫です。こんな所へ来るのは、私たちだけですから」
その笑顔に、思わずため息が漏れる。
旧源泉で見た、あの絶望的な現実。それを、完全に消せるわけではない。
それでも――
新源泉の湯に浸かる湧井を見ていると、ほんの少しだけ、「まだ間に合うかもしれない」と思えてしまう自分がいた。
