――6月初旬。
飯森山の空気は、5月よりもさらに濃い緑と、どこか精の抜けたような硫黄の匂いに包まれていた。
フィールドワーク二回目の主な目的は、二つの源泉で1ヶ月稼働し続けた自動計測機のデータ回収と、定例の水質調査だ。
曇天の下、僕と湧井は旧源泉の取水場に立っていた。あのときと同じ、錆びた手すりと湿ったコンクリート。だが今日は、胸を締め付けるような緊張はない。目的は二つ――自動計測機のログ回収と点検だ。
「じゃあ、始めるよ。」
僕は慣れた手つきで、地下に降りるマンホールを開けた。湧井が上からチェックリストを読み上げる。
「ECロガー、まず外観確認。ケーブル被覆……」
「問題なさそうだ。」
懐中電灯の光に照らされる機器は、静かに仕事を続けていた。結露も、腐食もない。岩淵さんに教え込まれた通りに設置したドリップループが、きちんと役目を果たしている。
「ログ、回収する。」
USBケーブルを挿し、データを吸い上げる。数分後、進捗バーが最後まで到達した。
「……よし。欠損なし。全部取れた。」
「お疲れさまです。」
湧井は小さく微笑んだ。大きなトラブルが無いことが、これほどありがたい現場もない。マンホールから差し出す僕の手に、彼女がそっと自分の手を重ねて、引き上げるのを手伝ってくれた。その掌の熱が、初夏の気配を含んだ風の中で、ひどく鮮明に感じられた。
地上に戻ると、五十代半ばの男性が、帽子を取りながら迎えてくれた。温泉組合の事務員、古井戸さんだ。自動測定器に付着するスケール(沈着物)を取り除く役を引き受けて下さった、僕らにとっての大恩人である。この作業は湧井が提案し、泉教授を通じて組合に頼み込んだのだものだ。僕と彼女が丁重にお礼を述べると、彼も頭を下げる。
「いえいえ……こちらこそ、ありがとうございます。……本当に。」
古井戸さんの声には、大学が調査に乗り出したことへの安堵と期待、そしてどこか切迫したものが混じっていた。
「……学生さん、どうですか。山はまだ“持ちそう”ですかね」
僕たちに問いかける声には、疲れが滲む。その眼下には、寂れた温泉街が広がっている。湧井は丁寧に頭を下げる。
「まだ途中経過ですが……少しずつ、分かってきていることはあります。」
「ええ。もう、それだけで十分です。」
古井戸さんは、取水場の奥――かつては湯気が立ち込めていた配管の列を見やった。
「組合の連中は、みんな必死ですよ。湯温が下がっちまって、客に源泉掛け流しだって胸を張れねえ。毎晩、ボイラーで『焚き返し』をしてますが、燃料代だけで赤字だ。その上、配管には見たこともねえような硬い石がびっしり詰まっちまう。掃除しても、交換しても、追いつかねえ。」
僕は思わず、あの白く硬い沈殿物を思い出した。
「硫黄の匂いも薄くなる一方で……。“昔はもっと効いた”って、常連さんから言われるたびに……返す言葉もねえ。このままじゃ、飯森の湯は死んじまう。」
彼は、言葉を切った。苦渋に満ちた表情だった。
「店をたたむ旅館も多くてね。余った湯を大手スーパー銭湯に売っちゃあいるが、足元を見られて二束三文さ。みんなタンクローリーで遠くへ運び去られて、街には一銭も落ちやしねえ。」
湧井の指が、無意識に強く組まれているのに気づく。そして――僕自身も、胸の奥が重くなるのを感じていた。
これは、論文のデータではない。生業の話だ。
湧井は言葉を選びきれず、唇を噛んだ。 僕たちには、彼の語る「焚き返し」や「詰まり」が、10年に渡り旧源泉が首を絞められ続けた末期症状であることを、理解できてしまうからだ。
「だからね、学生さん。これ、まだ内密なんだが……」
古井戸さんは、僕たちに一歩近づき、声を潜めた。その瞳には、危ういほどの「期待」が宿っていた。
「町役場と協力して、行政に補助金を申請したんです。座して死を待つくらいなら、一か八か、旧源泉のさらに深部を『大規模に再ボーリング(採掘)』して、眠っている熱水を叩き起こそうって話が進んでるんですよ。これが、俺たちの最後の切り札だ。」
「……えっ、それは……」 湧井の声が、小さく震えた。
「もっと深く掘れば、まだ何かが出てくるかもしれない。昔だって、掘って掘って、今の温泉街を作ってきたんですから。」
僕は、何も言えなかった。風の音だけが聞こえる。
――それが、何を意味するか。
――地下で起きている「今」を、どれほど乱す可能性があるか。
もし、急激な変化に直面する現在の旧源泉の流路に対し、地上から巨大な衝撃を与えたならば。無数の血栓に耐えている圧力のバランスが、外側からの破壊によって一気に暴発するかもしれない。それは再生ではなく、熱水系の完全な崩壊、あるいは……。
僕は、湧井薫と顔を見合わせた。 本当なら「それは自殺行為だ」と叫びたい。しかし、生活を、家族を背負って崖っぷちに立つ彼らに対し、まだ確証のない「推察」だけでその希望を否定する権利は、今の僕たちにはなかった。
「……貴重なお話、ありがとうございます。」
湧井は、理学部の一学生として、精一杯に言葉を選んだ。
「私たちも、できる限り急いで、状況を明らかにします。」
古井戸さんは、深く頭を下げた。
「お頼みします。本当に……時間がないんで。」
彼と別れ、新源泉へ向かう車中で、湧井は窓の外を睨みつけたまま一度も口を開かなかった。言葉は要らなかった。調査は、もう悠長なものではない。閑散とした道路を、地響きを立てて走り去るタンクローリーが、僕らに現実を突き付けていた。
飯森山の空気は、5月よりもさらに濃い緑と、どこか精の抜けたような硫黄の匂いに包まれていた。
フィールドワーク二回目の主な目的は、二つの源泉で1ヶ月稼働し続けた自動計測機のデータ回収と、定例の水質調査だ。
曇天の下、僕と湧井は旧源泉の取水場に立っていた。あのときと同じ、錆びた手すりと湿ったコンクリート。だが今日は、胸を締め付けるような緊張はない。目的は二つ――自動計測機のログ回収と点検だ。
「じゃあ、始めるよ。」
僕は慣れた手つきで、地下に降りるマンホールを開けた。湧井が上からチェックリストを読み上げる。
「ECロガー、まず外観確認。ケーブル被覆……」
「問題なさそうだ。」
懐中電灯の光に照らされる機器は、静かに仕事を続けていた。結露も、腐食もない。岩淵さんに教え込まれた通りに設置したドリップループが、きちんと役目を果たしている。
「ログ、回収する。」
USBケーブルを挿し、データを吸い上げる。数分後、進捗バーが最後まで到達した。
「……よし。欠損なし。全部取れた。」
「お疲れさまです。」
湧井は小さく微笑んだ。大きなトラブルが無いことが、これほどありがたい現場もない。マンホールから差し出す僕の手に、彼女がそっと自分の手を重ねて、引き上げるのを手伝ってくれた。その掌の熱が、初夏の気配を含んだ風の中で、ひどく鮮明に感じられた。
地上に戻ると、五十代半ばの男性が、帽子を取りながら迎えてくれた。温泉組合の事務員、古井戸さんだ。自動測定器に付着するスケール(沈着物)を取り除く役を引き受けて下さった、僕らにとっての大恩人である。この作業は湧井が提案し、泉教授を通じて組合に頼み込んだのだものだ。僕と彼女が丁重にお礼を述べると、彼も頭を下げる。
「いえいえ……こちらこそ、ありがとうございます。……本当に。」
古井戸さんの声には、大学が調査に乗り出したことへの安堵と期待、そしてどこか切迫したものが混じっていた。
「……学生さん、どうですか。山はまだ“持ちそう”ですかね」
僕たちに問いかける声には、疲れが滲む。その眼下には、寂れた温泉街が広がっている。湧井は丁寧に頭を下げる。
「まだ途中経過ですが……少しずつ、分かってきていることはあります。」
「ええ。もう、それだけで十分です。」
古井戸さんは、取水場の奥――かつては湯気が立ち込めていた配管の列を見やった。
「組合の連中は、みんな必死ですよ。湯温が下がっちまって、客に源泉掛け流しだって胸を張れねえ。毎晩、ボイラーで『焚き返し』をしてますが、燃料代だけで赤字だ。その上、配管には見たこともねえような硬い石がびっしり詰まっちまう。掃除しても、交換しても、追いつかねえ。」
僕は思わず、あの白く硬い沈殿物を思い出した。
「硫黄の匂いも薄くなる一方で……。“昔はもっと効いた”って、常連さんから言われるたびに……返す言葉もねえ。このままじゃ、飯森の湯は死んじまう。」
彼は、言葉を切った。苦渋に満ちた表情だった。
「店をたたむ旅館も多くてね。余った湯を大手スーパー銭湯に売っちゃあいるが、足元を見られて二束三文さ。みんなタンクローリーで遠くへ運び去られて、街には一銭も落ちやしねえ。」
湧井の指が、無意識に強く組まれているのに気づく。そして――僕自身も、胸の奥が重くなるのを感じていた。
これは、論文のデータではない。生業の話だ。
湧井は言葉を選びきれず、唇を噛んだ。 僕たちには、彼の語る「焚き返し」や「詰まり」が、10年に渡り旧源泉が首を絞められ続けた末期症状であることを、理解できてしまうからだ。
「だからね、学生さん。これ、まだ内密なんだが……」
古井戸さんは、僕たちに一歩近づき、声を潜めた。その瞳には、危ういほどの「期待」が宿っていた。
「町役場と協力して、行政に補助金を申請したんです。座して死を待つくらいなら、一か八か、旧源泉のさらに深部を『大規模に再ボーリング(採掘)』して、眠っている熱水を叩き起こそうって話が進んでるんですよ。これが、俺たちの最後の切り札だ。」
「……えっ、それは……」 湧井の声が、小さく震えた。
「もっと深く掘れば、まだ何かが出てくるかもしれない。昔だって、掘って掘って、今の温泉街を作ってきたんですから。」
僕は、何も言えなかった。風の音だけが聞こえる。
――それが、何を意味するか。
――地下で起きている「今」を、どれほど乱す可能性があるか。
もし、急激な変化に直面する現在の旧源泉の流路に対し、地上から巨大な衝撃を与えたならば。無数の血栓に耐えている圧力のバランスが、外側からの破壊によって一気に暴発するかもしれない。それは再生ではなく、熱水系の完全な崩壊、あるいは……。
僕は、湧井薫と顔を見合わせた。 本当なら「それは自殺行為だ」と叫びたい。しかし、生活を、家族を背負って崖っぷちに立つ彼らに対し、まだ確証のない「推察」だけでその希望を否定する権利は、今の僕たちにはなかった。
「……貴重なお話、ありがとうございます。」
湧井は、理学部の一学生として、精一杯に言葉を選んだ。
「私たちも、できる限り急いで、状況を明らかにします。」
古井戸さんは、深く頭を下げた。
「お頼みします。本当に……時間がないんで。」
彼と別れ、新源泉へ向かう車中で、湧井は窓の外を睨みつけたまま一度も口を開かなかった。言葉は要らなかった。調査は、もう悠長なものではない。閑散とした道路を、地響きを立てて走り去るタンクローリーが、僕らに現実を突き付けていた。
