新年度から泉教授の研究室に居候となった湧井薫は、その卓越した分析能力とは裏腹に、浮世離れしたところがあった。そんな彼女を放っておけないのが、研究室のムードメーカー(自称)の軽井である。
「教授、湧井さんの歓迎会やりましょうよ! ついでに湧井さんと山崎の第1回調査の慰労会も兼ねて!」
新入生らしい楽しみから距離を置いている湧井の身を案じていた教授は、軽井の提案に二つ返事で承諾した。かくして、駅前の古びた居酒屋に、研究室の面々が集結した。
――雑居ビルの二階。暖簾は色褪せ、壁には大学名の入った色紙が何枚も貼られている。学生や教員の飲み会が何度も行われてきた、“いかにも”な空間だ。
「いやあ、やっぱり現場は裏切らないねえ。」
上座では、すでに泉教授が上機嫌だった。向かいには寒川さんが座り、料理が来るたびに箸を止め、すぐに議論に戻っている。
「シリカの形態があそこまで尖るのは、平衡を完全に無視した析出ですよ。」
「つまり、熱水が『考える暇もなく』放り出された、と。」
二人の世界は、すでに酒席のそれではない。
テーブルの中央では他の学生たちが騒いでいる。その喧騒から離れた席で、特大ジョッキを片手に黙々と枝豆を食んでいるのが岩淵さんだった。
我流で寛ぐ彼に、人影が近づく。湧井だ。僕には、彼女の心の声がはっきり聞こえた。
(……岩淵さん、寂しそうです。居心地の悪さを感じてらっしゃるのですね。)
見当違いな使命感に燃えた湧井が、岩淵さんの隣にスッと座る。
「岩淵さん! あの……趣味の登山の話、詳しく聞かせてください。3000メートル級の単独行での、岩場のパッキングのコツとか!」
「……パッキングか。……まず、重心をザック中央からやや下に……」
想定外の角度からの質問に、岩淵さんは戸惑いながらも応じる。彼は決して嫌がっているわけではないが、周囲から見れば、職人気質の岩淵さんへ妙に細かい質問を繰り出す湧井の方が、よっぽど浮いている。
僕はさりげなくサポートに入る。
「岩淵さん、最近はどんな山に行かれましたか?」
「最近は……北アの縦走を。」
ルート名、標高差、天候の話。岩淵さんは訥々と語る。湧井は一生懸命頷き、口を開く。
「そのルート、昔の温泉道と被ってますよね。」
話題は自然に広がり、彼女の肩から力が抜けた。その瞬間だった。
「湧井さん! お疲れさまでした!」
やけに明るい、軽薄な声。軽井だった。ビールを片手に、場の空気をまったく気にせず割り込んでくる。
「……どうも。」
湧井の反応は素っ気ない。正直、警戒している。
「もう、山崎ばっかり湧井さんと山に行って、ずるいっすよ。……でも、僕も遊んでたわけじゃないですよ? 5月のデータ、見せてもらいました。」
湧井が冷たくあしらう前に、軽井は先手を打った。突然、声のトーンを落とす。
「湧水量は微減、浅層水の希釈じゃない。マグマの熱量低下にしては変化が早すぎるし、地殻変動にしては時間が長すぎる。」
湧井が、思わず軽井を見る。
「新源泉は、旧源泉の水が逃げたものじゃない。……セルフシーリングが本星、ですよね?」
一瞬、会話が途切れる。僕は耳を疑った。あの、合コンのことしか考えていない軽井が、完璧に予習してきている。
(こいつ……湧井の気を引くためだけに、ここまで読み込んできたのか?)
動機はともかく、その熱量の高さに、僕は苦笑いするしかなかった。
「……よくご存じですね!」
湧井は、驚きと嬉しさを隠さず、顔を輝かせる。一瞬軽井が口角を上げたのを、僕は見逃さなかった。
――これは、押せる。
そう判断したに違いない。
「次のフィールド、同行できたら勉強になると思って!」
「え?ちょっと急ですけど……どうしてもと仰るなら……如何でしょう、山崎さん?」
湧井は素直だ。そこが危うくもあり、魅力でもある。軽井はすかさず畳みかける。
「温泉は生き物だって、現場で、実感したくて!データだけじゃ、語れないと思うんすよ。」
「そこですよ!」
湧井が、我が意を得たりと胸の前で手を組む。軽井の巧妙さの前に、彼女は全く無力だった。
「今回、山崎さんと共に、温泉の現状を体験して、私も同じことを考えました!古い取水場に、新しい野湯。それから露天風呂も二人で……」
一瞬、テーブルが凍りついた。
「……は? 混浴?」 軽井の声が裏返り、僕を射殺せんばかりの勢いで睨みつける。
「ええ。飯森山の湯質を肌で感じるために。山崎さんも、私と一緒に浸かって色々と気づいてくれたんですよ。」
その一言で、場の空気が爆発した。
湧きあがる喧噪の中、寒川さんは、ぽかんと口を開け、僕と湧井を見比べる。泉教授は顎に手を当てて妙に満足そうだ。岩淵さんだけが、我関せずとばかりビールを喉に流し込んでいる。
僕は頭を抱えた。
「湧井さん、言い方……。仕事として、現状確認をしただけですから!」
軽井が身を乗り出す。
「俺も! 次のフィールドワーク行きます! 湧井さんを守る護衛として!」
すると、その隣でずっと不満げに酒を飲んでいた重森が、鋭く手を挙げた。
「私も、行きたいです!女子が湧井さん一人は大変でしょうし!」
(絶対、軽井を湧井さんと二人きりにさせないためだ……)
僕は確信した。場がざわつく。
その様子を、泉教授は黙って眺めていた。そして、楽しそうに口を開いた。
「……じゃあ、次々回の7月は」
一同が、静かになる。
「軽井と重森に、フィールドを任せよう。バックアップチームを作る。それと、体験機会の共有だ。」
「えっ」
湧井が声を上げる。
「でも、閉塞のスピードが予想以上である兆候があります。私と山崎さんは参加必須です……!」
岩淵さんが、短く、しかし重厚な声で遮る。
「……チームワークだ。」
寒川さんが助け舟を出した。
「湧井さん、山崎君。7月は私と一緒に、採水サンプルの分析をやりましょう。」
湧井は一瞬戸惑いを見せたが、僕と視線を合わせ、頷いた。
「……分かりました。6月に手順を固めて、7月は、分析に回ります。」
軽井は、しょんぼりと肩を落とす。
「任せて下さい。きっと……湧井さんの信頼を勝ち取ってみせます。」
重森は、皮肉な笑みを浮かべている。
「……温泉の終末を見届けてきます。」
この決定が最終的にどれほど大きな意味を持つのか、僕らは誰も知らなかった。
ただ一人、泉教授だけが、徳利を傾けながら意味深な笑顔を浮かべていた。
「……若い人間に、山は優しくないからね。」
僕は(6月のマニュアル作成、死ぬほど細かく書いてやろう…)と固く決意した。
「教授、湧井さんの歓迎会やりましょうよ! ついでに湧井さんと山崎の第1回調査の慰労会も兼ねて!」
新入生らしい楽しみから距離を置いている湧井の身を案じていた教授は、軽井の提案に二つ返事で承諾した。かくして、駅前の古びた居酒屋に、研究室の面々が集結した。
――雑居ビルの二階。暖簾は色褪せ、壁には大学名の入った色紙が何枚も貼られている。学生や教員の飲み会が何度も行われてきた、“いかにも”な空間だ。
「いやあ、やっぱり現場は裏切らないねえ。」
上座では、すでに泉教授が上機嫌だった。向かいには寒川さんが座り、料理が来るたびに箸を止め、すぐに議論に戻っている。
「シリカの形態があそこまで尖るのは、平衡を完全に無視した析出ですよ。」
「つまり、熱水が『考える暇もなく』放り出された、と。」
二人の世界は、すでに酒席のそれではない。
テーブルの中央では他の学生たちが騒いでいる。その喧騒から離れた席で、特大ジョッキを片手に黙々と枝豆を食んでいるのが岩淵さんだった。
我流で寛ぐ彼に、人影が近づく。湧井だ。僕には、彼女の心の声がはっきり聞こえた。
(……岩淵さん、寂しそうです。居心地の悪さを感じてらっしゃるのですね。)
見当違いな使命感に燃えた湧井が、岩淵さんの隣にスッと座る。
「岩淵さん! あの……趣味の登山の話、詳しく聞かせてください。3000メートル級の単独行での、岩場のパッキングのコツとか!」
「……パッキングか。……まず、重心をザック中央からやや下に……」
想定外の角度からの質問に、岩淵さんは戸惑いながらも応じる。彼は決して嫌がっているわけではないが、周囲から見れば、職人気質の岩淵さんへ妙に細かい質問を繰り出す湧井の方が、よっぽど浮いている。
僕はさりげなくサポートに入る。
「岩淵さん、最近はどんな山に行かれましたか?」
「最近は……北アの縦走を。」
ルート名、標高差、天候の話。岩淵さんは訥々と語る。湧井は一生懸命頷き、口を開く。
「そのルート、昔の温泉道と被ってますよね。」
話題は自然に広がり、彼女の肩から力が抜けた。その瞬間だった。
「湧井さん! お疲れさまでした!」
やけに明るい、軽薄な声。軽井だった。ビールを片手に、場の空気をまったく気にせず割り込んでくる。
「……どうも。」
湧井の反応は素っ気ない。正直、警戒している。
「もう、山崎ばっかり湧井さんと山に行って、ずるいっすよ。……でも、僕も遊んでたわけじゃないですよ? 5月のデータ、見せてもらいました。」
湧井が冷たくあしらう前に、軽井は先手を打った。突然、声のトーンを落とす。
「湧水量は微減、浅層水の希釈じゃない。マグマの熱量低下にしては変化が早すぎるし、地殻変動にしては時間が長すぎる。」
湧井が、思わず軽井を見る。
「新源泉は、旧源泉の水が逃げたものじゃない。……セルフシーリングが本星、ですよね?」
一瞬、会話が途切れる。僕は耳を疑った。あの、合コンのことしか考えていない軽井が、完璧に予習してきている。
(こいつ……湧井の気を引くためだけに、ここまで読み込んできたのか?)
動機はともかく、その熱量の高さに、僕は苦笑いするしかなかった。
「……よくご存じですね!」
湧井は、驚きと嬉しさを隠さず、顔を輝かせる。一瞬軽井が口角を上げたのを、僕は見逃さなかった。
――これは、押せる。
そう判断したに違いない。
「次のフィールド、同行できたら勉強になると思って!」
「え?ちょっと急ですけど……どうしてもと仰るなら……如何でしょう、山崎さん?」
湧井は素直だ。そこが危うくもあり、魅力でもある。軽井はすかさず畳みかける。
「温泉は生き物だって、現場で、実感したくて!データだけじゃ、語れないと思うんすよ。」
「そこですよ!」
湧井が、我が意を得たりと胸の前で手を組む。軽井の巧妙さの前に、彼女は全く無力だった。
「今回、山崎さんと共に、温泉の現状を体験して、私も同じことを考えました!古い取水場に、新しい野湯。それから露天風呂も二人で……」
一瞬、テーブルが凍りついた。
「……は? 混浴?」 軽井の声が裏返り、僕を射殺せんばかりの勢いで睨みつける。
「ええ。飯森山の湯質を肌で感じるために。山崎さんも、私と一緒に浸かって色々と気づいてくれたんですよ。」
その一言で、場の空気が爆発した。
湧きあがる喧噪の中、寒川さんは、ぽかんと口を開け、僕と湧井を見比べる。泉教授は顎に手を当てて妙に満足そうだ。岩淵さんだけが、我関せずとばかりビールを喉に流し込んでいる。
僕は頭を抱えた。
「湧井さん、言い方……。仕事として、現状確認をしただけですから!」
軽井が身を乗り出す。
「俺も! 次のフィールドワーク行きます! 湧井さんを守る護衛として!」
すると、その隣でずっと不満げに酒を飲んでいた重森が、鋭く手を挙げた。
「私も、行きたいです!女子が湧井さん一人は大変でしょうし!」
(絶対、軽井を湧井さんと二人きりにさせないためだ……)
僕は確信した。場がざわつく。
その様子を、泉教授は黙って眺めていた。そして、楽しそうに口を開いた。
「……じゃあ、次々回の7月は」
一同が、静かになる。
「軽井と重森に、フィールドを任せよう。バックアップチームを作る。それと、体験機会の共有だ。」
「えっ」
湧井が声を上げる。
「でも、閉塞のスピードが予想以上である兆候があります。私と山崎さんは参加必須です……!」
岩淵さんが、短く、しかし重厚な声で遮る。
「……チームワークだ。」
寒川さんが助け舟を出した。
「湧井さん、山崎君。7月は私と一緒に、採水サンプルの分析をやりましょう。」
湧井は一瞬戸惑いを見せたが、僕と視線を合わせ、頷いた。
「……分かりました。6月に手順を固めて、7月は、分析に回ります。」
軽井は、しょんぼりと肩を落とす。
「任せて下さい。きっと……湧井さんの信頼を勝ち取ってみせます。」
重森は、皮肉な笑みを浮かべている。
「……温泉の終末を見届けてきます。」
この決定が最終的にどれほど大きな意味を持つのか、僕らは誰も知らなかった。
ただ一人、泉教授だけが、徳利を傾けながら意味深な笑顔を浮かべていた。
「……若い人間に、山は優しくないからね。」
僕は(6月のマニュアル作成、死ぬほど細かく書いてやろう…)と固く決意した。
