――5月22日。
研究室には、独特の緊張感が漂っていた。
ホワイドボードの上には、5月3日に新旧源泉で採取したサンプルの成分分析結果が並んでいる。
「……やっぱりね。計算が、合いません。」
湧井は背後に立つ僕に、一枚のデータシートを指さす。
「旧源泉の硫酸イオン(SO₄²⁻)が、僅かながら予想を下回っています。深部からの供給が途中で削られている。閉塞のスピードが上がっているかもしれません。」
変化の方向性自体は、彼女の想定通りだったのだろう。それでも、湧井は唇を噛んだ。
硫酸イオンは、マグマ起源の硫黄が、上昇途中で酸化環境に置かれた結果として残る痕跡だ。深部熱水の量そのものではない。だが――その供給が、どれだけ健全に届いているかを示す指標にはなる。
彼女は別のシートを手に取り、語気を強めた。
「それ以上に、山崎さん。これを見てください。5月のシリカ濃度です。私の予測では、全シリカ換算で95.5mg/ℓになるはずでした。でも、実測値は90.0mg/ℓしかなかった。」
一瞬、視線が僕に向く。
「たった5.5ミリグラムの差だと思いますか? 違うんです。これは、水の中に溶けているはずのシリカが、私たちの知らないところで“消えた”可能性を示しています。」
僕の脳裏には、取水口の地下構造にこびり付いていた、胃袋の粘膜のように堆積し、表面にトゲを持つ白い結晶が焼き付いている。あれの主成分が、シリカだ。
「消えた……。つまり、流路の途中で石になって出てきたってことだね。」
湧井は頷いた。それなら、閉塞の加速とも整合する。
「ええ。深部で熱と圧力を受けて溶け込んだシリカが、地上へ向かう途中で温度や圧力を下げた。その結果、抱えきれなくなって析出したのでしょう。」
彼女は静かに続ける。
「しかもシリカには、厄介な性質があります。高濃度の状態では、温度や圧力のわずかな変化にも極端に敏感になる。90.0mg/ℓを超える水準までシリカを含んだ熱水は……小さなきっかけで、暴力的とも言える勢いで析出を起こします。」
僕は、混浴露天風呂で体験した、あの湯の粘つきを思い出した。湧井は、それを「シリカが末期的な過飽和状態にある証拠」だと言っていた。
「じゃあ……何らかの変化で温度や圧力が下がって、限界まで抱え込んでいたシリカの析出が、ついに始まった。そういうことだね?」
湧井は、僕の問いに応えるように曖昧に頷き、無意識のうちに僕の袖口を軽く掴んだ。指先の微かな震えが、服越しに伝わってくる。
「ええ、おそらく。予測値と実測値の差、5.5mg/ℓ――その“欠損”の分だけ、今この瞬間も流路は狭まり続けているはずです。」
彼女の瞳が、静かに暗く光った。
「ただ……塩化物イオン(Cl⁻)の値は、3か月前と大きく変わっていません。現場で暫定的に図った湯温も、ほぼ変化なし。」
彼女は、温泉組合が発表した2月の定期成分分析と、今回のフィールド結果を見比べる。
「Cl⁻ は深部由来の成分です。湯温と共に維持されたとなると……流路の閉塞が進んでいるにもかかわらず、深部熱水の供給量自体は、殆ど落ちていない。そう推測できます。」
――つまり。
「閉塞が進んだ分、旧源泉の深部では、逃げ場を失った圧力が、じわじわと蓄積されている。熱水を押し上げ続けられる程度に。」
僕は、思わず唾を飲み込んだ。
「……体中にできた血栓が、高血圧を引き起こすみたいなものか。」
「その通りです。」
だが、湧井はすぐに首を振った。
「問題は、もう一つあります。予測を大きく上回るシリカ析出を引き起こした、温度または圧力低下の原因です。“深部が冷えた”と説明するのは、どうにも無理がある……。過去に一度、圧力が急激に下がった? でも、どこで、どうやって……。」
彼女は、頭を抱えた。
「私のシミュレーションでは、旧源泉は、あと数年かけて穏やかに死んでいくはずでした。でも、このままでは……。」
一瞬、暗い表情を浮かべて俯いたあと、湧井は普段の穏やかな声に戻る。
「これが、泉先生の仰る『揺らぎ』なのでしょうか。現場を見たからこそ、気づけた……。」
彼女は、自分の「計算」が、現場で起きている「現実」に追い抜かれようとしている事実を、静かに受け止めていた。
「……二人とも、これを見て。」
寒川さんが差し出した顕微鏡写真には、雪の結晶をさらに鋭利にしたような、無数のトゲを持つシリカの集合体が写っていた。湧井は小さく息を呑む。
「山崎君が剥ぎ取ってきた旧源泉のスケール(沈殿物)……異常よ。私の予想では、飯森山で析出するシリカは、もっと丸みを帯びて層を成すはずだった。でもこれは、まるで一瞬で熱水から弾き出されたような、極めて不安定で急激な成長を遂げている。湧井さんの考察と一致するわ。」
彼女の言葉には、以前、彼女を追及したときの厳しさは無かった。
「理論と現場がこれだけ高いレベルで噛み合う調査は久しぶりだわ。……湧井さん、あなたの計算を『狂わせた』のはミスじゃない、現場が動いている証拠よ。自信を持ちなさい」
湧井は一瞬だけ目を伏せ、それから、隣の僕にちらりと視線を送った。何も言わないが、その視線には「聞いてたよね」とでも言いたげな安堵が滲んでいる。
「……湧井さん。僕、カメラBを設置したあの場所で、どうしても気になったことがあるんだ。」
僕は、分析データではなく、自分の記憶の中に残っている「岩肌の質感」をたぐり寄せた。彼女は頷きもせず、ただ少しだけ身を近づけて、黙って聴き耳を立てている。
「湧井さんが集めてくれた過去数年の記録や写真では、あの噴霧帯の岩はもっと乾いていて、表面に薄く硫黄の粉が吹いている程度だったよね? いわば、穏やかに余生を過ごしているような、枯れた岩肌だった」
「はい、そうです。セルフシーリングが進行している噴霧地帯の典型的な姿です。」
「でも、あの日僕が見た岩は違った。」
僕は、カメラBのレンズを向けたあの鋭い亀裂の周囲を思い出す。
「亀裂の縁が、まるで熱い蒸気で何度も何度も『叩かれた』みたいに、異様に新しくて、湿っていた。古い硫黄の粉は全部吹き飛ばされて、代わりにあの白いシリカが、飛沫を浴びたみたいに生々しくこびり付いていた。……噴霧の実物こそ見られなかったけど、あそこに刻まれていたのは『ため息』の跡なんかじゃない。」
僕は、自分の喉を指で差した。
「喉に刺さった棘を、血を流しながら無理やり吐き出そうとしているような……そんな、暴力的な勢いを帯びた『痕跡』だった。過去数年の平穏な状況とは、明らかに流れているエネルギーの勢いが違う。これはデータとは言えないけど。」
湧井は、短く息を吸い、何も言わずに頷いた。一連の動作が、賛意を示していた。
静かに書類の山に埋もれていた岩淵さんが、一枚のFAXをテーブルの真ん中に放り出した。S総研の貴ガス分析室からの速報だ。そこに記されていたのは、新源泉のヘリウム同位体比(³He/⁴He)”8 Ra以上”という数字。
「……8以上?」
湧井が息を呑む。
「過去の調査では、旧源泉は6.1でした。新源泉で8を超えた……?」
コアやマントルを研究する学生の端くれとして、僕はこの特異な数値に息をのんだ。ありえない。これは地殻の汚れを一切受けていない、地球深部の心音だ。
「……これで……新源泉は。ただの『はぐれ熱水』ではない。……確定だ。」
岩淵さんが重々しく口を開く。
「……これだけ、データを揃えられたのは。……お前たちが。あの山で、汗をかいたから。……機材を泥にまみれさせた、価値はあった。」
「……湧井……計算が狂ったのは。変数が足りない……からだ。……『新しい主人』を、探せ。」
彼女は真剣な顔をして考え込むが、瞳には迷いの色が浮かんでいる。
急激に析出するシリカ。苦痛にあえぐような噴霧。その傍らで躍動する異質な新源泉。……それらはどうつながるのだろうか。
湧井はゆっくりと頭を振った
「……岩淵さん。今の私には「分かりません」。今後の調査に賭けたいと思います。」
岩淵と寒川は穏やかな表情で頷いた。
「……湧井。……そして、山崎。……『分からない』と、口にできるのは。現場の厚みを、知った証拠だ。……いい調査だった。次は、山に答えを、聞きに行け。」
研究室には、独特の緊張感が漂っていた。
ホワイドボードの上には、5月3日に新旧源泉で採取したサンプルの成分分析結果が並んでいる。
「……やっぱりね。計算が、合いません。」
湧井は背後に立つ僕に、一枚のデータシートを指さす。
「旧源泉の硫酸イオン(SO₄²⁻)が、僅かながら予想を下回っています。深部からの供給が途中で削られている。閉塞のスピードが上がっているかもしれません。」
変化の方向性自体は、彼女の想定通りだったのだろう。それでも、湧井は唇を噛んだ。
硫酸イオンは、マグマ起源の硫黄が、上昇途中で酸化環境に置かれた結果として残る痕跡だ。深部熱水の量そのものではない。だが――その供給が、どれだけ健全に届いているかを示す指標にはなる。
彼女は別のシートを手に取り、語気を強めた。
「それ以上に、山崎さん。これを見てください。5月のシリカ濃度です。私の予測では、全シリカ換算で95.5mg/ℓになるはずでした。でも、実測値は90.0mg/ℓしかなかった。」
一瞬、視線が僕に向く。
「たった5.5ミリグラムの差だと思いますか? 違うんです。これは、水の中に溶けているはずのシリカが、私たちの知らないところで“消えた”可能性を示しています。」
僕の脳裏には、取水口の地下構造にこびり付いていた、胃袋の粘膜のように堆積し、表面にトゲを持つ白い結晶が焼き付いている。あれの主成分が、シリカだ。
「消えた……。つまり、流路の途中で石になって出てきたってことだね。」
湧井は頷いた。それなら、閉塞の加速とも整合する。
「ええ。深部で熱と圧力を受けて溶け込んだシリカが、地上へ向かう途中で温度や圧力を下げた。その結果、抱えきれなくなって析出したのでしょう。」
彼女は静かに続ける。
「しかもシリカには、厄介な性質があります。高濃度の状態では、温度や圧力のわずかな変化にも極端に敏感になる。90.0mg/ℓを超える水準までシリカを含んだ熱水は……小さなきっかけで、暴力的とも言える勢いで析出を起こします。」
僕は、混浴露天風呂で体験した、あの湯の粘つきを思い出した。湧井は、それを「シリカが末期的な過飽和状態にある証拠」だと言っていた。
「じゃあ……何らかの変化で温度や圧力が下がって、限界まで抱え込んでいたシリカの析出が、ついに始まった。そういうことだね?」
湧井は、僕の問いに応えるように曖昧に頷き、無意識のうちに僕の袖口を軽く掴んだ。指先の微かな震えが、服越しに伝わってくる。
「ええ、おそらく。予測値と実測値の差、5.5mg/ℓ――その“欠損”の分だけ、今この瞬間も流路は狭まり続けているはずです。」
彼女の瞳が、静かに暗く光った。
「ただ……塩化物イオン(Cl⁻)の値は、3か月前と大きく変わっていません。現場で暫定的に図った湯温も、ほぼ変化なし。」
彼女は、温泉組合が発表した2月の定期成分分析と、今回のフィールド結果を見比べる。
「Cl⁻ は深部由来の成分です。湯温と共に維持されたとなると……流路の閉塞が進んでいるにもかかわらず、深部熱水の供給量自体は、殆ど落ちていない。そう推測できます。」
――つまり。
「閉塞が進んだ分、旧源泉の深部では、逃げ場を失った圧力が、じわじわと蓄積されている。熱水を押し上げ続けられる程度に。」
僕は、思わず唾を飲み込んだ。
「……体中にできた血栓が、高血圧を引き起こすみたいなものか。」
「その通りです。」
だが、湧井はすぐに首を振った。
「問題は、もう一つあります。予測を大きく上回るシリカ析出を引き起こした、温度または圧力低下の原因です。“深部が冷えた”と説明するのは、どうにも無理がある……。過去に一度、圧力が急激に下がった? でも、どこで、どうやって……。」
彼女は、頭を抱えた。
「私のシミュレーションでは、旧源泉は、あと数年かけて穏やかに死んでいくはずでした。でも、このままでは……。」
一瞬、暗い表情を浮かべて俯いたあと、湧井は普段の穏やかな声に戻る。
「これが、泉先生の仰る『揺らぎ』なのでしょうか。現場を見たからこそ、気づけた……。」
彼女は、自分の「計算」が、現場で起きている「現実」に追い抜かれようとしている事実を、静かに受け止めていた。
「……二人とも、これを見て。」
寒川さんが差し出した顕微鏡写真には、雪の結晶をさらに鋭利にしたような、無数のトゲを持つシリカの集合体が写っていた。湧井は小さく息を呑む。
「山崎君が剥ぎ取ってきた旧源泉のスケール(沈殿物)……異常よ。私の予想では、飯森山で析出するシリカは、もっと丸みを帯びて層を成すはずだった。でもこれは、まるで一瞬で熱水から弾き出されたような、極めて不安定で急激な成長を遂げている。湧井さんの考察と一致するわ。」
彼女の言葉には、以前、彼女を追及したときの厳しさは無かった。
「理論と現場がこれだけ高いレベルで噛み合う調査は久しぶりだわ。……湧井さん、あなたの計算を『狂わせた』のはミスじゃない、現場が動いている証拠よ。自信を持ちなさい」
湧井は一瞬だけ目を伏せ、それから、隣の僕にちらりと視線を送った。何も言わないが、その視線には「聞いてたよね」とでも言いたげな安堵が滲んでいる。
「……湧井さん。僕、カメラBを設置したあの場所で、どうしても気になったことがあるんだ。」
僕は、分析データではなく、自分の記憶の中に残っている「岩肌の質感」をたぐり寄せた。彼女は頷きもせず、ただ少しだけ身を近づけて、黙って聴き耳を立てている。
「湧井さんが集めてくれた過去数年の記録や写真では、あの噴霧帯の岩はもっと乾いていて、表面に薄く硫黄の粉が吹いている程度だったよね? いわば、穏やかに余生を過ごしているような、枯れた岩肌だった」
「はい、そうです。セルフシーリングが進行している噴霧地帯の典型的な姿です。」
「でも、あの日僕が見た岩は違った。」
僕は、カメラBのレンズを向けたあの鋭い亀裂の周囲を思い出す。
「亀裂の縁が、まるで熱い蒸気で何度も何度も『叩かれた』みたいに、異様に新しくて、湿っていた。古い硫黄の粉は全部吹き飛ばされて、代わりにあの白いシリカが、飛沫を浴びたみたいに生々しくこびり付いていた。……噴霧の実物こそ見られなかったけど、あそこに刻まれていたのは『ため息』の跡なんかじゃない。」
僕は、自分の喉を指で差した。
「喉に刺さった棘を、血を流しながら無理やり吐き出そうとしているような……そんな、暴力的な勢いを帯びた『痕跡』だった。過去数年の平穏な状況とは、明らかに流れているエネルギーの勢いが違う。これはデータとは言えないけど。」
湧井は、短く息を吸い、何も言わずに頷いた。一連の動作が、賛意を示していた。
静かに書類の山に埋もれていた岩淵さんが、一枚のFAXをテーブルの真ん中に放り出した。S総研の貴ガス分析室からの速報だ。そこに記されていたのは、新源泉のヘリウム同位体比(³He/⁴He)”8 Ra以上”という数字。
「……8以上?」
湧井が息を呑む。
「過去の調査では、旧源泉は6.1でした。新源泉で8を超えた……?」
コアやマントルを研究する学生の端くれとして、僕はこの特異な数値に息をのんだ。ありえない。これは地殻の汚れを一切受けていない、地球深部の心音だ。
「……これで……新源泉は。ただの『はぐれ熱水』ではない。……確定だ。」
岩淵さんが重々しく口を開く。
「……これだけ、データを揃えられたのは。……お前たちが。あの山で、汗をかいたから。……機材を泥にまみれさせた、価値はあった。」
「……湧井……計算が狂ったのは。変数が足りない……からだ。……『新しい主人』を、探せ。」
彼女は真剣な顔をして考え込むが、瞳には迷いの色が浮かんでいる。
急激に析出するシリカ。苦痛にあえぐような噴霧。その傍らで躍動する異質な新源泉。……それらはどうつながるのだろうか。
湧井はゆっくりと頭を振った
「……岩淵さん。今の私には「分かりません」。今後の調査に賭けたいと思います。」
岩淵と寒川は穏やかな表情で頷いた。
「……湧井。……そして、山崎。……『分からない』と、口にできるのは。現場の厚みを、知った証拠だ。……いい調査だった。次は、山に答えを、聞きに行け。」
