フヴェルゲルミルの黄昏 ―天然理系女子と温泉調査―

――5月4日、午前8時。
朝の山は、ひどく静かだった。山林事務所で借りた簡単な地図を片手に、湧井が前を歩く。

目指すは、旧源泉の直上に広がる険しい噴霧帯だ。僕が担う背負子に括り付けた二台の自動撮影カメラ――いずれも熱を可視化する高価な赤外線サーモグラフィカメラだ――と金属製の支柱が、歩くたびに鈍い軋み音を立てる。
湧井が事前に選定したカメラの設置場所ポイントは、旧源泉の真上に位置するガレ場の窪みだった。そこには、岩盤に走る無数の細い亀裂が集まり、以前から断続的に蒸気――噴霧が確認されている。
旧源泉が完全に閉塞しつつあるなら、最初に「悲鳴」を上げるのは、この場所だ。噴霧回数を確実に捉えるには、これ以上ない観測点の筈だ。

だが、目的地であるその窪地に足を踏み入れた瞬間、僕の身体が異変を訴えた。
足元の空気が、粘つくように重い。激しい運動をしているわけでもないのに、心臓の鼓動が耳元で異様に大きく響き始め、指先がじんわりと痺れていく。
「……湧井さん、止まって。」
僕は咄嗟に、前を行く湧井のザックを掴んで引き戻した。
「ここ、おかしい。空気が……重い。動悸がする。たぶん、ガスが溜まってる」
一瞬の沈黙のあと、彼女の表情が強張る。
「……っ、息を止めて! 上に! あの高い岩場まで走って下さい!」

弾けるような声に背中を押され、僕は機材の重さに歯を食いしばって堪えながら、尾根筋へと必死に駆け上がった。
「はぁ……はぁ……」
安全な高台に辿り着き、僕は膝に手をついて荒い呼吸を繰り返した。何度か強く指を握り、開く。痺れは少しずつ引き、暴れていた心拍がようやく落ち着いていく。
「……二酸化炭素です。恐らく……」
湧井は、さきほどまで僕たちが立とうとしていた窪地を見下ろしながら、低い声で言った。僕は頷く。
「無臭だけど、空気より重い。風のない今朝みたいな条件だと、ああいう低地に“プール”みたいに溜るんだ。僕の指が痺れたのは、血中の二酸化炭素濃度が上がって、軽い酸欠状態になったから。……済まない、地形から予測すべきだった。」
「いいえ。……山崎さんのおかげで命拾いしました。」
湧井が、少しだけ声を落とす。
「私一人だったら、たぶん気づかず降りていたでしょう。」
僕は、肩をすくめた。
「昨日の新源泉で、無臭の怖さ、叩き込まれたからね。」
僕はもう一度深呼吸し、改めて凹地を見下ろした。見た目はただの穏やかなガレ場だが、そこには確実に、目に見えない死の境界線が存在していた。

湧井は、視線を地形図へ落とし、悔しそうに唇を噛んだ。
「……カメラの位置に修正が必要です。」
彼女は顔を上げ、はっきりと言った。
「CO2があれだけ滞留しているってことは、あそこは気流の死角です。風が通らない、完全な“吹き溜まり”。そんな場所にカメラを置いたら、一度噴霧が起きただけで、吐き出された蒸気で視界が真っ白に塞がる。回数を数えるどころじゃありません。」
湧井は静かに続けた。
「……観測機にとっても、あそこは“死地”でした。山崎さんの直感に救われたわ。」

僕はすぐに気持ちを切り替え、周囲の岩壁と風向きを丹念に観察した。そして、新たな配置を判断する。
「設計を変えよう。」僕は指差しながら説明した。
カメラA(全体監視用)
「これは、今いるこの高所に設置する。旧源泉直上の斜面全体を俯瞰して、赤外線画像によって地表温度分布と植生の変化を長期的に追う。」
カメラB(噴霧カウント特化)
「もう一台は――あそこ。窪地の縁より数メートル高くて、谷風が常に抜けている岩棚だ。」

僕は窪地に隣接する近い岩壁を示した。
「湧井さん。レンズは、あの亀裂群に向ける。流路が閉塞して圧力が上がれば、行き場を失ったガスは、まずあそこから逃げ出すはずだ。」
「……旧源泉の、逃げ道ですね。」
「そう。このカメラが捉える噴霧回数の増加こそが、旧源泉が追い詰められていくシグナルになるはずだ。」

カメラBの設置ポイントは、風は通るものの、湿った空気が絶えず岩肌を濡らす場所だった。ただの水蒸気ならまだいい。問題は、旧源泉の底から押し出されてくる噴霧に含まれる微量の腐食性成分だ。それが結露して酸性の露となり、配線の隙間からじわじわとカメラの基板を溶かしていく。現場の機材にとって、ここは湿った胃液を吐き続ける生き物の体内と同じだった。
僕はガスマスクのフィルターを締め直し、慎重に岩壁に取り付く。
――水は重力に勝てない。
岩淵さんの声が、耳の奥で鮮明に蘇る。

ザックから防水資材を取り出し、まずカメラを固定するケーブルに「ドリップループ」を設ける。ケーブルをピンと張らずに、カメラの手前でわざと一回転させる。ケーブルの形状は、逆Ω型になった。こうすれば、ケーブルを伝う水滴は、重力に逆らってカメラへ登ることはできず、逆Ωの底で地面に落ちる。単純だが、重力を味方につける最も確実な防御策だ。
「……これで、結露した水はカメラ中に入る前に落ちる。」
次に、自己融着テープを引き伸ばしながら、接続部を空気ごと封じ込めるように巻いていく。
最後に、クリアファイルの端切れを加工し、レンズフードの先に即席の「ひさし」を取り付けた。野球帽のつばのように突き出したそれが、上から落ちてくる結露や噴霧の水滴が直接レンズ面に触れるのを防ぐ。
「結露は落とす。曇りは遮る。……完成だ。」

岩壁から戻ると、湧井が感心したように頷いた。
「ドリップループに、即席のシェード……。即席でそれが出来るなんて、すごいです。」
一拍置いて、微笑む。
「……助かりました、現場主任さん。」
「まあね。岩淵さんの教えを破って、機材を壊したら、どんな恐ろしいことになるか……。でも、これで何が起きても見逃さないはずだ。」
設置を終えた二台のカメラは、飯森山の静かな斜面を、黙って見据えていた。
旧源泉の閉塞。そこから押し出されるガス。
その因果関係を捕捉するための「眼」が、ついに動き始めた。

ここに、実践と論理が融合し始めた。5月のフィールドワークはこれで終了だ。
次は研究室での採水サンプルの解析、そして――6月。
山が、本当に何かを語り始める季節がやって来る。