フヴェルゲルミルの黄昏 ―天然理系女子と温泉調査―

数少ない営業中の旅館は、賑わいを失った温泉街の片隅に佇んでいた。

灯りは点いている。だが、受付を済ませてロビーに足を踏み入れると、人の気配が無い。古い木造建築特有の落ち着いた雰囲気に、沈黙が漂う。
「……静かだね。」
廊下を歩くと、床板が小さく鳴る。無人の客室の前を通るたび、この街を襲った災厄の深刻さを実感せずにはいられない。

部屋に荷物を置き、簡単に打ち合わせをしてから、各自、屋内浴場へ向かう。男湯の湯船に浸った瞬間、僕は眉をひそめた。
硫黄の匂いがしない。肌にまとわりつく感触も、体の芯から温まる感覚も、ない。湯船に満ちたその液体は、どこか「見覚えのある」無機質な表情をしている。
――水道水だ。
脱衣所の表示を見る。成分表示の横に貼られた小さな手書きの紙を確認し、僕は愕然とした。
「内湯:加温循環(上水)混浴露天風呂:源泉掛け流し(加温あり)」
「……嘘だろ。」
思わず、ひとりごちる。せっかく温泉地に来て、水道水の風呂に浸かる虚しさが、じわじわと湧いてきた。

食事は、かつての宴会場と思しき座敷で出された。座布団の上に座っていると、暫くして湧井が現れた。
「あ、山崎さん。待たせてごめんなさい。」
湯上がりの火照った肌に、少し着崩した浴衣姿。ふわりと漂う石鹸の香りと、無造作にまとめられた髪から覗くうなじ。昼間みた登山靴と作業着の姿とは別人のようで、僕は一瞬、視線の置き場に困った。一方の湧井は、そんなことにまるで気づいていない。

「お疲れさまでした。今日、だいぶ詰めましたね。」
料理は豪勢ではない。だが、地元で採れた山菜や川魚が丁寧に調理されている。昼のコンビニ食のあとには驚くほど美味しかった。
「……美味しい。昼がパサついたパンだったから、泣けるほど染みるよ。」
「本当ですね。温かいご飯とお味噌汁が、こんなに尊いなんて。」
僕らの意見は完全に一致した。
湧井は笑い、僕の皿をちらりと見てから、
「はい、これ。今日のMVPは設置作業を頑張った山崎さんだから、私の岩魚の半分、あげちゃう。」
「え、いや……」
「遠慮しない。現場を回したの、山崎さんです。」
無邪気な動作だった。僕は受け取りながら、少しだけ、胸の奥が温かくなるのを感じた。

食事が一段落した頃、僕はふと先ほどから引っかかっていた疑問を口にした。
「……湧井さん。なんで、内湯が水道水で、露天が温泉なんだろう。」
「気づきました?」
「うん。ちょっと、残念だった。」
湧井は箸を置き、少し考えるように天井を見た。
「それが『沈殿物』の恐ろしさなんです。旧源泉の末期症状……シリカの析出が激しくなると、地下の流路だけでなく、地上の配湯設備にも大量に沈着します。特に複雑に分岐した内湯への配管はすぐに詰まってしまう。交換と清掃のコストが跳ね上がります。」
僕は、取水場の地下構造で見た分厚く鋭い堆積物を思い出す。
「だから、水道水に切り替えた」
「一方、露天は掛け流しで、構造が単純。だから、管理負担が比較的少なんです。ここも、もうギリギリの状態でやりくりしているのでしょうね。」
僕は、ゆっくりと頷いた。
「……納得できた。ありがとう。」

すると今度は、湧井が小首を傾げながら僕を見つめる。
「ところで、山崎さん。あなたが設置したVノッチ堰ですけど、取水タンクのオーバーフロー分だけを計って、意味があるのですか?」
「うん、大丈夫。」
「あれだと、旅館側がバルブを動かせば、源泉全体の湧出量変動と乖離しませんか?」
僕は、少しも慌てず答えた。
「給湯量が変動する昼間は乖離する。でも、深夜二時から四時は別だ。」
「……温泉街の需要が落ち着く。」
「そう。消費がほぼ止まり、給湯量が安定かつ最低になる。その時間帯のデータだけを選択的に抽出すれば、バルブ操作の影響を排した、真の湧出量の変動が追跡できる。」
湧井は、一瞬、言葉を失った。
「……そこまで、考えてたんですね。」
「現場で誤差を減らすには、それしかないと思って。」

湧井は、静かに微笑んだ。
「じゃあ、お返しです」
少しだけ声の調子を変える。
「この温泉の“今”をレクチャーさせて下さい。…混浴露天風呂で。」
「……え?」
「もちろん、湯あみ着を着ますよ。」
そう付け加えながら、湧井は僅かに顎を上げ、こちらを見る。
その視線には、僕を試すような、そしてどこか愉しんでいる色が混じっていた。

夜の露天風呂は、淡い湯気に包まれていた。
空を見上げると、雲一つない夜空に、無数の星々が張り付いている。山中の温泉地ならではの、深く、静かな空間だった。
混浴とはいえ、この閑散とした旅館では貸し切り同然だ。湯あみ着を纏った湧井が、僕のすぐ隣で湯に身体を浸している。湯気越しに見る横顔は、昼間より少しだけ柔らかく、無防備な肢体が、薄く白濁した水面下で微かに揺らいでいる。

——駄目だ。
彼女の息遣いを感じるたび、僕の意識は落ち着きを失っていく。
――今は、温泉だ。データだ。
そうやって理屈にしがみつかなければ、視線も、思考も、制御できそうになかった。

そんな僕に追い打ちをかけるように、彼女はそっと囁く。
「ね、触ってみて。」
白い前腕を、こちらに差し出している。
「膜を張る感じ……分かります?」
指先を、彼女の腕の内側に走らせる。その刹那、伝わった湧井の体温に、心臓が飛び跳ねる。それを悟られぬよう、一拍置いて、答える。
「……うん、分かる。」
実際、湯は肌にまとわりつくように重く、粘り気を帯びている。指を離すと、一瞬遅れて、ぬるりとした感触が伝わる。僕は、意識的に肩の力を抜く。
——観測者に戻れ。
そう自分に言い聞かせてから、彼女の言葉を待った。

「ケイ酸から生じたシリカ――SiO₂が、析出寸前の過飽和状態にあるからなんです。」
シリカは旧源泉の地下で見た堆積物の主成分だ。湧井は星空を仰ぎながら、淡々と語る。
「温泉関係者は『美肌の湯』なんて肯定しますけど……本当は逆。これは末期症状なんです。」
湯の中で、彼女の肩がわずかに沈む。
「流路が詰まり、反応時間が伸びてる。硫黄は減って、水の色も薄くなった。……昔は、“生きている湯”でした。」
白濁した水面に、星々が歪んで映る。
「当時は、浸かっているだけで血が巡るのが分かった。肌が滑らかになるのも、ちゃんと理由があった。でも今は……。」
言葉が、そこで切れる。代わりに、夜風が湯気を揺らした。
「旧源泉の実態、分かって頂けましたか。」

僕は、湯の中で膝を抱えたまま、山々の稜線を眺める。
「……一人で抱えるには、少し重い話だね。」
そこまで言って、小さく息を吐く。
「でも、少なくとも――君が見ている現実は、ちゃんと共有できてると思う。」
湧井は微笑を浮かべて頷くと、湯から上がろうと体を起こした。彼女の肢体に、水を吸った湯あみ着がぴたりと貼りつく。顕わになった鎖骨の下、胸から太ももへ流れる滑らかなラインが露わになる。僕は、思わず視線を逸らした。
「さっぱりしましたね。さ、山崎さん。明日もありますから、早めに寝ましょうか。」
彼女は何事もなかったかのように言うと、数歩歩いてから、ふと振り返る。
「……山崎さん、顔赤いですよ?」
「ちょっとだけ、のぼせた! たぶん!」
湧井は、くすっと笑った。

部屋へ戻る廊下で、僕は考えていた。
この温泉は、確かに終末に向かっている。その変化を、彼女は誰よりも正確に理解している――筈だった。だからこそ、あの夜空を見上げる横顔に、確信の代わりに滲んでいたもの――それを、僕は見逃せなかった。
救済はあるのだろうか。少なくとも湧井は、「旧源泉の死」を黙って見届けるつもりなど、毛頭ないはずだ。だが、彼女が心血を注いで作り上げたモデルは、昼間の調査によって綻びの兆しを垣間見せた。

そのことへの不安が、湯の感触のように、いつまでも肌の奥に残っていた。