――旧源泉での息苦しい作業を終えた僕らを待っていたのは、空腹と、この温泉街の厳しい現実だった。
かつては観光客で賑わったであろう目抜き通りを車で抜ける。だが、目に入るのは「休業」の札を下げたまま色褪せた旅館や、シャッターの降りた店舗ばかりだ。人の気配が、ない。
「……まともな飲食店、殆ど残ってないんだね。」
僕の言葉に、湧井薫は窓の外を眺めたまま、少し間を置いて答えた。
「泉質があれだけ劣化したんです。硫黄が抜けて、温度も下がった。“効かなくなった温泉”から、人は去って行きました。」
淡々とした口調だったが、その奥に、かすかな痛みが滲んでいた。旧源泉で見た、あの沈殿物の層が、脳裏をよぎる。
結局、僕らは唯一営業しているコンビニに車を止めた。少しパサついたおにぎりとサンドイッチを買い込み、車内で無機質な昼食を摂る。目の前の通りは交通量が少なく、時折走り抜ける大型のタンクローリーがやけに目を引く。
「都市近郊の、大手のスーパー銭湯へお湯を運んでいるんです。」
ブラックの缶コーヒーを片手に、湧井が独り言のように呟く。
「温泉旅館が減って、お湯が余るようになったから。給湯量は却って増えたと行政は胸を張るけれど……街には殆どお金が落ちません。」
そう言って、ほんの一瞬、彼女はこぶしを握る。
「……さて」
湧井がパンの袋を畳みながら、気を取り直すようにふっと笑う。
「デザートは“野生の源泉”です。行きましょうか。」
車を降り、荒々しいガレ場を歩く。青々とした樹林帯は後景に退き、まばらに茂る木々の葉は茶色く縮れ、足元の草が真っ黒に腐っている
「……硫黄の臭いがしないね。」
僕が言うと、湧井は小さく頷いた。
「ええ。ここは二酸化炭素が支配している場所です。地下から漏れ出した CO₂ が、土壌の酸素を追い出して……植物を窒息させる。」
足元から、シュシュッ、と乾いた空気が抜けるような音がする。しゃがんだ瞬間、足元の空気が、わずかに重く感じられた。硫黄の刺激臭がない。その代わり、胸の奥が、ほんの少し圧される。
――無臭だからこそ、油断できない。
「……湧井さん。ここ、風向きと立ち位置、気をつけて。CO₂ は、気づかないうちに足元から来る」
「……了解。山崎さんに着いていきます。」
自然と、役割が切り替わっていた。
岩陰を回り込んだ先に、それはあった。旧源泉の、あの「静かな死」を孕んだ暗がりとは、何もかもが対照的だった。コンクリートの壁も、マンホールの蓋もない。爽やかな風が吹きつける岩場の窪みに、水晶のように透き通った熱水が、絶え間なく湧き出している。飛沫が太陽光を浴びて煌めく。
「……これが、新源泉」
僕はしゃがみ込み、距離を測りながら慎重に覗き込む。底まで、はっきりと見える。
「卵の臭いがしないでしょう?」
湧井が言った。
「その代わり、よく見て下さい。泡が――」
源泉の底から、銀色の粒のような泡が、絶え間なく立ち上っている。
「二酸化炭素がたっぷり溶け込んでいる証拠です。とても深いところに由来するガスが、ほとんど寄り道せずに上がってきている。」
湧き出した湯は岩の窪みに吸い寄せられ、青空の下、「天然の露天風呂」を形作っていた。彼女は微かに頬を緩ませる。
「……仕事じゃなかったら、入りたいですね。弱炭酸、贅沢極まりないですよ。」
「でも、まず pH を見る。見た目に惑わされると、だいたい痛い目に遭う。」
「はい、現場主任。」
湧井は一歩引き、楽しそうに笑った。
「 HCO₃⁻(重炭酸イオン)用ボトル、行きます」
この HCO₃⁻ が濃ければ、この透明な水は、地表で生まれたものじゃない。地球の深い呼吸を、まだ体内に抱えたまま、ここまで上がってきた水だ。
岩淵さんの声が、脳裏で反響する。
――空気に触れさせるな。液面を盛り上げて、すぐ蓋。
勢いよく湧き出す熱水が、容赦なく跳ねる。
「熱っ……! これ、見た目より暴力的だ……!」
「だから“野生”なんです!」
泥だらけになりながら、僕はボトルを抱え込む。旧源泉での、あのミリ単位の静かな緊張とは、まるで違う。
「試薬ください!」
「投げるよ――落とさないで!」
「落としません!」
二人分の声が、蒸気の中で弾んだ。
僕はトランクから、ずっしりと重い金属製の真空ボトルを取り出した。ヘリウム同位体採取用のサンプラーだ
「……これが、最後の切り札だ。」
岩淵さんの顔が、脳裏をよぎる。
――壊すなよ。……おまえの。バイト代1年分じゃ……とても足りない。
「固定します。湧井さん、バルブ操作、補助お願い。」
「了解です。」
湧井が真剣な面持ちでバルブを握る。僕はサンプラーを源泉の直上に固定し、ガスの導入ラインを繋いだ。もし、採取されるヘリウム同位体比(³He/⁴He)が高ければ――深部と繋がっている可能性がある。それは、旧源泉が閉じつつある一方で、この場所に、別の経路が開いたことを示す決定打になる。
「……今だ」
「開けます」
カチリ、と金属音。真空の内部に、地球の深部からの“息”が、静かに吸い込まれていく。二人とも、無言でバルブを見つめた。
「……閉じて。完了。」
湧井が、深く息を吐いた。
「すごく緊張しました……。」
夕陽に染まる飯森山を見上げながら、金属ボトルを収納したトランクを、赤ん坊を扱うように毛布で包む。
フィールドワーク1日目は、無事終了した。
旧源泉の、静かなる閉塞。新源泉の、透明で無遠慮な胎動。その両方を、この手で触れた感触が、泥の乾いた掌に、いつまでも残っていた。
かつては観光客で賑わったであろう目抜き通りを車で抜ける。だが、目に入るのは「休業」の札を下げたまま色褪せた旅館や、シャッターの降りた店舗ばかりだ。人の気配が、ない。
「……まともな飲食店、殆ど残ってないんだね。」
僕の言葉に、湧井薫は窓の外を眺めたまま、少し間を置いて答えた。
「泉質があれだけ劣化したんです。硫黄が抜けて、温度も下がった。“効かなくなった温泉”から、人は去って行きました。」
淡々とした口調だったが、その奥に、かすかな痛みが滲んでいた。旧源泉で見た、あの沈殿物の層が、脳裏をよぎる。
結局、僕らは唯一営業しているコンビニに車を止めた。少しパサついたおにぎりとサンドイッチを買い込み、車内で無機質な昼食を摂る。目の前の通りは交通量が少なく、時折走り抜ける大型のタンクローリーがやけに目を引く。
「都市近郊の、大手のスーパー銭湯へお湯を運んでいるんです。」
ブラックの缶コーヒーを片手に、湧井が独り言のように呟く。
「温泉旅館が減って、お湯が余るようになったから。給湯量は却って増えたと行政は胸を張るけれど……街には殆どお金が落ちません。」
そう言って、ほんの一瞬、彼女はこぶしを握る。
「……さて」
湧井がパンの袋を畳みながら、気を取り直すようにふっと笑う。
「デザートは“野生の源泉”です。行きましょうか。」
車を降り、荒々しいガレ場を歩く。青々とした樹林帯は後景に退き、まばらに茂る木々の葉は茶色く縮れ、足元の草が真っ黒に腐っている
「……硫黄の臭いがしないね。」
僕が言うと、湧井は小さく頷いた。
「ええ。ここは二酸化炭素が支配している場所です。地下から漏れ出した CO₂ が、土壌の酸素を追い出して……植物を窒息させる。」
足元から、シュシュッ、と乾いた空気が抜けるような音がする。しゃがんだ瞬間、足元の空気が、わずかに重く感じられた。硫黄の刺激臭がない。その代わり、胸の奥が、ほんの少し圧される。
――無臭だからこそ、油断できない。
「……湧井さん。ここ、風向きと立ち位置、気をつけて。CO₂ は、気づかないうちに足元から来る」
「……了解。山崎さんに着いていきます。」
自然と、役割が切り替わっていた。
岩陰を回り込んだ先に、それはあった。旧源泉の、あの「静かな死」を孕んだ暗がりとは、何もかもが対照的だった。コンクリートの壁も、マンホールの蓋もない。爽やかな風が吹きつける岩場の窪みに、水晶のように透き通った熱水が、絶え間なく湧き出している。飛沫が太陽光を浴びて煌めく。
「……これが、新源泉」
僕はしゃがみ込み、距離を測りながら慎重に覗き込む。底まで、はっきりと見える。
「卵の臭いがしないでしょう?」
湧井が言った。
「その代わり、よく見て下さい。泡が――」
源泉の底から、銀色の粒のような泡が、絶え間なく立ち上っている。
「二酸化炭素がたっぷり溶け込んでいる証拠です。とても深いところに由来するガスが、ほとんど寄り道せずに上がってきている。」
湧き出した湯は岩の窪みに吸い寄せられ、青空の下、「天然の露天風呂」を形作っていた。彼女は微かに頬を緩ませる。
「……仕事じゃなかったら、入りたいですね。弱炭酸、贅沢極まりないですよ。」
「でも、まず pH を見る。見た目に惑わされると、だいたい痛い目に遭う。」
「はい、現場主任。」
湧井は一歩引き、楽しそうに笑った。
「 HCO₃⁻(重炭酸イオン)用ボトル、行きます」
この HCO₃⁻ が濃ければ、この透明な水は、地表で生まれたものじゃない。地球の深い呼吸を、まだ体内に抱えたまま、ここまで上がってきた水だ。
岩淵さんの声が、脳裏で反響する。
――空気に触れさせるな。液面を盛り上げて、すぐ蓋。
勢いよく湧き出す熱水が、容赦なく跳ねる。
「熱っ……! これ、見た目より暴力的だ……!」
「だから“野生”なんです!」
泥だらけになりながら、僕はボトルを抱え込む。旧源泉での、あのミリ単位の静かな緊張とは、まるで違う。
「試薬ください!」
「投げるよ――落とさないで!」
「落としません!」
二人分の声が、蒸気の中で弾んだ。
僕はトランクから、ずっしりと重い金属製の真空ボトルを取り出した。ヘリウム同位体採取用のサンプラーだ
「……これが、最後の切り札だ。」
岩淵さんの顔が、脳裏をよぎる。
――壊すなよ。……おまえの。バイト代1年分じゃ……とても足りない。
「固定します。湧井さん、バルブ操作、補助お願い。」
「了解です。」
湧井が真剣な面持ちでバルブを握る。僕はサンプラーを源泉の直上に固定し、ガスの導入ラインを繋いだ。もし、採取されるヘリウム同位体比(³He/⁴He)が高ければ――深部と繋がっている可能性がある。それは、旧源泉が閉じつつある一方で、この場所に、別の経路が開いたことを示す決定打になる。
「……今だ」
「開けます」
カチリ、と金属音。真空の内部に、地球の深部からの“息”が、静かに吸い込まれていく。二人とも、無言でバルブを見つめた。
「……閉じて。完了。」
湧井が、深く息を吐いた。
「すごく緊張しました……。」
夕陽に染まる飯森山を見上げながら、金属ボトルを収納したトランクを、赤ん坊を扱うように毛布で包む。
フィールドワーク1日目は、無事終了した。
旧源泉の、静かなる閉塞。新源泉の、透明で無遠慮な胎動。その両方を、この手で触れた感触が、泥の乾いた掌に、いつまでも残っていた。
