飯森山の中腹に差しかかるころ、道は急に細くなった。
舗装は続いているが、落ち葉と砂利が混じり、タイヤが踏みしめる音が低く変わる。エンジンの唸りが、谷に反響した。
「……ここですね、旧源泉の取水場。」
湧井が小さく言った。その声に、確信と、わずかな懐かしさが混じっているのを、僕は聞き逃さなかった。
標高600メートル。SUVのエンジンを止めると、車内に漂うジャズの余韻を、荒々しい蒸気の排気音がかき消した。
温泉街の外れ。人気はなく、古い配管と苔むした擁壁だけが目に付く場所だ。車を降りると、風に乗って、はっきりとした硫黄臭が鼻を刺した。湿り気と熱を含んだ、地下から直接立ち上ってくる匂いだった。
湧井の視線は、取水小屋の方に向いている。それは、長年の酸性霧に晒され、コンクリートの肌が黒ずんだ無機質な建物だった。トタン屋根は白く粉を吹き、釘の周りだけが赤く滲んでいる。湧井が鍵を開け、錆びついた鉄扉を引いた瞬間、目を開けていられないほどの熱気と、卵が腐ったような強烈な硫黄臭が押し寄せた。思わず一歩、後ずさる。
「……っ」
中は暗い。昼間だというのに、光はほとんど届かない。黒く変色したコンクリート壁と濃密な湿気が光を吸い込むようだ。
岩淵さんの言葉が、反射的に頭に浮かぶ。
――密閉空間だ。
――ガスが溜まる。
――検知器が鳴ったら、迷うな。
僕は無言でガスマスクを取り出し、装着した。湧井はそれを見て、一瞬だけ眉をひそめる。
「……そこまで?」
「……そこまで、だと思う」
ガス検知器の電源を入れる。数秒後、微かな警告音。連続音ではない。だが、ゼロではない。
「……二酸化炭素は1200ppm。硫化水素は3ppm。まだ、動ける。湧井さん、外で待っていてください」
「い、いいえ。私は……ライトを照らします。ここが、私の『現場』なんだから。」
彼女の瞳には、恐怖を撥ね退ける強い好奇心が宿っていた。何より、測定機器の初歩的な扱いを習得して実地に臨んでいる。僕は頷き、工具箱を手に、コンクリートの床に口を開けたマンホールの下へと、錆びた梯子を降りる。
「湧井さん、上から照らして。あと、ここからは……下りないで」
「……わかりました」
彼女は即座に切り替えた。理論ではない。現場の判断だった。
梯子を降りると、立坑の底に立つ。そこで僕を待っていたのは、暗い地下構造だった。天井の高さは、一応は2mほどある。しかし、配管が複雑に這いまわり、頭をぶつけないよう、腰を折らなくてはいけない。温泉水が流れ込む音が、低く、くぐもって響いている。
ライトの光が差し込む。取水エリアの内部は、想像を絶する空間だった。懐中電灯の光が届く範囲はわずかで、壁面には、白濁色のヌメリを伴った沈殿物が、小さな鍾乳石を思わせる形でびっしりとこびりついていた。
「狭い……」 図面では余裕があるはずの空間が、壁面からせり出したスケールと膨張する蒸気のせいで、まるで生物の胃袋の中にいるような圧迫感を与えてくる。
「山崎さん、大丈夫? 左側をもっと照らしますね」
マンホールの上から、湧井の声が反響して届く。
「……お願いします。今からVノッチを設置します。堰の縁、左右の高さを見てください」
取水タンクから絶え間なく溢れるオーバーフローは緩やかな斜面を下り、続く平面で勢いを殺してから、排水溝へ流れ込んでいく。僕は平面部の出口、排水溝へ落ちる段差に指をかけ、金属製のVノッチ堰を咬ませた。岩淵さんの言葉が脳裏に響く。
――ミリ単位のズレが、データをゴミにする。
「湧井さん、ライトを固定して! 水平器の気泡が見えない!」
僕は堰の上に置いた水平器を凝視する。ガスマスクのレンズが曇り、焦点が合いにくい。
「待って……山崎さん、今、右側の切り欠きが、水面に対してわずかに沈んで見えます。光の反射がズレてる。」
湧井の声は、数値ではなく、視覚に基づく確認だった。
「右を持ち上げて。……待って、行き過ぎ。少し戻して……」
僕は呼吸を止め、指先の感覚だけに意識を集中させる。パテが潰れ、金属が微かに鳴る。
「……そこ。今、左右の縁が揃って見えます。水面に対して、歪みが消えました……ストップ!その位置で、気泡はどうですか?」
「……ど真ん中だ。固定する!」
声を掛け合いながら、作業を進める。汗が背中を伝い、ガスマスクの内側が湿る。暗闇の中、僕の手元の水平器と、頭上から降ってくる湧井の言葉だけが頼りだった。
汚泥のような堆積物とパテにまみれながら、重い金属板を固定するワイヤーを張る。呼吸を合わせ、地下構造の中で反響する互いの声を確認し合う。
その作業は、まるで心臓を移植する手術のような緊張感を帯びていた。ようやくECロガーと湯温ロガーを排水溝の水中に吊り下げ、作業を終える。
――ふと、上を見る。
湧井は、ライトを構えたまま、こちらを見下ろしていた。その表情に、いつもの確信が、ない。
彼女は地下の壁面を照らす。
「……ねえ、山崎さん。私の予想では、この時期のスケール沈着速度は、もっと緩やかなはずでした。」
光の中で、刃物のような縁を持つ白濁色の結晶が、厚く盛り上がっているのがはっきりと見えた。
「でも、新しい沈着の量と形状、異様な臭い……。ひと月に数ミリのスピードで厚みを増しているかもしれない……。計算以上です……。」
それは、湧井にしては珍しい言い方だった。断定でも、主張でもない。確認だった。
「……うん。現場って、だいたい予想を裏切る。」
僕の返答に対し、彼女は一瞬、何か言いかけて、やめた。
「……だから、体験しないと分からない。」
湧井は、ただ、光を当てる。
「数字には出てこない『物理的な閉塞』が、今この瞬間、私たちの足元で起きている。……私のモデル、甘かったかもしれない。」
――流路閉塞は、段階的に進む。
そう語っていた彼女の言葉が、頭をよぎる。それは、完璧な予言者だった湧井が、初めて自らの理論と現実の「距離」を認めた瞬間だった。彼女の顔からは、理論とデータを語る傲慢さが消え、目の前の不可解な現象を謙虚に受け入れようとする「観測者」の顔が現れていた。
「……私、泉先生に相談して、ロガーの定期的メンテナンスを温泉組合にお願いします。センサーへの沈着物の付着を防止するために。」
ライトの光が、僕の足許を照らし出す。
「……お疲れさまでした。」
「……湧井さんも。」
梯子を上ると、周囲の空気が、少しだけ軽く感じられた。微かに差し込む太陽光が、眩しい。彼女は何も言わなかった。だが、その横顔には、現場を見た者の静かな覚悟が浮かんでいた。
泥にまみれた手袋を外しながら、僕は思わず、暗いマンホールの底を振り返る。もう内部は見えない。だが、さっきまでそこにあった重たい空気と、湿った熱だけが、皮膚の内側に残っている。
――あの異常な量の沈殿物。
末端の取水設備ですら、あれほど堆積している。だとすれば、地下の流路は、もっと凄惨な目詰まりを起こしているはずだ。僕は、確かな手ごたえを感じていた。
――セルフシーリング。
流路が、自らを塞いでいく現象。熱を持ったマグマ系は熱水に異物を放出する。そして、地表へ向かう過程で湯が冷却されると異物は析出し、沈着していく。その進行に伴い、最終的には深部からの熱水供給は断たれる。
結果、湧出量は減り、真水に近い低温の浅層地下水だけが残されるだろう。当然ながら、湯温と酸性度は低下(㏗上昇)し、硫黄を含む溶存成分は急激に希釈される筈だ。
飯森山温泉で、過去十年にわたって観測されてきた変化と、きれいに符合する。かつて彼女は旧源泉の衰退こそ、飯森山が緩やかに火山としての活動を再開する兆候だと語った。漸く、僕はその意味を悟った。
この過程を精緻に捉え、対策につなげること。それが、湧井の狙いなのだろう。理屈としては、分かる。今日、設置した機器の構成も、測定の分解能も、そのために最適化されているように思える。
……けれど。
あの真新しく、膨大で、不自然なスケールは、一体どこから来た?ゆっくり閉じていくには、あまりに急で、あまりに暴力的だ。
まるで、急激に絞り出され、無理やり押し固めているような――そんな感触が、ガスマスクを外したあとも、頬の内側に貼り付いて離れなかった。
もしこれが、「終わり」へ向かう静かな閉塞の延長ではなく、全く異質な破滅的現象の兆候だとしたら?旧源泉は、湧井が考えるよりもずっと早く止めを刺されるかもしれない。そんな不安が、僕の頭の中で朧げに生じていた。
舗装は続いているが、落ち葉と砂利が混じり、タイヤが踏みしめる音が低く変わる。エンジンの唸りが、谷に反響した。
「……ここですね、旧源泉の取水場。」
湧井が小さく言った。その声に、確信と、わずかな懐かしさが混じっているのを、僕は聞き逃さなかった。
標高600メートル。SUVのエンジンを止めると、車内に漂うジャズの余韻を、荒々しい蒸気の排気音がかき消した。
温泉街の外れ。人気はなく、古い配管と苔むした擁壁だけが目に付く場所だ。車を降りると、風に乗って、はっきりとした硫黄臭が鼻を刺した。湿り気と熱を含んだ、地下から直接立ち上ってくる匂いだった。
湧井の視線は、取水小屋の方に向いている。それは、長年の酸性霧に晒され、コンクリートの肌が黒ずんだ無機質な建物だった。トタン屋根は白く粉を吹き、釘の周りだけが赤く滲んでいる。湧井が鍵を開け、錆びついた鉄扉を引いた瞬間、目を開けていられないほどの熱気と、卵が腐ったような強烈な硫黄臭が押し寄せた。思わず一歩、後ずさる。
「……っ」
中は暗い。昼間だというのに、光はほとんど届かない。黒く変色したコンクリート壁と濃密な湿気が光を吸い込むようだ。
岩淵さんの言葉が、反射的に頭に浮かぶ。
――密閉空間だ。
――ガスが溜まる。
――検知器が鳴ったら、迷うな。
僕は無言でガスマスクを取り出し、装着した。湧井はそれを見て、一瞬だけ眉をひそめる。
「……そこまで?」
「……そこまで、だと思う」
ガス検知器の電源を入れる。数秒後、微かな警告音。連続音ではない。だが、ゼロではない。
「……二酸化炭素は1200ppm。硫化水素は3ppm。まだ、動ける。湧井さん、外で待っていてください」
「い、いいえ。私は……ライトを照らします。ここが、私の『現場』なんだから。」
彼女の瞳には、恐怖を撥ね退ける強い好奇心が宿っていた。何より、測定機器の初歩的な扱いを習得して実地に臨んでいる。僕は頷き、工具箱を手に、コンクリートの床に口を開けたマンホールの下へと、錆びた梯子を降りる。
「湧井さん、上から照らして。あと、ここからは……下りないで」
「……わかりました」
彼女は即座に切り替えた。理論ではない。現場の判断だった。
梯子を降りると、立坑の底に立つ。そこで僕を待っていたのは、暗い地下構造だった。天井の高さは、一応は2mほどある。しかし、配管が複雑に這いまわり、頭をぶつけないよう、腰を折らなくてはいけない。温泉水が流れ込む音が、低く、くぐもって響いている。
ライトの光が差し込む。取水エリアの内部は、想像を絶する空間だった。懐中電灯の光が届く範囲はわずかで、壁面には、白濁色のヌメリを伴った沈殿物が、小さな鍾乳石を思わせる形でびっしりとこびりついていた。
「狭い……」 図面では余裕があるはずの空間が、壁面からせり出したスケールと膨張する蒸気のせいで、まるで生物の胃袋の中にいるような圧迫感を与えてくる。
「山崎さん、大丈夫? 左側をもっと照らしますね」
マンホールの上から、湧井の声が反響して届く。
「……お願いします。今からVノッチを設置します。堰の縁、左右の高さを見てください」
取水タンクから絶え間なく溢れるオーバーフローは緩やかな斜面を下り、続く平面で勢いを殺してから、排水溝へ流れ込んでいく。僕は平面部の出口、排水溝へ落ちる段差に指をかけ、金属製のVノッチ堰を咬ませた。岩淵さんの言葉が脳裏に響く。
――ミリ単位のズレが、データをゴミにする。
「湧井さん、ライトを固定して! 水平器の気泡が見えない!」
僕は堰の上に置いた水平器を凝視する。ガスマスクのレンズが曇り、焦点が合いにくい。
「待って……山崎さん、今、右側の切り欠きが、水面に対してわずかに沈んで見えます。光の反射がズレてる。」
湧井の声は、数値ではなく、視覚に基づく確認だった。
「右を持ち上げて。……待って、行き過ぎ。少し戻して……」
僕は呼吸を止め、指先の感覚だけに意識を集中させる。パテが潰れ、金属が微かに鳴る。
「……そこ。今、左右の縁が揃って見えます。水面に対して、歪みが消えました……ストップ!その位置で、気泡はどうですか?」
「……ど真ん中だ。固定する!」
声を掛け合いながら、作業を進める。汗が背中を伝い、ガスマスクの内側が湿る。暗闇の中、僕の手元の水平器と、頭上から降ってくる湧井の言葉だけが頼りだった。
汚泥のような堆積物とパテにまみれながら、重い金属板を固定するワイヤーを張る。呼吸を合わせ、地下構造の中で反響する互いの声を確認し合う。
その作業は、まるで心臓を移植する手術のような緊張感を帯びていた。ようやくECロガーと湯温ロガーを排水溝の水中に吊り下げ、作業を終える。
――ふと、上を見る。
湧井は、ライトを構えたまま、こちらを見下ろしていた。その表情に、いつもの確信が、ない。
彼女は地下の壁面を照らす。
「……ねえ、山崎さん。私の予想では、この時期のスケール沈着速度は、もっと緩やかなはずでした。」
光の中で、刃物のような縁を持つ白濁色の結晶が、厚く盛り上がっているのがはっきりと見えた。
「でも、新しい沈着の量と形状、異様な臭い……。ひと月に数ミリのスピードで厚みを増しているかもしれない……。計算以上です……。」
それは、湧井にしては珍しい言い方だった。断定でも、主張でもない。確認だった。
「……うん。現場って、だいたい予想を裏切る。」
僕の返答に対し、彼女は一瞬、何か言いかけて、やめた。
「……だから、体験しないと分からない。」
湧井は、ただ、光を当てる。
「数字には出てこない『物理的な閉塞』が、今この瞬間、私たちの足元で起きている。……私のモデル、甘かったかもしれない。」
――流路閉塞は、段階的に進む。
そう語っていた彼女の言葉が、頭をよぎる。それは、完璧な予言者だった湧井が、初めて自らの理論と現実の「距離」を認めた瞬間だった。彼女の顔からは、理論とデータを語る傲慢さが消え、目の前の不可解な現象を謙虚に受け入れようとする「観測者」の顔が現れていた。
「……私、泉先生に相談して、ロガーの定期的メンテナンスを温泉組合にお願いします。センサーへの沈着物の付着を防止するために。」
ライトの光が、僕の足許を照らし出す。
「……お疲れさまでした。」
「……湧井さんも。」
梯子を上ると、周囲の空気が、少しだけ軽く感じられた。微かに差し込む太陽光が、眩しい。彼女は何も言わなかった。だが、その横顔には、現場を見た者の静かな覚悟が浮かんでいた。
泥にまみれた手袋を外しながら、僕は思わず、暗いマンホールの底を振り返る。もう内部は見えない。だが、さっきまでそこにあった重たい空気と、湿った熱だけが、皮膚の内側に残っている。
――あの異常な量の沈殿物。
末端の取水設備ですら、あれほど堆積している。だとすれば、地下の流路は、もっと凄惨な目詰まりを起こしているはずだ。僕は、確かな手ごたえを感じていた。
――セルフシーリング。
流路が、自らを塞いでいく現象。熱を持ったマグマ系は熱水に異物を放出する。そして、地表へ向かう過程で湯が冷却されると異物は析出し、沈着していく。その進行に伴い、最終的には深部からの熱水供給は断たれる。
結果、湧出量は減り、真水に近い低温の浅層地下水だけが残されるだろう。当然ながら、湯温と酸性度は低下(㏗上昇)し、硫黄を含む溶存成分は急激に希釈される筈だ。
飯森山温泉で、過去十年にわたって観測されてきた変化と、きれいに符合する。かつて彼女は旧源泉の衰退こそ、飯森山が緩やかに火山としての活動を再開する兆候だと語った。漸く、僕はその意味を悟った。
この過程を精緻に捉え、対策につなげること。それが、湧井の狙いなのだろう。理屈としては、分かる。今日、設置した機器の構成も、測定の分解能も、そのために最適化されているように思える。
……けれど。
あの真新しく、膨大で、不自然なスケールは、一体どこから来た?ゆっくり閉じていくには、あまりに急で、あまりに暴力的だ。
まるで、急激に絞り出され、無理やり押し固めているような――そんな感触が、ガスマスクを外したあとも、頬の内側に貼り付いて離れなかった。
もしこれが、「終わり」へ向かう静かな閉塞の延長ではなく、全く異質な破滅的現象の兆候だとしたら?旧源泉は、湧井が考えるよりもずっと早く止めを刺されるかもしれない。そんな不安が、僕の頭の中で朧げに生じていた。
