フヴェルゲルミルの黄昏 ―天然理系女子と温泉調査―

――5月3日。
現地調査当日の朝は、拍子抜けするほど穏やかだった。和やかな風が吹き、澄み渡った青空が広がる。

研究室前の駐車場で、僕は使い込んだ愛車のSUVへ機器を積み込んだ。温度ロガー、ECロガー、ガス検知器、工具類。傍らでは、湧井が何度もリストを見返して確認している。
助手席のドアが静かに閉まる音がする。彼女が乗り込んだのを横目で確認し、僕はエンジンをかけた。機器を収めたケースが、段差を越えるたびに「カチャリ」と小さな音を立てる。それは、これから始まる実地調査の鼓動のようにも聞こえた。

湧井薫は、十日ばかり前の「戦闘モード」が嘘のように、ゆったりとシートに体を沈めていた。窓から差し込む朝の光が、彼女の横顔を柔らかく縁取っている。
「……湧井さん、もしよければ、何か音楽をかけてくれないかな。まだ先は長いから。」
僕がそう言うと、彼女は「あ、いいですね。」と少しだけ相好を崩した。彼女の指がスマホの画面を滑る。
「じゃあ……これはどうですか?」
低く柔らかなベースの音が内に流れ込んできた。ピアノとブラシのドラムが控えめに絡む、古いジャズだった。
「……運転の邪魔になりません?」
「ちょうどいい。落ち着く。」
それきり会話は途切れたが、沈黙は気まずくなかった。
繊細なピアノの旋律が、車内を満たしていく。湧井は窓の外に流れる新緑を眺めながら、時折、何かに合わせるように指先を膝の上で微かに動かしていた。それはピアノのリズムを刻んでいるようでもあり、地下深くに潜む熱水の流路をなぞっているようでもあった。
市街地を抜けると、彼女は瞳を閉じ、静かに呼吸する。音楽に身を任せ、頭の中で今日の流れをイメージしているのだろう。

旧源泉の取水施設。地下タンク。ガス検知器。
新源泉でのロガー設置。ヘリウム採取。
採水の手順、ボトルのラベル、所要時間。

湧井の指先は、今やはっきりとリズムを取っている。あれほど張り詰めていた湧井が、今は不思議なほど穏やかだった。
「……ね。」
トラックが終盤に差し掛かる頃、湧井が目を閉じたまま口を開いた。
「……山崎さん……」
その声は、研究室での鋭い口調とは異なり、驚くほど穏やかだった。
「今回のフィールド、私一人じゃ絶対に無理だった。私の独走を許してくれた泉教授や、徹夜で機材を組んでくれた岩淵さん、分析スケジュールを詰め直してくれた寒川さん……」
湧井はそこで一拍置いた。
「そして、何より私の『わがまま』に付き合って、こうしてハンドルを握ってくれている山崎さんがいなければ、あの計画はただの紙屑でした。」
僕は前を見たまま、ゆっくり息を吐いた。
「……役割分担、だよ。」
「それでも」
湧井は目を開け、まっすぐ僕を見た。
「ありがとう。ちゃんと、言ってませんでした。」
彼女は照れ隠しをするでもなく、ただ素直に感謝を口にしていた。

ジャズのトラックが一巡する。
僕は、ほんの少しだけハンドルを握る力を緩めた。
「……湧井さんの『意思』が、現実を動かしたんだと思う。」
慎重に言葉を選びながら、僕は続ける。
「あんなふうに強引に扉を叩けるのは、湧井さんしかいないよ。それが、皆を動かした。僕も、その一人だし。」
「強引、ですか。確かにそうでしたね。」
彼女はくすりと笑った。その笑顔は、どこか幼い頃の面影を感じさせるような、素朴なものだった。
「でも、一人で山に登るのと、誰かと一緒に登るのでは、見える景色が違う気がします。……今回のフィールド、現場で何が起きても、山崎さんがいれば大丈夫だと思えるんです。」
車内を流れるジャズの調べの中で、僕たちの間に、静かな敬意が芽生えたのを感じた。それはまだ「友情」や「信頼」と呼ぶには早い、けれど確かな、同じ現場に立つ者同士の敬意だった。

やがて車は緩やかなカーブを描きながら、山道に入る。エンジンが低い唸り声を上げ、ガードレールの向こうに濃い緑が迫ってくる。僕は無意識に背筋を伸ばした。湧井もシートから体を起こし、音量を絞る。先ほどまでの穏やかな表情が、鋭いものへと切り替わる。
「……そろそろ、切り替えですね。」
「うん。実践の時間だ。」
自然の懐。理論でも議論でもない、現場がすべてを語る場所。車は静かに標高を上げていった。