フヴェルゲルミルの黄昏 ―天然理系女子と温泉調査―

岩淵さんの「生命線だ」という言葉の余韻に浸り、重い責任感で胃をキリキリさせながら研究室を出た時だった。

「おーい、山崎じゃん。」
背後から軽薄な声が飛んでくる。振り返ると、同期の軽井がドア枠にもたれかかっていた。白衣の前を開け放ち、研究室には不釣り合いな明るい色のシャツが覗く。彼は僕のノートをのぞき込み、ヘラヘラと笑いながら僕の肩に腕を回した。その馴れ馴れしい体温が、胃の痛みをさらに強くした。
「もうすぐフィールドだろ?」
軽井はにやにやしながら言った。
「温泉だっけ?いいよなぁ。泊りがけ?しかもさ――」
一瞬、声を潜めるふりをして、しかし全く潜めていない声で続ける。
「湧井さんってさ、正直、顔レベル高くね?美人と温泉に泊りがけの調査とか、マジでテンション上がらね?なあ山崎、俺も混ぜてくれよ。」
冗談として完成しているつもりなのだろう。自分の言葉で笑った。

彼にとって、今回のフィールドワークは「大学公認のピクニック」くらいにしか見えていないらしい。湧井がどれほどの執念でこの計画を磨いたか、岩淵さんがどれほどの緊張感で機器を整備したか。そんな内面的な重さには、彼はミリ単位の興味もなさそうだった。

僕が困ったように笑って受け流そうとすると、視線の端で、もう一人の人影が動くのが見えた。軽井の影に立っていたのは、同じく同期の重森だ。彼女は表情を変えず、軽井の発言を聞き流すように窓の外を見ていた。だが、ノートを抱く指先だけが、わずかに白くなっている。
彼女は、軽井とは対照的に隙のない服装をした優等生だ。いつも軽井の無軌道ぶりに呆れ果てているはずなのに、なぜか彼の行く先々に彼女の姿がある。今も、軽井君の「湧井さんは美人」発言を聞いた瞬間、彼女の眼鏡の奥の瞳が、凍てつくような冷気を放った。

軽井の無神経な軽口は続く。
「頼むよ、荷物持ちでもなんでもやるからさ。何なら、俺のトークで温泉旅館の夜を盛り上げてやるよ。な?山崎。どうせなら楽しまないと損だろ。」
「……楽しむ余裕は、たぶん無い。」
僕がそう答えると、軽井は「えー、マジかよ。」と大袈裟に肩を落とした。
「固いなぁ。研究って、もっとノリでやるもんじゃん?」

――命がかかってる場所だ。

思わず口に出た言葉に、自分で少し驚いた。軽井は一瞬きょとんとし、それから笑った。
「えっ、お前の真面目かよ?なら言うけどさ、正直、あの温泉ってもう終わりじゃね?死にかけの源泉、必死に調べて、何が出るってんだよ。」

そのとき、初めて重森が口を開いた。
「……私も、それは思う。」
声は低く、静かだった。軽井が驚いたように彼女を見る。
「お、重森まで?珍し」
重森は軽井を見ず、僕の方をまっすぐ見て言った。
「……もう枯れるのを待つだけの末期的な場所に、そこまで心血を注ぐ意味って何なの?莫大な予算と、岩淵さんの労力、そしてあなたの時間。それを費やして得られるのが『死の確認』だけだなんて、効率が悪すぎる。」
「それは……教授が、揺らぎを見るんだって……」
「泉教授も泉教授よ。」 重森さんは吐き捨てるように言った。
「あんな新入生の独走を許して、学術的トレンドから外れた『感傷的』な調査に、院生を二人も付き合わせるなんて。私には理解できない。研究室の評判に関わらなきゃいいけど……私はそれが気がかりだわ。」
彼女の言葉は、正論の衣をまとった「焦燥」のように聞こえた。軽井が湧井の外見に鼻の下を伸ばしていることへの苛立ちが、調査そのものへの否定にすり替わっている。

「……まあまあ、重森ちゃん。固いこと言うなよ!なあ、山崎、マジで湧井さんの浴衣姿撮って共有しろよな!」
「死ねばいいのに。」 重森が小さく呟いた。それが軽井に向けられたものか、旧源泉に向けられたものか、はたまた湧井に向けられたものか、僕には判断がつかなかった。
「山崎君。」
彼女は最後に、念を押すように言った。
「無理はしないで。……意味のあることだけを、やって。」
それが忠告なのか、牽制なのか、僕には判断がつかなかった。
「あはは……じゃあ、僕はこれで。準備があるから……」

研究室のドアを閉めると、廊下の蛍光灯がやけに白く感じられた。笑い声の残響と、言葉にできなかった感情だけが、背中にまとわりつく。
調査活動だけでなく、人間関係もまた、静かに動き始めているようだった。